本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『くまのプーさん』

『くまのプーさん』を観ました。

イーヨウのシッポがなくなった⁉なくなったイーヨウのシッポを探して、100エーカーの森は大騒動。

ディズニー久しぶりのセル画風アニメ。やはり、こういうタッチの作品のほうが、落ち着く。最近のディズニー、ピクサーはじめ、海外の劇場アニメは、CG然とした作品が多く、入り込めない感じを受けることもあった。しかし、この作品は、絵のタッチとその内容の調和が取れており、好感がもてた。

さて、作品の筋は特にないようなもので、イーヨウのシッポを探すだけ。しかも、見つからないから、と早々に代わりを探しはじめる始末。そもそもシッポをなくすということが、そのままなんの違和感もなく受け入れられているという世界観が、またどこか牧歌的ですらある。

絵本を読み進めるように話が進みますが、地の文を読むナレーターとプーが会話したり、地の文通りに動かなかったり、果ては段落のうえを歩いて行ったり、絵本の中でキャラクターがマイペースに動き回る。
本の中で、キャラクターが生き生きと動き回る様は、本当に小気味良い。またその動きひとつひとつが可愛いので、先ほど指摘した絵のタッチとも相待って、筋書きではなく、そのキャラクターが動くのを楽しむ、という作品でした。

アニメが珍しくないこの時代に、キャラクターが動くのが、しゃべるのが楽しくて仕方ない、そんなアニメを観られて、驚いた。また、そんなアニメとしてこの作品をみられた自分にも驚いた。
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# by nino84 | 2011-09-22 07:53 | 視聴メモ

『図書館戦争1』

『図書館戦争1』を読みました。

正化31年、メディア良化法によって、出版された図書が厳しく検閲され、回収される時代。図書館の自由に関する法律に基づきそれに抵抗する図書館。両者の対立は、武装しての構想さえも厭わず、図書館は図書隊という部隊を持つに至る。笠原郁は、かつて助けられた図書隊員の影を追って、女子としては異例の、図書隊防衛員に志願。メディア良化隊から、図書を守ることを目指す。

アニメ化もされたシリーズ第1作。表現の自由を取り扱った作品ではあるものの、コミカルなノリ(著者の有川さん曰く、月9ノリでGO)も合間って、読みやすかったな、と思います。

大きな構図は、表現の自由を守る図書隊VSそれを認めまいとするメディア良化隊。そのため、表現の自由について作中で論じよう、という話になるのかな、とも思いましたが、今のところ、大上段にそれを振りかざす、ということはない様子。あくまで、人間関係描写が中心でした。
そもそも、主人公を対立の構図の片側に持ってきているので、描写は偏らざるを得ない。したがって、この作品の構図自体が、それを中立的に論じる、ということを難しくしている面はあるように思います。
また、対立自体がすでに落としどころにあって、現状が停滞している状況も、その議論を進めるという方向性を想像しにくくしていると思います。

ただし、舞台が安定して存在しているだけに、背景としてのこの設定は十分に活かされていると思います。法律に基づき図書館で戦争、というのが、ファンタジーに振り切れることなく、かと言って自衛隊ほどの堅苦しさも抱かせない、バランスになっています。

結果として、この作品の読み方としては、人間関係や、人そのものを中心に据えて、キャラクター小説として楽しむ、というスタンスで読ませていただきました。シリーズものですが、この巻を読み終えた段階では、恋愛小説としての続きが大変に気になる、というところですね。
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# by nino84 | 2011-09-15 18:20 | 読書メモ

『インセプション』

『インセプション』(2010)をDVDで観ました。

タイトルのインセプションとは、「植え付け」という意味です。
レオナルド•ディカプリオ演じる主人公、コブが、仲間とともに、渡辺謙演じるサイトーの依頼で、ある人物に、あるアイデアのインセプションを試みる、というのが大筋ですね。
サイトーには、夢であっても、アイデアは現実に持ちかえられるので、夢で、インセプションして、現実に影響を与えよう(ライバル会社の切り崩し)、という意図があります。

冒頭は、インセプションの計画を立てることで、この映画のルールを説明してくれるので、比較的理解はしやすいのではないかと思いました。
あの、最後の結末の解釈は観た人に任せます、というのを、どうとるか、というのはあるとは思いますが…。


個人的には、主人公コブが、(自分なりの)現実を生きられるようになること(自己一致)、が大きなテーマと捉えました。これがテーマであれば、最後が夢か現実かなんてことは関係なくなるので。

妻モルは、どこも現実だと思えなり、コブの前から消えましたが、コブは妻が消えたということを現実として、生きています。それでもそれを認められないというコブは、現実自己(モルは死んでいる)と理想自己(モルは生きている)が、相反している。
コブは一度モルは死んでいるということを現実と認識していますから、それは変えられない(アイデアは成長する)。だから、モルが生きている、ということを納得できることが自己一致には必要です。
「アリアドネという設計士の助けを借りながら、自己一致できました」というのが、結論であれば、投げっぱなしではない。
モルはどこも現実と思えなくなる、という残念な結末を迎えてしまったのですが、「本人が現実と思ったところが現実」という、別の落としどころもある。ただ、それは結果として、視聴者である僕らが生きている世界をも現実かどうかを疑わせかねない結論ではあるが。

そう考えると、最初の悲劇は、モルへの誤ったインセプションか。
モルとコブが、全く同じ現実(夢)を生きていればよかったが、それは無理だ。素朴に考え方が全く同じ人間なんてありえない(独りよがりでなく、健全な思考伝播がない限り)。そういう意味では、インセプションの仕方として、2人が同じことを考えている、というアイデアがもてれば、それぞれの夢の中で、それを現実として生きられたのか?
ただ、コブはモル以外の人間たち(子どもなど)を大切に思っていた訳で、結局、コブがそうしたことを試みるためには、自己のスプリットが必要だったのかもしれない。

これは踏み込みすぎかもしれないが、人がわかり合うことの難しさまで、示唆しているようにも思える(コブが自分の脆さを仲間に開示できないように)。
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# by nino84 | 2011-09-04 11:20 | 視聴メモ