本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「マダム・エドワルダ」

「マダム・エドワルダ」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川文庫収録)を読みました。

おれは、苦悩を和らげるために、「鏡楼」へと赴き、マダム・エドワルダを見出し、すぐさままぐわりはじめた。一旦の充足の後、おれたちはエドワルダの提案で外出し、そこでもまた。その後にのったタクシーの中では運転手も交えて。そして、目を覚ましたあとには皮肉な、待ちどおしい死への期待…。


久しぶりのバタイユです。かつて『空の青み』やらを読んでわけが分からなかったのにも懲りず、再挑戦ということで。再挑戦でしたが、あいかわらず、わけ分かりませんでした。そして、あいかわらず、そのわけも分からないままで圧倒されます。
とはいえ、これを読んで、これの感想を書いて…いろいろと大丈夫なのでしょうか。毎度この手の本は心配になります。でも、なんだかんだ書けるだけ書きますが、そもそも作品を自分があまり咀嚼できていないことで書けない部分が多いような気がします。

「もしきみがものに怯えているなら、この本を読み賜たまえ。だがその前に、聞きたまえ。もし笑いだすとすれば、おびえている証拠である。(後略)」という序文で本作は始まっています。たしかに、笑いというのは、すべての感情を混ぜっ返すように働きます。そのため、この作品を読み、引くようならば、あるいは読者は笑い出すでしょう。描かれるものの猥雑さをごまかしにかかるわけです。しかし、その笑いは逃げることであって、決して何かを得るものではありません。
本作の主人公、「おれ」は物語の冒頭、苦悩の中にいます。それを解決するために、まず簡単な方法として、酒を選択します。しかし、それでは苦悩を解決できず、「おれ」は別の手段にでます。すなわち、自分を裸にすること、そして娼婦たちを裸にすることです。
その手段のために、「おれ」はエドワルダを見出し、激しくまぐわります。しかし、一息ついて相手を見て微笑んだ瞬間に、その快楽は混ぜっ返され、「おれ」は惨めで、突き放された感じを受けてしまいます。エドワルダとまぐわり、その快楽を感じながら、しかしその微笑みによって、奇妙な宙づり状態に陥ります。まだ、「おれ」の苦悩は完全には解決されません。

そのままことをすませると、そこでは「おれ」とエドワルダは充足を感じ、真剣に見つめ合ったのち、ほぼ外套を羽織っただけの格好で、外出します。外出したエドワルダはぬけがらでした。
正直、このあたりからよく分かりませんが、そもそもエドワルダは<神>であって、苦悩とはかけ離れた人物で、常に無、という状態になれるのかもしれません。外出先でトランス状態になっている彼女の様子はそれを彷彿とさせます。すると、外出しようがしまいが、実はエドワルダは無で、ぬけがらだということになります。その状態の彼女をみて、「おれ」は不安になるのです。やはり端から見て何もないということは不安で、恐怖の対象です。そのため、「おれ」はやはり笑いたくもなるのでしょう。

そして、エドワルダが正気にもどったとき、すなわち無ではなくなったとき、彼女は身もだえ、苦悩しはじめます。その身や着衣を掻きむしり、そしてやはり倒れ込みます。彼女は再び虚無となり、意味の不在と、死者の衣が持つ意味の過剰とをそなえるにいたります。
虚無となった彼女は沈黙し、従って今の状況を笑い、混ぜっ返すものはいません。「おれ」はそれに苦しみます。「おれ」は虚無の前で、呆然とただ不安のままでいるしかない状況におかれたのです。そして、そのなかから「おれ」は、無でありながら意味の過剰も表現するエドワルダに導かれる形で、虚無の中から、機能停止の状態を導かれ(この2つの節のつながりは我ながらいまいちだと思う)、そして陶酔を見出しうるかもしれないという状況にまでやってきた。

そして、エドワルダが再び正気を取り戻したとき、今度は陶酔を見出しうるかもしれないところまでたどり着いた「おれ」が、エドワルダを導くのである。とはいえ、車内では、やはりエドワルダが主導権を握り、苦悩から(?)、運転手を誘い、「おれ」の横でまぐわりはじめる。そして、そこではエドワルダの痛ましい快楽を、「おれ」が冷ややかな沈黙の底で答えることによって、支えるのである。


…もう少し。あと本文4ページ位なんですが、結論にたどりつけそうにありません。ここまでがんばって本文を追ってきたものの、この論をどこに落ち着けられるのかを完全に見失いました。なんだこれは…。苦悩、虚無、笑い、死、そして陶酔…。どう絡まっているのだろうか。
苦悩を笑い飛ばすことが、陶酔へとたどり着くのを妨げる。苦悩のただ中でも、完全な陶酔が虚無を導く。虚無とはすなわち意味のないことであり、そこからふと我にかえれば、皮肉にも意味のないことを見出したために、死へのイメージがそこに浮かぶ…のか?
もっと死というのが手前にある気がするのだが、どうもうまくつながってくれない。「おれ」とエドワルダの立場の違いもあって、それぞれの状態がそれぞれに干渉しているために、このような単純な流れではないと考えられもするのですが…。
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by nino84 | 2009-01-07 00:50 | 読書メモ