本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「死者」

「死者」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川書店収録)を読みました。

エドワールが息を引きとったとき、マリーは我を忘れ、陶酔感をえた。マリーは裸になり家を飛び出し、居酒屋でがぶ飲みし、乱れた。そこに現れたこびとの伯爵を誘い、そして、マリーはエドワールの後を追うように絶命する…。


昨日に続き、バタイユです。本作も、やはり死とエロティシズムがそこにつきまといます。
それにしても、結局、この人は人間のどの側面を書きたいのでしょうか。ストレートにエロティシズムについて描きたいのでしょうか。そうだとして、それをどこかで認めたくない自分がいたりして、どうもいけません。それに加えて、昨日からの読書の影響なのか、現実生活がどこかフラフラしているような気がしてそれもまたいけません。揺さぶられているのは分かっていたつもりですが、どうも思っている以上に揺さぶられているようです。そもそも現実生活に影響のある読書をしていてはいけない気がします。
こうしてエロティシズムを回避するような姿勢こそ、エロティシズムの扱い方を誤っているといえるのかもしれません。それはそれとして、あるものとして認めなくてはならないのでしょうし、また同時にそれが忌避したい対象であることも認めることが必要なのでしょう。このあたりは、同じ本に収録されている「エロティシズムに関する逆説」の冒頭で指摘されていますので、またの機会に考えることにします。
ともかく、エロティシズムについて描いているのでしょうから、やはりそれをなんとかして解釈するべきなのでしょうね。前回の記事はその抵抗があったのだとも思えます。

前置きが長くなりました。ともかく「死者」について書いていきます。本作の主人公は、マリーという女性です。
彼女は、エドワールに先立たれ、その死に直面し、彼女の胸に一種の空洞をもたらします。そのことが彼女に陶酔感をもたらします。そして同時に、エドワールの歎願。「最後に臨んで彼女に裸になってほしい」は、間に合いませんでした。しかし、彼女はその死による虚無からくる陶酔感によって、裸になり、家から飛び出すのでした。そして、そのまま、居酒屋へと赴き、そこで作男やピエロと戯れます。
さて、そもそも私はこの作品の最初で躓いてます。すなわち、死による虚無。それはいいのです。そこからくる陶酔感とはなんでしょうか。意味がないことが、すなわち陶酔感をもたらす…。言葉によって定義することは、そもそも感覚の一部を切り取ることですから、虚無のなかでしか、言葉のない世界でしか、本来の感覚を身体的に感じることはできない、と考えることは可能かもしれません。その世界にいるなかで、マリーはエドワールの歎願に基づく行動によって、死とエロティシズムとが結びついてしまったと考えればいいのでしょうか。そして、行動は生起さえすれば、それを定義しようとしない限りにおいて、それは本来の陶酔のまま続きますから、行動はエスカレートしてきましょう。
ところで、これは一般に、自暴自棄というのではないのでしょうか。その破壊衝動がエロティシズムにむくということ自体がまた意味があるということなのでしょうか。苦悩からつながる無から生まれる破壊衝動がエロティシズムと結びつく…。あぁ、なんかズレている気がするので、このあたりで考えるのをやめます。たぶん、前回の記事とは、私の解釈上の、死と虚無と陶酔の位置関係が違っています。なにが正しいのやら分からなくなりました。

そして最後には、またちょっとしたオチが用意されているので、それはそれとしておきましょう。なんにしろ、エドワールは死者の一人だったということでしょうか。そして、彼女は夜明けと共に絶命します。そして最後には、太陽だけが残されます。


…それにしても、結論までたどり着かないと、賛成も反対もできず、わからない、という判定しかできません。この記事を書く意味が薄くなっていきかねません。読解力がほしいです。

次回は、小説ではなく論説文なので、もうすこしテーマも分かりやすいはずだ、と祈っています。
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by nino84 | 2009-01-08 00:09 | 読書メモ