本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「エロティシズムに関する逆説」

「エロティシズムに関する逆説」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川文庫収録)を読みました。

エロティシズムは人間にとって快楽でもあり、恥辱である。文学が逆説であるエロティシズムを扱えば、文学は更新の可能性がないために、ただの無益な反復となる。しかし、エロティシズム文学は、その繰り返しを描くことで不可能性を描き、エロティシズムを称えつつも、その重苦しささえも描くにいたった。文学は、不可能性を描くただひとつの声である。しかし、それは言語の可能性において、みじめな逃げ道の案出しようとしている。

入試の季節ですね。今週末がセンター試験のようです。こんな記事を書きながら、国語の問題を解いたらどれくらい解けるのかとふと思ったりします。9ページの論説文を200文字でまとめてみる…。こんな課題は2次試験的なのでしょうか。論旨を短くまとめる難しさを今更ながらに感じる今日この頃です。

さて、珍しく冒頭が時事ネタとなりましたが、本題に入ります。本作は、小説ではなく、論文です。所謂、文学の論文を読んだことがないのですが、大抵においてこんな難解なのでしょうか。彼らは難しいことをやっているのですね。一読して、誰にでも共有できるように、言葉の定義をきちんとしてくれたらもう少し易しくなるのではないかと思いました。ただ、言語の範疇を越えたものを言語を用いて捉えようとする試みなので、難解で微妙な言い回しが増えるのも仕方のないことだとも思えます。

本論文の論旨はできる限り著者(訳者)の言葉を用いて、簡単に上述したつもりです。とはいえ、あらためて自分の言葉で、論旨を書いていこうと思います。
エロティシズムが逆説―個人的には、パラドックスと言ったほうがおさまりがいいですが―であるために、ある種の結論を描いてしまう文学ではそれを描ききれません。しかし、それにもかかわらず、サドがその最初の限界を突破し、反復を描くことで、文学はエロティシズムに潜む不可能性を描きだしました。しかし、言葉にはそもそも限界があります。そして、その言葉で描くことができる部分を越えるところにエロティシズムがあります。しかし、言葉の限界を超えることは、詩で絶えず行われてきたことで、不可能なことではないのです。沈黙のなかにこそ描きたいものがあると考えることができますが、文学は沈黙でそれを描くのではなく、言語で沈黙を、沈黙の中にあるものを描かなければなりません。そのようにして、描かれたエロティシズムは、クロソウスキーの著作などにみることができます。しかし、彼以降、それに匹敵する小説は生み出されていません。このことは、文学の行き詰まりを意味してしまっています。文学は、更新できませんが、一面において、パラドックスを描きうるとすれば、その上でそれを固定しておけるのは、文学のみです。
以上、できるかぎり自分のことばで、論旨を書いてみました。やはり部分的に分からない部分―「死」が唐突に登場するあたりなど―があるのですが、全体としては、エロティシズムが逆説的なもの(パラドックス)であり、それを文学が描く意味をまとめていると思えます。

こうしたことをバタイユが述べているということは、彼の著作はこのような考えの上で書かれているということでしょう。彼の著作は、詩のような性格をもっているということは、確かにどことなく感じられます。また、サドの意義についての考察も面白く、なるほど、と思わされました。サドに関して、私は理性的な面を強調するために逆説的に書かれたものだと捉えましたが、確かに私はエロティシズムの快楽の部分を描いているということそれ自体から目をそらしていたのでしょう。また、『O嬢の物語』などは読んだことがないので、なんともいえませんが、…そのうちに読む、…のかもしれません。
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by nino84 | 2009-01-13 00:24 | 読書メモ