本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「眼球譚」

「眼球譚」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川文庫収録)を読みました。

私は16歳のとき、シモーヌと出会った。あらゆる機会をみつけては、私たちは異常な行為にふけった。その行為には友人のマルセルをも巻き込み、そうした行為の中で彼女を自殺に追い込む。その後、私たちは、スペインやセヴィリアにおもむき、そこでも異常な行為にふけるのであった。

本作自体は、随分前に読んだのですが、なかなかこれを書けるような状態になりませんで、気が付いたら、1週間近くも更新しないという状況になってしまいました。前置きが長くなると、面倒なので、早速本題に入ります。

さて、本作は前回同様、フランスの作家、ジョルジュ・バタイユの作品です。本作の主人公である「私」は同い年のシモーヌと異常な行為―スカートを捲り上げてミルク皿に座る、尻で玉子を割るとか―にふけります。その行為は次第にエスカレートし、友人マルセルを巻き込み、自殺に追い込んでしまいます。その責任を逃れるためもあり、国を越えてスペインでは闘牛士の目が牛にくりぬかれるのを目撃し、セヴィリアでは「私たち」が冒涜し、殺した牧師の死体の目玉をくりぬき、それをつかって戯れます。そして、やはりその殺人の責から逃れるように各地を転々とするのです。ここまでが、本作の小説部分になります。
この小説部分以降は、「第二部 暗号」と称された文章が続きます。この部分は著者バタイユ―実際には著者はロード・オーシュ(バタイユの偽名)となっている―の独白の形で、この作品が暗に意味するところを記しています。バタイユはこの作品を「はっきり定まった意図もなく」書いていたが、作中のモチーフから、「私」がきわめてバタイユに近しいものであり、また、マルセルが自分の母のイメージを伴ったものであること、さらに《眼球》や《玉子》そして牛の《睾丸》といった一連の白い球の関連性について気づくに至ったということが記されています。
すなわち、バタイユは、この作品のなかに過去の父や母についてのエピソードの断片、あるいは象徴を見出すことができるというのです。そして、本作のように描かなければ、そうした想い出の生命を甦らせることができないともいいます―バタイユの父は盲人であり身体にも障害を抱えていました。そのため、用を足すのはベッドの脇だったのですが、そのときの父の目に《悲壮な誇り》をみたといいます。

情動、特に生気情動―ラベリングできる感情でなく、どのように感じるかの種別を示す―のようなものは、言葉として描くとその情動の示すところがずれていってしまいます。したがって、バタイユ自身が、父や母のエピソードを言葉で納得している以上、そのエピソードの記憶たちには当時の生の情動が伴われません。それは自分の中で諸事を意味づける行為であり、自己にその周りを取り込んでいくときに必要な行為だと思えます。
しかし、この作品はそうして意味付けしてしまったエピソードを当時どのように感じたかを「今、ここ」で感じるためのものであるといえます。性衝動の「今、ここで」という感覚は、言葉で定義しえない類の感覚でありましょう。こうした原初的な感覚とともに、かつてのエピソードの象徴を重ね合わされることで、かつてのエピソードを暗に、生のままで感じられるのでしょう。

なんにしろ言葉の枠を越えたものをどのようにして描けるか、ということに挑戦している作品であると思います。ただし、言葉の枠を越えたものの代表がエロティシズムであるという描き方になっており、―体験的には、それが最も強力で汎人間的であるからなのかもしれないが―なんとも殺伐とした作品になっているようには思います。
また、暗号と称して、象徴と性のエネルギーが一緒に描かれると、精神分析的に―すなわち第一部がそのまま著者の夢であるという理解のもとでの解釈の可能性を考えるー見たくもなってしまいます。ただ、初期の精神分析は、端的に言えば人間のエネルギーの源をリビドーに帰するような理論ですから、本書とは逆の関係になるのでしょうか。
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by nino84 | 2009-01-20 00:43 | 読書メモ