本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

『ロベルトは今夜』

『ロベルトは今夜』(ピエール・クロソウスキー、若林真訳、河出文庫)を読みました。

オクターヴは定年間近にその行動によって大学を追われた神学教授であり、その妻ロベルトは、カルヴィニストである。オクターヴは客人をロベルトに近づかせ、不倫の関係を結ばせてもてなしていた。

さて、だんだん訳の分からないところに迷い込んできました。本書はバタイユの友人のフランス人、ピエール・クロソウスキーの作品です。正直わけ分かりません。
さて、本書『ロベルトは今夜』には、表題作「ロベルトは今夜」に加えて「ナントの勅令破棄」が収録されています。クロソウスキーは、後に本書に収録されたものに「プロンプター」という作品、「はしがき」、「あとがき」を加え、『歓待の掟』という一冊の本にまとめています。したがって、本書は、『歓待の掟』の部分訳ということになります。手軽に手に取れるクロソウスキーの著作ということになっているのでしょう。

一応、一冊通して読み切りましたが、さっぱり分かりません。キリスト教についての理解がさっぱり足りていないから、という原因がはっきりしているのがまたなんとも…。
どうもベースはサドらしいのです。すなわち、肉の陶酔を感じるとは、戒律を犯すという行為である。それは戒律を信じていなければできない行為であり、したがって、肉の陶酔を感じられるものこそが、キリスト教的な戒律を信じているものであり、信心深いものであるのです。サドはこの段階まで進んできました。それは描き方としては繰り返しそれを描くことによって、そこからえられるものを描いたのです。サドの著作は『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の抄訳、『新・ジュスティーヌ』などを読みましたが、たしかに、悪徳の限りを描くのです。私は、それは反面教師的なものであると、受け取りましたが、キリスト教的な考え方では、どうもそうではないらしいのです。もう、読んだのがかなり前であることもあり、以前ここに書いたこと以上のことは思い出せないのですが、キリスト教の臭いってそんなにしたろうか…。いや、キリスト教を超えるという意味で解釈したと思うので、たしかに書いてあったのでしょう。なんともいえません。
いずれにせよ、そのうえで、本作です。ここではサドのように悪徳の限りを描くのではありません。よりはより直接的に肉の陶酔の意味を描くのです。そもそもクロソウスキーが描くのは、ニーチェによって、神が殺されたあとのことです。それでも彼は神を信じるのです。肉の陶酔を用い、神に出会うのである。

オクターヴは、カルヴィニストである妻ロベルトに客人との関わりを通して原罪の意識を感じさせ、そこから戒律の存在を認めさせようとするのである。戒律の存在を認めさせるためには、原罪を犯させなければならないのである。
そして、私は最終的な結論があまり分かっていません。そもそもカルヴィニストの理解が完全ではなく、こうした信仰をもつ人の信じるものが十分に理解できていません。漠然と理性だけを信じているらしいのですが…。神の存在を信じる人と信じない人の争い。それはすなわちニーチェ以後のキリスト教が取り組まなければならないことであったでしょう。その結論は、とても重要なのでしょうが、全体を一読しただけではそれを捉え切れていません。

そのうちに読み返そうと思いますが、今はそんな時間もパワーもありません。
[PR]
by nino84 | 2009-01-27 23:29 | 読書メモ