「人間の羊」
2009年 02月 20日
「人間の羊」(大江健三郎,『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。
バスに乗ると,米兵の女が,僕の方に寄ってき,連れの米兵を挑発する。米兵は僕を座席から立たせ,下穿きを剥ぎ取る。他の乗客も数人そのようにされ,羊撃ち,羊撃ち,とはやしたてられながら,僕らはひたすらそれに耐えた。
米兵らが去ると,傍観してた乗客が僕に声をかける。曰く,彼らを告発するべきだ。
『死者の奢り・飼育』にかえってきました。手元に本が戻ってきたので,さっと書いておこうかと思います。随分前に読んだ作品ですが,短編なのでそれほど時間がかからず読み直せるのが救いです。これを書くにあたって,さらっと読み直しました。
さて,本作はバスの中で起こった事件の扱いをめぐるお話です。犯罪被害者の心中という感じでしょうか。
主人公「僕」は,米兵によって辱められた被害者です。しかし,そのバスのなかには,巻き込まれなかった人もいます。彼らはもちろん被害者ではありません。ただの傍観者です。
彼らは米兵が「僕」らを虐めている間,決して関わろうとしませんでした。米兵はそのバスのなかではもっとも力をもつものであり,したがって,それに抵抗することは被害者の仲間入りをすることだという計算が働いたものと考えられます。しかし,米兵がその場から消えると,一転彼らは動き出し,社会的な正義を標榜しながら,被害者たちに告発を勧めます。
告発するということは,起こったことを公にするということです。それは「僕」らにとって屈辱でしかありません。しかし,傍観者たちは,それを考慮しません。誰か一人が犠牲にならなければいけないのだとさえいいます。傍観者にしてみれば,被害者の屈辱という感情よりも,米兵に対する鬱憤を晴らしたいというあくまで自らの感情が優先されるのです。そして,米兵に対するその感情は,被害者にも当然あるだろう,というように接してくるのです。彼らはその感情に優るものがあるという可能性を考慮しません。誰か一人が犠牲にならなければ,というのは,被害者の屈辱はある程度認めながら,しかし,それ以上の感情が「僕」の中にあるはずだということでしょう。
同じ立場の被害者がそうしたことをいう,あるいは彼らが傍観者でなく米兵に対し行動し,関係者になったならともかく,ただの傍観者であった彼らにそれをいう資格はないように思えます。
傍観者の被害者への働きかけは,彼らに事件のことを思い出させるという体験を繰り返させるだけであり,被害者を2次的に傷つけるものでありましょう。
短編でコンパクトにまとまっていることに加え,印象的な場面がありますから,―これをこうしろと訴えているのではありませんが,こういうことがありうるだろうという―主張の強い作品に仕上がっていると思います。
バスに乗ると,米兵の女が,僕の方に寄ってき,連れの米兵を挑発する。米兵は僕を座席から立たせ,下穿きを剥ぎ取る。他の乗客も数人そのようにされ,羊撃ち,羊撃ち,とはやしたてられながら,僕らはひたすらそれに耐えた。
米兵らが去ると,傍観してた乗客が僕に声をかける。曰く,彼らを告発するべきだ。
『死者の奢り・飼育』にかえってきました。手元に本が戻ってきたので,さっと書いておこうかと思います。随分前に読んだ作品ですが,短編なのでそれほど時間がかからず読み直せるのが救いです。これを書くにあたって,さらっと読み直しました。
さて,本作はバスの中で起こった事件の扱いをめぐるお話です。犯罪被害者の心中という感じでしょうか。
主人公「僕」は,米兵によって辱められた被害者です。しかし,そのバスのなかには,巻き込まれなかった人もいます。彼らはもちろん被害者ではありません。ただの傍観者です。
彼らは米兵が「僕」らを虐めている間,決して関わろうとしませんでした。米兵はそのバスのなかではもっとも力をもつものであり,したがって,それに抵抗することは被害者の仲間入りをすることだという計算が働いたものと考えられます。しかし,米兵がその場から消えると,一転彼らは動き出し,社会的な正義を標榜しながら,被害者たちに告発を勧めます。
告発するということは,起こったことを公にするということです。それは「僕」らにとって屈辱でしかありません。しかし,傍観者たちは,それを考慮しません。誰か一人が犠牲にならなければいけないのだとさえいいます。傍観者にしてみれば,被害者の屈辱という感情よりも,米兵に対する鬱憤を晴らしたいというあくまで自らの感情が優先されるのです。そして,米兵に対するその感情は,被害者にも当然あるだろう,というように接してくるのです。彼らはその感情に優るものがあるという可能性を考慮しません。誰か一人が犠牲にならなければ,というのは,被害者の屈辱はある程度認めながら,しかし,それ以上の感情が「僕」の中にあるはずだということでしょう。
同じ立場の被害者がそうしたことをいう,あるいは彼らが傍観者でなく米兵に対し行動し,関係者になったならともかく,ただの傍観者であった彼らにそれをいう資格はないように思えます。
傍観者の被害者への働きかけは,彼らに事件のことを思い出させるという体験を繰り返させるだけであり,被害者を2次的に傷つけるものでありましょう。
短編でコンパクトにまとまっていることに加え,印象的な場面がありますから,―これをこうしろと訴えているのではありませんが,こういうことがありうるだろうという―主張の強い作品に仕上がっていると思います。
by nino84
| 2009-02-20 11:41
| 読書メモ