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本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『ソドム百二十日』

『ソドム百二十日』(マルキ・ド・サド)読みました。翻訳は澁澤達彦さんです。

著者は妙なところに名前が残ってるので、比較的知っている人も多いでしょう。そして、それだけに文章の内容もそのようなものであるとお考えでしょう。その内容についての認識自体は、まず間違ってはいないと思います。とはいえ、ある本を古典として読むときには、「どのような社会において、どのような内容が書かれたか」という読み方もできますから、―正当化といわれればそれまでですが―この作品も、そのような文脈で読むことにしました。

まず、著者の社会的背景について触れておきましょう。著者は、名前からも分かるとおり、フランスの貴族階級の出身です。彼はフランス革命期に生きた人物です。そして、『ソドム百二十日』は革命の直前期に書かれたものでした。そのときの政治は絶対王政ですから、キリスト教の力が強大であったことは想像に難くないでしょう。それでも彼は本書を書いた。権威、体面そいうものに真っ向から反するものを書いたのです。そうした作品が書けるほどにキリスト教のモラルというのは崩れてきていたということでしょう。
結局、彼はフロイトにかなり先行して、変態性欲について書き記すことになりました。


さて、それでは本書の感想に移ります。本書には『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』、『悲惨物語』というサドの著作、そして、当時サドの著作とされた『ゾロエと二人の侍女』が収録されています。まず、世間的にあまり当たり障りのないさそうなものから順に書いていきたいと思います。


『ゾロエと二人の侍女』

本作は出版当時、サドが執政政府の批判をしたとされた作品です。この作品が原因となり、サドは以降の生涯すべてを精神病院で過ごすことになりました。しかし後年、この作品はサドの作品ではないことが分かっています。翻訳者である澁澤氏もそれを承知でただの資料として収録したようです。

内容は、執政政府の要人を批判したものらしいのですが、ナポレオン以外の執政を知らないので、よく分からない部分が多く、あまりしっかり読めたものではありませんでした。また、意味もなく卑猥なので、ゴシップ以上のものと成り得ていないような気がします。当時の社会的な状況についての背景情報、たとえばどの程度ゴシップが流布していたのかなど、が分かりませんから、この作品の位置付けも十分に了解できるものではありません。

ただ、この作品によって投獄されるほどには、規制は厳しかったのでしょうし、またこの作品をサドが書いたと誤解が生じるほどに、サドはこのような作品を書いていたということはつかめます。
こうした、それこそ当時の社会状況を知る資料としての価値ほどしかないのだろうと思えます。


『悲惨物語』

さて、ここからがサドの著作です。「世のひとを教化し悪風を正すこと、これこそ…唯一無二の主題」と冒頭に記しているとおりの作品だったと思えます。

いかなる道徳観念も持たない男である貴族、フランヴァルは、貴族としては力のない家の、美しい娘と結婚する。そして、フランヴァルは、子どもが生まれるまでは良い夫を装った。しかし、子供が生まれると彼は一変して自らの欲望を満たすことを考える…。

あくまで、主題は「世のひとを教化し悪風を正すこと」であることを忘れないようにお読みください。そうでなければ、他のサド作品同様ただの猥雑な作品としてしか受け止められないと思われます。

引用した冒頭の言葉にもあるように、サドはキリスト教の道徳によって人を教化しようという気持ちはないようでした。彼がおこなうのは、理詰めにしていくこと、理性に訴えることによる教化であったように思います。こんなこというとステレオタイプ的ではありますが、やはり革命期のフランス人らしいと感じました。時代が本来のキリスト教の実態を歪めてその権力のみを利用しようという時代になってしまったことで、信心よりも理性を重視するようになってきているんですよね、きっと。


『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』

さて、とうとう来ました。今回感想を書くにあたって一番の鬼門だったりします。一応注意しておきますと、文庫に収録されているのは序章だけとなっています。全編を読みたい場合には、別の書籍をお探しください。

話の筋としては、「上流階級に属するの4人が、人里離れた城館で120日に及ぶ大饗宴を催す。」という至極単純なものです。序章である本書収録部分では、城館における規則までが書かれ終わっています。

この作品は、あくまで古典として読まれるために収録されているのでありますから、猥雑な場面は大饗会とは言うものの、さほど多くありません。もちろん、話の中でその模様に言及されることはあります。しかし、収録部分はあくまで序章です。それでも十分に猥雑だといえば、猥雑なのですが、大饗会の準備段階の話ですので、作品を通してみればたいしたことはないのだろうと想像できます。

とにかく、変態性欲の百科事典というのが、この作品の存在意義です。それはそうなのですが、一般の人間がそれを必要とするかというと、しないわけです。当時の本が読めるような家の者ならば、それなりに教育する役割の者もいるでしょうし、仮にいなかったとしても、変態的な部分に触れず、もっと一般的な部分を書くだけでいい訳です。
さて、とすればサドが意図したのはなにか?この時代、こういう作品が書けるのは、ただの変態か、宗教などの色眼鏡を捨てることができた理性的な人間のどちらかであると思える。もちろん、サドは前者だと断ずることもできる。しかし、後者として捉えることも十分に可能です。特に、『悲惨物語』を見れば、サドが後者であることは明らかです。彼が変態性欲を持っていたのは作品として文字になっている以上、否定できませんが、それだけでなく、彼はもっと理性的な部分を持っていたのだと思えます。
彼がそうした部分を用いて描いた作品だとすれば、この作品の重要な部分は行為についての描写ではなく、その行為にいたるまでのメンタリティーであり、理論のはずです。渋澤さんも、そう思ったからこそ、序章のみを本書に収録したのではないでしょうか?


こうした見方をしていくと、近代合理主義が生まれた時代背景から、サドがこの作品を書かなくとも、いずれこのような作品が生まれてくるだろうと思えます。それは、誰が書くにしろ、権力による押し付けでなく、自分で納得する道徳への過渡期において、もっとも極端なものとして生まれたでしょう。実際、本書は書かれた当時こそ禁書になりましたが、後年シュール・リアリストによって文学的価値が認められました。理性の時代には必要な作品なのでしょう。

「こういうことがある。しかし、理性によればこれらは押さえられる。」
そうしたことが保証されて初めて理性が宗教を超えることができる。こうした意識の転換を瞬時に、かつ何の暴力もなく無血で実行しうるのが、文学でありましょう。ペンは剣より強し。戦争は、文学が実行しうることを決して達成することはできないと思えます。「今すぐ、全人類に知恵を与えて見せろ!」「それはエゴだよ!」そういわれれば、返す言葉はありませんが、今の世界を見ると世界を変えるという方法としてとられる戦争によってできないことはあまりにも多いと感じます。
by nino84 | 2005-09-03 10:39 | 読書メモ