本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』

『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』を観ました。

作家の大谷は、毎日のように飲み歩き、家に落ち着いてはおらず、お金もろくに家にいれない。その妻であるところの佐知は小さな子どもとともに、夫の帰りを待ち。出版社の担当が大谷に隠れてもってくる彼の原稿料で細々と暮らしていた。
大谷の借金を知った佐知は、その貸主である小料理屋で働き始める。



久しぶりにブログを書きます。現実逃避です。
さて、本作は太宰治の小説『ヴィヨンの妻』を原作として製作された作品です。ただ、実際には多少の筋や設定の変更があります。

まず観て思ったのは、情報が多いなということ。太宰の原作小説は短編小説のため、情報はそぎ落とされ、淡々とした形で掛かれています。終わりに向けて一直線に進む感じです。一方で、本作は115分という上映時間がありますから、その分、情報を入れ込むことが出来ます。もちろん、小説と映画では情報の与え方に違いがあるわけですが、本作に限って言えば、映画の大谷は訴える人を代えながら何度も同じ事を訴えています。小説ではもちろん、それを述べてはいるのですが、それほど繰り返されることはありません。そのため、映画の方がより心情を読みやすくなっているかな、という気がしました。

本作のなかで、大谷は「生きるのも怖い、死ぬのも怖い」と繰り返し訴えています。非常に正直だな、と思います。これは原作の『ヴィヨンの妻』でも同じ事ですが、自分の未来が描けないわけです。生きる目的が見出せないわけです。ただ、その瞬間に生きるしかないわけで、畢竟、生きるのは怖い。しかし、大谷には死ぬ勇気もありません。どこかで自分が生きるということに執着しています。死ぬということは今をも失うことだからです。大谷は、お酒を飲むとか、人と寝るとか、そういったいわばその一瞬の快楽で瞬間瞬間を生きています。目的を持てないために、今が快であることが目的となっているのです。
舞台は昭和21年、昭和20年に戦争が終わって、すぐという時代です。それまで、「欲しがりません、勝つまでは」と国民は何を考えずとも、その日を暮らすこと、あるいは戦争に勝つことを目的として生きていけばよかったのです。しかし、戦争が終わると、そうした目標はなくなってしまいます。しかも、日本は敗戦でそれを終わっており、目標は達成されることなく、終わってしまったのです。作中では描かれませんが、そうした喪失感が国民全体にある時代だと考えることは出来ます。
もちろん、生きることに精一杯なのは相変わらずの社会ですから、小料理屋の夫婦や、米兵相手に体を売るような女性もいます。しかし、大谷はそのようなただ生きることを目的にはできないのです。彼は生き残るだけでは満足しないたぐいの人間なのです。しかし、それを見つけられない。だから、それをごまかすために、酒に溺れ、一瞬の快に生きていくのです。

一方で、大谷の妻、佐知。彼女の言動は、大谷の言動に比べると非常に分かり難い印象です。大谷がいろいろと考えてうだうだやっている一方で、彼女がただその日を生きているからでしょう。それは大谷にとっては望まない生活なのですが、一方で、そうしているはずの佐知を大谷は支えにしています。
大谷と佐知が出会ったエピソードは象徴的です。佐知は盗みを働きますが、そのことで自分の人生や人格すべてが否定されるのは許せないと憤ります。それを聞いた大谷が、彼女を引き取ることで二人が出会います。
佐知はその一瞬にいきているのではなく、それまでの生活を背負ってそこに存在しているのです。それを大谷が憧れるのはなにか分かる気がします。畢竟、佐知はただ純粋なのです。その日を暮らすために、米兵に体を売るような女性ではないし、どこかに物乞いにいくわけでもない。出来る生活をしているにすぎません。ただ、その存在が清廉であり、美しいのです。

大谷はしかし、その純粋な妻という事実をどこか信じきれません。大谷が永続性を信じられないために、佐知の純粋ということが信じられないのです。それで、妻を試すようなことをします。それが、佐知に惚れる工員を家に招き、観察するという行動につながります。佐知の心は変わりませんでしたが、しかし、大谷は工員が動き、それに動かされる佐知を目撃しました。大谷は自分で永続性を証明しようとし、しかし、失敗する(実際には完全な失敗はしなかったのだが、見た事実から失敗したと考えた)のです。それで彼は絶望し、死のうとするのです。
しかし、死ねませんでした。この後、大谷が「生きられるような気がする」のは正直よく分かりません。可能性としては、死ねないという事実から、逆説的に生きることを見出したということでしょうか。

一方で、佐知は夫の自殺未遂を機会に、かつて好きだった男のもとへ向かいます。そこで男から彼女が好きだということを、その理由とともに知らされ、彼女は自分の存在を自覚します。すなわち、生にしがみつくことなく生きていくということができることが美徳であると。自嘲しながら子どものために貰った桜桃を食べる大谷(やはり彼はその場の欲望、食欲に負けており、子どもにそれをとっておくことはしません)に、彼女は「ただ生きていればいいのよ」といいますが、その一言に、彼女の生き方が現れているといえます。

映画の感想なのか、小説の感想なのか、わからなくなってきてしまいましたが、映像的にも、内容的にも、とにかく佐知が美しい、ただそのことにつきる作品だといえます。彼女の美しさの要因が映画そのもののテーマであるといえるのだし、この映画の映像的なよさになっているのだと思います。
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by nino84 | 2009-11-04 21:24 | 視聴メモ