本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」

「人肉食用反対陳情団と三人の紳士たち」(安部公房、『R62号の発明・鉛の卵』新潮文庫収録)を読みました。

三人の紳士の元に人肉食用反対を訴える団体がやってきた。団体の代表は紳士たちを必死に説得するのだが、彼らはその団体の訴えを理解することができない。


三人の紳士の属する人間のグループと、人肉食用反対陳情団の属する人間のグループは既に別種の人間集団である。紳士たちは彼らの生存を保証し、彼らを肥え太らせ、食べる。陳情団の属する人間のグループは、同じような姿で、同じ言語を喋るのだが、紳士の属するグループにとって彼らは牛や豚と同じものである。
しかし、陳情団の属するグループからすれば、それは違う。彼らは紳士たちと同じ人間であって、同じ姿をし、同じ言語を喋る。だから、紳士たちがしているのは共食いである。そう思うから、それをやめてくれという。
双方のグループの考え方は決して相容れない。

僕は共食いなどしたことはないし、現実の社会の常識としてカニバリズムは異端的な行為であると思っているから、陳情団のグループに同情的になる。紳士たちがなぜ人を食べることを何とも思わないのか、と疑問に思う。そして、彼らがくりかえすセリフに大きな違和感を覚える。僕は自分の感覚は否定したくはないから、それはそれでとどめておくことにしよう。そして、あえて紳士たちの立場にたって人を食べることを考えることにしたい。

先に述べたが、紳士たちは陳情団の属するグループをコミュニケーションのとれる人間であると認識しながらも、自分たちとは異なるグループに属する人間であると考えている。彼らはコミュニケーションがとれる家畜なのである。とすれば、牛や豚と同じように飼育し、食べて何が悪いのかということになる。これは共食いではない。紳士たちはあくまで人という家畜を食べているに過ぎない。陳情団の属するグループは食べられることを前提に存在しているのである。たとえ彼らが感情に訴えようとも、それは屠殺する際に鳴く牛となんら変わりないのである。
そして、紳士たちはその彼らがなにかを陳情しに来たとなれば、彼らが「食べるために存在している人肉」を食べたいと訴えに来たと思うのである。家畜なのだから、食べるのは当たり前であって、疑問を差し挟む余地はないのである。

おそらく僕が引っかかっているのは、紳士たちが言葉によるコミュニケーションをとれる相手を別の存在だと考えている部分である。今の世界にはそんな家畜はいないから、常識と照らしてそれに違和感を覚えるのであろう。
ただ、逆に考えれば牛や豚はコミュニケーションがとれないだけで次々と屠殺されているのであって、それはどうなんだという話になってしまう。牛や豚に感情がないわけではなかろうにね…。
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by nino84 | 2006-10-13 23:37 | 読書メモ