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本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「鍵」

「鍵」(安部公房、『R62号の発明・鉛の卵』新潮文庫収録)を読みました。

母が死に、千葉の田舎から東京へでてきた男は、鍵職人である叔父のもとを訪ねる。なんでも叔父は鍵の研究をしているらしく、それがもとで家に閉じこもるようになってしまったという。


叔父としては、鍵付きの錠前のほうがナンバー錠よりも優れていることを証明したかった。そのために研究に没頭している。さらに、彼は万能合い鍵を作り出したことで人間不信に陥っているらしく、それも手伝って家から出ようとしない。
さらに、彼の技術部長という地位が彼の一連の行動はウソではないと保証する。そのため、万能合い鍵を見たことがなくても、家から出てこない理由はそれなのだ、と信じる。
しかし、だれも万能合い鍵の実物を見たことがない。

ならば、ここで見方を変えてみよう。万能合い鍵を見たものは誰もいないのだから、万能合い鍵がないとする。ではなぜ家から出ようとしないのか。そもそも、鍵付き錠前の研究なら家でなくてもできる。人間不信?彼は女中を雇っているのに?
このように実際に、疑おうと思えば、いくらでも疑えるのである。しかし、叔父にはそれをさせないだけの社会的な地位がある。それが厄介だ。結局、それなりの理由があると納得できれば、それでわかったつもりになってしまうのであろう。社会的な地位は、彼の日常とは別途のものであるはずである。しかし、社会的な地位があるとそれをもっている人はこういう人であるというステレオタイプが成立する。
それで、なんともしがたい状況が生まれてしまうこともある。


しかし、一概にステレオタイプが悪いのではない。それがなければ、人を判断する枠組みがなくなり、初対面の人間すべてに僕たちはとまどいを感じてしまう。それではコミュニケーションがとれず、社会的に不便であろう。
このように、ステレオタイプな認知というのは、良い面も悪い面も共存しているのであり、本作を読んで、ステレオタイプが全くいけないものだと考えてほしくはない所ではある。
by nino84 | 2006-10-15 19:42 | 読書メモ