本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「蟹工船」

「蟹工船」(小林多喜二、『蟹工船 一九二八・三・一五』岩波文庫収録)を読みました。

函館を出港した蟹工船は3,400人の作業員を乗せてオホーツク海を目指す。
そこで作業員は人あらざる扱いをうけ、酷使されつづける。そんな船上生活が続く中、作業中に行方不明になっていた一人の作業員が露西亜から「赤化」のパンフレットをもって戻ってくる。作業員たちは面白がってそれを聞いていた。



社会の教科書に出てくるプロレタリア文学の古典です。断っておくと、僕自身は主義者でもないし、そんなたいそうなものを知ろうと思ってこの作品を読んだわけではありません。単純に、教科書に載るような作品は安定して一定上の評価をされた作品であると踏んだからです。最近の作品では、あたりはずれが激しいので、社会的な保障にすがってみようかな、という気になっただけのことです。

さて、本作はプロレタリア文学ということで、当然だが、彼らを中心とした作品になっている。そして、―プロレタリアの力というのが、どういうものかというのを示すためらしいのですが―彼らの個人名はほとんど出てこない。作業員の中で名前が出てくるのはわずかに二人(?)、死んだ者、作業員を統べた作業員。いずれも作業員のなかで特別な存在となった者である。作業員はひとつの集団であってこそその力を持ちうる、逆に言えば、作業員は資本主義の中では個々人を省みられないほどに個々人の存在は希薄である、ということを描き出している。
現代ならば、基本的人権の尊重として(表向きは)すべての国民が平等に扱われているが、それは資本主義が成熟し、労働者であっても重要な存在であるという考えが広く知れ渡っているからであろう。帝国主義を掲げていた当時の日本に、あえて広げれば世界全体に、そんなことを考えるようなことはできなかった。それは仕方のないことだ。
封建的な身分社会が崩れるのにどれほどの年月が必要だったろうか。それを乗り越えたことで、生じた社会がまたあらたな身分社会を生み出すのはある意味で仕方のないことだ。まとめるものがいなければ、人はただの群衆であって、特になにを生み出すでもなくなる。まとめるものがいて、初めて目的をもった行動ができる。
また、人が個人で生きられるとするならば、そもそも原始、邑や国を作ることはなかった。それができないから人が群れるのであって、そのなかで身分の上下ができるのも仕方のないことだ。

もちろん、これがあきらめの境地であることはわかる。
こうした身分社会に耐え切れなくなったプロレタリアートたちのなかに社会に反発するものがいて当然でもある。そこで資本家が力をもっており、労働者には力がないから、そこではまとまるしかないし、強行するしかない。それで、権利を勝ち取って現在がある。こう思えば、あの時代の混乱というのはそれこそ必然であったと思える。
しかし、結局ひとは群れるときに指導者が必要となるのであって、団結した労働者にもまた身分の上下が生まれる。それもまた今なら分かることだ。

僕はマルクスの『資本論』を読んだことがない。だから、彼が著書の細部でなにを主張し、どこまで予測を立てたのか知らない。だから、彼自身を批判することはできないし、今のところ彼の主張はごくまっとうだと思えるから、しようとも思わない。ただ、まだ人の社会はそこまで成熟してはいないということだと思える。


話がとんでもなく大きくなってしまいました。なんにしろ、資本家と労働者という対立はいまだ残っている問題だろう。とくに、大きな視点に立てば、発展途上国というのは、往々にしてこういう状態があると予測できる。だから、(長々とえらく大きなことを書いてきた僕がいうのはお門違いかもしれないが、)「この作品には偏った思想が詰まっている」と大上段に構えたりせずに、読んでみたらいいのではないだろうか。当時には当時の、現代には現代の作品の読み方があっていいと思う。
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by nino84 | 2006-12-26 14:15 | 読書メモ