本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「世界の中心で愛を叫んだけもの」

「世界の中心で愛を叫んだけもの」(ハーラン・エリスン、朝倉久志訳、『世界の中心で愛をさけんだけもの』ハヤカワ文庫SF収録)を読みました。

ボルティモアに住むウィリアム・スタログは二百人を毒殺し、ジェット旅客機を爆破し80人を死に至らしめ、さらにアメフトの観客席でマシンガン掃射し44人を殺した。
彫刻室座の一惑星に降り立った探検隊はそこで特異な表情をした巨大な彫像を発見した。それはウィリアム・スタログの死の宣告直前の姿であった。
―交叉時点(クロスホエン)。時間と空間の果て、観念を超越したもの、究極の中心。そこでの出来事がすべての時間と空間にむけてある力場を放出した。



久しぶりの本格SFです。久しぶり、というよりも『闇の左手』(ル・グウィン)、『銀河帝国の弘法も筆のあやまり』(田中啓文)、『マルドゥック』シリーズ(冲方丁)くらいしか読んでいないジャンルなので、ほぼ初心者です。
また、本書は数年前に流行した片山恭一さんの作品や『新世紀エヴァンゲリオン』最終話のタイトルの本ネタとなっている作品です。前者の作品は、どうも内容的なオーバーラップはなさそうなので、語呂であわせにいったんでしょう。後者は観ていないので内容的な関わりは知りません。シンジくんが椅子に座って悩んでる描写があったような記憶があるのですが。


さて、本作は交叉時点と呼ばれる場所のなかで最も凶悪な存在―7つの首をもつドラゴン―から、「悪」の部分のみを「排出」しようという試みることによる、(交叉時点からみれば)一連の事件を描いたものである。
考えよう。そもそも交叉時点では、本来なにが「排出」されるべきなのだ?絶対的な「悪」でないことは確かだが、「排出」が、すべての時間と空間、観念といったものたちに向けての「排出」であるならば、なにを「排出」しているのだ?交叉時点では、―交叉世界のものらが無感情でなかったことから、観念すべてが否定されているのではないが―狂気は否とされるようである。ならば平穏は「排出」されるものではない。「悪」が排出されるべきものであるとすれば、全時間、空間、観念それらは「悪」一色に染まる…?それは世界の成り立ちとしておかしい…。

そもそも「排出」は例外なのかもしれない。交叉時点における新しい技術なのかもしれない。それまではそうした狂気は厳重に捕えるだけだったのかもしれない。このほうが自然か。
しかし、ライナが新たな方法を思いついた?それが「排出」?とすれば、自らを賭した大実験だったわけだ。

交叉時点からの力場は他のものに対し常に存在したようだが、交叉時点のどの時点においてその力場が放出され始めたかは分からない。したがって、「排出」がどのような扱いの技術なのか確定できないように思う。


もし「排出」が交叉時点で常時行われてきているものならば、「排出」されているものが、純粋な「悪」でないかぎり、全時間、空間、観念といったものたちも完全な「悪」にはなりえない。だから、「排出」は交叉時点を「平穏」にするために有効な手段だとできうる。
このような状況であるなら、交叉時点それ自体の平穏を守るために、多少の狂気―「悪」だけでなく、「愛」などもない混ぜになったもの―は「排出」していくべき、となる。それは「悪」を中心としながらも、希望を全時間、空間、観念に届ける。
交叉時点が唯一無二の平穏、その他の全時間、空間、観念といったものたちにはどうあがいても「悪」が含まれている。これが世界の本来の姿だろう。

しかし、ドラゴンの持つ狂気はあまりに強すぎるものだったのだろう。描写されるそれは純粋な「悪」だ。だからこそ、ドラゴンは厳重に捕えられていた。それを「排出」すれば、すべて―文字どおりすべて―が「悪」に染まるから。
それにもかかわらず、ライナと呼ばれるものは、それを「排出」した。交叉時点におけるその瞬間―連なるものの全ての瞬間―「悪」が全てを支配したはずだ。しかし、現実にはウィリアム・スタログは結審の最後に叫ぶ。「おれは世界中のみんなを愛している」、と。
その「愛」はどこからきたのか。それはライナが自らを「排出」することで運ばれたものだといえる。非人間的な仕事に携わっているからこそ、ライナは自らの「愛」を確かめたかったのだろうか?
自分の「愛」が「悪」をさえぎることができるか?さえぎることができれば、ライナの「愛」は本物であったといえることになるだろう。

交叉時点における時間軸は、連なるものにとっては無関係であろう。とすれば、「悪」と「愛」は同時にすべての時間、空間、観念といったものなどに行き届いたことになる。
交叉時点においてはある瞬間から認識された事態ではあるが、それに連なるものにとっては昔から存在していてこれからも存在するものとして「悪」と「愛」が捉えられる。パンドラの箱のような話みたいですね、結局。

そういえば、タイトルの愛を叫んでいたのはライナということになるのか、これだと。
ライナがけものというのは、しかし、どうなのでしょうか。交叉時点においてさえ衝動に流されたという事実がけものということなのでしょうかね。

ちなみに、「排出」が試行段階にある技術であるとしても、最後の段階でのライナの動機は変わらないだろう。結局、「排出」の技術がどのようであるかというのは問題ではないのだ、とここまで書いてきて思う。



ながながと書いてしまった…。もう少し頭の中で整理してから書くべきでしたね。書きながら、考えながらしていた結果が上記の文章です。自分のなかではずいぶんまとまったし、考えた順序も表れているのですが、結局、他人に読ませる文章の体をなさなくなってしまったようです。
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by nino84 | 2008-01-31 23:59 | 読書メモ