本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「鋭いナイフで」

「鋭いナイフで」(ハーラン・エリスン、伊藤典夫訳、『世界の中心で愛を叫んだけもの』ハヤカワ文庫収録)を読みました。

エディ・バーマは個性をもった男だった。この動く影の世界において、エディ・バーマは現実の人間だった。だが彼はその性質のために、破滅を運命づけられていた。
彼はその実存性があまりにきわだちすぎていた。そのために、今、彼は<穴ぐら>のトイレの個室に身をひそめなければならなかった。



ハーラン・エリスンさんの短編集もやっと3分の1を過ぎました(今日で6/16)。まだまだ先は長いですが、このペースで参ります。

さて、本作はエディ・バーマという男を主人公としたお話です。彼はいわゆるカリスマであり、まさにエディ・バーマとして人々に認知されています。だれかのコピーではなく、自分自身であること。いわゆるアイデンティティが完全に確立しているということなのでしょう。どんなときも彼はエディという「方法」で考え、動くのです。
一方、多くの人々は”動く影”です。すなわち、だれかのことを注目し、そのだれかの行動や思考をコピーしていく人たち。すでに個を失ってしまった大衆。こうした人たちは、自分自身で動くことは困難で、つねに注目すべき人を探している。そしてエディ・バーマはその一人だった。そのため、人々はエディに殺到する。エディという「方法」を知りたいから。


アイデンティティというのは、ある程度は他人の「方法」を取り込む部分があるのが当然でしょう。それが確立する(それを確立させる?)のは青年期の課題です。(アイデンティティの確立については何度も繰り返すプロセスがあると指摘されており、青年期ではひとまずの確立ということになり、その模索は一生続くという考え方もあるようです。特に中年期にはアイデンティティの危機があることが知られています。)
人は生まれてから青年期までに多くの経験をし、自分を少しずつ形成していきます。そこには親や友人のモデリングという方法をとることもあるでしょう。それは試行錯誤の方法としてあってしかるべきものです。より優れている(と思われる)ものを真似ることはいけないことではありません。そうしたモデリングなどによる自らの試行錯誤の結果として自分という「方法」が成立するはずです。
この場合、重要なのは試行錯誤、自分になにがあるのかを考えることだといえます。

しかし、試行錯誤は多くの場合、疲れるものですし、時に行き詰まるものでもあります。したがって、そうした苦痛から逃れるため、「方法」を確立する際に、試行錯誤を避け、他人の「方法」をそのまま取り込むことは十分にありえるといえます。
それは内面的な没個性につながるのですが、たとえば外面的な流行が一種の連帯感や安心感を生むように、内面的な没個性状態もそうした連帯感や安心感をもたらすかもしれません。結局、他人の「方法」を取り込むことが逃げ道になるのです。

ただし、そうした方法が成立するには、「方法」を取り込むことのできる他者が不可欠です。そうした他者を見つければ、大衆は群がり、彼の「方法」を見聞きし、片端から取り込んでいくのでしょう。そして彼から引き出せる「方法」がなくなったとき、大衆はまた他の目標を見つけに走ることになるのです。

社会の変化が速くなっている現代では、おそらくその変化にあわせて「方法」も次々と変えていかなくてはなりません。そのため、現代は生きるのが難しいといえるでしょうし、大衆が大きくなっているとも予測できるのです。
これは良い悪いでなく単なる社会の変化であり、そのなかで人は生きていくしかないのです。
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by nino84 | 2008-02-08 22:21 | 読書メモ