本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」

「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

午前七時、電話が鳴った。その電話は妹からで、祖母が「肺炎だって。あぶないらしいよ」とのこと。私は隣で寝ていた男に声をかけ、そして短いセックスをしてから家を出た。
彼女はもう十分に生きた。そう考えながら車で病院に向かった…



なぜかよく分からないのですが、「なんでもいいから短編を読もう!」と本屋にくと、なんとなく江國香織さんを選ぶことが多いみたいです。なんでしょうね、べつに村山由佳さんとかでも、と思うのですが、手にとるのはいつも江國さんという。以前は乙一さんの作品が多かったのですが、最近文庫で新刊が出てないので、新しいところを開拓した結果、こうなったのかもしれません。
それとも最初に読んだ『号泣する準備はできていた』がそれなりにヒットだったのでしょうか?どこか場末の空気のする江國さんの作品で安心感もないだろう、と客観的に見て思ったりもするのですが、案外、不安定な感じの恋愛小説を読んで「人ってこんなもんだよな」と安心しているのかもしれません。いつの間にか、こういう作品で落ち着ける人間になってしまったようです。
いや、今思えば昔からひねくれていたのかもしれません。小説版の『機動戦士Zガンダム』(富野由悠季)を何度も読み返すような小学生だったのですから。


閑話休題。本作の「私」は、小説家を生業としている独り立ちした女性です。「私」には無職で酒飲みで散らかしやで甘ったれの男がいて、その男と一緒に暮らしています。身体的合性がいい、そのことが「私」と男とを繋いでいるようです。そんな「私」のもとにかかってきた一本の電話から、この物語は動き出します。
祖母が肺炎で危篤状態――。
それは彼女にとってどんな意味をもったのか。「私」は祖母のことを「ばばちゃん」と呼んでいます。このことから、なんとなく心理的な距離は近い感じがするのですが、それでも「私」は、「彼女はもう十分に生きた」といって感傷的になることを拒みます。また、途中で昼食を買い、それを食べ、病院に入る前にタバコを吸い、祖母との出会いをできるだけ先に延ばそうとしているように振舞います。そして、病室に入るときも「知っている祖母を頭から締め出し」、「寝ているのはなにか別の物体、祖母の人格や人生とは別の、老いて休息を求めている物体なのだ」と思おうとしています。
「私」は、「ばばちゃん」の死がつらいものだからこそ、それをなんとか合理化しようとしているのでしょう。
実際には、祖母は余命は長くないといわれながらも、一命を取りとめます。それで母と妹と3人で食事に出かけ、緊張感のない話で盛り上がるのです。祖母の死という緊張感からの解放がそこにはあります。
さて、そうした祖母の死からは解放されたものの、それを考えざるを得ない状況に置かれたことで、「私」は祖母との生活を思い出し、それと比較するかたちで今の生活を内省しはじめます。それは結果として、今の男との関係を省みることになります。その男は俗に言うヒモで、そんな男と付き合っていることは、冷静に考えるとどうもおかしいぞ、となるのです。そんな自分のおかしな人生を思い、祖母の今は延期された死を思い、「私」は自分の人生がどんなものなのかと、ふと考えてしまうのです。
泳ぐのに、安全でも、適切でもない、危ない川。そして、その岸辺をくちびるをむらさき色にして、とりはだを立てながら歩く私。
それでもその幻想を消すために、昼食を食べながら語らう女3人―。

泳ぐのに、安全で、適切な川ってのは、どこにあるのでしょうか。
思わず筋を全部たどってしまいましたが、恋愛小説の枠を飛び出して、人のとらえ方の枠を提示しており、表題作にふさわしい作品になっているかな、と思います。
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by nino84 | 2008-08-09 23:01 | 読書メモ