本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『崖の上のポニョ』

『崖の上のポニョ』を観ました。

父親の目を盗んで家出をしたポニョは、陸地近くまでやってきてジャムの瓶からでられなくなってしまい、そのまま浅瀬にうちあげられてしまいます。崖の上の家にすむ宗介は、それを見つけ、ポニョを助け出します。
「ポニョ、宗介、好き」。しかし、ポニョは父親に海に連れ戻されてしまうのでした…。



久しぶりに映画を観てきました。言わずとしれた宮崎駿さん監督の作品です。話題作でありながら、奇跡的に事前情報がほとんどない状態で観た―ポニョという主人公しかしらなかったのよ―のですが、楽しく観ることができました。
個人的に評価が分かれそうな作品かな、という印象をもったので、情報提供者の主観がかなりはいった事前情報を与えられることになったと思うのです。そういう意味でも幸運だったかな、と。

さて、本作の話に戻ります。
作品の冒頭で「はじまり」と文字を入れ、スタッフロールのあとで「おわり」と入れてみる。また、絵そのものがかなりデフォルメされていたりと、絵本や紙芝居―後者の方が近いか―のような印象をうける作品となっています。
また、デフォルメされているとはいえ、そこは宮崎駿さんの作品なので、深海の生物たちは生き生きと描かれます。こうした非日常、ファンタジーの世界を描くことにかけては宮崎駿さんは昔から非常にうまいな、と思います。それは『風の谷のナウシカ』に始まったもので―生命が画面に溢れ出したのは『もののけ姫』あたりからだと思いますが―、今回も深海はそのような流れの中で生命観にあふれたものとして描かれます。一方で、宗介は普通の幼稚園児なのであって、彼が住む世界は『となりのトトロ』のような子どもの日常の生活感を描いており、”抜け道”とか、幼稚園での子ども同士のやりとりや子どもと施設のおばあちゃんのやりとりとか、そういったものがきっちりと描かれます。
そして、その二つの世界は、それぞれの世界に住むポニョと宗介の出会い―正確には再会ですが―によって、ミックスされていきます。そこで広がる世界は、宗介―つまり私たちの世界の住人―が知っている世界でありながら、生命が溢れています。山間の道路は海に沈み、その舗装された道路の上をデボン期の生物たちが泳ぎ回ります。そこは日常でありながらファンタジーなのです。ポニョと宗介はそのような世界を冒険するのです。

現実とファンタジーの世界のミックスは、一面、子どもの夢の世界―ここでのそれは宗介にとってということになりますが―なのです。
それを説明するにのは、宗介の話をしなくてはいけません。宗介は5歳の幼稚園児で、母は幼稚園のとなりの老人介護施設で働いており、父は船乗りでほとんど家にはいません。しかし、丘の上にある自宅からはときに沖を通る父の船をみることができ、そのようなときにはモールス信号で交信するのです。宗介にとって海は自宅の目の前に広がるもので、そして父の働く場であって、あこがれの場なのです。船乗りの帽子をかぶり、双眼鏡を肩にかけ、おもちゃの船を小脇に抱えている、という姿が作中で描かれますが、そういう風にして父の背中を追っているともいえます。
そんな子にとって、朝起きると庭先からはてしなく海が広がっているのを観ることは、わくわくしない訳はないのです。
この場面は、前日の嵐のあとの場面であり、母親が施設の老人たちを心配して一人ででていってしまった後なのです。家には宗介とポニョの二人しかいません。宗介はもちろん母を心配し、探しに行こうという流れなのですが、しかし、そこには母が嵐で行方不明という悲壮感はありません。ポニョの魔法によって大きくなった模型の船で、新しい世界に乗りだすというわくわくが全面に描かれるのです。

このあたりの場面のとらえ方というのが、この作品をよく表しているように思います。つまり、この作品に悪い人はいないのであり、悪いことは起こらない―実は起こっているのですがそれは深くは描かれません―のです。
宗介の家族は、前述の通りです。現実の世界からファンタジーの世界へと巻き込まれていきますが、『千と千尋の神隠し』の両親のように、醜い姿をさらすことはありません。母は突然やってきたポニョを受け入れますし、作品中では一貫して誰かを心配しています。そして父は海の上から子どものことを考えない日はないのです。父が帰ってこられなくなったことを、母が電話口で怒る、ということがあるのですが、そうした夫婦ケンカの場面は、しかし、結局、高速でのモールス信号でのやりとりでもってほほえましいものにおとしこまれてしまうのです。実際、劇場の子どものこの場面への反応は笑いでした。状況が悪いのであって、人が悪いのではないのです。
一方で、ポニョの両親です。父親は、最初ポニョを心配して宗介のもとにいたポニョを無理に連れ戻します。ポニョが心配だから、それをするのです。地上は汚れているのであり、深海のきれいな場所にいた方がいいだろう、というのです。彼は父親としてポニョを保護するという責任を果たしているにすぎません。5歳児が家でしたらつれもどす。成人した子どもをどうこうするなら話は別ですが、5歳児への対応としては実に普通の対応です。とはいえ、親の心子知らず。結局、ポニョは二度目の家出をしてしまいます。それで父親はポニョの母親にそのことを相談するのです。
ポニョの母親は…だれなんでしょうね。作品中では詳しくその地位を説明されることはありません。ただデボン期の海を知っている人物であることはわかるので、大変長い時間を生きている存在であることが分かります。そんな母親ですから、普通の親とは考えのスケールが違います。ポニョが宗介と一緒にいたいということをあっさりと認め、その解決策として「ポニョが人間になればいいのよ」と言ってのけます。父親の「しかし、それは失敗するとポニョは泡になってしまう」という心配さえ、「生物はもともと泡からうまれたのですよ」の一言で退けます。つまり、原始の状態に戻るだけであって、そんなことはたいしたことではないのです。なんというグレートマザーでしょうか。それは父親が過保護になるのもなんとなく分かります。この母親は人間を育てるのに向いていません。魚は卵を生んだらそれで子育ては終わりです、愛着は形成したりしません。母親はそうした海の生物ベースの考え方で子を育てることを考えているのでしょう。一方で、父親は人間をやめたとはいえ、人間の考え方を捨てたわけではありませんから、我が子は我が子として保護したいのです。そのあたりの齟齬は、しかし、母親が偉大すぎてなんら考慮されません。弱い父親です。とはいえ、父親が弱いことはこの作品には関係のないことなので、おいておきます。
それよりも、この父親はどうやら元人間らしいのですが、なぜか深海で暮らしています。このあたりの状況の説明はなにもありません。そのことをこそ問題だと思うのですが、それは作品の本質ではないために作中では放っておかれます。断片的に分かることは、人間の住む世界が汚すぎて、生きていかれないと思い、なんとかして人間をやめたようです。そうしたことを語らせることで、「この世界は汚いけれど、そうでは内部分もあるんだよ」という作品の言いたいことの、前提部分を言わせているにすぎません。ポニョの一回目の家出の際に、陸に近い海が汚れていることが描かれますが、その描写をふくめて、作品の前置きをしているにすぎません。
ちなみに、父親は海底でなんらかの水を生成しており、深海にある自宅の井戸をその水で満たすくらい生成することで、世界をカンブリア紀まで戻すということを計画していたらしいのです。このあたりをふくらましていけば父親は悪い人として描くこともできるのでしょうが、本作ではそのようなことはしません。

前述の「悪いこと」というのは、この計画のことで、ポニョの家出の影響で中途半端に実行されてしまい、現実とファンタジーの入り交じった世界を形成するきっかけになります。作中では、宗介とポニョの二人旅がメインであるために、世界規模での異常が描かれることはほぼないのです。月が地球に近づいてきて、海の水がせり上がってしまい、その結果そこが船の墓場のようになってしまったり、「人工衛星も落ち始めた」り、とかなりまずい状況なのですが、それを深く描くことはしません。あくまで中心は子どもの世界であって、世界規模の危機や、世界を救うということが中心ではないのです。
したがって、スケールの非常に大きな背景の前で、非常に小さな冒険が繰り広げられるというアンバランスさによって、一面非常にとらえどころのない作品ではあるのです。これ以前の宮崎駿さんの作品というのは、『風の谷のナウシカ』にしても、『もののけ姫』にしても、個人的な導入の仕方が結果として大きな冒険につながるという作品であったように思います。世界の危機と個人の問題とは直結しており、その関係が非常に分かりやすいものであったといえます。しかし、本作は非常にそれがわかりにくいのです。あるいは、『となりのトトロ』のような小さな世界での小さな冒険になっていくのであれば、捉えやすくもなるのでしょう。
しかし、宮崎駿という人は、そんなことはすでにやりきったのでしょう。本作はそんなことはしてくれません。子どもがそこにあるものについて、その原因を世界規模で考えることはありませんから、世界の設定はこの作品においては必要ないのです。そのため、世界の設定が気になり始めると、作品としてそれを説明してくれることはありませんから、説明不足であって、作品として欠陥のあるものという見方もできるのです。
このあたりが私が冒頭で書いた評価が分かれるだろう、と思う部分です。そういうものが入っていなかったのが、幸運だと思ったのです。

本作は、畢竟、子どもの小さな冒険の話なのです。
海に囲まれた家を出発し、母のもとまでたどり着くという、その部分は、―冒険の楽しさや、苦しさも含めて―しっかり描かれているのです。そこに付随する形でそれを見守る家族が描かれてもいます。彼らは子どもが冒険していることを知りながら、それを助けに行こうとはしません。心配しながらも、ただ彼らを信じ、ゴール―宗介の母の仕事である施設―で待っているのです。また、施設の老人たちも宗介を応援してくれます。彼女らにとって、宗介はいつも施設に顔を出してくれるかわいい子どもなのですから、そうした見守る視線が生まれてきます。こうした多くの人たちに見守られ、宗介とポニョはゴールにたどり着き、そしてポニョは人間になって物語は終わるのです。

このような冒険をする場所を整え、そして彼らを支える家族を描こうと思ったときに、宮崎駿さんは、ファンタジーという方法をとったのです。それが宮崎さんのスタイルですから、それは否定すべきではありません。押井守さんがSFで多くを描き、富野由悠季さんがロボットを介して多くを描くように、それはそれとして観ればいいと思うのです。あとは、視聴者がその表現を好きか否かという部分になるはずです。
しかし、宮崎さんが大きな背景を示すときには、大きな物語が展開するものだと思っている人たちにとって、本作は肩すかしをくらわされたようなものでしょう。そうした先入観もこの作品を捉えにくくしているように思います。
世間は宮崎駿さんには彼らしい作品を求めますが、本人はそればかりやっていては飽きもするでしょう。実際、彼は何度も「もう作品をつくるのはやめる」ということをいっているのです。まったくの想像ではあるのですが、本作を観ながら、表現者としての評価が定まってしまうと、やりくいだろうな、と思ったりもしました。


いろいろな話をしてしまったように思いますが、主題以外の部分で非常に余白の多い作品なので、いろいろなことが考えられる作品かな、と思います。
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by nino84 | 2008-08-14 14:09 | 視聴メモ