「ジェーン」
2008年 08月 16日
「ジェーン」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。
ジェーンとは、大学で出会い、夏のあいだだけ一緒に暮らした。
私は当時付き合っていた年上の男の転勤にくっついてニューヨークまで来て、そこでパートタイムの学生をしていた。ジェーンにも私にもそれぞれ恋人がいた。でも、その関係は次第に崩れていった。
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』も6作目まできました。全10作収録なので、半分をこえたことになります。なんか、お酒が入っており、どこまでまともなことがかけるのか分かったものではありませんが、それはそれで面白いのではないかと思ったりしています。
毎回そうですが、こうして書きながら内容を考えています。思ったことを徒然に書いておりますので、記事は長くなりますし、半端に深めて終わっているんだろうな、とたまに読み返して思います。
さて、そんなことを書いているとまた長くなってしまうので、内容にうつります。
本作の「私」は過去を思い返す形でこの話を語っています。終始、過去の話をするという、今までにない形式になります。話の中心は「私」とジェーン、「私」の恋人である向坂さん、そしてジェーンの恋人であるチャップの4人の2組のカップルであり、恋愛という感情が揺さぶられやすい話題に終始しています。
過去を語るということは、今の「私」の主観で過去の出来事をとらえるということで、それは過去の事実そのままを描くということにはなりえません。しかし、感情に流されやすく意味づけをしにくい話題にもかかわらず、「私」の語り口は落ち着き、時として冷めています。そうしたことを整理して語ることができるほどに、「私」はそのことの意味づけをし、客観視できるようになった時点で話をしているのです。若気の至り、という感じでしょうか。そのような感じの語り口です。
現在の「私」は向坂さんとも別れ、ジェーンとも会っていません。彼らはすべて過去の人であって、彼らが今の生活に物理的に影響してくることはありません。だからこそ落ち着いて話せるということでもあるのでしょう。
当時の「私」は自分が勤めていた会社をやめて妻帯者である向坂さんの転勤についていくほどに情熱的でした。自分の感情に「あるがまま」に行動していたのでしょう。そしてジェーンも、「チャップは、あるがままの私を受け容れるべきなのよ」というほどに、自分に正直に生きたい人でした。
しかし、そうしてあるがままに生きようとするジェーンを「私」は上手く受け容れられません。また、自分があるがままに行動することには、向坂さんとの関係が行き詰まってきたことで、疑問を感じ始めていました。向坂さんとは一緒に住むことも、結婚することも出来ない状況になっていき、また彼との行為に憐憫しか感じなくなっていきます。そして、「私」は向坂さんと別れます。
そうした状況の中で、チャップが4人の関係を壊す最後の一押しをし、それによって「私」はジェーンからはなれます。
「私」は、あるがままに自分に正直に生きようと思っても、それが状況によってできなくなっていきます。また、あるがままの生き方というのは―ジェーンにしてもチャップにしても―自分勝手というのと紙一重だと気づきます。ジェーンは私に部屋のルール、ピンクのドレス、そうしたいろいろなことを押し付けてきたし、チャップは恋人がいながら、「私」を襲ったのです。
当時の「私」は、チャップの事件によってただそこから出て行くことしかできず、港のそばのアパートで半年ほど暮らします。そのあとどうしたかについては、本作では述べられません。それでも、向坂さんについてただやってきたニューヨークに、「私」は残ります。自分が今後どうするといったことはこの時点ではとっさに考えられなかったのでしょう。
このときの「私」はおそらく生き方の基準が変わってきているときで、しかし、それが現実的にどうしたいのかというところまで行かず、とりあえず大きく動くよりも近場で定住してみるという選択肢を選んだと思われます。
そこから生活に新たな意味づけをする作業が始まったのでしょう。そして今、「私」はその転換点となったと思われる出来事について、落ち着いてはなすことができるほどに成長しました。そうやって人は過去を乗り越えて成長していくということでしょうか。そんな話だったように思います。
ジェーンとは、大学で出会い、夏のあいだだけ一緒に暮らした。
私は当時付き合っていた年上の男の転勤にくっついてニューヨークまで来て、そこでパートタイムの学生をしていた。ジェーンにも私にもそれぞれ恋人がいた。でも、その関係は次第に崩れていった。
『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』も6作目まできました。全10作収録なので、半分をこえたことになります。なんか、お酒が入っており、どこまでまともなことがかけるのか分かったものではありませんが、それはそれで面白いのではないかと思ったりしています。
毎回そうですが、こうして書きながら内容を考えています。思ったことを徒然に書いておりますので、記事は長くなりますし、半端に深めて終わっているんだろうな、とたまに読み返して思います。
さて、そんなことを書いているとまた長くなってしまうので、内容にうつります。
本作の「私」は過去を思い返す形でこの話を語っています。終始、過去の話をするという、今までにない形式になります。話の中心は「私」とジェーン、「私」の恋人である向坂さん、そしてジェーンの恋人であるチャップの4人の2組のカップルであり、恋愛という感情が揺さぶられやすい話題に終始しています。
過去を語るということは、今の「私」の主観で過去の出来事をとらえるということで、それは過去の事実そのままを描くということにはなりえません。しかし、感情に流されやすく意味づけをしにくい話題にもかかわらず、「私」の語り口は落ち着き、時として冷めています。そうしたことを整理して語ることができるほどに、「私」はそのことの意味づけをし、客観視できるようになった時点で話をしているのです。若気の至り、という感じでしょうか。そのような感じの語り口です。
現在の「私」は向坂さんとも別れ、ジェーンとも会っていません。彼らはすべて過去の人であって、彼らが今の生活に物理的に影響してくることはありません。だからこそ落ち着いて話せるということでもあるのでしょう。
当時の「私」は自分が勤めていた会社をやめて妻帯者である向坂さんの転勤についていくほどに情熱的でした。自分の感情に「あるがまま」に行動していたのでしょう。そしてジェーンも、「チャップは、あるがままの私を受け容れるべきなのよ」というほどに、自分に正直に生きたい人でした。
しかし、そうしてあるがままに生きようとするジェーンを「私」は上手く受け容れられません。また、自分があるがままに行動することには、向坂さんとの関係が行き詰まってきたことで、疑問を感じ始めていました。向坂さんとは一緒に住むことも、結婚することも出来ない状況になっていき、また彼との行為に憐憫しか感じなくなっていきます。そして、「私」は向坂さんと別れます。
そうした状況の中で、チャップが4人の関係を壊す最後の一押しをし、それによって「私」はジェーンからはなれます。
「私」は、あるがままに自分に正直に生きようと思っても、それが状況によってできなくなっていきます。また、あるがままの生き方というのは―ジェーンにしてもチャップにしても―自分勝手というのと紙一重だと気づきます。ジェーンは私に部屋のルール、ピンクのドレス、そうしたいろいろなことを押し付けてきたし、チャップは恋人がいながら、「私」を襲ったのです。
当時の「私」は、チャップの事件によってただそこから出て行くことしかできず、港のそばのアパートで半年ほど暮らします。そのあとどうしたかについては、本作では述べられません。それでも、向坂さんについてただやってきたニューヨークに、「私」は残ります。自分が今後どうするといったことはこの時点ではとっさに考えられなかったのでしょう。
このときの「私」はおそらく生き方の基準が変わってきているときで、しかし、それが現実的にどうしたいのかというところまで行かず、とりあえず大きく動くよりも近場で定住してみるという選択肢を選んだと思われます。
そこから生活に新たな意味づけをする作業が始まったのでしょう。そして今、「私」はその転換点となったと思われる出来事について、落ち着いてはなすことができるほどに成長しました。そうやって人は過去を乗り越えて成長していくということでしょうか。そんな話だったように思います。
by nino84
| 2008-08-16 02:20
| 読書メモ