本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「動物園」

「動物園」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

樹がしまうまを見たいと言うので、小雨の降る寒い日だったが、動物園に行くことにした。
上野の動物園を2人でみて回っていると、聖から電話が掛かってきて、私たちは白熊の前で待ち合わせることにした。



この短編集も7作目になりました。サクサク行きましょう。

さて、本作の「私」たちは、「私」の母に言わせれば「どうかしてる」生活を送っています。それは、樹という子どもがいながら、夫婦が一緒に暮らしておらず、それでもその父親である聖と頻繁に交流がある、そういった生活のことを指しています。
その原因は、聖が樹を「どうしたらいいかわからない」からでした。聖は樹を嫌っているわけではありません。それでも「どうしたらいいかわからない」のです。聖は樹になじめず、そのために母からいわせれば「どうかしてる」生活を送っているのです。
「私」はそれをもって、聖を「不幸だった」としていますが、そうなのでしょう。
親と子の関係は―子どもが生まれたばかりの時には特に―親が子どもを一方的に保護する関係になります。そうした関係性はその他の場面ではほとんど体験することはありません。したがって、親と子どもの関係はその親が子どもの頃に体験した関係を、―無意識のレベルでも―そのモデルとすることが多いと考えられます。こうしたことは、時に虐待の世代間伝達を引き起こす原因の一つにもなりえます。
聖という人は、自分の感情を理解し、それを言語化できる人でしたから、それはそれとして評価できる人なのだと思います。つまり、聖は子どもをみてなにかしらの感情を触発されているのですが、それを言語化することでその感情を消化できていると考えられるのです。
一方で、そうして何かしら感情が触発されてしまったときに、そのイライラを抵抗のできない子どもにぶつけることがありえます。子どもを無視するであったり、子どもに手をあげるといったことで、その感情を解消しようとする人がいるわけです。そのイライラの原因は実は子どもの方にはなく、親側のにあったりするのですが、言語化できない感情はそれを考えることも難しいですから、子どもにそのしわ寄せがいったりするのです。こうした点から考えれば、聖は自分の感情を言語化し、彼あるいは彼らが考え得る解決策として「どうかしてる」生活を選択したことになったと考えられます。

もちろん、聖の過去については作中ではなにも触れられていません。しかし、そうした点を考慮しなくても、夫婦や家族が選択した生活の形を「どうかしてる」と決め付けることはできないでしょう。
夫婦の形態と言うのは基本的には一対一の個人的な契約によるものだと思います。例えば、誰がご飯をつくるのか、誰が働くのか、誰がゴミをだすのか、そんなことに社会的な規制はありません。主夫は存在します。もちろん、社会的に契約しなければ、すなわち社会に認められる形で手続きをしなければ、夫婦としての社会的な利益を得ることはできません。しかし、それに先立って、個人的な契約があるはずです
そして、その個人的な契約は個人的であるがゆえに、夫婦それぞれでその契約の形がことなるのは当然でしょう。。「私」が樹と二頭の白熊を見ていたとき、樹は「夫婦なの?」と尋ねました。「私」はさあ、と答えるだけでした。白熊のつがいには社会的に契約して仲間内で夫婦として認めさせるというプロセスはおそらくないでしょうから、夫婦というのがただ個人的な契約でしょう。そのように個人的な契約だけで成り立つ夫婦は、周りからみて夫婦かそうでないかを判断することはできないでしょう。契約の形が他からはみえないからです。私たちは社会的な契約をすることで周りから夫婦としてみられるようにしているのでしょう。
ところで、私は先の例で、ゴミ出しと働き手は誰かということを同じレベルで扱いましたが、おそらく社会的には同じレベルで扱わせてくれることはあまりないように思います。残念ながら、社会的には男は働いているべきという考えが根強いからです。いかに個人的な契約であっても社会の中にいる以上、個人の契約の形の中に社会の影響が入ってくるのは仕方のないことです。そのような部分で「私」たちのような同居していない夫婦というのは、社会的にはあまり認められていません。「私」の母が「どうかしてる」というのはそういう点からでしょう。簡単に言ってしまえば世間体が気になるということです。
もちろん、「私」の母のそうした台詞には、樹という子どもへの影響も考えているのかもしれません。しかし、それは前述のとおり、おそらく同居していた方が危ないのです。したがって、それを考慮していたにしても、「私」の母は娘の家族の形を上手く捉えられていないといえます。「どうかしてる」生活は個人レベルで同意されたものであるし、そこでは子どもへの影響についても考慮されているからです。

こうしてみると、「私」と聖と樹の関係は十分にまわっているように思えますが、実はそうでもない部分があることも描かれます。
「私」たちの関係では、「私」は樹といつも関わっているのですから、母としての役割を徐々に取得していき、考え方もそのように変わっていきます。しかし、聖は違います。もちろん、樹の父ではあるのですが、彼は樹と一緒にいるわけではありません。そのために、彼は樹を育てる上での大変さを十分に理解しえませんし、まだ夫であるという意識を強くもちます。そうした意識は、「私」を妻としてみせることになります。
妻とは、夫というつがいが強く意識された役割ですから、その関係の中に性的なものが強くあらわれてくることもあります。しかし、「私」が役割として演じているのは母です。母は妻でもありますが、それ以上に保護する人ということが前面に現れた役割です。こうした両者の役割の取得度合いの違いによって関係性に齟齬が生まれてきます。結果として、関係のなかで板ばさみになるのは、「私」です。「私」は、聖に誘惑される一方で、樹を世話しなければいけないと思うのです。
聖が「ホテルにいこう」と言ったとき、私は「うちでしたいわ」というのです。それは樹を放ってはおけないということです。それが「私」が思った以上に攻撃的な口調になったのは、樹のことを軽視していると思ったからでしょう。そして、そのような口調になったことを後悔したのは「私」がまだ女でいたいからです。性的に誘惑されていたいからです。

こうした問題をはらみながらも、「私」たちはなんとかやっていくために、自分たちのやりかたを模索したのだし、今もそれぞれ模索しているのでしょう。
社会的な契約というのは、書類などの形式が重視され、感情は無視されていますから、自分たちのやり方を考えなければならない、という課題は普遍的なもののはずです。しかし、社会的な契約が一つの区切りだと認識されており、その契約ですべて済んだと捉えられているように思います。それは私たちが社会で生きているために、社会的な契約が大きな意味を持つからです。しかし、実は社会的な契約は夫婦の形の典型を、姓が同じになること以外には、もっていないことは意識されて然るべきです。形の典型をもっているのは、社会それ自体で、契約には何ら含まれていません。形を決めるのは個人的な契約にまかされているはずで、そのため、個人的な契約は社会的な契約よりも大切なはずなのです。したがって、そこに関わる人の人権が守られている以上、「どうかしてる」生活というのはないはずです。社会的に認められているから、正しいという考え方だと、むしろ関係が崩壊するように思います。その点で、その時々でもっともよい契約を模索しつづけている「私」たちはよい夫婦といえるように思います。
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by nino84 | 2008-08-17 23:30 | 読書メモ