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本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「犬小屋」

「犬小屋」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

奈津彦は郁子さんの家に出入りしているらしい。
私は奈津彦にいろいろなことを頼んだ。それを奈津彦は一つずつクリアした。それでも私の奈津彦に対する疑いは消えない。それに、最近、奈津彦は自分で作った犬小屋で寝るようになってしまった。
だから、私は郁子さんの家へいくことにした。



なぜだか、あらすじがまとまらなかったような気がします。犬小屋という単語を無理に入れたからでしょうか。本作が、短編でほとんど筋はなく舞台設定があるだけなので、それがわかれば問題ないかな、と思ったりしています。私が読んで話を思い出せる程度にはしておこうといつも思っているので、その程度にはなっていると思います。

さて、本作は一言でいってしまえば、嫉妬のお話ということになるのでしょうか。
「私」は奈津彦が好きで仕方ないのです。だから、郁子さん―「私」の兄の元妻―の家に出入りしていることを許せないのです。奈津彦と郁子さんの間になにかよからぬ関係があるのではないかと疑ってしまうのです。
それでも「私」は奈津彦が好きだから、奈津彦を郁子さんから離すためにいろいろなことを頼みます。どこか郊外のしずかな街に引っ越して、兄からも郁子さんからも遠い場所で二人っきりで暮らして、とか、朝ごはんと夜ごはんは必ず一緒に食べて、とか、歩くときは昔みたいに手をつないで、とか。
奈津彦はそれを一つずつクリアしていったといいます。そこになにか交渉のプロセスがあったかどうか、は描かれていません。一方的に「私」が条件を押し付けたのかもしれません。詳しくは分かりませんが、奈津彦は「私」のたのみを一つずつクリアしていったというのですし、作品を読む限り「私」のだす条件がほぼそのまま通っているのですから、その点を考えれば交渉は十分に行われてはいないでしょう。
それは奈津彦にとっては一方的に相手に合わせることであって、自分のやり方でやることができないのですから、疲れもするでしょう。それでも奈津彦が文句をいわずにたのみをクリアしていったのは、「私」のことを好きだからか、郁子さんとの関係の罪滅ぼしのつもりなのか…。
それは「私」の一人称でかかれている限り、読者には完全には分からない部分です。「私」に分からないことは読者には分かりません。どちらなのか分からないために、「私」は疑心暗鬼に陥っていくのです。それでまたたのみを増やすことになり、そして奈津彦は―どのような理由でそれをするのか分かりませんが―それをクリアするでしょう。そうして奈津彦の負担が増えていきます。
奈津彦が「私」のたのみを、どのような理由でクリアしているにせよ、彼の負担は一方的に増えるだけなのです。その負担感を言葉にしないのは、あるいは罪滅ぼしだからと言えなくはないでしょう。しかし、一面、好きだからこそすべて満たしてあげたいのだと考えることもできるのです。結局、答えはだせません。
いずれにしても負担は増していくのですから、奈津彦は何らかの形でそれを伝えなくてはならなくなったと考えられます。客観的にみれば、より早い段階で、自分の負担感を減らすために、何らかの交渉はするべきだったでしょう。しかし、それができなかった。その結果が、犬小屋でしょう。

「私」からすれば、それは突然の変化ですから、戸惑うのは当然だといえます。しかも「私」は奈津彦と郁子さんの関係を疑っているのですから、それとの関連付けをしてしまえば、「私」を好きでなくなったのではないか、という結論に達しえます。
しかし、その行為は、奈津彦のささかな抵抗とみることもできます。
いずれにしてもこの夫婦は、どちらも以心伝心を求めているようにみえます。「私」は奈津彦に郁子さんと離れて欲しいのでしょうし、奈津彦は自分の負担感を「私」にわかって欲しいのでしょう。確かに、言葉にすることは、嫉妬していることあるいは疑っていることを認めることですし、負担に感じていることを認めることですから、難しいのかもしれません。
しかし、それをしないということは、結局、互いの考えがよく分からないままに空回りする可能性があるということです。実際、すでに空回りは始まっているようにみえます。それは夫婦間にズレを生み出していますし、不協和を生み出しています。どちらが原因だと言うわけではないのですが、二者の関係は少しずついびつになってきているようです。

郁子さんはそれを客観的に見ているのですから、落ち着いたもので、「私」にあまり頑張るな、という旨のことをいっています。ただ、郁子さんも「私」にとっては当事者ですから、「私」はその言葉を素直に受け容れることはできません。それでも「私」は事態が徐々によく分からなくなってきてはいるようでした。

これから先、「私」をとりまく人たちの関係がどうなるのかは分かりませんが、いずれにしろ、言葉で伝えないと人なんて結局分けわかんないぞ、と思ったりしました。以心伝心は理想ではあるのでしょうが、それだけで関係がまわることなんてないでしょう。言葉による軌道修正は一だって必要になるはずです。
by nino84 | 2008-08-18 11:50 | 読書メモ