本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「十日間の死」

「十日間の死」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

半ば強制的に留学させられたボルドーで、あたしはマークに出会った。あたしたちはいろいろなことを愉しんだ。話すこと、笑うこと、下品なジョーク、ジャンクフード…。九ヶ月のあいだ、あたしたちはいつでも、たしかに二人組だった。
でも、マークがナディアの味方をして、それであたしは逃げた。
セント・ジェイムズ、というホテルに、いまあたしは泊まっている。



さて、本作は一言でいえば、「あたし」の初恋のお話です。
「あたし」は十四歳までフランスにいて、その後、日本の高校に入り、そこを退学し、ボルドーの高校に半ば強制的に留学させられます。「あたし」はそれまでの人生で「世界に参加」していなかったといいます。「自分の目でなにもかもみる」ということをしてこなかったというのです。
しかし、それがマークとの出会いで変わります。「あたし」の言葉を引用すれば、彼と出会ったことで、「あたし」は「人生が突然ひらけたみたいなめくるめく発見の日々」をすごすことになるのです。
マークとの日々のなかで、「あたし」は食事の、話すことの、笑うことの、さまざまなことの愉しさを知ったのです。

「あたし」は、「あたし」とマークが常に二人組であったように感じています。「あたし」はマークに自分と同じような境遇にいると感じたことも、二人組であるという感情を強くしています。
「あたし」は、高校に所属してはいますが、どこかに所属しているという感覚がありません。一方、マークは「あたし」に自分は「一族の余計者」だったと語ります。彼はボルドーでシャトーを経営している一族のナディアという女性と結婚し、アメリカから単身フランスに渡ってきたのですから、そういえなくもありません。実際、マークが「あたし」と出会ったとき、「あたし」はその直前にナディアと喧嘩別れしているのを見ているのですから、マークとナディアの関係は良くなかったのでしょう。そういう場面をみているからこそ、「あたし」はマークの言葉を信じ、連帯感を強めたのでしょう。
しかし、「あたし」といたときにも、マークはナディアの家のシャトーを誇らしげに語ることがあったのですから、長い目で見れば、彼はナディアを愛していたのでしょうし、所属がないということもないのです。マークはナディアと上手くいかなくなっていたときに偶然にも「あたし」―アメイジングガール―に出会ってしまったのです。ナディアと上手くいかなければ、たしかにマークは所属する場所がありません。それで、マークは「あたし」に逃げ込むようにして二人組を形成したのです。
しかし、マークは結婚しています。ナディアとの関係が元に戻れば、所属が回復します。それで、マークは「あたし」の元から離れていきます。

「あたし」はマークを通してしか、「世界に参加」できませんでした。「あたし」は一人では何も出来ないのです。しかし、マークは違います。彼は「世界に参加」していたのです。それはどのようにしてかは分かりません。あるいは、ナディアとの関係のなかでそうしてきたのかもしれません。いずれにせよ、マークは「あたし」に「世界に参加」することを教えられるくらいには「世界に参加」してきたのです。
そこに「あたし」とマークの決定的な違いがあります。「あたし」はマークを失うことはできませんが、マークは「あたし」を選択として捨てることができます。
しかし、「あたし」は、そのことを気にしません。体験する全てが新鮮で、すばらしく、瞬間瞬間に満足していたからです。たしかに、二人の状況は「息もつけないほど幸福などきどきだったけど、同時に不安のどきどきでもあった。…(中略)…あたしたちはもっと急いで、もっとたくさん、もっと息もつかずにくっついていたり笑ったりしなければならなかった」のですから、「あたし」はどこかで関係が失われることを恐れていました。それでも「あたし」の所属はマークとの二人組にしかないのですから、そこにいるしかありません。

結局、「あたし」の不安は現実のものとなって、マークはナディアの元に戻り、「あたし」はまた所属がなくなります。「あたし」はマークを失い、所属を失いました。マークを失うことは、「世界に参加」する入り口を失ったということでもあります。だから、「あたし」は世界から逃れるようにしてホテルですごしているのです。
しかし、「あたし」には、マークとの日々の記憶が残っています。ホテルでの日々で、「あたし」は、マークという「世界に参加」する入り口を失っても、「世界に参加」しています。「あたし」は食事の愉しみ方を覚えているのだし、町並みのすばらしさを語る言葉を知っています。

本作のタイトルである10日間というのは、「あたし」がホテルですごした日数です。9日の悲しみのあと、10日目の朝、「あたし」は街を出る決心をしました。彼女は「マークの幸運を祈った。それから二人組だったかつてのあたしと、かつてのマークを深く悼」み、「はじめての恋とはじめての人生と、失われた真実のために」泣きます。
10日間かけて、「あたし」はマークとの日々についての意味づけをし、「二人組だったかつてのあたし」を埋葬し、新しい「あたし」を作り出し、新しい人生へと出発しました。

失うことが負の感情を伴うのは当然でしょう。特に、「あたし」が失ったものは「人生」であって、かなり大きなものでした。失ったものが大きければ大きいほど、その負の感情も大きくなりましょう。その負の感情とは、悲しみであったり、空虚感であったり、怒りであったりするのでしょう。失う前の愉しかったときのことを思い出し、失った今と比較してしまえば、惨めになることもあるでしょう。失ったことと向き合うことは簡単にはできません。本作では、恋で得られるもの、その大きさを描き、それに加えて、それが失われたときの深刻さを描いているといえます。
そして、作品はその喪失の内容にも触れています。その喪失は実際の関係が失われたものであって、記憶には残るのです。「あたし」は、マークとの日々で得た「世界に参加」する方法を、ホテルでそうしたように、新しい人生でも使っていくでしょう。そのようにして、失うと同時に、積み重なっていくものも確かにあることを本作は描いています。
しかし、失ったこと自体について、本作は十分に描けていないように思います。確かに「あたし」は「二人組だったかつてのあたし」を悼みます。それは過去にふんぎりをつけたということにはなりますが、新しい「あたし」は十分に形成されるまでいたっていません。「かつてのあたし」を悼むことは、マークとの関係の中で、失ったものと得たものが整理できたということであって、新しい「あたし」が形成され始めたことを示してはいます。しかし、10日目に「あたし」が決めたことは「この街をでる」ということだけであって、具体的にどこでどうするということはありません。
そこには結局、所属のない「あたし」がいます。もちろん、「あたし」の成長は描かれていますから、「あたし」はどこかで所属を見つけるでしょう。しかし、それは予感でしかありません。その方法まで描くようなことはしないのです。

とはいえ、文章が最初から最後までひとつの答えを与えるということは、読者の考えがそれ一つに絞られてしまう可能性を秘めています。それは、文章のとても危険な一面です。特に恋愛については、個々にその体験は異なりますから、それで失うもの得るものがそもそも異なるはずで、したがって、結論も個々に異なるはずです。あるいは好意的すぎる見方かもしれませんが、恋愛は日常的なことでありすぎるために、それが過度に一般化されないように、結論を避けたと考えることもできるかもしれません。
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by nino84 | 2008-08-19 22:52 | 読書メモ