本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『初心者のための「文学」』

『初心者のための「文学」』(大塚英志、角川文庫)を読みました。

小説をどのように読むかは当然ながら自由です。しかし、こと「文学」に限っては一定の読み方が必要だと考えます。それは「文学」が読者をしばしば誤った方向に導くからです。たとえば、「私」を誤った形で立ち上げることに加担したりするのです。
「文学」流されたり、それによって「私」や「世界」について間違えてはいけない。そのためには「文学」を疑いながら、「文学」を読むことが必要です。



ときどき小説ではなく、読書ガイドという類の本を読みたくなります。こういう本が読みたくなるのは、他の人がどうやって本を読んでいるかを知るためでもあるし、世間にどんな本があるのかを広く知るためであったりします。
以前読んだ『読書案内』(モーム)は、内容的に後者の比重が高い本でしたが、本書は前者の比重が高い本だろうと思います。ちなみにモームは『世界の十大小説』という本も著しています。読みたいと思ってはいるのですが、こちらはまだ読んだことがありません。小説を10冊なので、前者の比重が高いのかもしれませんね。

さて、本書は前述のとおり、「文学」の読み方を考える本です。前置きのとおり、読み方は自由なのですが、どうやって読んだらより楽しめるだろうか、と考えるガイドとして使えないだろうか、と思って読んでいました。
章ごとに「文学」作品を1冊あげて、その作品について著者なりの読み方を提案するという形式になっています。10章仕立てで、1章に一作品ずつ扱っています。各章では別々の著者の作品を扱っており、その著者の一作品をメインに扱ってはいるものの、その著者の経歴や思想の発展の仕方などを見ていく必要から、その著者の周辺の作品についての言及も所々にみられます。たとえば、第2章は太宰治の『女生徒』を扱っていますが、関連して『人間失格』などにも触れられているのです。本書は10章ありますから、全体として10人の作家を扱っていることになります。
そして、そうした10章が一冊の本になっています。根底では、一貫して時代背景を重視し、そのなかでの「文学」のありかたの変化や発展の仕方を追っているとみえました。特に、戦中/戦後という区切りを重視しその時代の中で「文学」のやってこれたこととその限界を考察しているようです。

本を書くということは、その一冊は一貫した思想でもって書くということでしょう。基本的に読み方は自由なのですから、それはそれです。しかし、そもそもそれを見落としてしまうと、結局、著者である大塚英志さんの読み方の枠組みがそのまま読者にコピーされるように思います。それは思考がロックされることであって、大塚さんがいっている「文学」の誤った読み方に陥るパターンでしょう。したがって、本書を読むにあたっても、著者の意図を意識しながら読むことが必要かな、と思ったりします。「文学」を読むための本を読むために気をつけなければいけないことがあるということになります。
とはいえ、この本には「基本的には読み方は自由」という前置きがある―多くの文学の場合にはそんな前置きはされていない―のですから、それだけ念頭にあればサッと読んでもよいのかもしれません。タイトルどおり初心者に向けて書かれたものですから、有名どころの作品がチョイスされていますので、少なくともモームの本を読むよりは、読みやすい本だと思います。
そもそも、モームの本はすでに書かれて時間が経っていますので、その時代背景を考えながら読む必要があります。その点、本書はここ数年で書かれたものですから、ガイド本の時代背景を考える手間がありません。このあたりは読みやすさの大きな要因だと思われます。

そして、時代背景を考えるという点は大塚さんもその重要性を指摘しています。それはつまり作品を書いた作家が生きた時代の情報です。作家はそれに影響されていない、といういうことはありえないと思えます。時代背景を考慮することは、すなわち、あるいは逆方向なのかもしれませんが、作家の経歴を考慮することにも通じます。
このあたりは個人的には当たり前だと思っている部分です。一時、海外古典ばかり読んでいた時期がありましたので、そのときからそうした意識は比較的高く持っているつもりです。(あくまで自己評価です。過去のブログ記事で評価していただくのが手っ取り早いかと思います。)
本書では、大塚さんは身近な転換点ということで、戦前/戦後という区切りをあげて、その重要性を扱っています。

また、そうした時代背景を重視することと共に、本書では、「文学」が描く「私」の変遷についても一貫してあつかっています。それは日本の「文学」が、それはどのようにしてあるものか、ということを重点的に扱ってきたから、ということも影響しているようです。
「文学」は芸術や学問と捉えることもできます。芸術や学問は積み重なってくるものです。すなわち、先達の成果を咀嚼し、発展させ少しずつ進んでいくものです。したがって、「私」というものがどのようにあるものか、ということについても漸進的に描き方が変化していっているはずです。作品ごとにどのようにそれに答えているか、ということが描かれている一方で、今後の課題と言うべきものも同時に表されているともいえます。著者はそれを作品ごとに指摘しています。
私はこれまで後者の点を意識することはあまりありませんでした。作品ごとに時代背景を気にすることはあっても、作品を意識的に時系列に並べていわゆる文壇の発展というかたちでなにかを読んだことはありません。前者はたとえば作品の後に作者の略歴などがついていることで比較的満たしやすいのですが、後者については作品を収録した本自体には、当たり前ですが、なんのガイドもない―「このころ○○と出会う」という形で作家同士が知り合いであるとか、同時代を生きたということは分かることがありますが―のですから、本当に自分の知識勝負になってしまう部分が大きいかと思います。この点は、体系的に本を読んでいく必要があるように思えます。乱読傾向のある私にはつらいことです。
とはいえ、ここでは、体系的にどうというよりも、「文学」には限界があるという点をこそ注目に値すると思いました。それは著作の批判ではありますが、批判がなければ問題が生まれず、意識の発展はあり得ません。ですから、この作品が何を描けていて、それを描けていながら、何を描けていないかを自分なりに判断することは必要でしょう。それは非常に難しいことではあるので、私はすべての作品でそれができるとは思いません。また、する必要もないでしょう。しかし、ある一定の視点がもてたとすれば、それを描けている程度は評価できるでしょう。こうしたことが、限界を評価する前提になります。それ自体が難しいことであったりするのかもしれません―実際、なにを意図したかといえない小説があるのも事実でしょうから―が、幸運にもそれができたならば、その次の段階も考えていきたいと思えました。
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by nino84 | 2008-08-24 23:48 | 読書メモ