本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「パーク・ライフ」

「パーク・ライフ」(吉田修一、『パーク・ライフ』文春文庫収録)を読みました。

いつも仕事の合間に訪れる日比谷公園。ぼくはそこで、地下鉄で思わず話しかけてしまった女性をみかけた。
彼女のことは名前も、何をしているかも知らない。それでもぼくはそこで彼女と会うのをどこかで楽しみにしていた。



長編小説は自重できているのに、その分、短編や中編小説を読む量が増えている、今日この頃。合間に読めるから、と買っているのにも関わらず、本気で読んでいることがしばしばあります。「時間はつくるもの」と知人に言われましたが、その通りなのでしょう。
こんなにブログを頻繁に更新している場合ではない気もしますが、半年溜まっていた読書熱が抑えられなくなっているようです。最後につじつまが合えば良いだろうと、だんだんタスクのハードルを下げている感がでているのが、個人的にはなんとかしたいところです。昔からそうなのですが、特に最近その傾向が強いような気がしています。

そんな私事はともかく、作品の話をしましょう。
本作は127回芥川賞受賞の中篇小説です。サラリーマンの「ぼく」の日常をさらっと書いている。そんな印象の作品ですが、そのなかの空気感はなかなか独特のものがありました。

舞台が日比谷公園というのはともかく、その文章の中に、スターバックスコーヒー、GAP、ビン・ラディン、「ニュースステーション」と、現代の固有名詞がこれほどでてくるのは珍しいかな、という印象です。そして、それが現実感を出しているように思います。
その一方で、「ぼく」と女の距離感、「ぼく」と公園にいる他の人との距離感とか、そうした部分には違和感を覚えました。違和感とはいいますが、それは現代ではあると思える距離のとり方であって、それをあらためて書かれると典型的な人と人の距離のとり方としては違和感があるということです。それが現代ということなのかもしれません。

「ぼく」は地下鉄で話しかけ、日比谷公園であった女の名前も仕事も知りません。それでも彼女と日比谷公園で話をするようになります。声をかけるまで、「ぼく」は彼女が以前から日比谷公園で休みを取っていることを知りませんでした。
「ぼく」は公園にいて、休んでいる人が自分のほかにもいることを見てはいるのですが、それが誰かということまでは見ていません。「ぼく」が夜の日比谷公園を訪れる場面がありますが、そこで彼は昼の日比谷公園にいる人の姿を想像することができず、ただ声だけを思い出していました。見ることは「意識しなくてはできない」作業で、だから「ぼく」は人の姿を思い描くことができません。
「ぼく」は音なしのニュース映像を眺めながら、「人間とはからだのことなのだ」と認識します。「ビン・ラディンの痩せたからだが、なにか悪さをするとは思えなかったし、健康的なブッシュのからだが、逆に何かを解決できるとも思えなかった」のです。僕は「言葉が思想を生んで、、生まれた思想で何かが起こっている」ように思えたのですが、音を消したときにそれは見えません。ただ、からだのみが見えたのです。「ぼく」は日比谷公園にいる人々の姿ではなく、声だけを認識していました。「ぼく」は人間をみておらず、その思想だけをみていることになります。
人は言葉でやり取りすることに慣れすぎて、現実にあるものを置き去りにしているのではないでしょうか。「ぼく」は、休日にからだを休めるのではなく、ことばを休める、といいます。それほどに言葉でやり取りしつづけることは、現代の人間のあり方です。しかし、生物としての人間としては、それは異様なことです。
ぼくが女に声をかけたのは、地下鉄の駅で日本臓器移植ネットワークの広告にある『死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意志です』という文句を目にしたからでした。「ぼく」は、それを「ぞっとする」といいます。しかし、「ぼく」が生きているのは、まるで言葉や思想、意志だけが生きているような社会です。「ぼく」はすでに「ぞっとする」ような社会に生きているのです。

からだは、この作品の中で度々描かれます。
「ぼく」は雑貨屋でペアの人体模型を見つけます。その片方の体が閉じて陳列されているのを見て、中に何もないように感じます。公園の女とのやりとりのなかで、クライオライフという会社の話題が出ます。その会社は人の善意で提供された臓器を加工し、商品として売っていることが話されます。それを聞いた「ぼく」は自分のからだを、借り物みたいに感じます。ジムで体を鍛えながらも、それに目的があるわけではありません。
このように作中、様々にからだは描かれます。しかし、いずれにも「ぼく」は現実感を持てません。

現代は、「人間とはからだ」であるはずなのに、それを感じられない社会なのです。その代わりに、人間とはことばになっています。
「ぼく」と女の関係も言葉から始まりました。しかし、互いに名前も仕事も聞きません。ただ目の前にいる人と対等に対面するとき、肩書きは邪魔になります。そうしたことを聞かないのは、ことばでラベリングすることを避けているように見えます。
また、無駄な話もしません。「この辺で働いているんですか?」と女に聞けば、「ほんとに知りたい?」と言われてしまいます。人は、間を持たせるために、なにげなくことばを発します。それはことばの浪費です。女はそのように思っているでしょうし、「ぼく」も、休日には言葉を休めるのですから、同じように思っていたはずです。しかし、「ぼく」は女と出会っても、ことばの浪費をやめられません。それほどに、ことばを使って生活することが自然なことになっているのです。
ことばを多用しないことは、現代の人の関係の持ち方としては、特異なものです。それが微妙な距離感として見えるのかもしれません。

からだに対する無関心とことばの多用、それが現代社会の特徴だといえましょう。小難しいことばによって動いているのが、現代社会であり、そのなかにある人間関係です。

そうした微妙な距離感のままに、「ぼく」は女に誘われて写真展にいきます。その写真展は女の田舎を写したもので、「ぼく」はたまたま別の機会にその街のことを知っていました。そんな写真展を見た帰り、女が「よし。……私ね、決めた」とつぶやき、その内容を伝えぬまま、それぞれの仕事にもどるところで、物語はおわっています。
彼女は何を決めたのか。この際、その内容は考えません。しかし、「ぼく」はこのことばを彼女と別れてから、心の中で反芻し、「自分まで、今、何かを決めたような」気がしています。ことばを多用し、浪費している社会の中でも、ことばというのはやはり大切なものなのでしょう。「よし。……私ね、決めた」という短いことばで、「ぼく」は彼女と通じ合えたような感覚を持っています。それはことばの可能性であって、ことばのもつ力です。
「ぼく」が知る夫婦は、一緒にいたいから気を遣って、無言で部屋から部屋へ逃げるように移動します。そこにはことばはありません。以心伝心できれば、それでもいいのでしょうが、作中でその夫婦は別居状態にあります。やはり、ことばがなければ、分かり合えないのです。
ことばは多用され、浪費されてはいますが、やはり人間にとて必要なものなのです。人の姿がみえにくくなった現代の中で、ことばの力は救いになると思えます。
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by nino84 | 2008-08-26 23:40 | 読書メモ