本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30

「flowers」

「flowers」(吉田修一、『パーク・ライフ』文春文庫収録)を読みました。

僕は妻の鞠子の提案で、九州の田舎から東京にでてきた。
東京で見つけた仕事場で、僕は望月元旦と出会った。初めて会った時、僕は一目で彼に吸いよせられた。四つ年上の従兄、幸之介を思わせたのだ。
僕はそんな彼と一緒に、飲料水の配送をしている。毎日毎日同じルートで。



前回に引き続き、『パーク・ライフ』の収録作品です。こうして書き始めた段階でいまだに消化できてない部分がありますが、徒然に書いていくことにします。

さて、本作の主人公「僕」は、妻の鞠子が東京で喜劇役者になりたいということで、それに付き合って上京してきます。
それまで、「僕」は、九州の叔父の下で、幼い頃から一緒に育った従兄と共に、墓石専門の石材店を手伝っていました。その仕事は毎日、墓地に墓石を設置するというものです。それはルーティンのような仕事で、感情が入るような余地はあまりありません。墓石を設置し、手を合わせてそこを去るのです。東京での「僕」の仕事も同じようなものでした。毎日、飲料水を指定されたところへ配送する。同じルートを廻る仕事。共に仕事をしている元旦は、「同じルートを廻っていると、ふっと外へ飛ばされるような気」がするといっています。一方、「僕」は仕事に、「地球を回っている人工衛星が、ふっと力を抜き、「いち抜けたぁ」なんて言いながら、地球の引力から外れ宇宙の彼方へ飛んでいく」ようなイメージを持つことがあるようです。

「僕」が東京に出てきたのは、鞠子に推されたから、ということでした。それを承諾したのは、「どしゃぶりの墓地を歩き回りながら、無意識に花のない墓を捜し」、「ぬかるんだ足元で泥が跳ねた」その時でした。そのときまで、「僕」は地元を離れること、墓石の運搬から解放される自分がピンとこなかったようです。しかし、「僕」は、突然に東京にいってみようと思うのです。
「僕」の祖母は「この世にある花の数だけ、人には感情がある」といいます。「僕」が石材店の手伝いでいく墓地には、色とりどりの様々な花がいけてありました。そして、ふと気づくと、花のない墓石はありません。そこには亡くなった人に対するさまざまな感情があります。一方で、「僕」はそんな場所にいながら、日々をルーティンで過ごしています。東京に行くという選択は、そのルーティンから抜けでるための最も容易な方法でした。鞠子が言っているのですから、「僕」は今の生活に不満があると言わなくとも、鞠子に付き合う、というもっともらしい言い訳ができるのです。
それで、東京に来て、しかし、そこでもやはり「僕」はルーティンの仕事に陥ってしまいます。

「僕」は、「鞠子といると、ときどきふっと力が抜ける」といっていますが、それは鞠子が突然喜劇役者を目指すような突飛な行動をする女性で、ルーティンにはまらない生活をしているからでしょう。「僕」はそれに憧れているといってもいいかもしれません。しかし、それでも「僕」はそこまで自由になれない、という気持ちがどこかにあるのでしょう。家族のしがらみや、仕事場の人間関係、そんなことをずっと気にしていれば、つかれてしまいます。仕事をルーティンにしてしまった方が、考えることが少なく、普段は楽なことが多いのですから。
とはいえ、そうしたなかで、ふと感じる人工衛星がどこかへ飛んでいってしまうようなイメージは、ルーティンにしてしまうからこそ生まれてくるものでしょう。それを満たすために、「僕」は鞠子と一緒にいるように思います。

しかし、東京での鞠子との二人暮しが長くなると、鞠子の自由さがめにつくようになります。劇団の仲間と夜遅くまで飲み明かし、帰ってくる彼女。ゲリラ的に各地で演劇をしている彼女。また、鞠子は「僕」にも変化を求めるようになります。「重い荷物を置き、軽い跳躍で飛びまわれ」と。しかし、それは「僕」には自由すぎるのです。「僕」はそれを怖がります。

「僕」は自由になりたいという感情と、安定していたいという感情の間でゆれています。鞠子にあわせた生活はそれは自由すぎ、仕事だけでは重すぎるのです。

ところで、元旦は、仕事をしながらも自分で自由に生活している人です。毎日同じと頃を廻る仕事をしながら、家は大きな家に間借りしていて、同僚の奥さんと不倫状態にあるのです。そしてそれはやはり「僕」には自由すぎるのです。
鞠子は「僕」が語る元旦の姿を「二重人格」と評します。ここで「僕」は、「いい人といい人の二重人格ってあるのかな?」とふと疑問を呈します。「僕」にとって、元旦は、いい人と悪い人の二重人格として捉えられていると考えられます。元旦では自由すぎるけれども、しかし、「僕」としては、それに近い形で、もっとおさまりのいい形で、自由と安定を両立していきたいのでしょう。

この作品は、「僕」が上京してきて数年後、元旦が仕事をやめてから2年後の場面で終わります。
元旦は、会社の上司がシャワー室に怒鳴り込んできて、伝票の記入ミス同僚に向けて「土下座して謝れ」といってきた際に、「あなたが土下座しないと俺ら帰れないらしい」と軽く言います。早く土下座しろ、ともいって、自分がサッと土下座をします。同僚の感情をなんら考慮しないその振る舞いは、「僕」にとって許せないものでした。「僕」は衝動的に土下座している彼を蹴ります。それを契機に周りにいた同僚たちも、元旦を踏みつけました。結局、元旦は「やめてくれ」と懇願し、その場は落ち着きを取り戻します。
「僕」は、その場面に裂けた天上から次々に落ちてくる花びらを見ます。あふれ出てくる僕の感情、同僚たちのあふれ出てくる感情、そんなものを感じていたのでしょう。
そんなことがあって、しばらくして元旦は何も言わずに、仕事をやめました。
それから後、元旦からは年賀状が届きます。「僕」は、お互いにあまり干渉しなくなりながらも、あいかわらず鞠子と生活しています。結局、ルーティンのような生活をしているのですが、「僕」は、元旦の一件で、自分の中に強い感情が眠っているのを知りました。それは人を壊すほどのものかと思われましたが、元旦は年賀状が届くほどに元気にやっているようです。
「僕」はそれを知りながらルーティンに戻ります。自分に強い感情が眠っているのを知っているのと、知らないままでいるのでは、現在の生活のおとしどころが変わってきます。つまり、「僕」は、それまでどのようにルーティンを崩していくかばかりを考えていたのですが、感情を制限していく生き方もまた正しいということになります。そうでなければ、人を省みず、恐ろしい結果が待っているかもしれないのですから。


結局、オチを無難なところに落とし込んだ気がして仕方ないのですが、どうしたものでしょう。
仕事をしている多くの人はルーティンで動いていて、それに納得していない人が多い、というのが印象なのでしょうか。そうすれば、自由だといっても、それも危ないんだ、と言うことになるのかもしれませんが…。
[PR]
by nino84 | 2008-08-28 10:57 | 読書メモ