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本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「お伽草紙」(舌切雀)

「舌切雀」

「お伽草紙」(太宰治)も最後の収録作品となりました。最後は「舌切雀」です。

太宰は、雀を大事にする爺さんを大金持ちの三男坊で、虚弱な、いつも何のためにか勉強している男としました。そして、その妻はもともとこの爺さんの身の回りの世話をしていた召使としています。爺さんはなにもしないのだから、小言を言われて当然。一方の婆さんはむしろ同情すべき点も多い人物となりましょう。

とはいえ、爺さんの視点から見れば、婆さんは意地悪に変わりはないわけで、そのため、物語の展開は広く知られた昔話同様に展開します。
日々何もすることもない爺さんの部屋から、若い女の声―雀の声ですが―がする。しかも、自分と話すときとは爺さんの声のトーンがまるで違う。婆さんも女ですから、それを気にすることはありましょう。しかも、遊んで暮らしているくせに、という苛立ちもあるのです。爺さんは婆さんはもともと召使であるのだし、一緒にいてくれるものだと思っているから、婆さんを女として見る意識は低い。その結果、雀がもとで夫婦喧嘩をするわけです。

雀のお宿を探して竹やぶを歩き回る爺さんは、女に会いたいのであって、つづらに入ったお土産などどうだっていいのです。しかし、それでは婆さんは、爺さんは女に会いに行っただけ、という事実を突きつけられるに過ぎません。それで婆さんはやけになって、そして大きなつづらをもってきて亡くなります。
その婆さんが残してくれたつづらには、金貨が一杯つまっており、爺さんはその「金貨のおかげかどうか」、のち間もなく仕官して宰相にまでなったというのです。そして、爺さんがその地位まで登ったことについてというところで物語が終わります。

実際、爺さんは何もしておらず、ただ日々を勉学にくらし、雀がきたらその雀を恋しく思いと、なにをするでもないのです。彼に生活能力はありません。婆さんがその部分を全て支えていたのに、それを当然と思って暮らしているわけです。
夫婦喧嘩をし、最終的に婆さんが死んだ際、彼がなにを思ったかは著されていません。しかし、身の回りの世話をする人がいないのですから、彼は困ったはずです。働いていないのですから、本来お金だってなかったのです。しかし、それは婆さんがその命と引き換えに老いていってくれました。そのお金で、召使をまた雇うことはできるでしょう。婆さんは、死んでも爺さんの身の回りの世話をしていると考えることはできるわけです。
爺さんは独りになったら婆さんがやっていたことも自分でやるしかなくなって、婆さんの苦労も知ることになったでしょう。そこで宰相という地位が、ひいては生活が、「女房のおかげです」という言葉が出てきこそすれ、雀のおかげなどとはいえないでしょう。

そばにいることが当然で、やってくれるのが当然。そんな状況に慣れてしまうと、感謝の念は薄れてきて、どれだけ支えられているかを気づかなくなってしまいます。別れて分かる、大切さ。そんな夫婦関係のお話でしょうか。


さて、ここまで4回にわたって、「お伽草紙」の感想を書いてきました。ここであらためてまとめをしておこうと思います。
太宰は「瘤取り」、「浦島さん」、「カチカチ山」、「舌切雀」この4作を一つの作品としました。もちろん、形式的な話で、昔話を改変した話だから、まとめてあるということはできます。ただ、本作には、前書きとして、防空壕内で、小さな娘に向かって父が昔話を話し始めるという場面が描かれています。形式でまとめるだけならば、防空壕内で、という設定はいらないように思われます。戦時中に、このような話をしているということに意味があるのでしょうか。

戦争中は、すべての人が生きることに必死になって、それゆえ芸術というものは衰えていく時代でしょう。芸術は余裕のある時代に広く敷衍するものであって、戦時中という極限状態で、それを受け容れる余裕のある人は多くないでしょう。そういう時代にあって、太宰は昔話を題材にした作品を、しかも子どもに聞かせるという形で表します。
大衆に読みやすい作品として、この作品はかかれたように思われます。深く内省を強いるような作品は、読むだけでエネルギーを使います。しかし、戦時中は、そこにエネルギーを使える時代ではないのです。したがって、少しでも導入はやさしく、それでいて太宰自身は芸術家ですから、自分の描きたいものを描ける。そんな題材として昔話が選ばれ、さらに子どもに読み聞かせられるくらいのものなのだと、前置きすることで、またハードルを下げているといえます。ただし、実際の話の内容はおそらく、子どもには意味がわからないでしょう。やはり作品としては大人向けなのです。

「瘤取り」は、世間の不満をうけとめる作品といえます。誰も悪くないのに、だれかが不幸になってだれかが幸福をつかむ。世間とはそういうものだ、という達観した視点を与えてくれます。戦争という状況に対する、気休めにはなるのではないでしょうか。
「浦島さん」では、時間が人間の救いであるといいます。戦争の傷もいつか時がそれを癒してくれる、といっているともとれます。
「カチカチ山」や「舌切雀」は、そもそも恋愛関係の話ですから、かなりエンターテイメントに振れている作品でもあるように思います。それにしても、戦争中のこうした男女の人間関係は、どうなっていたのでしょうね。そのあたりの想像が全くつかない部分で、本当にエンターテイメントとして描いているのかもしれないと思ったりしました。どの作品も普遍性があるので、遡って、戦時中にかかれているということ自体に意味を見出すのは困難なのですが、このようなところでしょうか。

そもそも、太宰の作品で、戦争について言及される作品にであったことがなかったので、わざわざ書いてあるところで、少し違和感を覚えました。そこからの連想ですから、実際のところは、どのように受け取られたかわかりませんが、なんとなく気にはなるところです。
by nino84 | 2008-09-16 09:26 | 読書メモ