本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『地下室の手記』

『地下室の手記』(ドストエフスキー、新潮文庫)を読みました。

ぼくは病んだ人間だ…。こうしてぺテルブルグの端の地下室に閉じこもって、生活している。ぼくは虫けらにもなれなかった人間だ。《すべての美にして崇高なるもの》を意識すればするだけ、ぼくは見苦しい行為をすることになって、いまではその行為をさえ居直ることができる。


読んでしばらく放置していると、内容がどんどん抜けていきます。読み終わった瞬間にもあまり理解できなかったものを、こうして時間をおいて咀嚼しようとするのは、やはり難しいように感じます。とはいえ、なにはともあれ、『読んだ』という記録のためにも感想を書いておくことにします。

さて、本作は久しぶりのロシア文学。ドストエフスキーです。
主人公は地下室に引きこもっている40歳の男です。元役人で、親戚の遺産が手に入ったことでそれを元手に引きこもりをしています。仕事も勉強もしていないし、働く意志もない、現代でいうところのニートですね。
感想を書くためにさらさらと読み返していたら、序盤と最終盤は、理性的すぎる、合理主義的な生き方を否定して、もっと感情に焦点を当てた生き方をしようといっているようです。しかし、中盤はどうしても、いまの引きこもりの心性―ステレオタイプで言い過ぎなのかもしませんが―にしか読めずにいました。一読すると、中盤が一番ながいですから、その部分の印象が強く残り、結果としていわゆるひきこもりの私小説という印象を強く感じました。
まとめに掛かった段階で、なんとか作品の方向付けをした、というように感じました。「手記」なので、つらつらと書いてあり、当初書こうとしたことが「ぼく」のなかで膨らんでいき、脱線していき…という形になっているのでしょうか。読ませる作品ではなく、「手記」としてあくまで自分の考えていることを順に文字にしているという様子はよくでている、といえるのかもしれません。もちろん、単純に僕の理解が追いついていないという可能性もあるのですが、それは実も蓋もない言い訳なので、以上のことは僕のレベルで読めたこと、ということになります。もっと実は突き詰めて考えているのかもしれません。
「ぼく」は自分で考えを深めていくことができる人のようですから、それがいいように出ればかなりまとまった思想になるのでしょう。ただ、このように「手記」という形では脱線し、逆説に逆説をかさねて、というような展開になり、僕としては、特に第一部は、読みにくくて仕方ありませんでした。

「もし人間を啓蒙して正しい真の利益に目を開いてやれば、汚らわしい行為など即座に止めて、善良で高潔な存在になるにちがいない。なぜなら、啓蒙されて自分の真の利益を自覚したものは、かならずや善のなかに自分の利益を見出すだろうし、また人間だれしも、みすみす自分の利益に反する行為をするはずもないから、当然の帰結として、いわば必然的に善を行うようになる、だと?ああ、子供だましはよしてくれ!…人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、…彼らにはこの強情とわがままこそが、どんな利益にもまして、ほんとうの意味で快適だったのではないだろうか…だいたい利益とは何だ?いったい人間の利益とやらは、完全に正確に計量されているのだろうか?」(p32-)
「強情とわがまま」で行動することがあるのが、人間であって、その行動は合理主義では計算できないんだ、ということ。結局のところ、こうしたことが訴えたかった、ように思います。ただ、本文を読んでみるとより分かると思うのですが、だらだらと文章が続くので、言いたいことの焦点がだんだんぼやけていくように感じられました。
前半は引用部のような抽象的な独白形式の文章ですが、第二部はある出来事について具体的に描かれています。後半は具体性が増すため、とても読みやすくなっています。ただ、具体的になると、読者側にいろいろなことを考える余地があるために、引きこもりの心性が目立って読めてしまいました。最終盤にまとめがなければ、僕の中でテーマが扱われず、流れてしまっていたと思います。

ところで、テーマはテーマとしてあるのは、いいのですが、やはり読めてしまったので、印象としての「引きこもりの小説」について書いておこうと思います。
「ぼくは病んだ人間だ…」と始まるように、「ぼく」は終始、自分に自信がもてません。それは自分が、一般的に人間が善とか利益とか思う行為ではないところで、利益を感じていたりするからであって、また、なにごとについても深く考えすぎてしまうからです。「ぼく」は、他者からの目が気になり、そのために、自分が世間とずれていることを表現することもできず、ただ自分のなかで鬱々としてい過ごしていくしかないのです。
社会で生きていくためには、社会の流れに沿った行動、すなわち理性的で合理的な行動、をとる必要がおおきくなります。しかし、実際には、すべてをそのようにする必要はない。人はその上バランスをとって生きています。しかし、理性的で合理的な行動をしなければならない、というように考えてしまうと、とたんに社会で行動することが苦しくなります。自分の感情に嘘をついて行動しつづけることは、やはり苦しいことで、それがずっとできるわけがないでしょう。しかし、「ぼく」はそうしようと努力してきたのです。
街ですれ違う将校を避けずに肩をぶつけてみる、教科書的なことをいって説得した娼婦に自分の本音をぶつけてみる。第二部のエピソードは「ぼく」が頑張って、理性的で合理的な行動を外れようとするものです。
「ぼく」はしがない役人ですから、将校とすれ違うときには、「避けなければならない」のです。しかし、それをしない。また、娼婦は自分の体を、愛を売るということで、それは人として「やめなければいけない」し、「娘のために説得しなければならない」のです。しかし、それをしたのは「自分の自尊心を高めるために説得した」のだと正直にうちあけたりするのです。
社会の中で上手く自分を出して生活しようと模索してみたものの、結局、それらが苦しいことだったので、また「ぼく」は社会から離れ、引きこもります。僕が「ひきこもりの小説」と読めたのは、結局、「ぼく」がいろいろ考えた挙句に、社会に出る方法を模索することを止めて、社会との交渉を絶つという選択をした彼の一連の思考の仕方が―ステレオタイプすぎるのは分かっていますが―、あまりにも引きこもりっぽかったからです。
個人的には、人はそんなに他人のこと気にしないと思います。「ぼく」は、よくいえば敏感、悪くいえば自意識が過剰なのでしょう。読んでいてそんな気がしました。
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by nino84 | 2008-11-23 02:47 | 読書メモ