本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「死者の奢り」

「死者の奢り」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫)を読みました。

医学部の死体処理室。僕は女子大生と管理人に説明を受け、死体処理の作業を始めた。アルコール水槽に浮かぶ死者たちは、完全な《物》の緊密さ、独立した感じを持っていた。その作業中、女子大生が突如として腹痛を訴える。彼女は妊娠しているらしい。彼女を休ませ、管理人と二人で作業をしていたが、作業が無駄だと指摘される。バイト代はでないかもしれない。


三崎亜記さんの『バスジャック』は一段落ということで、別の積ん読状態だった本を片づけようと思います。これも半月前に読み終わった本なので、すでに忘れかけている部分がありますが、なんとか思い出してみます。

さて、本作はノーベル文学賞受賞者、大江健三郎さんの作品です。文学部の学生である「僕」を主人公として、人間の《物》としての一面を描こうとしているのだと思えます。
人間はもちろん骨があり、肉がある物です。しかし、意識があり、動いていることで壁や窓とは違うのです。しかし、「僕」が見ている死者は、意識がありません。ただそこにある、しかもアルコール溶液につかり決して腐らない、死者。それは完全に物として存在します。
死者は竹竿で引き寄せられ、台車に乗せられ運ばれ、別の水槽に移されます。一方的に移動させられ、その作業が間違いだとされれば、すぐに別のところへ移動させられます。管理人の関心は死者の体ではなく、その作業の間違いの責任を逃れることです。また、「僕」にしても最終的にバイト代がでるか否かが最大の関心事となります。死者は決して人としては扱われません。作業している間は、死者は確実に物として扱われています。
また、「僕」らが作業の手を止め、管理人がある死者の思い出話を始めると、その死者はその瞬間からものを言いはじめます。「僕」はその死者の銃創に彼の歴史を感じ、個性を感じ、彼の生きている瞬間を想像するのです。その瞬間は、死者は物ではなく、人だったのでしょうか?
畢竟、それは永遠に存在する物であるといえるように思います。大江さんが人の意識をどう考えたのか、それを考えればいいのでしょうか。意識が変化することこそが生きているということであれば、ものを言いはじめた死者はやはり物です。結局、同じことを訴え続ける、機械のような物なのでしょう。
「死は《物》」です。しかし、それは進行していくものです。「僕」が死んだばかりの女の死者にセクスを感じたように、死んだばかりの弾力のある肌は、まだ完全には物としての性質だけを持つには至っていません。そして、火葬は死が《物》になる前に、それを処理する行為です。物として存在してしまえば、死者の生前の思い出に関わらず、それは尊厳をなくしていくでしょう。そこらに転がっていれば、それは生前の思い出を訴え続けるのに、次第に邪魔な物と扱われていくでしょう。火葬はそれを防ぐ行為なのです。あの人はよかったと言えるための行為なのです。ただし、その行為にしたって、すぐにしてしまわなければ意味がないのです。一旦、物として成立してしまった死者は、物語の終わりに、ただ処理するために火葬されるのです。思い出を人の意識のみに残すためではなく、ただ可燃ゴミと同様に処理されるのです。

人というのは、意識があってこそ、人なんだ、と改めて感じさせてくれる作品でした。グロいのかと思いきや、以外とさらっと読めたような気がしています。それは大量に出てくる死者がただの物だからですね、たぶん。
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by nino84 | 2008-12-19 23:00 | 読書メモ