本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「他人の足」

「他人の足」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

脊椎カリエス療養所の未成年者病棟。僕らは壁の中で、充実して、陽気に、快楽的に生きていた。ある日、そこに文学部にいたという学生が入院してきた。彼は病棟内の様子を見、尊厳をとりもどすために、といって患者を集めて啓発活動を始める。しかし、彼自身は、足は直らないとの宣告を受け、その活動の意義を見失っていく。

さて、昨日に引き続き、大江健三郎さんの作品です。
今回の主人公は、脊椎カリエスを患い、療養所で暮らす青年です。彼は自分の足が治らないことを自覚し、外部の人間と同じように生活することを目指さず、壁の中で同じ病を患う仲間と、看護婦との生活をしていました。自分で用を足すこともできず、自分の欲望の処理もできません。自分で動くことのできない生活をしています。
そんな生活をしていた者たちのもとに、一人の男がやってきます。その男は入院当初、まだその足が治る可能性があり、したがって「僕」らとは決定的に異なる存在です。彼は「文学部にいた」と自己紹介し、外部に所属していたことを示します。彼は閉じられた世界に外部から入ってきた異分子なのです。
とはいえ、これまでの例からいえば、その外部性は次第に失われ、そのうちに完全に「僕ら」の仲間入りをするはずでした。しかし、彼はあくまで外部とのつながりを保とうとします。「尊厳をたもつ」ため、外部に対して意見をいうことを主張し、「僕」の仲間たちに啓発活動を始めます。そしてそれは確かに「僕」の仲間たちの尊厳を取り戻すことに成功したのです。
しかし、それでも学生と同室である「僕」はその活動には参加しません。あくまでその活動を冷ややかに眺めているのでした。そんな「僕」に学生は、「僕の両脚はやはりもういけないらしい」と弱音を吐きます。学生はその瞬間、外部とのつながりの意味を見失います。そんな中、学生らの活動は、実際に新聞に彼らの意見を掲載させることまでの成功をするのです。それで、学生は「僕」の仲間たちにその成果を共有することで、尊厳を持ち直し、最終的に、彼は立ち上がることに成功します。
学生は自分の脚で立ち上がった結果、「僕」らとは違う人間であることが明らかになってしまいます。「僕」の仲間たちは自分たちの誇るべき仲間として学生を認識する一方、学生は「僕」の仲間たちをもはや仲間、同類とは見なしません。彼らはここにきて決定的に違うものになってしままいます。そして、学生が退院したのち、「僕」らはまた外部と閉ざされた生活を取り戻していくのでした。

結局、全部説明してしまいました。読んでからずいぶん時間がたってしまったため、斜め読みしながら、記憶を呼び起こしていました。
さて、本題はここからです。では、本作のテーマはなんでしょうか。キーワードは外部、仲間といったことがあるのだと思えます。個人的には、やはり本作も人間の存在について描いているように思えます。
学生が「僕」らと仲間であるためには脚が不自由である必要がありました。また、学生は大学という別の所属があることで、外部ともつながっています。そのために、彼は「僕」の仲間たちを外部へと連れ出すことができました。しかし、脚が治らないという外部とのつながりを断ち切る事件があれば、彼は内部にだけいることを容認しようとします。ただし、実際にはこのタイミングで新聞に記事が載るという外部とのつながりが生まれたために、学生は尊厳を失わずにすみました。そして、物語の終わり、学生は脚が治ったことで、内部とのつながりがなくなります。結局、彼はそこで完全に外部の人間になってしまうのでした。そのとき、学生の名前が作中で初めてよばれ、かれは完全に「僕」らとは別の者になります。(ちなみに、「僕」らは作中、固有名詞では描かれず、性別や行動による特徴といったことで区別されています。)
人間はなにかしらのもので、人と人のつながりを成立させられます。人間は社会的な存在ではありますが、社会的な所属のみでつながっているのではなく、個の特性そのものによってつながってもいられます。むしろ、「僕」らのつながりの強さや、最後の学生の態度から言えば、個の特徴のほうが強いといっているように思えます。
そうでありながら、人間は何かしら、つながっていないと生きていけません。「僕」は学生が仲間を外の世界とつなげてしまうことで、自分が孤立していくのをとても恐れます。こうした面からも、逆説的に、人間は人と人のつながりの間で生きていることを再認識させられます。


人間はなんらかの形で、つながっていないと生きていけないのはそうでしょう。そして身体的特徴によっても心理的につながるのもそうだと思えます。
とはいえ、『蟹工船』でもそうでしたが、集団は固有名詞で呼ばれることはありません。そうした集団は次第に集団としてもの扱いされていくように思います。それを個まで、一人の人にまで引き上げるのは、結局、なんだろうか?身体的特徴によるラベリングは差別の温床でもあるのだろうし…。だんだんまとまらなくなってきました。人のつながり方というのは、難しいですね。

すいません。ごまかしです。論が拡散してしまったのは初めてかもしれないですね。嗚呼。
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by nino84 | 2008-12-20 22:49 | 読書メモ