僕の本棚
2011-09-22T08:22:03+09:00
nino84
本の感想などをつらつらと。
Excite Blog
『くまのプーさん』
http://nino84.exblog.jp/16587283/
2011-09-22T07:53:28+09:00
2011-09-22T08:22:03+09:00
2011-09-22T08:22:03+09:00
nino84
視聴メモ
イーヨウのシッポがなくなった⁉なくなったイーヨウのシッポを探して、100エーカーの森は大騒動。
ディズニー久しぶりのセル画風アニメ。やはり、こういうタッチの作品のほうが、落ち着く。最近のディズニー、ピクサーはじめ、海外の劇場アニメは、CG然とした作品が多く、入り込めない感じを受けることもあった。しかし、この作品は、絵のタッチとその内容の調和が取れており、好感がもてた。
さて、作品の筋は特にないようなもので、イーヨウのシッポを探すだけ。しかも、見つからないから、と早々に代わりを探しはじめる始末。そもそもシッポをなくすということが、そのままなんの違和感もなく受け入れられているという世界観が、またどこか牧歌的ですらある。
絵本を読み進めるように話が進みますが、地の文を読むナレーターとプーが会話したり、地の文通りに動かなかったり、果ては段落のうえを歩いて行ったり、絵本の中でキャラクターがマイペースに動き回る。
本の中で、キャラクターが生き生きと動き回る様は、本当に小気味良い。またその動きひとつひとつが可愛いので、先ほど指摘した絵のタッチとも相待って、筋書きではなく、そのキャラクターが動くのを楽しむ、という作品でした。
アニメが珍しくないこの時代に、キャラクターが動くのが、しゃべるのが楽しくて仕方ない、そんなアニメを観られて、驚いた。また、そんなアニメとしてこの作品をみられた自分にも驚いた。]]>
『図書館戦争1』
http://nino84.exblog.jp/16561065/
2011-09-15T18:20:26+09:00
2011-09-16T08:13:05+09:00
2011-09-16T08:13:04+09:00
nino84
読書メモ
正化31年、メディア良化法によって、出版された図書が厳しく検閲され、回収される時代。図書館の自由に関する法律に基づきそれに抵抗する図書館。両者の対立は、武装しての構想さえも厭わず、図書館は図書隊という部隊を持つに至る。笠原郁は、かつて助けられた図書隊員の影を追って、女子としては異例の、図書隊防衛員に志願。メディア良化隊から、図書を守ることを目指す。
アニメ化もされたシリーズ第1作。表現の自由を取り扱った作品ではあるものの、コミカルなノリ(著者の有川さん曰く、月9ノリでGO)も合間って、読みやすかったな、と思います。
大きな構図は、表現の自由を守る図書隊VSそれを認めまいとするメディア良化隊。そのため、表現の自由について作中で論じよう、という話になるのかな、とも思いましたが、今のところ、大上段にそれを振りかざす、ということはない様子。あくまで、人間関係描写が中心でした。
そもそも、主人公を対立の構図の片側に持ってきているので、描写は偏らざるを得ない。したがって、この作品の構図自体が、それを中立的に論じる、ということを難しくしている面はあるように思います。
また、対立自体がすでに落としどころにあって、現状が停滞している状況も、その議論を進めるという方向性を想像しにくくしていると思います。
ただし、舞台が安定して存在しているだけに、背景としてのこの設定は十分に活かされていると思います。法律に基づき図書館で戦争、というのが、ファンタジーに振り切れることなく、かと言って自衛隊ほどの堅苦しさも抱かせない、バランスになっています。
結果として、この作品の読み方としては、人間関係や、人そのものを中心に据えて、キャラクター小説として楽しむ、というスタンスで読ませていただきました。シリーズものですが、この巻を読み終えた段階では、恋愛小説としての続きが大変に気になる、というところですね。]]>
『インセプション』
http://nino84.exblog.jp/16509003/
2011-09-04T11:20:23+09:00
2011-09-04T17:36:35+09:00
2011-09-04T17:36:35+09:00
nino84
視聴メモ
タイトルのインセプションとは、「植え付け」という意味です。
レオナルド•ディカプリオ演じる主人公、コブが、仲間とともに、渡辺謙演じるサイトーの依頼で、ある人物に、あるアイデアのインセプションを試みる、というのが大筋ですね。
サイトーには、夢であっても、アイデアは現実に持ちかえられるので、夢で、インセプションして、現実に影響を与えよう(ライバル会社の切り崩し)、という意図があります。
冒頭は、インセプションの計画を立てることで、この映画のルールを説明してくれるので、比較的理解はしやすいのではないかと思いました。
あの、最後の結末の解釈は観た人に任せます、というのを、どうとるか、というのはあるとは思いますが…。
個人的には、主人公コブが、(自分なりの)現実を生きられるようになること(自己一致)、が大きなテーマと捉えました。これがテーマであれば、最後が夢か現実かなんてことは関係なくなるので。
妻モルは、どこも現実だと思えなり、コブの前から消えましたが、コブは妻が消えたということを現実として、生きています。それでもそれを認められないというコブは、現実自己(モルは死んでいる)と理想自己(モルは生きている)が、相反している。
コブは一度モルは死んでいるということを現実と認識していますから、それは変えられない(アイデアは成長する)。だから、モルが生きている、ということを納得できることが自己一致には必要です。
「アリアドネという設計士の助けを借りながら、自己一致できました」というのが、結論であれば、投げっぱなしではない。
モルはどこも現実と思えなくなる、という残念な結末を迎えてしまったのですが、「本人が現実と思ったところが現実」という、別の落としどころもある。ただ、それは結果として、視聴者である僕らが生きている世界をも現実かどうかを疑わせかねない結論ではあるが。
そう考えると、最初の悲劇は、モルへの誤ったインセプションか。
モルとコブが、全く同じ現実(夢)を生きていればよかったが、それは無理だ。素朴に考え方が全く同じ人間なんてありえない(独りよがりでなく、健全な思考伝播がない限り)。そういう意味では、インセプションの仕方として、2人が同じことを考えている、というアイデアがもてれば、それぞれの夢の中で、それを現実として生きられたのか?
ただ、コブはモル以外の人間たち(子どもなど)を大切に思っていた訳で、結局、コブがそうしたことを試みるためには、自己のスプリットが必要だったのかもしれない。
これは踏み込みすぎかもしれないが、人がわかり合うことの難しさまで、示唆しているようにも思える(コブが自分の脆さを仲間に開示できないように)。]]>
『ウォーリー』
http://nino84.exblog.jp/12261198/
2009-11-05T21:39:09+09:00
2009-11-05T21:39:05+09:00
2009-11-05T21:39:05+09:00
nino84
視聴メモ
ゴミが溢れかえり,緑のなくなった地球.そこには人の姿はすでになく,あるのは自立稼動で働き続ける掃除ロボットと,生命力旺盛なゴキブリだけ.掃除ロボット,ウォーリーは,指令のままにいつ終わるともしれない指令―地球の掃除だ―をし続けている.
そんなある日,彼の掃除をする地区付近に一機のロケットが舞い降りる.その中からは白いロボットが現われ,なにやら付近を探索し始める.ウォーリーは彼女について回り,とうとう彼女の名前を知る.イヴ.それが彼女のなまえ.そして彼女の任務が完了すると,宇宙船に再び回収されて行ってしまう.その瞬間に気づいたウォーリーは,その宇宙船に飛びつき,宇宙へと....
さて,また映画です.といってもDVDですが.本作は,ディズニー映画,というかまだピクサー映画ですかね.最近の『ボルト』あたりからピクサーではなくなってしまいましたけど,当時はまだピクサーが制作ということになっていましたね.
前述のあらすじのとおり,ロボットを主人公にした映画です.さて,そんな本作,一言であらわすと,主人公に癒され続けた映画でした.ロボットが主人公で,しかもCGで描かれているんだけれど,きちんと表情があるというのに驚きます.ウォーリーの場合,ティアードロップ型のゴーグルを中心を軸にして稼動させることで,様々な表情をつくりだしています.イヴはLEDみたいなので目を直接描写するので表情があっても,それほど驚かないんですけど.
そんなわけで,ウォーリーの挙動がいちいちかわいかったわけです.もう,それだけでこの映画は成立しています...それはいいすぎかもしれませんが,それでも少なくともこの映画の魅力の半分はそこです.もう,彼が主人公であるだけで,彼が動くだけで,もう笑ってしまいます.
で,1/4が他のロボットキャラクター(イヴやモーといった名の色々な形状のロボットが出てきます)で,もうあと1/4がストーリーでしょうか.というか,ストーリーなんてただのおまけです.偉い人には以下略.
ただウォーリーは,動いてナンボのキャラクターなので,ぬいぐるみとかそういった形でのキャラクター商品化は無理だろうなと思ってみたり....いや,そこを心配しなくてもいいんですが.
一応,映画なので,ストーリーについても触れておきますと,あらすじでも書いたとおり,荒れてしまった地球を人間は捨てて宇宙へ旅立ったわけですよ.そして,地球が緑を取り戻すのを待っていた.イヴがそれを持ち帰ってきたので,さぁ,帰ろうとなるわけですが,そこでちょっとした問題が起こります.あまりにも時間がかかりすぎたために,人間は地球と言うものを忘れ,また,機械に頼りきった生活のために,歩くことさえ忘れてしまっていたのです.それでもウォーリーとイヴの活躍により,人間は「生き残る」のでなく「生きる」ことを思い出し,再び地球を目指すのです.
メッセージ性は密かに強いストーリーな訳ですが,キャラがかわいいので,伝わってこないこと(笑)
そんなわけで,やっぱりウォーリーを愛でる映画になったわけです.
あと,EDの趣向は面白かった.ラスコーだかアルタミラだかの壁画調の絵から始まって,次第に絵が現代に近づいてくるわけです.ルネサンスから印象派からゴッホになって,ドット絵ですか.人類の歴史というのをそれであらわしていたんでしょうね.人間が地球で1からやり直すというストーリー的な終わりを踏まえて,最初は壁画からスタート,と.]]>
『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』
http://nino84.exblog.jp/12255028/
2009-11-04T21:24:00+09:00
2009-11-04T21:24:56+09:00
2009-11-04T21:24:29+09:00
nino84
視聴メモ
作家の大谷は、毎日のように飲み歩き、家に落ち着いてはおらず、お金もろくに家にいれない。その妻であるところの佐知は小さな子どもとともに、夫の帰りを待ち。出版社の担当が大谷に隠れてもってくる彼の原稿料で細々と暮らしていた。
大谷の借金を知った佐知は、その貸主である小料理屋で働き始める。
久しぶりにブログを書きます。現実逃避です。
さて、本作は太宰治の小説『ヴィヨンの妻』を原作として製作された作品です。ただ、実際には多少の筋や設定の変更があります。
まず観て思ったのは、情報が多いなということ。太宰の原作小説は短編小説のため、情報はそぎ落とされ、淡々とした形で掛かれています。終わりに向けて一直線に進む感じです。一方で、本作は115分という上映時間がありますから、その分、情報を入れ込むことが出来ます。もちろん、小説と映画では情報の与え方に違いがあるわけですが、本作に限って言えば、映画の大谷は訴える人を代えながら何度も同じ事を訴えています。小説ではもちろん、それを述べてはいるのですが、それほど繰り返されることはありません。そのため、映画の方がより心情を読みやすくなっているかな、という気がしました。
本作のなかで、大谷は「生きるのも怖い、死ぬのも怖い」と繰り返し訴えています。非常に正直だな、と思います。これは原作の『ヴィヨンの妻』でも同じ事ですが、自分の未来が描けないわけです。生きる目的が見出せないわけです。ただ、その瞬間に生きるしかないわけで、畢竟、生きるのは怖い。しかし、大谷には死ぬ勇気もありません。どこかで自分が生きるということに執着しています。死ぬということは今をも失うことだからです。大谷は、お酒を飲むとか、人と寝るとか、そういったいわばその一瞬の快楽で瞬間瞬間を生きています。目的を持てないために、今が快であることが目的となっているのです。
舞台は昭和21年、昭和20年に戦争が終わって、すぐという時代です。それまで、「欲しがりません、勝つまでは」と国民は何を考えずとも、その日を暮らすこと、あるいは戦争に勝つことを目的として生きていけばよかったのです。しかし、戦争が終わると、そうした目標はなくなってしまいます。しかも、日本は敗戦でそれを終わっており、目標は達成されることなく、終わってしまったのです。作中では描かれませんが、そうした喪失感が国民全体にある時代だと考えることは出来ます。
もちろん、生きることに精一杯なのは相変わらずの社会ですから、小料理屋の夫婦や、米兵相手に体を売るような女性もいます。しかし、大谷はそのようなただ生きることを目的にはできないのです。彼は生き残るだけでは満足しないたぐいの人間なのです。しかし、それを見つけられない。だから、それをごまかすために、酒に溺れ、一瞬の快に生きていくのです。
一方で、大谷の妻、佐知。彼女の言動は、大谷の言動に比べると非常に分かり難い印象です。大谷がいろいろと考えてうだうだやっている一方で、彼女がただその日を生きているからでしょう。それは大谷にとっては望まない生活なのですが、一方で、そうしているはずの佐知を大谷は支えにしています。
大谷と佐知が出会ったエピソードは象徴的です。佐知は盗みを働きますが、そのことで自分の人生や人格すべてが否定されるのは許せないと憤ります。それを聞いた大谷が、彼女を引き取ることで二人が出会います。
佐知はその一瞬にいきているのではなく、それまでの生活を背負ってそこに存在しているのです。それを大谷が憧れるのはなにか分かる気がします。畢竟、佐知はただ純粋なのです。その日を暮らすために、米兵に体を売るような女性ではないし、どこかに物乞いにいくわけでもない。出来る生活をしているにすぎません。ただ、その存在が清廉であり、美しいのです。
大谷はしかし、その純粋な妻という事実をどこか信じきれません。大谷が永続性を信じられないために、佐知の純粋ということが信じられないのです。それで、妻を試すようなことをします。それが、佐知に惚れる工員を家に招き、観察するという行動につながります。佐知の心は変わりませんでしたが、しかし、大谷は工員が動き、それに動かされる佐知を目撃しました。大谷は自分で永続性を証明しようとし、しかし、失敗する(実際には完全な失敗はしなかったのだが、見た事実から失敗したと考えた)のです。それで彼は絶望し、死のうとするのです。
しかし、死ねませんでした。この後、大谷が「生きられるような気がする」のは正直よく分かりません。可能性としては、死ねないという事実から、逆説的に生きることを見出したということでしょうか。
一方で、佐知は夫の自殺未遂を機会に、かつて好きだった男のもとへ向かいます。そこで男から彼女が好きだということを、その理由とともに知らされ、彼女は自分の存在を自覚します。すなわち、生にしがみつくことなく生きていくということができることが美徳であると。自嘲しながら子どものために貰った桜桃を食べる大谷(やはり彼はその場の欲望、食欲に負けており、子どもにそれをとっておくことはしません)に、彼女は「ただ生きていればいいのよ」といいますが、その一言に、彼女の生き方が現れているといえます。
映画の感想なのか、小説の感想なのか、わからなくなってきてしまいましたが、映像的にも、内容的にも、とにかく佐知が美しい、ただそのことにつきる作品だといえます。彼女の美しさの要因が映画そのもののテーマであるといえるのだし、この映画の映像的なよさになっているのだと思います。]]>
『サマーウォーズ』
http://nino84.exblog.jp/11722112/
2009-08-13T00:31:00+09:00
2009-08-13T01:47:45+09:00
2009-08-13T00:31:50+09:00
nino84
視聴メモ
数学オリンピック日本代表にあと一歩だった高校生、健二は、物理部の先輩、夏希からバイトをお願いされる。東京駅に呼び出され、たどり着いた先は、夏希の実家。曰く、「大おばあちゃんの誕生日で、一族が集まるの」。曰く、「私の彼氏の振りをしてくれない?」。
ごまかしながらも、なんとか彼氏の振りを続けた一日を終え、眠ろうとする健二に一通のメールが届く。そこには2000文字を超える数字の羅列。暗号。健二はそれを一心不乱に解き、回答を返信し、眠りについた。
――翌朝、世界最大の登録人数を誇るネットサービスOZが変調をきたす。そしてその犯人としてテレビで報道されていたのは、健二その人だった。
本作は『時をかける少女』以来の細田守さんの監督作品です。ただ、ネットが舞台になってたりと、どちらかというと、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』に近いかな、という感じもありました。細田さんのネットの描写はポップな感じがするビジュアル的にも、別に良いとか悪いとか評価を伴わない感じも好きです。
さて、本作は、陣内家の人々を中心に話が進みます。陣内家は代々続く旧家で、大ばあちゃんを筆頭に、孫、ひ孫の代まで20名程の大家族です。本作では、大ばあちゃんの90歳の誕生日にあわせて、一家が集まってくる、ということで、その20名程が上田にある大ばあちゃんの家に一同に会します。そのなかに夏希もおり、そして、夏希は最近体調が優れないという大ばあちゃんを元気づけるために彼氏を連れていきたいと、バイト=健二を雇って、上田を訪れるのです。
20数名を超える神内家。上映時間中にすべての人の名前を覚えることはできませんでしたが、それでも、職業などで、意外とキャラがそれぞれきっちり立っているので、意外と違和感なく、楽しむことができました。
そして、そんな大家族のなかに突然放り込まれた健二。彼は数学オリンピック日本代表にあと一歩とどかなかった経歴の持ち主で、夏希に憧れる高校生です。所謂、文化系の冴えない男子高校生ですね。
そういえば、『時をかける少女』も高校生でしたが、なんとなくそちらの方が、もう少し大人びてたかな、という印象があります。前回は恋愛でしたが、今回は陣内家を中心に話が展開していくので、家族愛みたいなものがメインですし、そういうテーマの面での関連もあるのかもしれません。『Time waits for no one.』と、全作はかなり青春まっただなか!という感じがありましたしね。
そんな人たちが展開する『サマーウォーズ』。結論から言えば、かなり面白かった。アニメだから、というか、作品の性質上、現実は現実としてしっかり締める一方で、ネットの世界は自由に描けるので、そうした表現の幅によって、いろいろなものがストレートに表現されていて、わかりやすいのが大きい。
特に、現実世界では大ばあちゃんの存在が大きかった。大じいちゃん亡き後、陣内家を支えてきた彼女は、90歳になる今でも凛としていて、格好いい。彼女は陣内家の大黒柱として神内家を支えている。彼女を中心に陣内家は繋がっている。
そこに健二という他人が、表向きは夏希のフィアンセとして、入り込んでくるのである。他人である健二も、大ばあちゃんに認められることで、陣内家に自然にとけ込んでいくことができたのである。
ネット上でOZがトラブルを起こすと、ネット上で管理されたすべてのシステムが変調をきたす。都市機能はマヒし、飛行機は飛ばない。交通も完全にストップしてしまう。
こうした、ネットの危険性を表現した作品は多い。実際、細田さんにしても、『デジモン・アドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』でネットでのトラブルが現実世界に問題を引き起こす様を描いていた。細田さんは『デジモン』では家族というのは、重視せず、しかし、「ネット上でつながる人」というのを重視した―主人公が小学生ということもあり、友達通しのつながりというのが強調された。そうしてネットの可能性を示した。それはネットの善悪という話ではなく、ネットはあくまで道具だということである。電話回線―『デジモン』制作当時は電話回線でのネットが一般的であった―の向こう側にいる人と通じ合える、そういう可能性である。
そして、今作である。今作もネットを介しての現実世界のトラブル、というのを描きながらも、しかし、より現実世界のつながりを重視している。すなわち、一つ屋根の下にいる家族というつながりである。それに加えて、大ばあちゃんの生の声で日本中に繋がる関係である。OZのトラブルが生じた際、彼女は、自分の知人に片端から連絡し、ただ励ます。それがどのように影響したのかは分からないが、現実世界では死者はでず、問題は一応の落ち着きを取り戻す。実際、国レベルで考えたとき、彼女の電話の影響力は微々たるものだろう。
しかし、そうして電話をしつづける姿を実際に見た健二に与える影響は大きかった。だから、彼は翌日、できることはやるべき、と陣内家のなかで発言する。その発言は女たちに退けられるのだが、しかし、陣内家の一部の男たちを動かす。
大ばあちゃんがおこした波が、健二をうごかし、陣内家の男たちを動かし、そして陣内家全体を一つへとまとめていく。そして、OZである。そこはいまだ混乱の続く世界である。しかし、そこは世界と繋がっている。10億人と繋がれる場所である。陣内家から発した波がOZを通じて世界をつなげる。
こうしてみて、面白いのは、この時点で健二が人を繋ぐ以外の役割を果たしていないことである。OZをハッキングしたプログラムに対抗するためのスーパーコンピュータは、陣内家の男たちが用意するし、作戦の実行メインではアバター「キングカズマ」の所有者である陣内家の男の子が担当する。その後の「延長戦」でもメインは夏希である。
適材適所で、それぞれがそれぞれの役割をきちんと果たすことで、物語が展開していく。健二がその能力を生かして活躍するのは、物語の最後、世界が一応の平穏を取り戻した後である。それは世界を救うためというより、陣内家を救うためである。作品の中盤から最後まで、健二は大おばあちゃんのポジションにいた。彼は、ただひとりのよそ者でありながら、陣内家をつなぎ、陣内家を守るのである。
個人的には、健二が陣内家が家を捨てていこうとする中で、「まだ終わってない」とひとり家に残って危機に立ち向かおうとしていた場面が一番好きだ。2分でOZの暗号を3回解き、しかも最後は暗算(笑)。そんな自分の適材でもって、陣内家を救い、そして――すいません。ここまできたら結末までいきます。
詳細はともかく、結局、彼は陣内家に認められて、一員になるわけである。ここまで陣内家を繋いでおいて終わった瞬間に赤の他人では、テーマ―家族愛とか、人の繋がりの大切さとか、と少なくとも僕は観ていた―としてもねじれが生じるので、自然な帰結でしょう。その方法はともかくね。
そうやってみると、面白いのは、健二の立ち位置である。彼は最初、肩書きだけ陣内家の一員であった。つまり「夏希のフィアンセ」。しかし、その肩書きがなくなり、一度は陣内家を追い出される。その後、幸運にも戻ってこられた陣内家で、一緒に行動していく中で、彼は肩書きはないのに、陣内家の一員として自然に認められるのである。
本来、人間関係というのは、肩書きとかレッテルでやるわけではないはずである。しかし、そういうものがあった方が立場がはっきりしている分それをはかる必要はなく、その距離感が実際的に正しいかどうかはともかくとして、無駄なエネルギーは使わなくてすむ。そういう省エネな関係が横行しているなかでこういうエネルギー過多な関係づくりをストレートにみせられると、ハッとさせられる。]]>
『1984年 [新訳版]』
http://nino84.exblog.jp/11698581/
2009-08-09T15:04:54+09:00
2009-08-09T15:04:38+09:00
2009-08-09T15:04:38+09:00
nino84
読書メモ
<ビッグ・ブラザー>率いる党が支配するオセアニア、ロンドン。1984年。ニューズピークという言葉により、異端を考えること自体が犯罪である世界。
ウィンストン・スミスは、真理省で過去の歴史を修正する仕事をしている。<ビッグ・ブラザー>は間違わない。彼の仕事は、起こってしまった事実につじつまを合わせ、過去の資料―新聞から雑誌まで―を修正することである。そうして、党は現在を支配し、過去を支配している。ウィンストンはそんな社会に不満をもち、ゴールドスタイン率いる反政府組織に惹かれていく。
村上春樹さんの『1Q84』が出版されてしばらくたちますが、そちらではなくジョージ・オーウェルを読みたくなるのが、ひねくれた私。実際には、村上さんの影響だけでなく、同時にある映像作家が次回作の着想に全体主義を描きたいという話の中で、ジョージ・オーウェルの作品を読んでいるという話をしていたのも影響しています。後者の影響がより大きいと思っています。
閑話休題。本作は、<ビッグ・ブラザー>を頭とする党に支配される世界を描いています。
その支配の一つの方法として、党はニューズピークという言葉を意図的に作り出し、言葉の数を減らし、意味を規制し、簡略化していきます。そうすることで人が党の考え<イングソック>以外の考えを上手くできないようにと画策しています。
そこでは<イングソック>以外の考え方はすべて「異端」であって、それ以上深まることはありません。それを考えることに意味がないからです。一方で、<イングソック>の教えに関しては端的にあらわせるように言葉を定義し、簡潔に話せるようにしていきます。同時に、日常語も「良い-悪い」ではなく、「良い-良いない」などとして、対義語、類義語などを廃し、語数を減らしていきます。
言葉は道具です。それは私たちの感覚や考えを明確にしてくれるものです。しかし、その感覚を表す言葉がなければ、その感覚や考えが一瞬のもので、それを後に保持しておくことはできません。今、ここで感じている感覚、という感覚は、後に感じた感覚と同じか否かを比較することはラベリングしておくことで容易にできますが、感覚の上だけではあまりに漠然としたものであるために、比較はできません。
少なくとも私の中では「悪い」=「良くない」ではありません。ここは私の感覚的な違いを説明する場ではないと思うので、しませんし、上手くできるものではないと思うのですが、とにかく違うのです。こうした微妙なニュアンスは失われていきます。
恐らく、今、私たちは1つのスペクトラム上に、多くの言葉があるために、人それぞれ同じ感覚に対し、微妙に異なった使い方をしています。しかし、「良い」、「良くない」の二つしかスペクトラム上に言葉がなければ、人それぞれのの微妙な感覚は無視され、同じことを感じていると見なされるし、実際そうなっていくでしょう。言葉は感覚から出てくるものですが、一旦ラベリングしてしまえば、人の効率的な記憶能力のため、他の同じラベリングをなされたものと同じものとして簡潔に管理されるのです。結局、人は同じものの見方しかできなくなっていきます。
それは論理的思考にしてもそうで、ある意味を表す言葉がなければ、思考はできません。木の箱をつくるためには、そのためにピッタリの大きさの木が必要なのです。
そうして言葉で思考の制限を勧める一方で、過去の記録を書き換え、党の力を誇示しつづけていきます。過去は、現在を考える上で非常に必要なものです。過去、<ビッグ・ブラザー>が間違ったことがなければ、これからも間違えることはないだろうと思えます。しかし、過去は結局、どこにあるわけでもありません。過去は体験できません。したがって、人の記憶のなかにあるか、あとは新聞、雑誌などに記録されるかでしか保存はできません。
現在の新聞、雑誌には嘘は書かれないという不文律があります。現在を伝えるのがそれらのものの役目なのだから、当然です。だからこそ、それは現実の羅列のはずで、未来には過去の記録として利用できるもののはずなのです。人は忘却します。それに、いつまでも生きることはできません。したがって、過去の新聞、雑誌などが現在から過去を知る数少ない方法になります。それを完全に管理してしまえば、党は過去を支配することができます。
この作業をウィンストンは担っています。送られてくる仕様書通りに文書を書き換え、本の文書を償却処分する。それを永遠と繰り返すのです。
そんな社会で、しかし、本当に人が管理され得るのか?ひとつの思想<イングソック>の元に人々がただ頭をたれて生活していけるのか、その実験をしたのがこの作品でしょう。
人は成長します。言葉は、特にサブカルチャーなどから自然に増殖を続けるはずのものです。しかし、党は、それを意図的に減らしていきます。一方で意味を増やすことは重罪であると幼い頃から教育していく、そうしたことで何十年もかけて、支配を十全なものにしていこうとするのです。
実際に、この世界の子どもは親であっても、異端の考えをもつこと―思考犯。つまり、結果として、言葉を増やして、人の可能性を広げることになる―を許しません。自我を持たない子どもは単純です。アフリカの少年が少年兵となる一番の理由は、格好いいからです。ファッションとして少年兵となり、戦争に参加し、人を殺すのです。この作品の世界では、党、<ビッグ・ブラザー>は万能で、格好いいのです。それがいうことを絶対だと信じることがあっても、不自然ではありません。こうして、党の支配は完全なものになっていくのです。
しかし、問題は党が支配する以前を知っている人たちです。実際、ウィンストンもその一人です。彼らはニューズピークを話すように推奨されていますが、オールドスピーク(私たちが使っているような言葉、原作は英語なので、ここでは英語です。)を知っていますし、話せます。それを忘れるように強要されていくものの、都合よく忘れられるものではありません。それに、党の支配以前の記憶も―資料はないので漠然としていますが―あります。したがって、そうした人たちは常に思考犯の可能性が高くなります。それをどのように管理できるか…?
「鍛錬された精神の持主だけが現実を認識できるのだよ、ウィンストン。君は現実は客体として外部にある何か、自律的に存在するものだと信じている。さらにまた、現実の本質は誰の目にも明らかだと信じている。…(中略)…いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかだけに存在していて、それ以外の場所にはないのだよ。だたし、個人の精神の中にではない。個人の精神は間違いを犯すことがありうるし、時間が経てば結局は消えてしまうものだ。現実は党の精神のなかにのみ存在する。何しろ党の精神は国民全体の総意であり、不滅なのだからな。党の目を通じてみることによって、はじめて現実を見ることができる。…(中略)…それには自己破壊の行為、意志の努力が必要となる。正気になろうとすれば、まず謙虚にならねばならない。」
党の理論です。自然に見えているものが現実ではない、というのですから、かなりの努力が必要なのです。そして、努力の結果身につけた現実認知の方法は<二重思考>と呼ばれます。物事を党の思考で二重に考えるということです。しかもそれは認識されず、自然に行われるので、<二重思考>だと意識されることはありません。ウィンストンは生きるために、無理にこの能力を身に付けなければなりませんでした。
しかし、私たちの世界ではおそらく、<二重思考>は陥るものです。私たちは普段自分の言葉で考えているようで、他の人の言葉、理論で考えていることはあると思えます。しかし、それは他の理論が入り込まない、閉鎖された場所では決して気づきません。
例えば、マスコミが連日、「麻生政権は政権維持に失敗した」といいつづけます。その理由も挙げてくれます。では、「実際に」、麻生政権はなにをしたのでしょう?報道されている以上に、いろいろなことをやっているわけです(【参考】衆議院―議案:http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_gian.htm)。
マスコミは彼らの理論にしたがって、伝えるべき事実を選択しているわけで、起こっていることすべてを伝えているわけではありません。しかし、今、伝わってくるものだけが実際に起こっていることだと考えていませんか?そんなことない、というかもしれません。指摘されれば分かるでしょう。しかし、<二重思考>とはそういうことではないのです。いつも自然にやっていることなのです。自分の理論ではなく、マスコミの理論で、マスコミの言いたいことを証明するための現実を見せられ、ものを考えている(可能性がある)のです。
別にマスコミ批判がしたいわけではありませんし、政権養護がしたいわけではありません。ただ、<二重思考>というのは、意外と起こりうることなのだとふと思いついただけなのです。マスコミにとって、日本は閉鎖された空間です。しかも日本人の多くは日本語しか話しませんから、他の国から他の理論が入ってくることはなかなかありません。考えてみると、意外と閉鎖されているんですよね、日本という国は。とはいえ、そうやって考えていくと、実は閉鎖されていない国なんてないのですが…。]]>
『幽霊たち』
http://nino84.exblog.jp/11447652/
2009-07-04T00:18:50+09:00
2009-07-04T00:18:50+09:00
2009-07-04T00:18:50+09:00
nino84
読書メモ
ブルーはホワイトから依頼を受け、目的も終わりも告げられないまま、ブラックの見張りをはじめる。ブラックは一向になにも起こさない。ブルーはホワイトのこと、ブラックのことを考えながら、仕事を続けていく…。
久しぶりの更新です。ここで文章書くくらいなら、別の文章書けって話ですが、現実逃避くらいさせてください。そんなわけで、ポール・オースターの『幽霊たち』です。
本作、登場人物の名前からして、その人物を大衆の中に埋没させてしまうような印象の作品です。話としてもなにが起こるわけでもありません。ただ、淡々と日々がすぎていくだけです。ホワイトから依頼を受けたブルーがブラックを見張るという、ただそれだけの話です。
ブラックはほとんど誰とも接触せず、ただ窓辺で本を読み、ものを書き、時々買い物や散歩のために外出します。そのあまりに平坦な日常を見張ることを依頼された私立探偵のブルーは、最初それが自らを欺くための行為だと思い、ブラックの一挙手一投足を逃すまいとします。しかし、日々を重ねる中で、ブルーはブラックが何ら事件性のない人間であるのではないかと疑い始めます。ブルーの観察眼を越えたものなのか、それともただの一市民なのか。依頼主ホワイトは何も答えをくれません。ただ、ブルーが一人で想像を膨らませるだけです。想像を膨らませるだけですから、現実には何も起きません。現実はただ平坦にすぎていき、ただブルーの心中だけが嵐のように波打ち、彼の精神はやつれていきます。
今も、先も見えない曖昧な状況は人の神経をすり減らしていきます。実際には、この曖昧な状況を解決するための手段はあります。ブルーが観察をやめればいいのです。しかし、それはブルー自らの職業的アイデンティティーを崩すもので、それは拠って立ってきたものを失わせる行動です。彼はその選択肢を思い浮かべながらも、やはり想像、可能性の世界で苦しみつづけるのです。
考えるということは可能性を広げることだけれども、結局、広げるだけで、動くには考えるのとは別の力が必要になるみたいです。可能性の中からひとつを選び取るには意志がいるのです。実際には、常に意志は働いていて、現状にとどまるという選択も意志ですから、ブルーにそれがないというのではありません。可能性のなかでもそれを実際に選び取る際のリスクは異なり、可能性を選び取るということには、リスクに見合っただけの誘因が必要になります。
考えるだけでは、実際になにもおきないのです。しかし、人間は何も起きなくても苦しむのです。可能性の世界に迷い込み、リスクを天秤にかけ、身動きがとれなくなり、追い詰められていくのです。本能で動くのでなく、考えることができ、様々な可能性を選び取ってきたものがいたからこそ、人類は発展しています。その一方で、考えるという作業そのものは、周りになんら作用せず、その人自身にとってのみ影響します。だから、人は、実際にはかなり小数でしょうが、客観的に観察できる状態では突然変わったということも起こり得ると思えます。
ただブルーが考えつづける作品ですから、そんな風に考えるということ自体について、その意味について考えてしまいます。アメリカの作家は、質実剛健で、男前な印象を受ける人が多いかな、と勝手に思っていますが、そういう作品群とは少し毛色の違う作品のようです。フランス人作家といわれても、納得はしそうな気がします。]]>
『ダークナイト』
http://nino84.exblog.jp/11008793/
2009-05-08T02:35:59+09:00
2009-05-08T02:35:59+09:00
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nino84
視聴メモ
市警はバットマンとデント検事の協力のもと、マフィアの資金源を断つことに成功した。時を同じくして、ゴッサムシティ―にジョーカーと名乗るフリークが現れる。彼はマフィアのもとを訪れ、彼らの資金の半分を条件に、バットマンの殺害を約束する。
先回のアカデミー賞で、助演男優賞(ヒース・レジャー)と音響編集賞を受賞した作品です。ヒース・レジャーが死後にノミネート、受賞し、話題になりました。そんな彼の演技ですが、とても迫力がありました。あれはヤバイ。極度の愉快犯として描かれているため、かなりイカレた感じのキャラになっており、その演技は怖い。
作品全体としてとても暗い作品となっており、見事なまでにバッドエンドでした。2時間半ほどにもなる大長編映画ですが、バットマンとジョーカーは互いに殺しあわない(バットマンは法を守るため、ジョーカーは退屈しない遊び相手をなくさないため)ということで、途中どうやって話をたたむのかと思ってしまいました。とりあえず、というところで一段落しましたが…。あの終わり方であれば、ヒースレジャーが亡くならなければ、続編での登場も可能性としてはあったであろうに、と思ってしまいます。
法を守りながら、警察権を違法に執行するバットマン。彼は犯罪者を警察に引き渡しながら、その実、自らも犯罪者であるという自己矛盾を抱えている。それでも、それがゴッサムシティーに必要であると考えるから、全てが終われば、裁かれることを承知で、それを執行します。一方で、ジョーカー。彼にはルールはありません。彼はただ混沌と恐怖をもとめます。
決して交わることのない二人。ジョーカーは自らの目的を達成するためなら何でもします。市民を無差別に殺し、友人とガールフレンドの命を天秤にかけ、病院ごと爆破だってするのです。それは、常にルールが通じない戦いであって、バットマンは常に後手後手にまわってしまいます。結局、バットマンは町じゅうの電波を盗聴するというルール違反の末に彼を捕縛することに成功します。
ただ、そうしたジョーカー捕縛の過程で、彼は彼以外にも混沌の現況を創り出すことに成功します。それがデント検事。マフィアの資金源抹消に尽力した正義の人でした。しかし、ジョーカーに自らのガールフレンドを殺されるにいたり、自らの正義が通じない悪の存在に絶望し、復讐鬼となり、恐怖を振りまくことになります。それは、正義の象徴であったはずの人物でも復讐鬼となるという現実を、バットマンに知らしめるのです。
映画では希望も描かれますが、ジョーカーの存在感がありすぎて、そんなことはとても薄っぺらく感じてしまいます。
とにもかくも、ジョーカーの存在感のために、彼とバットマンとのやりとりは常にクライマックスの様相を呈して、先の展開が全く読めない映画でした。]]>
『レッドクリフ Part I』
http://nino84.exblog.jp/10995572/
2009-05-06T19:26:22+09:00
2009-05-06T19:26:22+09:00
2009-05-06T19:26:22+09:00
nino84
視聴メモ
漢の帝を擁する曹操は,劉備,孫権を討たんと兵を南進させる.数に劣る劉備,孫権両陣営は,対曹操の同盟を結び,曹操軍を迎え討たんとする.かくて,赤壁の地にて両陣営が見えることとなった.
また,DVDです.現在,Part IIが絶賛(?)上映中ですが,とりあえず,Part Iを観ていないとお話しにならないので,観てみました.
とりあえず,世界観が三国無双でした.劉備軍の関羽,趙雲,張飛はじめ,孫権軍の周瑜,甘興(甘寧のことかー!?)にいたるまで,なだたる将軍は一騎当千あたりまえのようです.
孔明はもちろん物語の中心人物のひとりであり,その軍略を披露してはいるものの,本編では常に周瑜とセットであり,なんとなく影が薄い存在です.劉備,孫権両軍同盟の橋渡しをするのが孔明であるために,序盤こそ目立ちはするものの,周瑜の登場以降,常に彼と共に軍を仕切ることになります.作品的には,その周瑜が推されているらしく,なんでか一騎当千の活躍,さらには小喬との仲むつまじい姿まで描かれて,完全に主役です.物語ですから,誰かを主役にはしなけりゃ盛り上がりもしないので,それはそれでいいですが,なんとなく違和感.あんたは前線で戦う人だっけか,と.
で,一方,戦うのが本職の趙雲,関羽,張飛はもちろん一騎当千.物語冒頭は長坂の戦い(らしい)だが,そこでの主役はまちがいなく趙雲と関羽.前者は劉備の子,阿斗救出シーンでの大立ち回りは圧巻.一方の関羽は長坂の戦いでただひとり残って(残ってしまった?)徒歩で戦ってたりする.曹操軍の兵たちをなぎ倒しながら曹操の目前まで迫って,結局見逃されるということになったが,結果はともかく,見せ場は作てもらった,という感じでしょうか.
とはいえ,私はそれほど三国志に詳しいわけではないので,話の細部が違ったところで,それほど気づかないところがあって,なので楽しめたのかもしれません.史実に忠実か否かは私では判断付きかねますが,どうだったのでしょうね.
個人的には,戦のシーンは迫力があってとても良かったと思います.]]>
『おくりびと』
http://nino84.exblog.jp/10982079/
2009-05-05T00:43:20+09:00
2009-05-05T00:43:15+09:00
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nino84
視聴メモ
オーケストラのチェロ奏者として活動していた大悟は、オーケストラの解散とともに、妻を連れて山形の実家へと帰ってきた。そこで偶然であった納棺士という仕事。彼はその仕事の内容を妻に告げられないまま、続けていくのだった。
いわずとしれた、08年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。とりあえず、評判通り、良かった、とまずいいたい。なにがいいって、雰囲気がいい。つまり、映画全体に流れる空気がいいのです。
テーマとして扱われているのは、大きくは人の死ですから、それを描く空気をいいというのも御幣があるのかもしれないですが、それに対峙する人とその人のかもし出す空気をうまく捉えていると思えました。一見、淡々としていながら、しかし、その背後にある強い芯のようなもの、それがどこからか感じられます。主人公、大悟が勤めることになる納棺会社の社長。そして、火葬場の職員。彼らが普段対峙しているものをどのように捉えるのか。それは言葉にならない雰囲気として映画に写されていると思えました。
個人的には、笹野高史さん演じる男がよかったです。大悟が川を遡上して、そこで散乱し、死を迎えるサケを眺めながら「なんでわざわざこんなことをするのか」とつぶやいたときに、「まぁ、きっと自分の生まれたふるさとに帰りたいんでしょうよ」とさらっと言ってそのまま去っていく。なんということはないふとした一場面だけれど、なんか印象に残っています。さらっといえるところに、この人の芯の強さを感じたのかな。
全体として考えるよりも、まず感じる映画かな、と思います。納棺士の仕事の意味が、「理屈じゃわかってる」っていうのは、そりゃそうで、でもそれに対する意味づけを帰るためにはやっぱりまずその背後にあるものの意味を考えなきゃいけなくなる。それは万人に訪れる死、というものであって、それを考えることは非常に難しいように思えます。
もちろん、それはずっと考えていく必要のあることだけれど、2時間強の映画を観て、それ全体を悟れ、というのは大仰な気がします。別になにかの理屈が語られているわけではないので、別段なにか結論を見つけろ、と押し付けるような映画ではなかったと思います。だから、その一歩目として、まず感じる作品かな、と。死の絶対性、静謐さ。死のもつ意味を少し垣間見せてくれるそんな作品でした。
原作である『納棺夫日記』は3章立てで、日記調の2章に加えて、理論編ともいえる章が合わさって、作品として著されています。後者は宗教でいわれている死の概念を著者の立場から解釈しなおすという作業をしている章です。それは著者の答えではありますが、結局それも読者にとっては別の宗教書と同じ、ヒントにすぎません。そういう意味で、私個人としては、原作本の第3章は不要と考えます。
結局、答えは各々でみつけるしかなく、それは2時間で考えるには壮大すぎます。だからこそ、まず感じる作品だろう、と思えたのです。作品では、主人公、大悟の仕事に対する心境の変化が丁寧に描かれていますし、加えて納棺会社の社長と火夫の男も示唆的に描かれています。終盤、わけもなく泣いてしまっていました。なにに泣いていたのだろう、と思えるものの、理屈ではないんですよね、多分。]]>
「生きてるだけで、愛」
http://nino84.exblog.jp/10907695/
2009-04-26T00:57:13+09:00
2009-04-26T00:57:13+09:00
2009-04-26T00:57:13+09:00
nino84
読書メモ
あたしは最近、鬱はいってて、眠くて仕方がない。ネットで検索したら、過眠症というらしい。そんなでも、あたしは津奈木と同棲している。でも、津奈木はいっつもあたしを放っておくし、そりゃ、あたしは寝たいし、そんなときに声かけられてもウザいけどさ。津奈木があたしをないがしろにして、楽してるのは耐えらんない。いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなぁ。
1週間は早いですね。この間、「キッチン」の感想を書いたと思ったら、もうその週の週末です。
閑話休題。さて、今作、なんでも芥川賞候補になった作品だそうです。特別に、賞の名前で本を読むわけではありませんが、芥川賞は短編、中編がそのメインの候補作となるので、良作の一つの目安として、活用させてもらっています。新しい著者の作品というのは、人から勧められない限り、手にとるのは難しいですからね。
そんな本作ですが、内容は、どこか金原ひとみさんの作品を彷彿とさせます。俗に言う「メンヘル」(メンタルヘルスを害している人たち…という表現が正しいのか、どうなのか。おおよそこうした意味でネット上では使われているよう)を主役にした作品です。金原作品ではそれが直接表現されることはないですが、本作では「メンヘル」という言葉も登場し、直截的に描かれます。
以前に金原さんの作品のいずれかを読んだ際にも感想に書きましたが、現代は、こういう作品が描かれ、そして大衆に読まれる時代なんですよね。私見ですが、結局、神経症レベルの症状(所謂アパシー的なもの)は、(そこそこ相談すれば)解消する(この表現が妥当だとは思わないが、)という認識が社会に生まれつつあるように思います。そういう社会レベルの認識の変化は、もちろん個々人の認識のレベルが全体的に深化していることをさしているでしょう。そうした意識の深まりはすなわち、自分の(あくまで神経症レベルの)問題に意識を向けることを促進します。自分の姿を客観的に眺めることができれば、それだけ解決作も自ら立てやすいと考えられ、そのレベルの病理は勝手に解消されていく可能性が高くなっていきます。
客観視の例として、最近では、中学2年生くらいの心性を「中二病」と称していることが挙げられます。これは専門家がどうこういうのではなくて、社会が中学2年生くらいはこういうものだという認識が生まれていることに他なりません。そのため、中学2年生が自己の心性を知るということは、発達の最近接領域ですから、ふとしたことで、自分の状況を認識しやすくはなっているはずです。その結果、妙に聞き分けのいいどこかスレた中学生や、逆によりその心性を高めるように深みにはまっていく中学生がうまれたりするのでは、と考えたりします。
話を戻せば、結局、神経症レベルの問題は、社会に認識されていくことで、独力で解消する、あるいは逆に深みにはまっていくというどちらの可能性をも増加させたといえるのではないでしょうか。もちろん、誤解のないようにいっておけば、私は誰も彼もがそのように移行するのだ、とは思っていません。それは個別性が高いことだと思えます。
私見はこれくらいにしておきます。とにかく、神経症レベルの人たちの悩みはこれまでの時代の文学で描かれつづけてきたといっていいわけです。合理的に考えて、悩んでいることが読者に納得され、客観的に矛盾のない考えで行動し、その結果として問題を解消したり、問題に飲み込まれたりする主人公を文学は書きつづけてきたのです。
しかし、最近はそうでもない印象をうけます。すなわち、了解不能な考えで行動する主人公が多いように思います。本作もそんな作品で、主人公はただの鬱ではなさそうな感じがします。もちろん、主人公は著者の創造ですから、このように振舞う人間がいるとは断言できません。ただ、作品の中でキャラクタ―として存在できている以上、おそらく現実にも存在し得るでしょう。
…大変です。まとまらなくなってきました。今更ながら、書きなぐれる話ではなかったな、と思います。以下、本作の内容に触れて、無理やりまとめとします。
「いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなぁ。」
結局、この作品はこれに尽きると思います。自分は自分をやめられない。自分がどれだけ理不尽か、わかっちゃいるけど、やめられない。その悲しさ。でも、それを受け止めてくれる人がいたら、それはとてもうれしいことではないでしょうか。とはいえ、自分でもわからない状態をなんで他人が分かるのか、分かるわけがないと思っている人ですから、体験として、人から分かってもらえた瞬間はすごく貴重な一瞬だろうと、想像します。なんとなく。]]>
「キッチン」
http://nino84.exblog.jp/10853145/
2009-04-19T22:50:05+09:00
2009-04-19T22:51:40+09:00
2009-04-19T22:51:40+09:00
nino84
読書メモ
私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。世話をしてくれていた祖母が死んで、私は誘われるまま大学の同級生であり、祖母の知り合いであった田辺雄一の家に招かれた。彼の家の台所はとてもいい台所だった。彼の父であり母と、雄一と私。奇妙な3人の暮らしが始まった。
久しぶりの更新になりました。一度書かなくなると、ダメですね。復帰に時間が掛かります。2、3週間、放っておいてしまって、なんだか、記憶が消えつつありますが、とりあえず、書いてみます。本書はベスト・セラーになったので、説明もあまりいらないでしょう。まだ読んでいなかったので、いまさらですが、とりあえず読んでみようと、ふと思い立ちました。
さて、本作の主人公、「私」は祖母をなくし、身寄りをなくしてしまいます。そんななかで、田辺雄一に誘われて、彼の自宅で母と3人の共同生活に入ります。彼の母は、母とといっても、戸籍上は父親で、妻に先立たれて、他の人を愛することはないからと、女性になった人です。
彼らはとてもやさしく、穏やかで、「私」の元彼、宗太郎のもつやさしさとは別種の安らぎを「私」に与えてくています。「私」が欲しているのは、安らかな時間であって、社会の中で上手く生きていくということではないのでしょう。宗太郎ならば、新しいアパートを探して、大学に通わせて、ということをするだろうと、「私」は思います。でも、雄一たちはそのようなことはしません。ただ、家にいさせてくれる。「私」が身寄りを失い、喪に服する時間を、彼らは保障してくれるのです。その安らぎのなかで、「私」は少しずつ立ち直ってきます。
「人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの」、雄一の母、えり子はいいます。「私」はそれが「わかる気がする」といい、祖母をなつかしむのでした。
喪の作業というのは、必要なんですよね、きっと。でも、それを社会は許してくれない。もちろん、忌引きという形で、通夜と葬式くらいはさせてくれるけれど、それはそれだけのことです。それは通過儀礼であって、それでもって、すべての幕が引けるというわけではない。人を失うという喪失感をやりくりできるようになるまで、本来なら時間をかけるべきなのでしょう。日々に追われ、喪に服することを忘れてしまった現代の悲しさを感じずにはいられません。本作にただようやわらかさは、それをつかの間でも与えてくれるものであったと思えます。]]>
『ぼくは勉強ができない』
http://nino84.exblog.jp/10627196/
2009-03-25T01:54:27+09:00
2009-03-25T01:55:50+09:00
2009-03-25T01:55:50+09:00
nino84
読書メモ
ぼくは勉強ができない。でも、それよりも大切なことはあるはずだ。女にはもてるのだし。
本書もまた、借りた本です。短編集なので、本来なら小分けにして書くべきなのですが、借りた本ということもあり、まとめてかきます。もっとも、短編集とはいえ、主人公を一にしたオムニバスの作品ですので、まとめて書いてもそれほど違和感はないのかな、と思いもします。
さて、本書の主人公、時田秀美は17歳の男子高校生です。勉強は苦手ですが、女性にはもてて、今も年上の女性と付き合っています。家では、母と祖父との3人暮らしで、母の浪費が原因で、貧乏くさい生活を余儀なくされています。
本書は、そんな主人公の学校生活を淡々と描いています。淡々とと書きましたが、主人公がサバサバしているため、そんな印象をうけるのだと思えます。スれているというか、達観しているというか。学校という勉強ができることが最大の価値であるとされる場所において、それはできないものとして、別のところに自分の価値を見出す、見出そうとする。そんなところが、彼を一見して強くみせています。しかし、彼自身、それが行き難いことだと認識し始めており、自分がそういった価値観にいることを、全面に押し出すことは、周りの関係をギクシャクさせることもあると、体験的に知っていきます。
彼は本音と建前の使い分けが十分にできず、つねに本音で自分の価値を脅かすものに立ち向かっていくのです。結果、彼に対峙したものは、自分の価値観に真っ向から対決を挑まれる形になり、彼を一緒にやっていきづらいものとして認識するのでした。
そんな彼を支えているものは、そうした彼の生き方をよしとする母であり、祖父であり、年上の恋人であり、またサッカー部顧問の桜井先生であったりします。彼らは、勉強だけに重きをおかないという点で、彼のよき理解者です。そうした保障のなかで、ときに、桜井先生や祖父は彼を気遣い、アドバイスを与えたりもするのです。
そうやって、本音と建前の表出の仕方を調整をしていくなかで、それがいいかどうかはともかく、人間は丸くなっていくのでしょう。たとえば、彼は、独りは寂しいということをしりながら、しかし、そのやりかたゆえに独りになりかねない状況にありました。そうした状況は、彼にどうやってそれを避けるようにやっていくかということを考えさせるのです。こうして自分の価値観のなかにまわりの価値観を合致させていくような、芯のしっかりした人物というのは、尊敬に値します。
もちろん、自分の価値観のみで世間でやっていける主人公の母のような人も時にはいるようで、それがまたかっこいいのではありますが、そんな無茶な、と思いもするのです。それに比べると、主人公のとっている方法、自分の価値観のなかに他者の価値観を取り入れていくというのは、ずいぶん現実的です。
現実的ではありながら、広くいわれている価値観で生きるのではなく、自分の価値観、信念をもっているというのは、やはりかっこいい生き方といわざるをえない。
そうした普通とは少し違った生き方は、それだけエネルギーが必要とされる生き方でもあります。彼の行動からは、そうしたエネルギーが感じられ、それが彼のかっこよさ、ヒロイズムにつながっているのだと思えます。]]>
『鴨川ホルモー』
http://nino84.exblog.jp/10611402/
2009-03-22T21:51:23+09:00
2009-03-22T21:52:45+09:00
2009-03-22T21:52:45+09:00
nino84
読書メモ
ホルモオォォォォォ!今日も京都の街に叫び声が響く。
俺は京都大学に入学し、京都青竜会に勧誘され、そのままホルモーなるなぞの競技に参加することになった。なんでも4チームの対抗戦らしいのだが…。
今回もやはり借り物です。2人の人から「ただただ面白い、訳わからないけど」という同じような感想をきき、勧められ、そのまま借りてしまいました。なんでも『鹿男あをによし』の著者のデビュー作なのだそうです。
読んでみての感想は、やはり「ただただ馬鹿らしく、面白い。でも訳はわからない」というもので、ここまでくると、誰が読んでもそんな感想を持つのではないかと、思ってしまいます。
さて、本作はホルモーという競技をめぐる物語です。その競技の実態について記すと、おそらく本書を読んだときのおもしろさが半減してしまうので、これ以降にも競技の詳細は伏せておこうと思います。
ただ、その競技に負けると、ホルモオォォォォォォ!と所はばからず叫びたくなり、また、突発的にチョンマゲにしてみたくなったりしてしまうのです。怖いですね(笑)
ホルモーという競技をするサークルの話ですから、人間関係であったり、恋愛模様であったりといった大学のサークルらしい描写もあるにはあるのです。しかし、そこで作り出したシリアスな感じも、チョンマゲの存在によって、どうもシュールな笑いを含んだ場面に落とし込まれてしまいます。結局、シリアスな場面は、次にくる爆発のための溜め、間、にしかすぎません。基本的には全編、馬鹿話です。もちろん、主人公たちはホルモーを本気で行うのであって、その態度自体は非常にまじめです。しかし、いかんせん、チョンマゲです。
バカなことは、本気でやるから面白い、というのを地でいく作品になっていると思います。]]>
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