本の感想などをつらつらと。


by nino84
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カテゴリ:読書メモ( 252 )

『図書館戦争1』

『図書館戦争1』を読みました。

正化31年、メディア良化法によって、出版された図書が厳しく検閲され、回収される時代。図書館の自由に関する法律に基づきそれに抵抗する図書館。両者の対立は、武装しての構想さえも厭わず、図書館は図書隊という部隊を持つに至る。笠原郁は、かつて助けられた図書隊員の影を追って、女子としては異例の、図書隊防衛員に志願。メディア良化隊から、図書を守ることを目指す。

アニメ化もされたシリーズ第1作。表現の自由を取り扱った作品ではあるものの、コミカルなノリ(著者の有川さん曰く、月9ノリでGO)も合間って、読みやすかったな、と思います。

大きな構図は、表現の自由を守る図書隊VSそれを認めまいとするメディア良化隊。そのため、表現の自由について作中で論じよう、という話になるのかな、とも思いましたが、今のところ、大上段にそれを振りかざす、ということはない様子。あくまで、人間関係描写が中心でした。
そもそも、主人公を対立の構図の片側に持ってきているので、描写は偏らざるを得ない。したがって、この作品の構図自体が、それを中立的に論じる、ということを難しくしている面はあるように思います。
また、対立自体がすでに落としどころにあって、現状が停滞している状況も、その議論を進めるという方向性を想像しにくくしていると思います。

ただし、舞台が安定して存在しているだけに、背景としてのこの設定は十分に活かされていると思います。法律に基づき図書館で戦争、というのが、ファンタジーに振り切れることなく、かと言って自衛隊ほどの堅苦しさも抱かせない、バランスになっています。

結果として、この作品の読み方としては、人間関係や、人そのものを中心に据えて、キャラクター小説として楽しむ、というスタンスで読ませていただきました。シリーズものですが、この巻を読み終えた段階では、恋愛小説としての続きが大変に気になる、というところですね。
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by nino84 | 2011-09-15 18:20 | 読書メモ

『1984年 [新訳版]』

『1984年 [新訳版]』(ジョージ・オーウェル、高橋和久訳、ハヤカワepi文庫)を読みました。

<ビッグ・ブラザー>率いる党が支配するオセアニア、ロンドン。1984年。ニューズピークという言葉により、異端を考えること自体が犯罪である世界。
ウィンストン・スミスは、真理省で過去の歴史を修正する仕事をしている。<ビッグ・ブラザー>は間違わない。彼の仕事は、起こってしまった事実につじつまを合わせ、過去の資料―新聞から雑誌まで―を修正することである。そうして、党は現在を支配し、過去を支配している。ウィンストンはそんな社会に不満をもち、ゴールドスタイン率いる反政府組織に惹かれていく。


村上春樹さんの『1Q84』が出版されてしばらくたちますが、そちらではなくジョージ・オーウェルを読みたくなるのが、ひねくれた私。実際には、村上さんの影響だけでなく、同時にある映像作家が次回作の着想に全体主義を描きたいという話の中で、ジョージ・オーウェルの作品を読んでいるという話をしていたのも影響しています。後者の影響がより大きいと思っています。

閑話休題。本作は、<ビッグ・ブラザー>を頭とする党に支配される世界を描いています。

その支配の一つの方法として、党はニューズピークという言葉を意図的に作り出し、言葉の数を減らし、意味を規制し、簡略化していきます。そうすることで人が党の考え<イングソック>以外の考えを上手くできないようにと画策しています。
そこでは<イングソック>以外の考え方はすべて「異端」であって、それ以上深まることはありません。それを考えることに意味がないからです。一方で、<イングソック>の教えに関しては端的にあらわせるように言葉を定義し、簡潔に話せるようにしていきます。同時に、日常語も「良い-悪い」ではなく、「良い-良いない」などとして、対義語、類義語などを廃し、語数を減らしていきます。
言葉は道具です。それは私たちの感覚や考えを明確にしてくれるものです。しかし、その感覚を表す言葉がなければ、その感覚や考えが一瞬のもので、それを後に保持しておくことはできません。今、ここで感じている感覚、という感覚は、後に感じた感覚と同じか否かを比較することはラベリングしておくことで容易にできますが、感覚の上だけではあまりに漠然としたものであるために、比較はできません。
少なくとも私の中では「悪い」=「良くない」ではありません。ここは私の感覚的な違いを説明する場ではないと思うので、しませんし、上手くできるものではないと思うのですが、とにかく違うのです。こうした微妙なニュアンスは失われていきます。
恐らく、今、私たちは1つのスペクトラム上に、多くの言葉があるために、人それぞれ同じ感覚に対し、微妙に異なった使い方をしています。しかし、「良い」、「良くない」の二つしかスペクトラム上に言葉がなければ、人それぞれのの微妙な感覚は無視され、同じことを感じていると見なされるし、実際そうなっていくでしょう。言葉は感覚から出てくるものですが、一旦ラベリングしてしまえば、人の効率的な記憶能力のため、他の同じラベリングをなされたものと同じものとして簡潔に管理されるのです。結局、人は同じものの見方しかできなくなっていきます。
それは論理的思考にしてもそうで、ある意味を表す言葉がなければ、思考はできません。木の箱をつくるためには、そのためにピッタリの大きさの木が必要なのです。

そうして言葉で思考の制限を勧める一方で、過去の記録を書き換え、党の力を誇示しつづけていきます。過去は、現在を考える上で非常に必要なものです。過去、<ビッグ・ブラザー>が間違ったことがなければ、これからも間違えることはないだろうと思えます。しかし、過去は結局、どこにあるわけでもありません。過去は体験できません。したがって、人の記憶のなかにあるか、あとは新聞、雑誌などに記録されるかでしか保存はできません。
現在の新聞、雑誌には嘘は書かれないという不文律があります。現在を伝えるのがそれらのものの役目なのだから、当然です。だからこそ、それは現実の羅列のはずで、未来には過去の記録として利用できるもののはずなのです。人は忘却します。それに、いつまでも生きることはできません。したがって、過去の新聞、雑誌などが現在から過去を知る数少ない方法になります。それを完全に管理してしまえば、党は過去を支配することができます。
この作業をウィンストンは担っています。送られてくる仕様書通りに文書を書き換え、本の文書を償却処分する。それを永遠と繰り返すのです。

そんな社会で、しかし、本当に人が管理され得るのか?ひとつの思想<イングソック>の元に人々がただ頭をたれて生活していけるのか、その実験をしたのがこの作品でしょう。
人は成長します。言葉は、特にサブカルチャーなどから自然に増殖を続けるはずのものです。しかし、党は、それを意図的に減らしていきます。一方で意味を増やすことは重罪であると幼い頃から教育していく、そうしたことで何十年もかけて、支配を十全なものにしていこうとするのです。
実際に、この世界の子どもは親であっても、異端の考えをもつこと―思考犯。つまり、結果として、言葉を増やして、人の可能性を広げることになる―を許しません。自我を持たない子どもは単純です。アフリカの少年が少年兵となる一番の理由は、格好いいからです。ファッションとして少年兵となり、戦争に参加し、人を殺すのです。この作品の世界では、党、<ビッグ・ブラザー>は万能で、格好いいのです。それがいうことを絶対だと信じることがあっても、不自然ではありません。こうして、党の支配は完全なものになっていくのです。
しかし、問題は党が支配する以前を知っている人たちです。実際、ウィンストンもその一人です。彼らはニューズピークを話すように推奨されていますが、オールドスピーク(私たちが使っているような言葉、原作は英語なので、ここでは英語です。)を知っていますし、話せます。それを忘れるように強要されていくものの、都合よく忘れられるものではありません。それに、党の支配以前の記憶も―資料はないので漠然としていますが―あります。したがって、そうした人たちは常に思考犯の可能性が高くなります。それをどのように管理できるか…?

「鍛錬された精神の持主だけが現実を認識できるのだよ、ウィンストン。君は現実は客体として外部にある何か、自律的に存在するものだと信じている。さらにまた、現実の本質は誰の目にも明らかだと信じている。…(中略)…いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかだけに存在していて、それ以外の場所にはないのだよ。だたし、個人の精神の中にではない。個人の精神は間違いを犯すことがありうるし、時間が経てば結局は消えてしまうものだ。現実は党の精神のなかにのみ存在する。何しろ党の精神は国民全体の総意であり、不滅なのだからな。党の目を通じてみることによって、はじめて現実を見ることができる。…(中略)…それには自己破壊の行為、意志の努力が必要となる。正気になろうとすれば、まず謙虚にならねばならない。」
党の理論です。自然に見えているものが現実ではない、というのですから、かなりの努力が必要なのです。そして、努力の結果身につけた現実認知の方法は<二重思考>と呼ばれます。物事を党の思考で二重に考えるということです。しかもそれは認識されず、自然に行われるので、<二重思考>だと意識されることはありません。ウィンストンは生きるために、無理にこの能力を身に付けなければなりませんでした。

しかし、私たちの世界ではおそらく、<二重思考>は陥るものです。私たちは普段自分の言葉で考えているようで、他の人の言葉、理論で考えていることはあると思えます。しかし、それは他の理論が入り込まない、閉鎖された場所では決して気づきません。
例えば、マスコミが連日、「麻生政権は政権維持に失敗した」といいつづけます。その理由も挙げてくれます。では、「実際に」、麻生政権はなにをしたのでしょう?報道されている以上に、いろいろなことをやっているわけです(【参考】衆議院―議案:http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_gian.htm)。
マスコミは彼らの理論にしたがって、伝えるべき事実を選択しているわけで、起こっていることすべてを伝えているわけではありません。しかし、今、伝わってくるものだけが実際に起こっていることだと考えていませんか?そんなことない、というかもしれません。指摘されれば分かるでしょう。しかし、<二重思考>とはそういうことではないのです。いつも自然にやっていることなのです。自分の理論ではなく、マスコミの理論で、マスコミの言いたいことを証明するための現実を見せられ、ものを考えている(可能性がある)のです。
別にマスコミ批判がしたいわけではありませんし、政権養護がしたいわけではありません。ただ、<二重思考>というのは、意外と起こりうることなのだとふと思いついただけなのです。マスコミにとって、日本は閉鎖された空間です。しかも日本人の多くは日本語しか話しませんから、他の国から他の理論が入ってくることはなかなかありません。考えてみると、意外と閉鎖されているんですよね、日本という国は。とはいえ、そうやって考えていくと、実は閉鎖されていない国なんてないのですが…。
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by nino84 | 2009-08-09 15:04 | 読書メモ

『幽霊たち』

『幽霊たち』(ポール・オースター、柴田元幸訳、新潮文庫)を読みました。

ブルーはホワイトから依頼を受け、目的も終わりも告げられないまま、ブラックの見張りをはじめる。ブラックは一向になにも起こさない。ブルーはホワイトのこと、ブラックのことを考えながら、仕事を続けていく…。

久しぶりの更新です。ここで文章書くくらいなら、別の文章書けって話ですが、現実逃避くらいさせてください。そんなわけで、ポール・オースターの『幽霊たち』です。

本作、登場人物の名前からして、その人物を大衆の中に埋没させてしまうような印象の作品です。話としてもなにが起こるわけでもありません。ただ、淡々と日々がすぎていくだけです。ホワイトから依頼を受けたブルーがブラックを見張るという、ただそれだけの話です。
ブラックはほとんど誰とも接触せず、ただ窓辺で本を読み、ものを書き、時々買い物や散歩のために外出します。そのあまりに平坦な日常を見張ることを依頼された私立探偵のブルーは、最初それが自らを欺くための行為だと思い、ブラックの一挙手一投足を逃すまいとします。しかし、日々を重ねる中で、ブルーはブラックが何ら事件性のない人間であるのではないかと疑い始めます。ブルーの観察眼を越えたものなのか、それともただの一市民なのか。依頼主ホワイトは何も答えをくれません。ただ、ブルーが一人で想像を膨らませるだけです。想像を膨らませるだけですから、現実には何も起きません。現実はただ平坦にすぎていき、ただブルーの心中だけが嵐のように波打ち、彼の精神はやつれていきます。
今も、先も見えない曖昧な状況は人の神経をすり減らしていきます。実際には、この曖昧な状況を解決するための手段はあります。ブルーが観察をやめればいいのです。しかし、それはブルー自らの職業的アイデンティティーを崩すもので、それは拠って立ってきたものを失わせる行動です。彼はその選択肢を思い浮かべながらも、やはり想像、可能性の世界で苦しみつづけるのです。

考えるということは可能性を広げることだけれども、結局、広げるだけで、動くには考えるのとは別の力が必要になるみたいです。可能性の中からひとつを選び取るには意志がいるのです。実際には、常に意志は働いていて、現状にとどまるという選択も意志ですから、ブルーにそれがないというのではありません。可能性のなかでもそれを実際に選び取る際のリスクは異なり、可能性を選び取るということには、リスクに見合っただけの誘因が必要になります。
考えるだけでは、実際になにもおきないのです。しかし、人間は何も起きなくても苦しむのです。可能性の世界に迷い込み、リスクを天秤にかけ、身動きがとれなくなり、追い詰められていくのです。本能で動くのでなく、考えることができ、様々な可能性を選び取ってきたものがいたからこそ、人類は発展しています。その一方で、考えるという作業そのものは、周りになんら作用せず、その人自身にとってのみ影響します。だから、人は、実際にはかなり小数でしょうが、客観的に観察できる状態では突然変わったということも起こり得ると思えます。

ただブルーが考えつづける作品ですから、そんな風に考えるということ自体について、その意味について考えてしまいます。アメリカの作家は、質実剛健で、男前な印象を受ける人が多いかな、と勝手に思っていますが、そういう作品群とは少し毛色の違う作品のようです。フランス人作家といわれても、納得はしそうな気がします。
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by nino84 | 2009-07-04 00:18 | 読書メモ

「生きてるだけで、愛」

「生きてるだけで、愛」(本谷有希子、『生きてるだけで、愛』新潮文庫収録)を読みました。

あたしは最近、鬱はいってて、眠くて仕方がない。ネットで検索したら、過眠症というらしい。そんなでも、あたしは津奈木と同棲している。でも、津奈木はいっつもあたしを放っておくし、そりゃ、あたしは寝たいし、そんなときに声かけられてもウザいけどさ。津奈木があたしをないがしろにして、楽してるのは耐えらんない。いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなぁ。

1週間は早いですね。この間、「キッチン」の感想を書いたと思ったら、もうその週の週末です。

閑話休題。さて、今作、なんでも芥川賞候補になった作品だそうです。特別に、賞の名前で本を読むわけではありませんが、芥川賞は短編、中編がそのメインの候補作となるので、良作の一つの目安として、活用させてもらっています。新しい著者の作品というのは、人から勧められない限り、手にとるのは難しいですからね。

そんな本作ですが、内容は、どこか金原ひとみさんの作品を彷彿とさせます。俗に言う「メンヘル」(メンタルヘルスを害している人たち…という表現が正しいのか、どうなのか。おおよそこうした意味でネット上では使われているよう)を主役にした作品です。金原作品ではそれが直接表現されることはないですが、本作では「メンヘル」という言葉も登場し、直截的に描かれます。
以前に金原さんの作品のいずれかを読んだ際にも感想に書きましたが、現代は、こういう作品が描かれ、そして大衆に読まれる時代なんですよね。私見ですが、結局、神経症レベルの症状(所謂アパシー的なもの)は、(そこそこ相談すれば)解消する(この表現が妥当だとは思わないが、)という認識が社会に生まれつつあるように思います。そういう社会レベルの認識の変化は、もちろん個々人の認識のレベルが全体的に深化していることをさしているでしょう。そうした意識の深まりはすなわち、自分の(あくまで神経症レベルの)問題に意識を向けることを促進します。自分の姿を客観的に眺めることができれば、それだけ解決作も自ら立てやすいと考えられ、そのレベルの病理は勝手に解消されていく可能性が高くなっていきます。
客観視の例として、最近では、中学2年生くらいの心性を「中二病」と称していることが挙げられます。これは専門家がどうこういうのではなくて、社会が中学2年生くらいはこういうものだという認識が生まれていることに他なりません。そのため、中学2年生が自己の心性を知るということは、発達の最近接領域ですから、ふとしたことで、自分の状況を認識しやすくはなっているはずです。その結果、妙に聞き分けのいいどこかスレた中学生や、逆によりその心性を高めるように深みにはまっていく中学生がうまれたりするのでは、と考えたりします。
話を戻せば、結局、神経症レベルの問題は、社会に認識されていくことで、独力で解消する、あるいは逆に深みにはまっていくというどちらの可能性をも増加させたといえるのではないでしょうか。もちろん、誤解のないようにいっておけば、私は誰も彼もがそのように移行するのだ、とは思っていません。それは個別性が高いことだと思えます。

私見はこれくらいにしておきます。とにかく、神経症レベルの人たちの悩みはこれまでの時代の文学で描かれつづけてきたといっていいわけです。合理的に考えて、悩んでいることが読者に納得され、客観的に矛盾のない考えで行動し、その結果として問題を解消したり、問題に飲み込まれたりする主人公を文学は書きつづけてきたのです。
しかし、最近はそうでもない印象をうけます。すなわち、了解不能な考えで行動する主人公が多いように思います。本作もそんな作品で、主人公はただの鬱ではなさそうな感じがします。もちろん、主人公は著者の創造ですから、このように振舞う人間がいるとは断言できません。ただ、作品の中でキャラクタ―として存在できている以上、おそらく現実にも存在し得るでしょう。

…大変です。まとまらなくなってきました。今更ながら、書きなぐれる話ではなかったな、と思います。以下、本作の内容に触れて、無理やりまとめとします。

「いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなぁ。」
結局、この作品はこれに尽きると思います。自分は自分をやめられない。自分がどれだけ理不尽か、わかっちゃいるけど、やめられない。その悲しさ。でも、それを受け止めてくれる人がいたら、それはとてもうれしいことではないでしょうか。とはいえ、自分でもわからない状態をなんで他人が分かるのか、分かるわけがないと思っている人ですから、体験として、人から分かってもらえた瞬間はすごく貴重な一瞬だろうと、想像します。なんとなく。
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by nino84 | 2009-04-26 00:57 | 読書メモ

「キッチン」

「キッチン」(吉本ばなな、『キッチン』新潮文庫収録)を読みました。

私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。世話をしてくれていた祖母が死んで、私は誘われるまま大学の同級生であり、祖母の知り合いであった田辺雄一の家に招かれた。彼の家の台所はとてもいい台所だった。彼の父であり母と、雄一と私。奇妙な3人の暮らしが始まった。

久しぶりの更新になりました。一度書かなくなると、ダメですね。復帰に時間が掛かります。2、3週間、放っておいてしまって、なんだか、記憶が消えつつありますが、とりあえず、書いてみます。本書はベスト・セラーになったので、説明もあまりいらないでしょう。まだ読んでいなかったので、いまさらですが、とりあえず読んでみようと、ふと思い立ちました。

さて、本作の主人公、「私」は祖母をなくし、身寄りをなくしてしまいます。そんななかで、田辺雄一に誘われて、彼の自宅で母と3人の共同生活に入ります。彼の母は、母とといっても、戸籍上は父親で、妻に先立たれて、他の人を愛することはないからと、女性になった人です。
彼らはとてもやさしく、穏やかで、「私」の元彼、宗太郎のもつやさしさとは別種の安らぎを「私」に与えてくています。「私」が欲しているのは、安らかな時間であって、社会の中で上手く生きていくということではないのでしょう。宗太郎ならば、新しいアパートを探して、大学に通わせて、ということをするだろうと、「私」は思います。でも、雄一たちはそのようなことはしません。ただ、家にいさせてくれる。「私」が身寄りを失い、喪に服する時間を、彼らは保障してくれるのです。その安らぎのなかで、「私」は少しずつ立ち直ってきます。

「人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの」、雄一の母、えり子はいいます。「私」はそれが「わかる気がする」といい、祖母をなつかしむのでした。

喪の作業というのは、必要なんですよね、きっと。でも、それを社会は許してくれない。もちろん、忌引きという形で、通夜と葬式くらいはさせてくれるけれど、それはそれだけのことです。それは通過儀礼であって、それでもって、すべての幕が引けるというわけではない。人を失うという喪失感をやりくりできるようになるまで、本来なら時間をかけるべきなのでしょう。日々に追われ、喪に服することを忘れてしまった現代の悲しさを感じずにはいられません。本作にただようやわらかさは、それをつかの間でも与えてくれるものであったと思えます。
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by nino84 | 2009-04-19 22:50 | 読書メモ
『ぼくは勉強ができない』(山田詠美、新潮文庫)を読みました。

ぼくは勉強ができない。でも、それよりも大切なことはあるはずだ。女にはもてるのだし。


本書もまた、借りた本です。短編集なので、本来なら小分けにして書くべきなのですが、借りた本ということもあり、まとめてかきます。もっとも、短編集とはいえ、主人公を一にしたオムニバスの作品ですので、まとめて書いてもそれほど違和感はないのかな、と思いもします。

さて、本書の主人公、時田秀美は17歳の男子高校生です。勉強は苦手ですが、女性にはもてて、今も年上の女性と付き合っています。家では、母と祖父との3人暮らしで、母の浪費が原因で、貧乏くさい生活を余儀なくされています。
本書は、そんな主人公の学校生活を淡々と描いています。淡々とと書きましたが、主人公がサバサバしているため、そんな印象をうけるのだと思えます。スれているというか、達観しているというか。学校という勉強ができることが最大の価値であるとされる場所において、それはできないものとして、別のところに自分の価値を見出す、見出そうとする。そんなところが、彼を一見して強くみせています。しかし、彼自身、それが行き難いことだと認識し始めており、自分がそういった価値観にいることを、全面に押し出すことは、周りの関係をギクシャクさせることもあると、体験的に知っていきます。
彼は本音と建前の使い分けが十分にできず、つねに本音で自分の価値を脅かすものに立ち向かっていくのです。結果、彼に対峙したものは、自分の価値観に真っ向から対決を挑まれる形になり、彼を一緒にやっていきづらいものとして認識するのでした。

そんな彼を支えているものは、そうした彼の生き方をよしとする母であり、祖父であり、年上の恋人であり、またサッカー部顧問の桜井先生であったりします。彼らは、勉強だけに重きをおかないという点で、彼のよき理解者です。そうした保障のなかで、ときに、桜井先生や祖父は彼を気遣い、アドバイスを与えたりもするのです。
そうやって、本音と建前の表出の仕方を調整をしていくなかで、それがいいかどうかはともかく、人間は丸くなっていくのでしょう。たとえば、彼は、独りは寂しいということをしりながら、しかし、そのやりかたゆえに独りになりかねない状況にありました。そうした状況は、彼にどうやってそれを避けるようにやっていくかということを考えさせるのです。こうして自分の価値観のなかにまわりの価値観を合致させていくような、芯のしっかりした人物というのは、尊敬に値します。
もちろん、自分の価値観のみで世間でやっていける主人公の母のような人も時にはいるようで、それがまたかっこいいのではありますが、そんな無茶な、と思いもするのです。それに比べると、主人公のとっている方法、自分の価値観のなかに他者の価値観を取り入れていくというのは、ずいぶん現実的です。
現実的ではありながら、広くいわれている価値観で生きるのではなく、自分の価値観、信念をもっているというのは、やはりかっこいい生き方といわざるをえない。
そうした普通とは少し違った生き方は、それだけエネルギーが必要とされる生き方でもあります。彼の行動からは、そうしたエネルギーが感じられ、それが彼のかっこよさ、ヒロイズムにつながっているのだと思えます。
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by nino84 | 2009-03-25 01:54 | 読書メモ

『鴨川ホルモー』

『鴨川ホルモー』(万城目学、角川文庫)を読みました。

ホルモオォォォォォ!今日も京都の街に叫び声が響く。
俺は京都大学に入学し、京都青竜会に勧誘され、そのままホルモーなるなぞの競技に参加することになった。なんでも4チームの対抗戦らしいのだが…。



今回もやはり借り物です。2人の人から「ただただ面白い、訳わからないけど」という同じような感想をきき、勧められ、そのまま借りてしまいました。なんでも『鹿男あをによし』の著者のデビュー作なのだそうです。
読んでみての感想は、やはり「ただただ馬鹿らしく、面白い。でも訳はわからない」というもので、ここまでくると、誰が読んでもそんな感想を持つのではないかと、思ってしまいます。


さて、本作はホルモーという競技をめぐる物語です。その競技の実態について記すと、おそらく本書を読んだときのおもしろさが半減してしまうので、これ以降にも競技の詳細は伏せておこうと思います。
ただ、その競技に負けると、ホルモオォォォォォォ!と所はばからず叫びたくなり、また、突発的にチョンマゲにしてみたくなったりしてしまうのです。怖いですね(笑)

ホルモーという競技をするサークルの話ですから、人間関係であったり、恋愛模様であったりといった大学のサークルらしい描写もあるにはあるのです。しかし、そこで作り出したシリアスな感じも、チョンマゲの存在によって、どうもシュールな笑いを含んだ場面に落とし込まれてしまいます。結局、シリアスな場面は、次にくる爆発のための溜め、間、にしかすぎません。基本的には全編、馬鹿話です。もちろん、主人公たちはホルモーを本気で行うのであって、その態度自体は非常にまじめです。しかし、いかんせん、チョンマゲです。
バカなことは、本気でやるから面白い、というのを地でいく作品になっていると思います。
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by nino84 | 2009-03-22 21:51 | 読書メモ

「オルタ」

「オルタ」(木地雅映子、『氷の海のガレオン/オルタ』ピュアフル文庫収録)を読みました。

オルタはアスペルガー症候群の女の子です。彼女は隣の席の男の子から、一方的に苛められます。その子は突然パニックになったりと、周りのサポートがないとやっていけない子でした。したがって、先生は被害者であるオルタよりも、その子のことを気にかけます。親である私は、オルタに学校に気をつけろといいました。


昨日に引き続き、木地さんの作品です。今作も世間になじめなさを感じている子を中心に据えた作品ですが、「氷の海のガレオン」が本人目線であったのと異なり、母目線の作品となっています。すでに本を持ち主に返してしまったこともあり、十分に内容を振り返れないかもしれませんが、覚えている範囲で感想を書いていこうと思います。

さて、冒頭で述べたとおり、本作のタイトルにもなっているオルタはアスペルガー症候群の女の子です。物語の冒頭で、男の子に苛められるわけですが、その子もまた、自閉症スペクトラムあるいは精神遅滞らしく描かれています。
その男の子がオルタを苛める。被害者と加害者という枠ができて、しかし、そこでは男の子のハンディキャップが大きく取り上げられることで、オルタはあまり省みられることがありません。オルタは「自分がなにか悪いことをしたのだ」と考え、問題を外に出すことはしません。したがって、先生からすれば、適応している子です。そのために、よりハンディキャップのある男の子をあたたかく見守るという選択肢をとります。
男の子は常に問題を外に出す子で、したがって、その子をクラスで支えていこうという先生は、集団を運営していく上では、正しい。しかし、オルタはどうなる?と母としては思うのです。母は常にオルタの味方で、したがって、その先生の方針とは相容れません。

なにを大切にするか、ということで物事の対応は全く異なったものになります。母は、オルタの特徴を良く知っており、したがって、オルタを懸命に守ろうとします。先生はオルタのことを十分に知りません。また、同時に多くの子のこともかんがえなくてはなりません。したがって、オルタへの対応を十分にすることはできません。それを承知した母は、オルタを学校に行かせないという選択肢をとります。

どんな環境が子どもにいいのか、というのは、それぞれに異なります。学校という環境設定は、定型発達の子どもたちにはその発達段階にあった環境を提供してくれますが、自閉症スペクトラムの子どもたちにとっては必ずしもそうではないでしょう。刺激が多ければ、パニックになるかもしれませんし(こういう方法は過多になった刺激を処理する方法です)、発達がゆっくりであり形式的操作のレベルに達することが遅く、ものごとの処理が遅くなる、そもそも内容の理解ができないといったことで、同年齢集団の中での集団教育では上手くやっていけないことがでてきます。近年では、そのために特別支援で個別指導計画の必要性が叫ばれていたりするわけです。
ここでは、母は、オルタの個別支援の方法を考え、結果として学校に行かせないという選択肢を選んだわけで、決して「学校に行く意味なんかない」といっているわけではないのが重要でしょう。オルタについていえば、適切な環境を学校側がとってくれるなら、オルタは学校にいけるわけです。学校に行くことについて考えたとき、メリット―一般的知識の習得、友人関係をつくる、親から離れて活動するなど―と、デメリット―今回は、特定の男の子との関係性のなかでオルタが自尊心をなくしていくこと―を比べて、デメリットがオルタにとって将来的にフェイタルであり、メリットよりも大きいと考えられたための選択でしょう。
なんにしろ、安易に、学校に行かなくてもいいんだ、と考えてほしくはないところです。これは自閉症云々に限ったことではないと思いますが、その子にとって今、大切なことは何かというのをよく見ていく必要があるということでしょう。それをしなければ、適切に動くことなどできはしませんから。


「氷の海のガレオン」に比べると内容的に難しいように思えますが、面白かったです。最近、学校教育で必要だといわれていることを母の視点から上手く書いているかな、と思います。
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by nino84 | 2009-03-21 22:32 | 読書メモ

「氷の上のガレオン」

「氷の上のガレオン」(木地雅映子、『氷の上のガレオン/オルタ』ピュアフル文庫収録)を読みました。

斉木杉子、11歳。私は自分が天才だと自認している。他のクラスメイトには私の言葉が伝わらない。ある子は私を「友達」だとよってくるけど、それはどんなものなの?
家に帰れば、そこには図書室とハロウがいる。そこでなら、私の言葉が通じる。だから、学校なんてなけりゃいい。



普段あまり読まない類の本を読んでみました。借りたのですが、その人も人から勧められたそうで、こういうのを口コミで広がる、というのでしょう。文庫のレーベル名も知りませんでしたから、ホントに接点のなかった本といえます。

さて、本作の主人公は小学生の女の子です。彼女には、2人の兄がいて、父と母の5人暮らし。父は、杉子からみても、なにをしているかはっきりしない人で、ふっとどこかへ旅に出るかと思えば、またふと戻ってくるような人です。その留守を守る母は詩人。
杉子の家では彼らの家族のなかでしか通じないような言葉が飛び交います。それは杉子らが独特な生活をおくっているからですが、杉子はそこからくるズレをこれまで感じてはいませんでした。しかし、11歳になって、今、彼女は周りとのズレを感じ始めます。

普通の父は突然、家庭を放りだして、旅に出たりはしません。でも実際には出て行ってしまう父。母もまわりの大人も、それを別に問題とは思っていないようです。人と違うことに対して、すこし意識してしまう時期。でも、その感じを父も母もただ問題ないと言っているようにみえます。受け止めてもらえていないように感じるのです。そこででてくるのがハロウです。ハロウはいつも家にいて、つねに杉子やその兄の気持ちを受け止めてくれます。また、杉子は学校でも話の通じる大人と出会います。それは音楽の先生でしたが、杉子は学校でもその人のところに通い詰めになります。そして、クラスでははますます影を薄くしていきます。
ハロウや音楽の先生に支えられ、杉子は少しずつ感じているズレを意識化していきます。そして、音楽の先生から、母の言葉を聞き、母のやさしさを感じ取るのでした。


言ってしまえば、親父しっかりしろよ、という話かな、と思えます。父は自分の生き方をその家族に押しつけているにすぎません。もちろん、「それぞれがそれぞれでいい」というのは聞こえはいいですし、それはそうだと思えます。しかし、だからといって、放っておいていいということではないでしょう。生き方で示している、ということもできるのでしょうが、どうでしょうか。それを子どもが分かる年齢かといえば、少し疑問です。
もう少し成長すれば、それもわかるのでしょうが、杉子はまだそれが分からない年齢だと思えます。彼女はやっとズレを認識し始めた年齢なのですから。話のなかで、杉子は成長していって、ガレオンが氷を砕いて新たな陸地に着くように、苦しさを乗り越えて新たな地平に到達するのですが、それにしたって、ハロウの助けがあってこそです。結局、父の背中だけをみて、というのは難しいのです。ハロウが父性を担っているのは話としてはともかく、家族としてはどうなのだろうか、と思ってしまいます。
家族という点から言えば、杉子には、兄弟が3人いることで、助かっている部分はありますし、またハロウの存在や、音楽の先生の存在が杉子をサポートしています。そうしたサポートがあるからこそ、杉子は父や母になんとかついていけているといえるように思えます。
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by nino84 | 2009-03-20 10:54 | 読書メモ

「沖で待つ」

「沖で待つ」(絲山秋子、『沖で待つ』文春文庫収録)を読みました。

私と太っちゃんは福岡の営業所の同期でした。赴任の挨拶、先輩のもとについての研修、そして独立してからの営業。ときには街に一緒に繰り出したりもしていました。私たちは同期として互いに支え合っていたのです。そんな太っちゃんが死にました。
私は太っちゃんとの約束を果たすために彼の自宅へと向かっている。


前回の「勤労感謝の日」について書いてから、かなり時間が経ってしまいました。その間に2冊も読んでしまいましたが、あらためて『沖で待つ』に戻ってきました。今回扱うのは、表題作であり芥川賞受賞作品である作品です。

さて、本作の主人公、「私」はとある会社で働く女性です。本作はそんな「私」と太っちゃんとの関係性を描いています。女と男でありながら、そこには恋愛感情ではない、全く別種の信頼関係がある、そんな独特な関係を描いているのです。

考えてみれば、会社というのは人生でもっとも長い期間所属している場所です。その長い職業生活のなか、一番最初の赴任地で共に苦楽をともにしてきた人。互いに支え合い、互いの成功や失敗をずっとみてきた人。互いに別の営業所に異動しても、また再会すればそのときの思い出話に花が咲く。互いに別の場所にいても、同じ会社にいるわけで、そこで積んでいくキャリアは似たようなものになるのでしょう。だからこそ、たまの再会でも互いの話でもりあがれるのでしょう。社会人としての根っこが同じだから、どこか特別な感じがする人。それが同期なのだそうです。

私がまだ若輩なもので、こういう感覚はなかなか共有しにくかったりします。もちろん、男女間で友情が成り立つとは思うのです。たとえば、小中学校の同級生と会えばまたそれはそれで男女関係をさっ引いて話もできるというものです。しかし、小中学校の同級生は根っこはおなじなのでしょうが、その後の進路が大きく異なっていきます。高校を卒業してすぐに働き出す人、大学に行く人、大学院まで進む人、フリーター、会社員、医者・・・。根っこが同じであっても彼らの可能性は無限にあるのであって、その後の人生を共有することは、それぞれが想像を逞しくしなければ、簡単にはできません。
その点、会社の同期は違います。同じ会社で働き始め、そこでキャリアを積んでいくのだから、話が共有しやすい。そこでは、小中学校の同級生とはまた別の関係が生まれてきましょう。

そうはいっても、実感が湧かないこともあり、上記のようなことでちょっと分かった気になるくらいなものです。それまでの関係との違いはそうして理解しうるものの、やはり実感が伴わないこともあって、どうもしっくりきません。まるで男女間で友情とかいった関係が成立しうるのは特別なことだ、といっているように思えてしまうのがなんだかいけません。
おそらく筆者が言いたいのは、そこではなく、会社の同期の関係性でしょう。そうしたことからいえば、性別の差異が扱われているのは、おまけにすぎないと思えます。あるいは、女性側の視点からみれば、男性と同等でいられるという点において、重要なことなのかもしれません。著者は女性ですし、会社で働いた経験もあるということで、おそらく会社の中では性別による差(別)を感じながらも、同期という関係においてはそれが特に気にされるような関係ではないと感じたのでしょう。ただ、男女という部分が否応なく強調されてしまうので、私としては少し違和感のあるものとなってしまいました。
もちろん、同期の関係性の特別さ、というのがそのことで損なわれているわけではありません。むしろ、異性間でのそれを描くことで特別さが強調されている面もあります。ただなんとなくピンぼけかな、という気が私はしました。

とはいえ、経験が決定的に不足している私が頭で理解していることですから、現実はまた違うのかもしれず、働いて長い人が読んだら、また別の感想を持つのかもしれませんね。
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by nino84 | 2009-03-06 22:37 | 読書メモ