本の感想などをつらつらと。


by nino84
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カテゴリ:読書メモ( 252 )

『ロベルトは今夜』

『ロベルトは今夜』(ピエール・クロソウスキー、若林真訳、河出文庫)を読みました。

オクターヴは定年間近にその行動によって大学を追われた神学教授であり、その妻ロベルトは、カルヴィニストである。オクターヴは客人をロベルトに近づかせ、不倫の関係を結ばせてもてなしていた。

さて、だんだん訳の分からないところに迷い込んできました。本書はバタイユの友人のフランス人、ピエール・クロソウスキーの作品です。正直わけ分かりません。
さて、本書『ロベルトは今夜』には、表題作「ロベルトは今夜」に加えて「ナントの勅令破棄」が収録されています。クロソウスキーは、後に本書に収録されたものに「プロンプター」という作品、「はしがき」、「あとがき」を加え、『歓待の掟』という一冊の本にまとめています。したがって、本書は、『歓待の掟』の部分訳ということになります。手軽に手に取れるクロソウスキーの著作ということになっているのでしょう。

一応、一冊通して読み切りましたが、さっぱり分かりません。キリスト教についての理解がさっぱり足りていないから、という原因がはっきりしているのがまたなんとも…。
どうもベースはサドらしいのです。すなわち、肉の陶酔を感じるとは、戒律を犯すという行為である。それは戒律を信じていなければできない行為であり、したがって、肉の陶酔を感じられるものこそが、キリスト教的な戒律を信じているものであり、信心深いものであるのです。サドはこの段階まで進んできました。それは描き方としては繰り返しそれを描くことによって、そこからえられるものを描いたのです。サドの著作は『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』の抄訳、『新・ジュスティーヌ』などを読みましたが、たしかに、悪徳の限りを描くのです。私は、それは反面教師的なものであると、受け取りましたが、キリスト教的な考え方では、どうもそうではないらしいのです。もう、読んだのがかなり前であることもあり、以前ここに書いたこと以上のことは思い出せないのですが、キリスト教の臭いってそんなにしたろうか…。いや、キリスト教を超えるという意味で解釈したと思うので、たしかに書いてあったのでしょう。なんともいえません。
いずれにせよ、そのうえで、本作です。ここではサドのように悪徳の限りを描くのではありません。よりはより直接的に肉の陶酔の意味を描くのです。そもそもクロソウスキーが描くのは、ニーチェによって、神が殺されたあとのことです。それでも彼は神を信じるのです。肉の陶酔を用い、神に出会うのである。

オクターヴは、カルヴィニストである妻ロベルトに客人との関わりを通して原罪の意識を感じさせ、そこから戒律の存在を認めさせようとするのである。戒律の存在を認めさせるためには、原罪を犯させなければならないのである。
そして、私は最終的な結論があまり分かっていません。そもそもカルヴィニストの理解が完全ではなく、こうした信仰をもつ人の信じるものが十分に理解できていません。漠然と理性だけを信じているらしいのですが…。神の存在を信じる人と信じない人の争い。それはすなわちニーチェ以後のキリスト教が取り組まなければならないことであったでしょう。その結論は、とても重要なのでしょうが、全体を一読しただけではそれを捉え切れていません。

そのうちに読み返そうと思いますが、今はそんな時間もパワーもありません。
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by nino84 | 2009-01-27 23:29 | 読書メモ

『アッシュベイビー』

『アッシュベイビー』(金原ひとみ、集英社文庫)を読みました。

私は、大学の同級生ホクトとルームシェアをしている。互いに部屋に入らず、干渉せずに暮らしてきたが、ある日、私はホクトの部屋に赤ん坊が連れ込まれていることに気づく。私は子どもが嫌いだ。そして私の体と精神が私に対して反乱を始めた。


また金原ひとみさんです。なんかこの短期間に2作も読むことになるとは思いませんでした。『AMEBIC』がよかったので、こちらも呼んでみようかと思いまして、今にいたっています。これもやはり読み終わってから1週間ほど経過してしまいました。それでも少しでも書いておこうと思います。

さて、本作の主人公はアヤというキャバクラ嬢です。先述のとおり、大学の同級生であるホクトとルームシェアをしています。そんな状況ですが、アヤは、ホクトは恋愛対象としてはみられず、むしろ彼の同僚、村野さんに好意を寄せています。
アヤとホクトはそれぞれの部屋に足を踏み入れることなく生活してきましたが、赤ん坊の声が、否応なく彼女をホクトの部屋に導きました。結果として、赤ん坊は、アヤとホクトの互いに独立しながらも自然であったルームシェア生活を、破壊しました。
アヤ自身が好意をもちながらも、友だちの友だちという遠い存在である村野さん、アヤはなかなか接触ができません。そんななかで、ホクトは赤ん坊にだけ興味を向けるということが明らかになり、アヤは自分が見捨てられたような、阻害されているような感覚を抱きます。アヤは自分の腿に果物ナイフを突き立て、そしてアヤの叫びが溢れてきます―「誰でもいい。求めてよ」、「大丈夫なの? って心配してよ」、「とにかく私だけ愛して欲しいの」、「っていうか、愛すな」。

『AMEBIC』同様、この時点で主人公アヤの水準の話に持っていくのが非常に自然だと思える私は、そういう学問分野にそれなりに染まってしまった人なのでしょう。子どもが嫌いなアヤが、近くにいる人を赤ん坊にとられるという体験。そもそも、子どもが嫌いだということの原因―これはあまり明らかにはなっていないように思うが―や、現在の環境で満たされない部分―村野さんに接触できないことなど―といった環境因も絡んでの、崩壊。現実生活はそれなりに送れている―次弟にあやしくなってきますが―様子ですが、なにかまとまりが緩んでいるように感じられます。
そのような状態になったアヤは、村野さんの影を追い求め、近しい人と次々とまぐわります。そして、村野さん自身ともまぐわるに至り、彼女は「彼を自分の物にするには、やっぱり殺してもらうしかないような気が」します。村野さんに殺されることで、彼女の好きという気持ちは固定化されて、ずっとそのままの存在でいられます。加えて、その無茶な願いをかなえてくれることは、それほどに村野さんは私に注意を向けてくれるという証拠でもあります。その後者の事実までも死んだ私は私の中に固定化することができます。なんと幸せなことか。
しかし、村野さんはそんなことはしてくれない。だから、アヤは形をもとめて、村野さんと結婚をします。そのようになっても、アヤは村野さんからの気持ちを感じることはできません。その怒りは、好意を寄せる村野さんにはむかず、弱いものに向かいます。すなわち、近所の小学校の鶏であり、同僚のオバさんであり、ペットショップのウサギであり、そしてホクトのもとにいる赤ん坊…。アヤはホクトに鶏、ウサギとまぐわらせ、破壊します。そして赤ちゃんをも破壊させようと試みますが、それは拒否されます。どれだけ他者を破壊しても、アヤは殺されず生き残ってしまいます。
こうして、生き残ってそして…、というところで、物語は唐突に終わっています。アヤは死にはしませんでしたが、アヤという自己の存在が消えたと読めます。


こんな自己の世界に生きているひとはいるのだろうか。これに真に理知的でなく共感できる人はいるのだろうか。そんなことを考えながら読んでいましたが、人の世界って分からない、難しいものね。
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by nino84 | 2009-01-21 02:31 | 読書メモ

「眼球譚」

「眼球譚」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川文庫収録)を読みました。

私は16歳のとき、シモーヌと出会った。あらゆる機会をみつけては、私たちは異常な行為にふけった。その行為には友人のマルセルをも巻き込み、そうした行為の中で彼女を自殺に追い込む。その後、私たちは、スペインやセヴィリアにおもむき、そこでも異常な行為にふけるのであった。

本作自体は、随分前に読んだのですが、なかなかこれを書けるような状態になりませんで、気が付いたら、1週間近くも更新しないという状況になってしまいました。前置きが長くなると、面倒なので、早速本題に入ります。

さて、本作は前回同様、フランスの作家、ジョルジュ・バタイユの作品です。本作の主人公である「私」は同い年のシモーヌと異常な行為―スカートを捲り上げてミルク皿に座る、尻で玉子を割るとか―にふけります。その行為は次第にエスカレートし、友人マルセルを巻き込み、自殺に追い込んでしまいます。その責任を逃れるためもあり、国を越えてスペインでは闘牛士の目が牛にくりぬかれるのを目撃し、セヴィリアでは「私たち」が冒涜し、殺した牧師の死体の目玉をくりぬき、それをつかって戯れます。そして、やはりその殺人の責から逃れるように各地を転々とするのです。ここまでが、本作の小説部分になります。
この小説部分以降は、「第二部 暗号」と称された文章が続きます。この部分は著者バタイユ―実際には著者はロード・オーシュ(バタイユの偽名)となっている―の独白の形で、この作品が暗に意味するところを記しています。バタイユはこの作品を「はっきり定まった意図もなく」書いていたが、作中のモチーフから、「私」がきわめてバタイユに近しいものであり、また、マルセルが自分の母のイメージを伴ったものであること、さらに《眼球》や《玉子》そして牛の《睾丸》といった一連の白い球の関連性について気づくに至ったということが記されています。
すなわち、バタイユは、この作品のなかに過去の父や母についてのエピソードの断片、あるいは象徴を見出すことができるというのです。そして、本作のように描かなければ、そうした想い出の生命を甦らせることができないともいいます―バタイユの父は盲人であり身体にも障害を抱えていました。そのため、用を足すのはベッドの脇だったのですが、そのときの父の目に《悲壮な誇り》をみたといいます。

情動、特に生気情動―ラベリングできる感情でなく、どのように感じるかの種別を示す―のようなものは、言葉として描くとその情動の示すところがずれていってしまいます。したがって、バタイユ自身が、父や母のエピソードを言葉で納得している以上、そのエピソードの記憶たちには当時の生の情動が伴われません。それは自分の中で諸事を意味づける行為であり、自己にその周りを取り込んでいくときに必要な行為だと思えます。
しかし、この作品はそうして意味付けしてしまったエピソードを当時どのように感じたかを「今、ここ」で感じるためのものであるといえます。性衝動の「今、ここで」という感覚は、言葉で定義しえない類の感覚でありましょう。こうした原初的な感覚とともに、かつてのエピソードの象徴を重ね合わされることで、かつてのエピソードを暗に、生のままで感じられるのでしょう。

なんにしろ言葉の枠を越えたものをどのようにして描けるか、ということに挑戦している作品であると思います。ただし、言葉の枠を越えたものの代表がエロティシズムであるという描き方になっており、―体験的には、それが最も強力で汎人間的であるからなのかもしれないが―なんとも殺伐とした作品になっているようには思います。
また、暗号と称して、象徴と性のエネルギーが一緒に描かれると、精神分析的に―すなわち第一部がそのまま著者の夢であるという理解のもとでの解釈の可能性を考えるー見たくもなってしまいます。ただ、初期の精神分析は、端的に言えば人間のエネルギーの源をリビドーに帰するような理論ですから、本書とは逆の関係になるのでしょうか。
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by nino84 | 2009-01-20 00:43 | 読書メモ
「エロティシズムに関する逆説」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川文庫収録)を読みました。

エロティシズムは人間にとって快楽でもあり、恥辱である。文学が逆説であるエロティシズムを扱えば、文学は更新の可能性がないために、ただの無益な反復となる。しかし、エロティシズム文学は、その繰り返しを描くことで不可能性を描き、エロティシズムを称えつつも、その重苦しささえも描くにいたった。文学は、不可能性を描くただひとつの声である。しかし、それは言語の可能性において、みじめな逃げ道の案出しようとしている。

入試の季節ですね。今週末がセンター試験のようです。こんな記事を書きながら、国語の問題を解いたらどれくらい解けるのかとふと思ったりします。9ページの論説文を200文字でまとめてみる…。こんな課題は2次試験的なのでしょうか。論旨を短くまとめる難しさを今更ながらに感じる今日この頃です。

さて、珍しく冒頭が時事ネタとなりましたが、本題に入ります。本作は、小説ではなく、論文です。所謂、文学の論文を読んだことがないのですが、大抵においてこんな難解なのでしょうか。彼らは難しいことをやっているのですね。一読して、誰にでも共有できるように、言葉の定義をきちんとしてくれたらもう少し易しくなるのではないかと思いました。ただ、言語の範疇を越えたものを言語を用いて捉えようとする試みなので、難解で微妙な言い回しが増えるのも仕方のないことだとも思えます。

本論文の論旨はできる限り著者(訳者)の言葉を用いて、簡単に上述したつもりです。とはいえ、あらためて自分の言葉で、論旨を書いていこうと思います。
エロティシズムが逆説―個人的には、パラドックスと言ったほうがおさまりがいいですが―であるために、ある種の結論を描いてしまう文学ではそれを描ききれません。しかし、それにもかかわらず、サドがその最初の限界を突破し、反復を描くことで、文学はエロティシズムに潜む不可能性を描きだしました。しかし、言葉にはそもそも限界があります。そして、その言葉で描くことができる部分を越えるところにエロティシズムがあります。しかし、言葉の限界を超えることは、詩で絶えず行われてきたことで、不可能なことではないのです。沈黙のなかにこそ描きたいものがあると考えることができますが、文学は沈黙でそれを描くのではなく、言語で沈黙を、沈黙の中にあるものを描かなければなりません。そのようにして、描かれたエロティシズムは、クロソウスキーの著作などにみることができます。しかし、彼以降、それに匹敵する小説は生み出されていません。このことは、文学の行き詰まりを意味してしまっています。文学は、更新できませんが、一面において、パラドックスを描きうるとすれば、その上でそれを固定しておけるのは、文学のみです。
以上、できるかぎり自分のことばで、論旨を書いてみました。やはり部分的に分からない部分―「死」が唐突に登場するあたりなど―があるのですが、全体としては、エロティシズムが逆説的なもの(パラドックス)であり、それを文学が描く意味をまとめていると思えます。

こうしたことをバタイユが述べているということは、彼の著作はこのような考えの上で書かれているということでしょう。彼の著作は、詩のような性格をもっているということは、確かにどことなく感じられます。また、サドの意義についての考察も面白く、なるほど、と思わされました。サドに関して、私は理性的な面を強調するために逆説的に書かれたものだと捉えましたが、確かに私はエロティシズムの快楽の部分を描いているということそれ自体から目をそらしていたのでしょう。また、『O嬢の物語』などは読んだことがないので、なんともいえませんが、…そのうちに読む、…のかもしれません。
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by nino84 | 2009-01-13 00:24 | 読書メモ

「死者」

「死者」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川書店収録)を読みました。

エドワールが息を引きとったとき、マリーは我を忘れ、陶酔感をえた。マリーは裸になり家を飛び出し、居酒屋でがぶ飲みし、乱れた。そこに現れたこびとの伯爵を誘い、そして、マリーはエドワールの後を追うように絶命する…。


昨日に続き、バタイユです。本作も、やはり死とエロティシズムがそこにつきまといます。
それにしても、結局、この人は人間のどの側面を書きたいのでしょうか。ストレートにエロティシズムについて描きたいのでしょうか。そうだとして、それをどこかで認めたくない自分がいたりして、どうもいけません。それに加えて、昨日からの読書の影響なのか、現実生活がどこかフラフラしているような気がしてそれもまたいけません。揺さぶられているのは分かっていたつもりですが、どうも思っている以上に揺さぶられているようです。そもそも現実生活に影響のある読書をしていてはいけない気がします。
こうしてエロティシズムを回避するような姿勢こそ、エロティシズムの扱い方を誤っているといえるのかもしれません。それはそれとして、あるものとして認めなくてはならないのでしょうし、また同時にそれが忌避したい対象であることも認めることが必要なのでしょう。このあたりは、同じ本に収録されている「エロティシズムに関する逆説」の冒頭で指摘されていますので、またの機会に考えることにします。
ともかく、エロティシズムについて描いているのでしょうから、やはりそれをなんとかして解釈するべきなのでしょうね。前回の記事はその抵抗があったのだとも思えます。

前置きが長くなりました。ともかく「死者」について書いていきます。本作の主人公は、マリーという女性です。
彼女は、エドワールに先立たれ、その死に直面し、彼女の胸に一種の空洞をもたらします。そのことが彼女に陶酔感をもたらします。そして同時に、エドワールの歎願。「最後に臨んで彼女に裸になってほしい」は、間に合いませんでした。しかし、彼女はその死による虚無からくる陶酔感によって、裸になり、家から飛び出すのでした。そして、そのまま、居酒屋へと赴き、そこで作男やピエロと戯れます。
さて、そもそも私はこの作品の最初で躓いてます。すなわち、死による虚無。それはいいのです。そこからくる陶酔感とはなんでしょうか。意味がないことが、すなわち陶酔感をもたらす…。言葉によって定義することは、そもそも感覚の一部を切り取ることですから、虚無のなかでしか、言葉のない世界でしか、本来の感覚を身体的に感じることはできない、と考えることは可能かもしれません。その世界にいるなかで、マリーはエドワールの歎願に基づく行動によって、死とエロティシズムとが結びついてしまったと考えればいいのでしょうか。そして、行動は生起さえすれば、それを定義しようとしない限りにおいて、それは本来の陶酔のまま続きますから、行動はエスカレートしてきましょう。
ところで、これは一般に、自暴自棄というのではないのでしょうか。その破壊衝動がエロティシズムにむくということ自体がまた意味があるということなのでしょうか。苦悩からつながる無から生まれる破壊衝動がエロティシズムと結びつく…。あぁ、なんかズレている気がするので、このあたりで考えるのをやめます。たぶん、前回の記事とは、私の解釈上の、死と虚無と陶酔の位置関係が違っています。なにが正しいのやら分からなくなりました。

そして最後には、またちょっとしたオチが用意されているので、それはそれとしておきましょう。なんにしろ、エドワールは死者の一人だったということでしょうか。そして、彼女は夜明けと共に絶命します。そして最後には、太陽だけが残されます。


…それにしても、結論までたどり着かないと、賛成も反対もできず、わからない、という判定しかできません。この記事を書く意味が薄くなっていきかねません。読解力がほしいです。

次回は、小説ではなく論説文なので、もうすこしテーマも分かりやすいはずだ、と祈っています。
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by nino84 | 2009-01-08 00:09 | 読書メモ

「マダム・エドワルダ」

「マダム・エドワルダ」(ジョルジュ・バタイユ、生田耕作訳、『マダム・エドワルダ』角川文庫収録)を読みました。

おれは、苦悩を和らげるために、「鏡楼」へと赴き、マダム・エドワルダを見出し、すぐさままぐわりはじめた。一旦の充足の後、おれたちはエドワルダの提案で外出し、そこでもまた。その後にのったタクシーの中では運転手も交えて。そして、目を覚ましたあとには皮肉な、待ちどおしい死への期待…。


久しぶりのバタイユです。かつて『空の青み』やらを読んでわけが分からなかったのにも懲りず、再挑戦ということで。再挑戦でしたが、あいかわらず、わけ分かりませんでした。そして、あいかわらず、そのわけも分からないままで圧倒されます。
とはいえ、これを読んで、これの感想を書いて…いろいろと大丈夫なのでしょうか。毎度この手の本は心配になります。でも、なんだかんだ書けるだけ書きますが、そもそも作品を自分があまり咀嚼できていないことで書けない部分が多いような気がします。

「もしきみがものに怯えているなら、この本を読み賜たまえ。だがその前に、聞きたまえ。もし笑いだすとすれば、おびえている証拠である。(後略)」という序文で本作は始まっています。たしかに、笑いというのは、すべての感情を混ぜっ返すように働きます。そのため、この作品を読み、引くようならば、あるいは読者は笑い出すでしょう。描かれるものの猥雑さをごまかしにかかるわけです。しかし、その笑いは逃げることであって、決して何かを得るものではありません。
本作の主人公、「おれ」は物語の冒頭、苦悩の中にいます。それを解決するために、まず簡単な方法として、酒を選択します。しかし、それでは苦悩を解決できず、「おれ」は別の手段にでます。すなわち、自分を裸にすること、そして娼婦たちを裸にすることです。
その手段のために、「おれ」はエドワルダを見出し、激しくまぐわります。しかし、一息ついて相手を見て微笑んだ瞬間に、その快楽は混ぜっ返され、「おれ」は惨めで、突き放された感じを受けてしまいます。エドワルダとまぐわり、その快楽を感じながら、しかしその微笑みによって、奇妙な宙づり状態に陥ります。まだ、「おれ」の苦悩は完全には解決されません。

そのままことをすませると、そこでは「おれ」とエドワルダは充足を感じ、真剣に見つめ合ったのち、ほぼ外套を羽織っただけの格好で、外出します。外出したエドワルダはぬけがらでした。
正直、このあたりからよく分かりませんが、そもそもエドワルダは<神>であって、苦悩とはかけ離れた人物で、常に無、という状態になれるのかもしれません。外出先でトランス状態になっている彼女の様子はそれを彷彿とさせます。すると、外出しようがしまいが、実はエドワルダは無で、ぬけがらだということになります。その状態の彼女をみて、「おれ」は不安になるのです。やはり端から見て何もないということは不安で、恐怖の対象です。そのため、「おれ」はやはり笑いたくもなるのでしょう。

そして、エドワルダが正気にもどったとき、すなわち無ではなくなったとき、彼女は身もだえ、苦悩しはじめます。その身や着衣を掻きむしり、そしてやはり倒れ込みます。彼女は再び虚無となり、意味の不在と、死者の衣が持つ意味の過剰とをそなえるにいたります。
虚無となった彼女は沈黙し、従って今の状況を笑い、混ぜっ返すものはいません。「おれ」はそれに苦しみます。「おれ」は虚無の前で、呆然とただ不安のままでいるしかない状況におかれたのです。そして、そのなかから「おれ」は、無でありながら意味の過剰も表現するエドワルダに導かれる形で、虚無の中から、機能停止の状態を導かれ(この2つの節のつながりは我ながらいまいちだと思う)、そして陶酔を見出しうるかもしれないという状況にまでやってきた。

そして、エドワルダが再び正気を取り戻したとき、今度は陶酔を見出しうるかもしれないところまでたどり着いた「おれ」が、エドワルダを導くのである。とはいえ、車内では、やはりエドワルダが主導権を握り、苦悩から(?)、運転手を誘い、「おれ」の横でまぐわりはじめる。そして、そこではエドワルダの痛ましい快楽を、「おれ」が冷ややかな沈黙の底で答えることによって、支えるのである。


…もう少し。あと本文4ページ位なんですが、結論にたどりつけそうにありません。ここまでがんばって本文を追ってきたものの、この論をどこに落ち着けられるのかを完全に見失いました。なんだこれは…。苦悩、虚無、笑い、死、そして陶酔…。どう絡まっているのだろうか。
苦悩を笑い飛ばすことが、陶酔へとたどり着くのを妨げる。苦悩のただ中でも、完全な陶酔が虚無を導く。虚無とはすなわち意味のないことであり、そこからふと我にかえれば、皮肉にも意味のないことを見出したために、死へのイメージがそこに浮かぶ…のか?
もっと死というのが手前にある気がするのだが、どうもうまくつながってくれない。「おれ」とエドワルダの立場の違いもあって、それぞれの状態がそれぞれに干渉しているために、このような単純な流れではないと考えられもするのですが…。
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by nino84 | 2009-01-07 00:50 | 読書メモ
『機動戦士ガンダムUC 7 黒いユニコーン』(福井晴敏、角川書店)を読みました。

ダカールで、黒い《ユニコーン》に捕縛されたバナージ。彼を乗せた《ラーカイラム》は、オードリーやリディも載せて、トリトン基地へと向かう。ジンネマン率いるジオンの一隊は、《ユニコーン》奪取の計画を立て、実行に移す。その混乱の中で、バナージはオードリーを奪還し、黒い《ユニコーン》とまみえ、マリーダとの接触を試みる。


ガルシア=マルケスさんの次が『ガンダム』というカオスさですが、連載されているものなので、たまたまこういうことにもなります。

さて、本作は『機動戦士ガンダムUC』シリーズの第7巻です。黒い《ユニコーン》、《バンシィ》の登場で、だんだん佳境らしくなってまいりました。が、最近はフル・フロンタルの影がものすごく薄いです。彼は、裏で暗躍することもできる人のようです。シャアという人は、あまりそういうことは得意ではない人だという印象があるので、再来といわれているフル・フロンタルも、そういう人なのだと思ったのですが。

閑話休題。今作で影の薄い人の話はさておき、本題に入りましょう。ダカールでマリーダ=プルトゥエルブに捕縛されたバナージは、《ラーカイラム》で捕虜となり、ラプラス・プログラムの指し示す次の座標についての尋問を受けつづけます。《ラーカイラム》では、バナージの叔母にあたるマーサ・ビスト・カーバインの命のもと、様々な事態が動き始めていました。マーサはマーセナス家に保護されていたオードリーを召喚し、マリーダを利用し、ラプラスの箱を安全に封印することを目指します。
あいかわらず、事態は《ユニコーン》とその機体が積むラプラス・プログラムを中心に動きますが、それと行動をともにするバナージはその事態の中で成長していきました。バナージは、自由になるただ一つのもの、こころを信じ、主義や主張からはなれて行動しようとします。しかし、その行動は、連邦ともジオンとも袂を分かつことを意味します。連邦はビスト財団や
ただ平和を求めることの難しさ。それを求めようとすれば、どうしても主義や主張が付きまといます。それを押し通すことによってしか達成できない平和は、すべてのものにとって平和たりえない。人類の歴史は争いの歴史だと誰かがいった。しかし、それだけで人間が生きてきたのではない。きれいごとではあっても、バナージは争いでは得られない平和を求めようとします。

一方、リディはマーセナス家とラプラスの箱の因縁を知り、知らず知らずそれに縛られた行動しかできなくなっていきます。それは主義を押し通すことであって、バナージとは相容れないものでした。それは生まれの不幸ではあるのですが、同じ境遇にあったオードリー=ミネバ・ザビは、自らの生まれの意味を乗り越え、リディではなく、バナージとともに歩むことを選びます。
また、マリーダは、やはり自らのプルトゥエルブという生まれに縛られ、それを壊そうともがきます。それが《バンシィ》に乗ることの意味でした。「《ガンダム》は敵」、とは彼女自身が敵であることで、それは彼女自身を否定することでした。それを受け容れるためには、ジンネマンという人が必要だったのです。
人は人と繋がることで、生きていかれます。マリーダも、オードリーもひとりではなく二人で、あるいは仲間とともにいることで、自らの意味づけをしていきます。それが人のつながりということであり、「個の意志の繋がり」ということでしょう。
こうして繋がる一方で、リディなど、繋がれない人もでてきます。バナージのしようとしていることは、主義や主張を超えるという主張をもっており、それ自体が新たな主張であるともいえます。もちろん、ただの言葉あそびではありますが、そのようにも見えるバナージの弁証法的な平和の求め方は、リディにとってはきれいごとにしか聞こえないのです。


ところで、サイコフレームは、人と人の心の繋がりを目視できるように表現します。人の心は目に見えず、分からないからこそ信じられないというのなら、人が視覚優位な種であるとするのなら、こうしたサイコフレームの表現するものは、人の救いになると思えます。「シャアの反乱」時に《νガンダム》のサイコフレームの表現する光が人を繋げたように、《ユニコーン》の表現するそれもそのようになれると信じられます。

こんな感じで、また次巻を待ちたいと思います。次回の舞台は再び宇宙です。
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by nino84 | 2009-01-03 10:07 | 読書メモ
『予告された殺人の記録』(G・ガルシア=マルケス、野谷文昭訳、新潮文庫)を読みました。

サンティアゴ・ナサールは、司教がやってきた日に殺された。殺人は町の人の多くが知っていたことであったにも関わらず、彼は殺されてしまった。わたしは、村の人々の証言と、当時の調書をもとに、30年も前に起きたこの事件を描こうと思う。


今回の読書の流れは、いつもに増して方向性を失いつつあるような気がしています。本作は、ノーベル賞受賞作家である、ガルシア=マルケスさんの中篇です。『百年の孤独』などで有名な方だと思いますが、文庫で読める中篇を見つけたので、読んでみることにしました。

さて、本作の主人公は、「わたし」です。「わたし」はサンティアゴ・ナサールの親友であり、殺人犯の親戚にあたる人物です。「わたし」が過去の殺人事件をまとめるという形で作品は展開してきます。
この作品で描かれるのは、小さな村という閉じられた世界で起きた殺人事件です。村人の多くは互いに顔見知りであり、したがって、殺されたサンティアゴ・ナサールも、殺すがわの人間も村人たちはよく知っているのです。そのような村の中で、殺人を計画すれば、それはすぐに人々の知るところとなります。しかし、そのような状況にあってさえ、この予告された殺人は実行されてしまいました。その事件が起こるに至った経緯、そして殺人が成功してしまった経緯、それぞれに多くの人が絡んでいます。
閉じられた村という空間は、本来なら殺人のような規範からの逸脱を許しはしないのでしょう。しかし、それはなされてしまいました。そこには、外部からのバヤルド・サン・ロマンという外部の人間が村に入り込んできたことも影響がありましょう。彼は村の規範とは関係のない人間です。彼は村で家を買い、ある女性に求婚します。彼は、それまであった村の暗黙裡のバランスを壊してきます。結局、その歪みが殺人事件という形であらわれたと見ることができます。
閉じられた村の中では決して起こるはずのなかった感情が、バヤルド・サン・ロマンが村に入ったことで起こり、そして殺人が計画されます。しかし、村の人たちはその感情がそれを実行に移すだけのものだとは考えません。なにしろ、殺人を計画したのはよく知ったはずの人間です。よく知ったはずの人間であるだけに、知っている人物像と殺人ということが結びつかず、殺人を計画しているという事実にはどこか現実感を感じられません。
しかし、殺人犯を動かしているのは、村の中だけでおさまるような感情ではなかったのです。村の中だけでバランスをとるならば、不要な手段であっても、今回に限っては必要な手段となってしまったのです。

壊れていく共同体。列車や自動車、汽船が発明され、人々を隔てている距離が短くなっていき、共同体は外との関わりを余儀なくされます。それは共同体の終焉で、どこの国にもあったことだと思えます。日本であっても、かつての村はこうした性格をもっていたと思えます。しかし、それは崩れていき、今はもうほとんどみることができない。
こうしてネットになにかを書き込んでいる私をつつむルールは、私が所属している町のルールではなく、もっと大きな共同体―地方自治体という行政的な区分けではなく、感覚的な所属感だが、それは日本という国単位のものなのかもしれないし、都道府県というものなのかもしれない、あるいは都市圏や文化圏と呼ばれるものかもしれない―で共有されているものだと思える。私の周りには、精神的に閉じられた場所など存在し得ない。私が生きるのは、良くも悪くも本作で描かれたような崩壊があった後の段階の社会である。
ある世界が外部と繋がるときには、互いのルールに違いがあるから、その違いをどう扱っていくかが重要になってくる。しかし、お互いにルールは当然のものとしており、したがって、違いがあるということ自体に気づかないような違いも多くあるのである。そのようなものが積み重なっても、少しずつ調整していき、気づかないうちに違いがうやむやになることもあろう。しかし、そうでなければ、目に見えた形になることで、はじめて理解されることになる。本作で描かれているのは、そうした歪みの現れであろう。
それは良い悪いということではなくて、あらわれてしまうものであろう。社会が歪むから、外部を締め出せとはいわない。それは無理だ。もう世界はそういう方向には動かない。すでに世界は一つにまとまる方向にある。そして歪みが多くのところで目に見える形となってあらわれている。

共同体の話でしたが、話が大きくなりすぎました。しかし、今、世界規模で起きていることは突き詰めていけば、こうした小さな社会同士で起きていることと同じだと思えます。
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by nino84 | 2009-01-02 20:28 | 読書メモ

『飛ぶ教室』

『飛ぶ教室』(エーリッヒ・ケストナー、山口四郎訳、講談社文庫)を読みました。

わたしが語るのは、キルヒベルクの高等中学校のクリスマスのお話です。子どものなみだはおとなのなみだより小さいということはありません。学生たちは寮生活のなかで先輩や先生、近くの大人や、他の学校の生徒たちとの関わりを通して、成長していきます。

どうも乱読スイッチが入っているようで、なんの脈絡もない本を選択して読んでしまいます。本書については、そもそも『AMEBIC』よりも早い段階で読もうと思っていたのですが、たまたま購入時期が前後してしまい、この順番になりました。
そもそも、大江健三郎さんの短編集は先月末に読み終わっているのに、その感想を書くのが後手後手にまわっているために、大江さんの作品の感想を書きながら、べつの作品の感想を書くという状況になっています。年末に帳尻合わせようとは思っているのですが、やはり別の本も読みたくなっているので、難しいのかもしれません。でも大江さんの作品、よかったんでもう一回読んででも感想を書きたいとは思っています。

さて、本書はドイツの作家ケストナーの作品です。本作では、「わたし」が、2つのまえがきとあとがきを加えて、その作中作という形で高等中学校の様子を描いています。
その作中作では、高等中学校で寮生活を送るジョーニーをはじめとした5人の少年が主人公となっています。ジョーニーはアメリカでドイツ行きの船にひとりで乗せられ、そのまま捨てられたという過去をもっています。マルチンは、貧しい家庭に生まれながらクラスのトップで、絵も上手い少年です。マチアスは、勉強は苦手ながら、腕っぷしは強い少年。逆に、臆病なウリー。そして難解な本ばかり好き好んで読んでいるゼバスチアン。彼らはともに寮生活を送り、先輩とのやりとりや、他校の生徒との抗争、そして先生からの温かいまなざしのもとで成長していきます。

それぞれの少年はそれぞれに過去を背負っており、それぞれに悩みを抱えています。ケストナーは、「人形がこわれたといって泣くか、あるいはもっと大きくなってから、友だちをなくしたといって泣くか、それはどっちでもいいのです。(中略)なにを悲しむかということは、すこしも問題ではなく、どれほどふかく悲しむか、ということだけが問題なのです。」と述べます。子どもの世界は大人の世界よりも物理的に狭いのですが、だからこそ大人にとってはとるにたらないことでも、子どもにとってはとても大きな悲しみにつながることが多くあります。
極端な例ですが、お気に入りの人形がこわれ、なくなることは、その子にとっての世界の崩壊かもしれません。子どもはものの納得のさせ方が、大人ほどには上手くありませんから、あるいは大人よりも大きな悲しみに直面しているかもしれません。かけがえのないものがなくなるという体験は、誰にとっても悲しいものだと思えます。しかし、その人にとってのかけがえのなさをはかり間違えると、人の抱えている悲しさを理解することはできないでしょう。
ただし、ケストナーは本作を通じて、子どもの悲しさだけを伝えたいわけではないでしょう。伝えたいことは、子どもには、子どもの世界がある、ということを再認識して欲しいということだと思えます。その世界の中で、ギャングエイジの子どもたち―年齢は16歳前後だと思われますが、女性が出てこないために、作品の主なテーマは同胞になっています―は、さまざまな経験をして日々を暮らしています。読者の誰もがかつてはそうだったことを、ケストナーはあらためて描いてみせてくれています。
寮の監督の先生との関係は理想化されすぎているようにも思えますが、それはフィクションとして、そういう大人がいたらすばらしい、といった具合で読んでいました。ある意味では、子どもの世界を忘れない大人という、ケストナーなりの理想像なのかもしれません。

ちなみに、作品の時期は、クリスマス前後になっています。特に意識せずに購入しましたが、図らずも季節モノということになりました。そんなこともあり、いつぞやのこの時期にはディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいたことをふと思い出したりしました。あれは狙って読んでいたのですが、やはりヨーロッパでのクリスマスの扱いは、日本のそれよりもはるかに重いんだということを感じずにはいられません。
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by nino84 | 2008-12-26 19:44 | 読書メモ

『本を読む本』

『本を読む本』(M.J.アドラー・C.V.ドーレン、外山滋比古・槙未知子訳、講談社学術文庫)を読みました。

読書のレベルは4段階ある。初級読書、点検読書、分析読書、シントピカル読書だ。初級読書は「その文がなにを述べているか(文法的、語彙的に)分かる」こと。点検読書は「系統立てて拾い読みをする」こと。分析読書は「理解を深めるための読書」である。そして、シントピカル読書は、一つの主題について何冊かの本を相互に関連づけて読むことである。

どんどん大江健三郎さんから脱線していますが、そのうち感想は書きます。まだ、書く気でいます。

さて、本書は、『本を読む本』ということで、本を読むためのHow to本です。著者はアドラーですが、劣等感のアドラーではありません。本書の著者は、哲学をしている方らしいです。

簡単に、上段にまとめてしまいましたが、本書は読書のレベルを4段階に分けて、その方法を解説したものです。最終的なシントピカル読書に至るまでのその読書の方法について、くわしく解説してくれています。初級読書はともかく、点検読書以上の段階については、学ぶところが多いかな、と思います。

「本は読むものなので、十分に利用しよう」ということなのですが、利用できるまでには大変な努力が必要になります。読者は、その本の著者の言いたいこと、すなわち主題を汲み、また書いてある事実を汲まなくてはいけない。その上でこそ、その本について賛成するか、反対するか、分からないとするかを判断することができます。
しかし、主題を汲むのは読者の能力―あるいは本の構成の悪さなどから、能力があっても分からないことがありますが―ですから、その主題を汲む方法について知る必要があります。そのための、点検読書であり分析読書です。具体的には、点検読書では、目次を読むとか、前書きや結論を読むなどして、その本に書いてあることを把握し、しっかり読むに値するかを判断します。その上で、読むに値すると考えられた本について分析読書をおこなうということになります。
また、シントピカル読書は、その上の段階であり、他の段階とはまた異なった意義をもちます。jこの読書法は、文献研究のための読書方法です。つまり、自分が主題を深めるための読書法なのだそうです。

以上のように、方法が書かれているもの、こうしたことを実際にやろうと思うと、大変だなぁ、と思ってしまいます。他人事のように表現しているものの、現実には、理想をいえば最終段階の読書法をしなければならない状況に置かれているのですが、これがなかなか…。せめて点検読書だけでもするように心がけます。しばらくはその段階の読書を高めようかと思います。

ちなみに、この本のメインターゲットとする本は「教養書」ですが、小説、戯曲、詩の読み方についてもおまけ程度に書いてあります。
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by nino84 | 2008-12-25 17:21 | 読書メモ