本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

カテゴリ:視聴メモ( 38 )

『くまのプーさん』

『くまのプーさん』を観ました。

イーヨウのシッポがなくなった⁉なくなったイーヨウのシッポを探して、100エーカーの森は大騒動。

ディズニー久しぶりのセル画風アニメ。やはり、こういうタッチの作品のほうが、落ち着く。最近のディズニー、ピクサーはじめ、海外の劇場アニメは、CG然とした作品が多く、入り込めない感じを受けることもあった。しかし、この作品は、絵のタッチとその内容の調和が取れており、好感がもてた。

さて、作品の筋は特にないようなもので、イーヨウのシッポを探すだけ。しかも、見つからないから、と早々に代わりを探しはじめる始末。そもそもシッポをなくすということが、そのままなんの違和感もなく受け入れられているという世界観が、またどこか牧歌的ですらある。

絵本を読み進めるように話が進みますが、地の文を読むナレーターとプーが会話したり、地の文通りに動かなかったり、果ては段落のうえを歩いて行ったり、絵本の中でキャラクターがマイペースに動き回る。
本の中で、キャラクターが生き生きと動き回る様は、本当に小気味良い。またその動きひとつひとつが可愛いので、先ほど指摘した絵のタッチとも相待って、筋書きではなく、そのキャラクターが動くのを楽しむ、という作品でした。

アニメが珍しくないこの時代に、キャラクターが動くのが、しゃべるのが楽しくて仕方ない、そんなアニメを観られて、驚いた。また、そんなアニメとしてこの作品をみられた自分にも驚いた。
[PR]
by nino84 | 2011-09-22 07:53 | 視聴メモ

『インセプション』

『インセプション』(2010)をDVDで観ました。

タイトルのインセプションとは、「植え付け」という意味です。
レオナルド•ディカプリオ演じる主人公、コブが、仲間とともに、渡辺謙演じるサイトーの依頼で、ある人物に、あるアイデアのインセプションを試みる、というのが大筋ですね。
サイトーには、夢であっても、アイデアは現実に持ちかえられるので、夢で、インセプションして、現実に影響を与えよう(ライバル会社の切り崩し)、という意図があります。

冒頭は、インセプションの計画を立てることで、この映画のルールを説明してくれるので、比較的理解はしやすいのではないかと思いました。
あの、最後の結末の解釈は観た人に任せます、というのを、どうとるか、というのはあるとは思いますが…。


個人的には、主人公コブが、(自分なりの)現実を生きられるようになること(自己一致)、が大きなテーマと捉えました。これがテーマであれば、最後が夢か現実かなんてことは関係なくなるので。

妻モルは、どこも現実だと思えなり、コブの前から消えましたが、コブは妻が消えたということを現実として、生きています。それでもそれを認められないというコブは、現実自己(モルは死んでいる)と理想自己(モルは生きている)が、相反している。
コブは一度モルは死んでいるということを現実と認識していますから、それは変えられない(アイデアは成長する)。だから、モルが生きている、ということを納得できることが自己一致には必要です。
「アリアドネという設計士の助けを借りながら、自己一致できました」というのが、結論であれば、投げっぱなしではない。
モルはどこも現実と思えなくなる、という残念な結末を迎えてしまったのですが、「本人が現実と思ったところが現実」という、別の落としどころもある。ただ、それは結果として、視聴者である僕らが生きている世界をも現実かどうかを疑わせかねない結論ではあるが。

そう考えると、最初の悲劇は、モルへの誤ったインセプションか。
モルとコブが、全く同じ現実(夢)を生きていればよかったが、それは無理だ。素朴に考え方が全く同じ人間なんてありえない(独りよがりでなく、健全な思考伝播がない限り)。そういう意味では、インセプションの仕方として、2人が同じことを考えている、というアイデアがもてれば、それぞれの夢の中で、それを現実として生きられたのか?
ただ、コブはモル以外の人間たち(子どもなど)を大切に思っていた訳で、結局、コブがそうしたことを試みるためには、自己のスプリットが必要だったのかもしれない。

これは踏み込みすぎかもしれないが、人がわかり合うことの難しさまで、示唆しているようにも思える(コブが自分の脆さを仲間に開示できないように)。
[PR]
by nino84 | 2011-09-04 11:20 | 視聴メモ

『ウォーリー』

『ウォーリー』を観ました.

ゴミが溢れかえり,緑のなくなった地球.そこには人の姿はすでになく,あるのは自立稼動で働き続ける掃除ロボットと,生命力旺盛なゴキブリだけ.掃除ロボット,ウォーリーは,指令のままにいつ終わるともしれない指令―地球の掃除だ―をし続けている.
そんなある日,彼の掃除をする地区付近に一機のロケットが舞い降りる.その中からは白いロボットが現われ,なにやら付近を探索し始める.ウォーリーは彼女について回り,とうとう彼女の名前を知る.イヴ.それが彼女のなまえ.そして彼女の任務が完了すると,宇宙船に再び回収されて行ってしまう.その瞬間に気づいたウォーリーは,その宇宙船に飛びつき,宇宙へと....


さて,また映画です.といってもDVDですが.本作は,ディズニー映画,というかまだピクサー映画ですかね.最近の『ボルト』あたりからピクサーではなくなってしまいましたけど,当時はまだピクサーが制作ということになっていましたね.
前述のあらすじのとおり,ロボットを主人公にした映画です.さて,そんな本作,一言であらわすと,主人公に癒され続けた映画でした.ロボットが主人公で,しかもCGで描かれているんだけれど,きちんと表情があるというのに驚きます.ウォーリーの場合,ティアードロップ型のゴーグルを中心を軸にして稼動させることで,様々な表情をつくりだしています.イヴはLEDみたいなので目を直接描写するので表情があっても,それほど驚かないんですけど.

そんなわけで,ウォーリーの挙動がいちいちかわいかったわけです.もう,それだけでこの映画は成立しています...それはいいすぎかもしれませんが,それでも少なくともこの映画の魅力の半分はそこです.もう,彼が主人公であるだけで,彼が動くだけで,もう笑ってしまいます.
で,1/4が他のロボットキャラクター(イヴやモーといった名の色々な形状のロボットが出てきます)で,もうあと1/4がストーリーでしょうか.というか,ストーリーなんてただのおまけです.偉い人には以下略.

ただウォーリーは,動いてナンボのキャラクターなので,ぬいぐるみとかそういった形でのキャラクター商品化は無理だろうなと思ってみたり....いや,そこを心配しなくてもいいんですが.

一応,映画なので,ストーリーについても触れておきますと,あらすじでも書いたとおり,荒れてしまった地球を人間は捨てて宇宙へ旅立ったわけですよ.そして,地球が緑を取り戻すのを待っていた.イヴがそれを持ち帰ってきたので,さぁ,帰ろうとなるわけですが,そこでちょっとした問題が起こります.あまりにも時間がかかりすぎたために,人間は地球と言うものを忘れ,また,機械に頼りきった生活のために,歩くことさえ忘れてしまっていたのです.それでもウォーリーとイヴの活躍により,人間は「生き残る」のでなく「生きる」ことを思い出し,再び地球を目指すのです.
メッセージ性は密かに強いストーリーな訳ですが,キャラがかわいいので,伝わってこないこと(笑)
そんなわけで,やっぱりウォーリーを愛でる映画になったわけです.

あと,EDの趣向は面白かった.ラスコーだかアルタミラだかの壁画調の絵から始まって,次第に絵が現代に近づいてくるわけです.ルネサンスから印象派からゴッホになって,ドット絵ですか.人類の歴史というのをそれであらわしていたんでしょうね.人間が地球で1からやり直すというストーリー的な終わりを踏まえて,最初は壁画からスタート,と.
[PR]
by nino84 | 2009-11-05 21:39 | 視聴メモ
『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』を観ました。

作家の大谷は、毎日のように飲み歩き、家に落ち着いてはおらず、お金もろくに家にいれない。その妻であるところの佐知は小さな子どもとともに、夫の帰りを待ち。出版社の担当が大谷に隠れてもってくる彼の原稿料で細々と暮らしていた。
大谷の借金を知った佐知は、その貸主である小料理屋で働き始める。



久しぶりにブログを書きます。現実逃避です。
さて、本作は太宰治の小説『ヴィヨンの妻』を原作として製作された作品です。ただ、実際には多少の筋や設定の変更があります。

まず観て思ったのは、情報が多いなということ。太宰の原作小説は短編小説のため、情報はそぎ落とされ、淡々とした形で掛かれています。終わりに向けて一直線に進む感じです。一方で、本作は115分という上映時間がありますから、その分、情報を入れ込むことが出来ます。もちろん、小説と映画では情報の与え方に違いがあるわけですが、本作に限って言えば、映画の大谷は訴える人を代えながら何度も同じ事を訴えています。小説ではもちろん、それを述べてはいるのですが、それほど繰り返されることはありません。そのため、映画の方がより心情を読みやすくなっているかな、という気がしました。

本作のなかで、大谷は「生きるのも怖い、死ぬのも怖い」と繰り返し訴えています。非常に正直だな、と思います。これは原作の『ヴィヨンの妻』でも同じ事ですが、自分の未来が描けないわけです。生きる目的が見出せないわけです。ただ、その瞬間に生きるしかないわけで、畢竟、生きるのは怖い。しかし、大谷には死ぬ勇気もありません。どこかで自分が生きるということに執着しています。死ぬということは今をも失うことだからです。大谷は、お酒を飲むとか、人と寝るとか、そういったいわばその一瞬の快楽で瞬間瞬間を生きています。目的を持てないために、今が快であることが目的となっているのです。
舞台は昭和21年、昭和20年に戦争が終わって、すぐという時代です。それまで、「欲しがりません、勝つまでは」と国民は何を考えずとも、その日を暮らすこと、あるいは戦争に勝つことを目的として生きていけばよかったのです。しかし、戦争が終わると、そうした目標はなくなってしまいます。しかも、日本は敗戦でそれを終わっており、目標は達成されることなく、終わってしまったのです。作中では描かれませんが、そうした喪失感が国民全体にある時代だと考えることは出来ます。
もちろん、生きることに精一杯なのは相変わらずの社会ですから、小料理屋の夫婦や、米兵相手に体を売るような女性もいます。しかし、大谷はそのようなただ生きることを目的にはできないのです。彼は生き残るだけでは満足しないたぐいの人間なのです。しかし、それを見つけられない。だから、それをごまかすために、酒に溺れ、一瞬の快に生きていくのです。

一方で、大谷の妻、佐知。彼女の言動は、大谷の言動に比べると非常に分かり難い印象です。大谷がいろいろと考えてうだうだやっている一方で、彼女がただその日を生きているからでしょう。それは大谷にとっては望まない生活なのですが、一方で、そうしているはずの佐知を大谷は支えにしています。
大谷と佐知が出会ったエピソードは象徴的です。佐知は盗みを働きますが、そのことで自分の人生や人格すべてが否定されるのは許せないと憤ります。それを聞いた大谷が、彼女を引き取ることで二人が出会います。
佐知はその一瞬にいきているのではなく、それまでの生活を背負ってそこに存在しているのです。それを大谷が憧れるのはなにか分かる気がします。畢竟、佐知はただ純粋なのです。その日を暮らすために、米兵に体を売るような女性ではないし、どこかに物乞いにいくわけでもない。出来る生活をしているにすぎません。ただ、その存在が清廉であり、美しいのです。

大谷はしかし、その純粋な妻という事実をどこか信じきれません。大谷が永続性を信じられないために、佐知の純粋ということが信じられないのです。それで、妻を試すようなことをします。それが、佐知に惚れる工員を家に招き、観察するという行動につながります。佐知の心は変わりませんでしたが、しかし、大谷は工員が動き、それに動かされる佐知を目撃しました。大谷は自分で永続性を証明しようとし、しかし、失敗する(実際には完全な失敗はしなかったのだが、見た事実から失敗したと考えた)のです。それで彼は絶望し、死のうとするのです。
しかし、死ねませんでした。この後、大谷が「生きられるような気がする」のは正直よく分かりません。可能性としては、死ねないという事実から、逆説的に生きることを見出したということでしょうか。

一方で、佐知は夫の自殺未遂を機会に、かつて好きだった男のもとへ向かいます。そこで男から彼女が好きだということを、その理由とともに知らされ、彼女は自分の存在を自覚します。すなわち、生にしがみつくことなく生きていくということができることが美徳であると。自嘲しながら子どものために貰った桜桃を食べる大谷(やはり彼はその場の欲望、食欲に負けており、子どもにそれをとっておくことはしません)に、彼女は「ただ生きていればいいのよ」といいますが、その一言に、彼女の生き方が現れているといえます。

映画の感想なのか、小説の感想なのか、わからなくなってきてしまいましたが、映像的にも、内容的にも、とにかく佐知が美しい、ただそのことにつきる作品だといえます。彼女の美しさの要因が映画そのもののテーマであるといえるのだし、この映画の映像的なよさになっているのだと思います。
[PR]
by nino84 | 2009-11-04 21:24 | 視聴メモ

『サマーウォーズ』

『サマーウォーズ』を観ました。

数学オリンピック日本代表にあと一歩だった高校生、健二は、物理部の先輩、夏希からバイトをお願いされる。東京駅に呼び出され、たどり着いた先は、夏希の実家。曰く、「大おばあちゃんの誕生日で、一族が集まるの」。曰く、「私の彼氏の振りをしてくれない?」。
ごまかしながらも、なんとか彼氏の振りを続けた一日を終え、眠ろうとする健二に一通のメールが届く。そこには2000文字を超える数字の羅列。暗号。健二はそれを一心不乱に解き、回答を返信し、眠りについた。
――翌朝、世界最大の登録人数を誇るネットサービスOZが変調をきたす。そしてその犯人としてテレビで報道されていたのは、健二その人だった。



本作は『時をかける少女』以来の細田守さんの監督作品です。ただ、ネットが舞台になってたりと、どちらかというと、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』に近いかな、という感じもありました。細田さんのネットの描写はポップな感じがするビジュアル的にも、別に良いとか悪いとか評価を伴わない感じも好きです。

さて、本作は、陣内家の人々を中心に話が進みます。陣内家は代々続く旧家で、大ばあちゃんを筆頭に、孫、ひ孫の代まで20名程の大家族です。本作では、大ばあちゃんの90歳の誕生日にあわせて、一家が集まってくる、ということで、その20名程が上田にある大ばあちゃんの家に一同に会します。そのなかに夏希もおり、そして、夏希は最近体調が優れないという大ばあちゃんを元気づけるために彼氏を連れていきたいと、バイト=健二を雇って、上田を訪れるのです。
20数名を超える神内家。上映時間中にすべての人の名前を覚えることはできませんでしたが、それでも、職業などで、意外とキャラがそれぞれきっちり立っているので、意外と違和感なく、楽しむことができました。
そして、そんな大家族のなかに突然放り込まれた健二。彼は数学オリンピック日本代表にあと一歩とどかなかった経歴の持ち主で、夏希に憧れる高校生です。所謂、文化系の冴えない男子高校生ですね。
そういえば、『時をかける少女』も高校生でしたが、なんとなくそちらの方が、もう少し大人びてたかな、という印象があります。前回は恋愛でしたが、今回は陣内家を中心に話が展開していくので、家族愛みたいなものがメインですし、そういうテーマの面での関連もあるのかもしれません。『Time waits for no one.』と、全作はかなり青春まっただなか!という感じがありましたしね。

そんな人たちが展開する『サマーウォーズ』。結論から言えば、かなり面白かった。アニメだから、というか、作品の性質上、現実は現実としてしっかり締める一方で、ネットの世界は自由に描けるので、そうした表現の幅によって、いろいろなものがストレートに表現されていて、わかりやすいのが大きい。
特に、現実世界では大ばあちゃんの存在が大きかった。大じいちゃん亡き後、陣内家を支えてきた彼女は、90歳になる今でも凛としていて、格好いい。彼女は陣内家の大黒柱として神内家を支えている。彼女を中心に陣内家は繋がっている。
そこに健二という他人が、表向きは夏希のフィアンセとして、入り込んでくるのである。他人である健二も、大ばあちゃんに認められることで、陣内家に自然にとけ込んでいくことができたのである。

ネット上でOZがトラブルを起こすと、ネット上で管理されたすべてのシステムが変調をきたす。都市機能はマヒし、飛行機は飛ばない。交通も完全にストップしてしまう。
こうした、ネットの危険性を表現した作品は多い。実際、細田さんにしても、『デジモン・アドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』でネットでのトラブルが現実世界に問題を引き起こす様を描いていた。細田さんは『デジモン』では家族というのは、重視せず、しかし、「ネット上でつながる人」というのを重視した―主人公が小学生ということもあり、友達通しのつながりというのが強調された。そうしてネットの可能性を示した。それはネットの善悪という話ではなく、ネットはあくまで道具だということである。電話回線―『デジモン』制作当時は電話回線でのネットが一般的であった―の向こう側にいる人と通じ合える、そういう可能性である。
そして、今作である。今作もネットを介しての現実世界のトラブル、というのを描きながらも、しかし、より現実世界のつながりを重視している。すなわち、一つ屋根の下にいる家族というつながりである。それに加えて、大ばあちゃんの生の声で日本中に繋がる関係である。OZのトラブルが生じた際、彼女は、自分の知人に片端から連絡し、ただ励ます。それがどのように影響したのかは分からないが、現実世界では死者はでず、問題は一応の落ち着きを取り戻す。実際、国レベルで考えたとき、彼女の電話の影響力は微々たるものだろう。
しかし、そうして電話をしつづける姿を実際に見た健二に与える影響は大きかった。だから、彼は翌日、できることはやるべき、と陣内家のなかで発言する。その発言は女たちに退けられるのだが、しかし、陣内家の一部の男たちを動かす。
大ばあちゃんがおこした波が、健二をうごかし、陣内家の男たちを動かし、そして陣内家全体を一つへとまとめていく。そして、OZである。そこはいまだ混乱の続く世界である。しかし、そこは世界と繋がっている。10億人と繋がれる場所である。陣内家から発した波がOZを通じて世界をつなげる。

こうしてみて、面白いのは、この時点で健二が人を繋ぐ以外の役割を果たしていないことである。OZをハッキングしたプログラムに対抗するためのスーパーコンピュータは、陣内家の男たちが用意するし、作戦の実行メインではアバター「キングカズマ」の所有者である陣内家の男の子が担当する。その後の「延長戦」でもメインは夏希である。
適材適所で、それぞれがそれぞれの役割をきちんと果たすことで、物語が展開していく。健二がその能力を生かして活躍するのは、物語の最後、世界が一応の平穏を取り戻した後である。それは世界を救うためというより、陣内家を救うためである。作品の中盤から最後まで、健二は大おばあちゃんのポジションにいた。彼は、ただひとりのよそ者でありながら、陣内家をつなぎ、陣内家を守るのである。
個人的には、健二が陣内家が家を捨てていこうとする中で、「まだ終わってない」とひとり家に残って危機に立ち向かおうとしていた場面が一番好きだ。2分でOZの暗号を3回解き、しかも最後は暗算(笑)。そんな自分の適材でもって、陣内家を救い、そして――すいません。ここまできたら結末までいきます。
詳細はともかく、結局、彼は陣内家に認められて、一員になるわけである。ここまで陣内家を繋いでおいて終わった瞬間に赤の他人では、テーマ―家族愛とか、人の繋がりの大切さとか、と少なくとも僕は観ていた―としてもねじれが生じるので、自然な帰結でしょう。その方法はともかくね。
そうやってみると、面白いのは、健二の立ち位置である。彼は最初、肩書きだけ陣内家の一員であった。つまり「夏希のフィアンセ」。しかし、その肩書きがなくなり、一度は陣内家を追い出される。その後、幸運にも戻ってこられた陣内家で、一緒に行動していく中で、彼は肩書きはないのに、陣内家の一員として自然に認められるのである。
本来、人間関係というのは、肩書きとかレッテルでやるわけではないはずである。しかし、そういうものがあった方が立場がはっきりしている分それをはかる必要はなく、その距離感が実際的に正しいかどうかはともかくとして、無駄なエネルギーは使わなくてすむ。そういう省エネな関係が横行しているなかでこういうエネルギー過多な関係づくりをストレートにみせられると、ハッとさせられる。
[PR]
by nino84 | 2009-08-13 00:31 | 視聴メモ

『ダークナイト』

『ダークナイト』を観ました。

市警はバットマンとデント検事の協力のもと、マフィアの資金源を断つことに成功した。時を同じくして、ゴッサムシティ―にジョーカーと名乗るフリークが現れる。彼はマフィアのもとを訪れ、彼らの資金の半分を条件に、バットマンの殺害を約束する。

先回のアカデミー賞で、助演男優賞(ヒース・レジャー)と音響編集賞を受賞した作品です。ヒース・レジャーが死後にノミネート、受賞し、話題になりました。そんな彼の演技ですが、とても迫力がありました。あれはヤバイ。極度の愉快犯として描かれているため、かなりイカレた感じのキャラになっており、その演技は怖い。

作品全体としてとても暗い作品となっており、見事なまでにバッドエンドでした。2時間半ほどにもなる大長編映画ですが、バットマンとジョーカーは互いに殺しあわない(バットマンは法を守るため、ジョーカーは退屈しない遊び相手をなくさないため)ということで、途中どうやって話をたたむのかと思ってしまいました。とりあえず、というところで一段落しましたが…。あの終わり方であれば、ヒースレジャーが亡くならなければ、続編での登場も可能性としてはあったであろうに、と思ってしまいます。

法を守りながら、警察権を違法に執行するバットマン。彼は犯罪者を警察に引き渡しながら、その実、自らも犯罪者であるという自己矛盾を抱えている。それでも、それがゴッサムシティーに必要であると考えるから、全てが終われば、裁かれることを承知で、それを執行します。一方で、ジョーカー。彼にはルールはありません。彼はただ混沌と恐怖をもとめます。
決して交わることのない二人。ジョーカーは自らの目的を達成するためなら何でもします。市民を無差別に殺し、友人とガールフレンドの命を天秤にかけ、病院ごと爆破だってするのです。それは、常にルールが通じない戦いであって、バットマンは常に後手後手にまわってしまいます。結局、バットマンは町じゅうの電波を盗聴するというルール違反の末に彼を捕縛することに成功します。
ただ、そうしたジョーカー捕縛の過程で、彼は彼以外にも混沌の現況を創り出すことに成功します。それがデント検事。マフィアの資金源抹消に尽力した正義の人でした。しかし、ジョーカーに自らのガールフレンドを殺されるにいたり、自らの正義が通じない悪の存在に絶望し、復讐鬼となり、恐怖を振りまくことになります。それは、正義の象徴であったはずの人物でも復讐鬼となるという現実を、バットマンに知らしめるのです。
映画では希望も描かれますが、ジョーカーの存在感がありすぎて、そんなことはとても薄っぺらく感じてしまいます。

とにもかくも、ジョーカーの存在感のために、彼とバットマンとのやりとりは常にクライマックスの様相を呈して、先の展開が全く読めない映画でした。
[PR]
by nino84 | 2009-05-08 02:35 | 視聴メモ

『レッドクリフ Part I』

『レッドクリフ Part I』を観ました.

漢の帝を擁する曹操は,劉備,孫権を討たんと兵を南進させる.数に劣る劉備,孫権両陣営は,対曹操の同盟を結び,曹操軍を迎え討たんとする.かくて,赤壁の地にて両陣営が見えることとなった.


また,DVDです.現在,Part IIが絶賛(?)上映中ですが,とりあえず,Part Iを観ていないとお話しにならないので,観てみました.

とりあえず,世界観が三国無双でした.劉備軍の関羽,趙雲,張飛はじめ,孫権軍の周瑜,甘興(甘寧のことかー!?)にいたるまで,なだたる将軍は一騎当千あたりまえのようです.
孔明はもちろん物語の中心人物のひとりであり,その軍略を披露してはいるものの,本編では常に周瑜とセットであり,なんとなく影が薄い存在です.劉備,孫権両軍同盟の橋渡しをするのが孔明であるために,序盤こそ目立ちはするものの,周瑜の登場以降,常に彼と共に軍を仕切ることになります.作品的には,その周瑜が推されているらしく,なんでか一騎当千の活躍,さらには小喬との仲むつまじい姿まで描かれて,完全に主役です.物語ですから,誰かを主役にはしなけりゃ盛り上がりもしないので,それはそれでいいですが,なんとなく違和感.あんたは前線で戦う人だっけか,と.
で,一方,戦うのが本職の趙雲,関羽,張飛はもちろん一騎当千.物語冒頭は長坂の戦い(らしい)だが,そこでの主役はまちがいなく趙雲と関羽.前者は劉備の子,阿斗救出シーンでの大立ち回りは圧巻.一方の関羽は長坂の戦いでただひとり残って(残ってしまった?)徒歩で戦ってたりする.曹操軍の兵たちをなぎ倒しながら曹操の目前まで迫って,結局見逃されるということになったが,結果はともかく,見せ場は作てもらった,という感じでしょうか.

とはいえ,私はそれほど三国志に詳しいわけではないので,話の細部が違ったところで,それほど気づかないところがあって,なので楽しめたのかもしれません.史実に忠実か否かは私では判断付きかねますが,どうだったのでしょうね.
個人的には,戦のシーンは迫力があってとても良かったと思います.
[PR]
by nino84 | 2009-05-06 19:26 | 視聴メモ

『おくりびと』

『おくりびと』を観ました。

オーケストラのチェロ奏者として活動していた大悟は、オーケストラの解散とともに、妻を連れて山形の実家へと帰ってきた。そこで偶然であった納棺士という仕事。彼はその仕事の内容を妻に告げられないまま、続けていくのだった。

いわずとしれた、08年度のアカデミー賞外国語映画賞を受賞した作品です。とりあえず、評判通り、良かった、とまずいいたい。なにがいいって、雰囲気がいい。つまり、映画全体に流れる空気がいいのです。
テーマとして扱われているのは、大きくは人の死ですから、それを描く空気をいいというのも御幣があるのかもしれないですが、それに対峙する人とその人のかもし出す空気をうまく捉えていると思えました。一見、淡々としていながら、しかし、その背後にある強い芯のようなもの、それがどこからか感じられます。主人公、大悟が勤めることになる納棺会社の社長。そして、火葬場の職員。彼らが普段対峙しているものをどのように捉えるのか。それは言葉にならない雰囲気として映画に写されていると思えました。
個人的には、笹野高史さん演じる男がよかったです。大悟が川を遡上して、そこで散乱し、死を迎えるサケを眺めながら「なんでわざわざこんなことをするのか」とつぶやいたときに、「まぁ、きっと自分の生まれたふるさとに帰りたいんでしょうよ」とさらっと言ってそのまま去っていく。なんということはないふとした一場面だけれど、なんか印象に残っています。さらっといえるところに、この人の芯の強さを感じたのかな。

全体として考えるよりも、まず感じる映画かな、と思います。納棺士の仕事の意味が、「理屈じゃわかってる」っていうのは、そりゃそうで、でもそれに対する意味づけを帰るためにはやっぱりまずその背後にあるものの意味を考えなきゃいけなくなる。それは万人に訪れる死、というものであって、それを考えることは非常に難しいように思えます。
もちろん、それはずっと考えていく必要のあることだけれど、2時間強の映画を観て、それ全体を悟れ、というのは大仰な気がします。別になにかの理屈が語られているわけではないので、別段なにか結論を見つけろ、と押し付けるような映画ではなかったと思います。だから、その一歩目として、まず感じる作品かな、と。死の絶対性、静謐さ。死のもつ意味を少し垣間見せてくれるそんな作品でした。

原作である『納棺夫日記』は3章立てで、日記調の2章に加えて、理論編ともいえる章が合わさって、作品として著されています。後者は宗教でいわれている死の概念を著者の立場から解釈しなおすという作業をしている章です。それは著者の答えではありますが、結局それも読者にとっては別の宗教書と同じ、ヒントにすぎません。そういう意味で、私個人としては、原作本の第3章は不要と考えます。
結局、答えは各々でみつけるしかなく、それは2時間で考えるには壮大すぎます。だからこそ、まず感じる作品だろう、と思えたのです。作品では、主人公、大悟の仕事に対する心境の変化が丁寧に描かれていますし、加えて納棺会社の社長と火夫の男も示唆的に描かれています。終盤、わけもなく泣いてしまっていました。なにに泣いていたのだろう、と思えるものの、理屈ではないんですよね、多分。
[PR]
by nino84 | 2009-05-05 00:43 | 視聴メモ
『ドラえもんのび太の恐竜2006』を観ました。

スネ夫に恐竜の化石を自慢されたのび太は、もっとすごいものを見つけてやると躍起になって、偶然にも恐竜の卵の化石を発見する。それでも満足できないのび太は、タイムふろしきを使って1億年の時間を遡らせ、それを孵化させた。孵ったフタバスズキリュウはピーすけと名づけられ、密かに飼育されるた。
しかし、あまりに大きくなりすぎたピーすけを人の目から隠すことは難しく、ある日、町じゅうを巻き込む恐竜騒ぎになってしまう。のび太はピーすけを白亜紀の海にかえすことを決意するが、そこでタイムマシンが壊れてしまい、現代に帰ることができなくなってしまう…



『名探偵コナン』シリーズでも記事を書いてるので、こういう作品で記事を書くのは自分のなかではありなのですが、観てる場所が場所なだけに、書こうか書くまいかと悩んだりしました。まぁ、たぶん書ける。…ちなみに、途中、数分寝ました。

さて、本作は『ドラえもんのび太の恐竜』のリメイク作品です。ただ、私は旧作を観ていないので、なにが違うとか、どっちのほうが良かったとか、そんな話はできません。
そもそも『ドラえもん』っ子ではなかった私は―もちろん日本人ですから登場キャラクターと旧ドラえもんの声優(大山のぶ代)くらいは知っているし、テレビはちょくちょく、長編ドラえもんは1作(『不思議のラビリンス』だったはず)は"とおして"観たことがありますが―『ドラえもん』にそんなにコミットしていないのです。一番はまるであろう年代で別のものにはまっていたというのが一番の原因ですが、その話は本作とは全く無関係なのでやめます。
とにかく、とても久しぶりの『ドラえもん』。しかも新声優での長時間視聴ははじめて、という状況での視聴となりました。

話をもどします。本作は、長編『ドラえもん』らしく、とりあえずなんらか悪者はいるのですが、どうもそれがいなくてもはなしが成立ように思います。そもそも本作は「のび太"の"恐竜」であって、イタリック体で上述のとおり、ピーすけを育てる"母"のび太の物語であって、その決められた別れこそが最も描かれるべきものでしょう。そのために物語の導入部分ののび太とピーすけのやりとりは丁寧に描かれていたと思えます。
卵を孵す一連の流れ、およびその後の飼育の流れについては、そもそもスモールライトはじめ道具を使いつづければ、それで解決したはずの話であって、したがってドラえもんがあえて「あたたかい目」で見守ったという行動自体がこの作品の根幹でしょう。のび太が自分で全部頑張って、頑張った挙句にそれでもやってくる別れをどう受けいれるのか。自分の満足でなく、ピーすけのための選択が、できるかどうか。
当初、スネ夫を見返す道具でしかなかった恐竜に感情移入していく過程。そして、別れに自ら進んでいく過程。一度目の別れの時には、のび太はピーすけをドラえもんの道具を介して観ていましたが、たぶん二度目の別れの後、彼はもうピーすけをそうして観ることはないのかな、と思います。ピー介はペットではないのだから、ずっと保護して、かわいがって、というのは関係として間違っているのです。心配はするでしょうが、監視まではしないでしょう。結局、そうしたことをしないのは、のび太がピーすけの主体性を認めるということです。この最後の時点で、のび太は明らかに親であって、のび太は子離れしています。そんな子離れのお話だと観ました。
そんなことで、―ドラえもんの「あたたかい目」があやしかったので、笑いでまぜっかえされていますが―なに気に序盤のドラえもんの行動は重要かな、と思いました。

こうした思いがあったために、起承転結でいえば、転の終わりがけのもっともテンション的には盛り上がっているべきところで、寝ました。悪役はいらないのではないかと、思ったのです。
もちろん、それでは映画的に盛り上がりには欠けるでしょう。いっそ、もっと短くてもおさまる展開ではありますが、体感の時間が短いとテーマ的には説得力に欠けると思えます。最も短い展開は、一度目の別れですべてが解決するパターンですが、それまでにさまざまな葛藤(スネ夫を見返したいこと、自分で最後まで育てたいこと、ピーすけの主体性を認めること)を詰め込むのは、完成したものを観るまでもなく、明らかに説得力に欠けます。
そこでアメリカ大陸から北周りで日本を目指している最中の飛び飛びのシーンを重ねることに意味があるのです。しかし、ただの旅でたとえ山あり谷ありとはいえ単調になりますから、やはり悪役がでてくることが一番てっとりばやい盛り上げ方ということになりましょう。

結局のところ、私がなにを言いたかったかというと、感想を書こうと決めて観はじめた作品で、寝てしまった言い訳を言いたかったのです。こんなことを書いた後では弁明のようになりますが、新声優陣も、新しいキャラクター描写も違和感なく受け容れられました。とくに新しいドラえもん像は、たぶんむしろ好きですらあります。そんなことで、全体としては面白かったと言えます。最後は(寝起きでしたが、)きっちり感動できましたし。
[PR]
by nino84 | 2008-10-07 21:58 | 視聴メモ

『パコと魔法の絵本』

『パコと魔法の絵本』を観ました。

とある病院に、頑固で偏屈なお爺さんがいました。その人は、なにかといえば、人やものにあたりちらし、他の入院患者さんから嫌われていました。
そんなお爺さんが、ある日、病院の中庭で、パコという少女と出会います。彼女はお爺さんに屈託なく笑いかけ、もっていた本を読んでくれたことをとても喜んでいました。
翌日、お爺さんは再びパコと出会います。しかし、パコはお爺さんのことを覚えていませんでした。彼女の記憶は一日しか持たないのです。
しかし、お爺さんが彼女のほっぺに触れたとき、パコはお爺さんに「昨日もさわったよね?」と尋ねたのでした。
彼女の屈託のない笑顔が、お爺さんのを変えていき、そして…



久しぶりの更新になりました。『お伽草紙』(太宰治)の収録作品の感想を全部はかけていないのですが、かれこれ半月が過ぎ、すでに忘れてしまっている部分も多いため、断念しました。また、再読などしたら、書くことにします。

さて、今回は映画です。邦画をみるとなぜか役所広司の出演作であることが多いのは気のせいでしょうか。存在感があるので、そんな印象を受けるのかもしれません。お爺さんすごかったです。
本作での役所さんの役所は、パコとの交流で変わっていく、お爺さんです。若い頃に会社を興し、それを一代で一流企業に仕立て上げ、しかし、会議中に発作で倒れてしまい入院生活を送っています。
彼は、その経営者としての理論から、弱い人間を認められず、しかし、入院している自分が弱いのではないかと思い、結果として自分も認められなくなってしまっていました。仕事ができず、ベッドで寝ているしかない自分の存在意義を感じられないのでした。
彼は、それを怒りとして表出しました。「強い」人間というのを、患者や看護士への暴力、怒りというかたちでしか、表せなくなっていたのです。

彼がパコとであったときも、やはりそのようにしました。彼はパコに意地悪をしましたがパコはそれでも笑っていました。あるときお爺さんがパコを殴っても、翌日パコは笑顔でお爺さんに近づいてきたのです。そこでお爺さんはパコの症状について知らされます。そして、彼は今まで弱いものにしてきた仕打ちを悔います。パコになにかしてやりたいと思うようになったのです。

しかし、彼はその方法を知りません。いままで弱者は切り捨ててきた男です。そんな彼が、彼女にしてあげることを考えることは容易なことではありませんでした。彼は泣きました。泣くことは弱いことだと思っていた彼が泣きました。

一つの出会いで、一つの出来事で、人は変わります。お爺さんはパコとの出会いで決定的に変わりました。自分の弱さを認めることができるようになりました。自分の弱さを認められる人は、人にも優しくなれると思えます。自分の弱い部分を支えてくれるものがあることを知っているからです。今、彼の生活はパコに支えられていました。だから、彼はパコを支えてあげたいと思うようになったのでしょう。筋だけいえば、そんなお話。


ここまで書いてきて、「魔法の絵本」が一度も出てきていないことに気づきました。ここからはそちらの話をしましょう。
お爺さんは、パコが毎日読んでいる本『ガマ王子対ザリガニまじん』の劇をサマークリスマスの出し物としてやることで、パコを喜ばせようと考えます。その物語は、意地悪ばかりしていたガマ王子が仲間の大切さに気がつき、仲間を傷つけるザリガニまじんという悪者と戦うというものでした。

劇をやるには役者がいります。しかし、お爺さんはいままでさんざん他の患者や看護士に意地悪をしてきたのです。彼らは最初、それをすることを拒みました。そんな彼らを動かしたのは、お爺さんのパコへのおもいであり、彼らのパコへの思いでした。

今まで病院にあった不穏な空気はなりを潜めていき、病院中に連帯感が生まれます。一人が変われば、関係が変わっていく。それによって、みんなが変わっていく。人は変わっていくのです。
ただ、パコだけが、変わらずにいました。彼女がすべての始まりで、しかし、彼女は決して変わりません。生きている限り、ずっと自分の7歳の誕生日を生き続けるのです。お母さんの誕生日プレゼントである絵本を毎日繰り返し、読むのです。

それは哀しいことです。だからこそ、お爺さんは違うかたちでパコに物語を体験させてやりたかったのかもしれません。それを覚えていようが、いまいが。


ところで、パコの症状ですが、7歳に直面化は難しいとかんがえたんですかね。直面化すれば、対応策はいくらでもあると思うのですが。もちろん、それをやると自分の症状だけでなく、両親の死にも直面しなければならないし、大変なことはいっぱいあるのですからそれはそれなのかもしれないですね。加えて、別の要因も絡んでいたようですし。

こういうツッコミどころを探すことになるから、間をおいて感想を書くべきではないとたまに思います。登場人物がすべて濃くて、話のテンションの上下も激しいこういう作品は、とりあえず、揺さぶられておくのが正解かな、と思うのです。そうしないと、いろんなものが削がれてしまう。ごく単純な物語だからこそ、そうした向かってくるものを浴びるように体験すればいいのだと思うのです。
もちろん、登場人物がそれぞれ抱えている問題は重いのですが、だからといって、それに立ち止まる時間はくれない。立ち止まる時間はくれないから、とりあえず、一緒に苦しんで、次の場面に飛んでいく。全体としては、そんな感じで楽しんだ。

だから、本当なら、こうやってだらだらとなにかを書いていなくてもいい作品だと思います。ただ、泣いて、笑ってしていれば、いいのかな、と。パコがかわいかったら、それでいいのだし、ザリガニまじんがキモかわいかったらそれでいいのでしょう。
[PR]
by nino84 | 2008-10-04 00:28 | 視聴メモ