本の感想などをつらつらと。


by nino84
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<   2005年 09月 ( 5 )   > この月の画像一覧

『存在の耐えられない軽さ』(アメリカ、1987)見ました。

収録時間171分にもかかわらず、カットされた場面が多くあります。とはいえ、場面がカットされた結果として、よりトマーシュとテレザの恋愛物語だというのが、強調されています。

分かりやすくなった、といえばそうなのでしょうが、内容が薄くなったことも否めません。

原作では、サビーナとそのスイスでの恋人であったフランツの存在についても、詳しく触れていました。しかし、映画では、おそらく収録時間と映画の流れの問題でしょうが、彼女ら(特にフランツ)については、ほとんど触れられていません。
たしかに、映画でも彼女らの考え方の食い違いは描かれていたものの、それは彼女らが分かれるための複線としてしか機能していませんでした。本来なら、恋愛感情だけでないより深い部分での食い違いが根本にはあるはずなのですが…。

とはいえ、これ以上、収録時間を長くすることはできないでしょうし、思想を映像化するのは難しいのでしょう。従って、落としどころとして、そうしたものになったとしても、それは仕方のないことなのでしょう。


不満が先行してしまいましたが、最初に書いたとおり、トマーシュとテレザの恋愛物語としては、原作よりも、分かりやすくなっています。従って、原作を恋愛物語として読めた人は映画も良い出来であると思えるのではないでしょうか。

また、ソ連のチェコ侵攻時の場面は、白黒の映像(当時の映像含む?)も使用され、かなり迫力のあるものに仕上がっていると思います。(この場面だけは恋愛映画であるということを忘れてください。)

全体的に見れば、よくまとまった、良作なのではないでしょうか。
結局のところ、思想が理解したければ、原作を読めばいいのです。いや、僕は翻訳したものしか読めませんが。
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by nino84 | 2005-09-26 10:57 | 視聴メモ
『黒猫・モルグ街の殺人事件 他五篇』(エドガー・ポォ)読みました。翻訳は中野好夫さんです。

本のタイトルが微妙なのは、これが(おそらく翻訳者によって)編纂されたものだからです。
収録されている作品は、『黒猫』、『ウィリアム・ウィルソン』、『裏切る心臓』、『天邪鬼』、『モルグ街の殺人事件』、『マリ・ロジェエの迷宮事件』、『盗まれた手紙』(収録順)の7作です。

短編のレビューは、『GOTH』(乙一)で失敗したので、あまり書きたくはないのですが、そういう習慣になってきてしまっているので、前回の反省を生かしつつ書いていきたいと思います。


『黒猫』、『ウィリアム・ウィルソン』、『裏切る心臓』
この3作は、ホラーとして読めると思います。短編であるが故に、脱線は全くなく、クライマックスにすべてが集約されています。そのため、自然、終盤になるにしたがって、緊張感が高まっていくことになり、筋も分かりやすく、面白く読める作品群だと思います。

読む機会があれば、1作一気に読んでしまうことをおすすめします。
むしろ、この3作品に限らず、短編は一気に読むべきだと思ってるのですが、それはそれ。


『天邪鬼』
タイトルがすべてを表している作品です。「危ないと分かっていながら、危険なところに行ってみたい」というような、人の持つ天邪鬼な部分を分析した上で、その事例を挙げるという作品です。

事例の部分に関しては、上記の3作のようなものであるため、読みやすくて良いのですが、分析の占める割合が多いために、すこし取っつきにくい作品のような気がします。


以下の3作は「デュパンもの」とよばれている(らしい)、探偵小説です。

『モルグ街の殺人事件』
デュパン最初の事件。モルグ街で起きたある母子の殺人事件を彼が推理するという作品です。ちなみに、基本は密室という舞台をどのように崩していくかという、いわゆる王道といって差し支えない作品です。
ただ、犯人に関しては賛否両論あるような気がしますが…。

それにしても、この作品は読者を選ぶような気がします。前述の4作のような筆致で探偵を描くので、他の探偵小説に比べて理屈が先行しすぎるように感じるからです。


『マリ・ロジェエの迷宮事件』
『モルグ街の殺人事件』の続編です。デュパン第2の事件ということで、探偵小説のハズなのですが、なぜかそんな感じがしません。
話の冒頭から、ある現実にあった事件のことを下に敷いたというのが全面に出されています。そして、その現実の事件でのマスコミの反応等に反感を持ったのか、作中で新聞各紙の記事を痛烈に批判していきます。そのため、他の作品に比べて粗い感じを受けます。

あくまで個人の感想ですが、探偵小説としては文章の整理が悪いので、釈然としない感じが残りました。探偵小説と言うよりも、マスコミ論として読んでみたらどうでしょうか?個人的には、そうして読んだら納得できる作品だと思います。


『盗まれた手紙』
デュパン第3の事件です。とはいえ、前2作と異なり人が死ぬわけではないので、大変軽く読めると思います。ただ、今作でもデュパンが理屈っぽいのは変わりません。それでも、明るい感じに仕上がっているため、探偵小説としては、大変読みやすい者となっているのではないでしょうか。

とはいえ、一番の問題は、クレビヨンという人物も知らなければ、『アトレ』という作品も知らないために、オチが理解できないことにありましたが。
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by nino84 | 2005-09-24 10:37 | 読書メモ
『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ, 1984)を読了。翻訳は千野栄一さんです。

ちなみに、著者は1929年チェコスロバキア生まれ。つまり、「プラハの春」を経験し、その後の現実をみた人の1人です。本作は、一般に恋愛小説に分類されていますが、恋愛小説でありながら、暗い雰囲気の作品です。全体的に暗い感じを受けるのは作者の経験が、ソ連の侵攻以後の母国の姿をしっかりと描かせるからでしょう。

とにかく、あらすじを書きましょうか。

外科医であるトマーシュは、たまたま訪れた田舎の、たまたま入ったレストランで、テレザという女性と出会う。それまで彼は多くの女性を経験してきたが、深い関係には一度もなかった。しかし、彼女は違った。トマーシュは彼女を愛した。そして、テレザも彼を愛した。
そして、彼らはプラハで過ごし始める。しかし、二人の暮らしは決して安定しなかった。トマーシュは愛人を持つことをやめられなかったのである。それは彼の性(さが)であった。それを理解しつつも、テレザはそれを受け入れられない。
そんな中、ソ連軍が侵攻し始め……。


いつもより、あらすじが長いのは、僕が物語をあまり整理できてないからでしょう。反省。

二人の心の動きは細かく描写されますから、たぶん、恋愛小説として読むには容易いし、面白い本でしょう。しかし、おそらく多くの人が唯の恋愛小説としてこの作品を読むことはできないだろうと思います。

それは先に書いたとおり、彼がソ連の侵攻を経験したことに因ります。もしトマーシュとテレザの恋愛がパリ(クンデラの亡命先)で行われたら、この作品は唯の恋愛小説であったでしょう。しかし、舞台はあくまでもプラハであり、チェコです。抑圧される人々を、彼は作品に絡めないわけにはいきません。そして、彼はそうした抑圧された人々をとても巧みに描いています。
この点が、この作品を難解にしている理由の一つだと考えられます。

そして、もう一点、この作品を難解にしていると思われるのが、作品の冒頭に代表されるような、抽象論が随所に出てくることです。この作品の冒頭は、「永劫回帰という考えは秘密に包まれていて、…」となっています。何処が恋愛小説なのか分からなくなります。
しかし、タイトルにある「軽さ」の一部は、物事が永遠に繰り返すという「重さ」に対応したものであり、著者の思想がこうした抽象的な(そして難解な)文章の中に組み込まれていることは明らかです。(もっとも、元々小説の中に不要な部分などないのが自然ですから、こうしたことは当然ではあるのですが。)
そして、こうした抽象的な部分は、この作品、それ自体の解説となっているのでしょうが、その部分が難しいために、後半になるに従って著者と僕(読者とするのは高慢でしょう)との乖離が進み、僕が著者の思想に近づくことが困難になったと感じます。

表面的に読むことはできたと思うのですが、この作品を「理解した」と思えないのは、僕の中で、そうしたことが起こったからです。(解説書がいくつかあるようなので、見つけたら、読んでみようと思います。その解説物が、また難解である可能性もあるのですが…。)

さて、ここまで書いてきましたが、まだ一度もトマーシュとテレザについて触れていません。
この二人について僕が(辛うじて)理解したことは、あらすじの中にすべて書かれていると言っていいでしょう。あのような性格の彼らがどのような結論に達するのか、それは最後の落ちですから、ここでは触れません。ただ、角川書店が「究極の恋愛小説」と銘打つのが分かる、恋愛小説らしいラストではあります。


余談ですが、この作品は映画化されていて、DVDが発売されているようです。ただ、映像という表現方法でこの作品が本当に表現できるのかは疑問でなりません。どうなんでしょうね。
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by nino84 | 2005-09-16 10:38 | 読書メモ

『カモメのジョナサン』

『かもめのジョナサン』(リチャード・バック, 1970)を読みました。翻訳は五木寛之さんです。

なんかアメリカっぽい作品だなと思ったら、やっぱりアメリカの作品でした。アメリカの作品って、ヨーロッパの作品とは毛色が違いますよね。なんとなく。いや、そう感じるのは僕だけかもしれませんが…。


あるところに一羽のカモメ、ジョナサンがいました。
他のカモメは、食物を得るために飛びます。しかし、彼は飛ぶこと自体を目的として、ただ速く、ただ高く、ただ技巧的に飛ぶことを目的として飛ぶのです。彼は、食べることも忘れて、飛びつつけていました。しかし、そうした彼の行動は群れの中で孤立する原因となり、彼は群れを追放されます。
それでも飛ぶことにこだわりを持つ彼は、飛び続け…。

というのが、だいたいのあらすじです。


本作は、「われらすべての心に棲むかもめのジョナサンに」という序文から始まります。まぁ、素直にカモメを人に還元して読んでいくべきなのでしょう。

「ただ生きることは容易い。しかし、その中で何か目標を見つけ、それを極めることは難しい。でもそれを見つければ、何となくハッピー。」って感じで終われば良かったんじゃないの?

すいません、正直、part three(=最終章)が意味不明です。part threeでは、目標を見つけ、それを(他のカモメに比べれば)極めたといえるジョナサンが、他のカモメを教化しようと努めます。やれることに限界はなく、ただ無限であるらしい。従って、能力は比較論で示されます。漠然と、納得しそうですが、無限って何だ?僕には最後までそこがよく分からなかったんですが。

「それは当然だ、憎しみや悪意を愛せないのはな。きみはみずからをきたえ、そしてカモメの本来の姿、つまりそれぞれの中にある良いものを発見するように努めなくちゃならん。彼らが自分自身を見いだす手助けをするのだ。愛とはそういうことなんだ。…」
ジョナサンが、その弟子となった一羽のカモメに対して言った言葉です。なんかずいぶん話が広がっております。かなり悟りを開いた感じです。愛とか、無限とか漠然としすぎて、僕には分かりかねます。

自分だけが目標を見つけ、それを目指せたらハッピー、では終わりません。自分が幸福になるのではなく、他の人にもその幸福を分け与えましょう、となるのです。ジョナサンは普通の群れの中に押し入っていき、自らの「教え」を広めようとします。これは押しつけではないの?
確かに、無知蒙昧なカモメにそういう世界があることを教えているとも見えます。しかし、彼がしていることは、革命家のする扇動と同じです。
ジョナサンが気づいた方法以外にも、カモメには自分を高める方法があるかもしれない。そうしたとき、他の方法はどうなるのでしょう。
例えば、地面を走ることで自らを高めたっていけない訳じゃない。そういうカモメもいるかもしれない。そういうほのめかしは一切ない。すると、「この方法でしか、カモメは自己を高められない。」といっているように見える。

序文の関係上、人はカモメを人間に置き換えて考えるでしょう(僕もそうしました)。人間はカモメよりもさらに多様性があります。自分を高めるのに、走っても良い、泳いでも良い、考えても良い。違いは考えずに、ただ「教化せよ」ってのはまずいと思うのだが、どうだろうか?こうした事を考えずにはいられなくなったので、どうも、最終章は好きになれません。
とはいえ、part one, part twoはジョナサンが助けを借りながら、自分を高めるという章ですから、読んでいて、共感するところもあるし、良い作品だと思えます。


まぁ、短い作品なので、読んでみてください。写真も入っていて、なかなかきれいに仕上がっているので、手軽に読めると思います。ただ、その写真のために短い≠安いという事になってますが。
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by nino84 | 2005-09-05 10:38 | 読書メモ

『ソドム百二十日』

『ソドム百二十日』(マルキ・ド・サド)読みました。翻訳は澁澤達彦さんです。

著者は妙なところに名前が残ってるので、比較的知っている人も多いでしょう。そして、それだけに文章の内容もそのようなものであるとお考えでしょう。その内容についての認識自体は、まず間違ってはいないと思います。とはいえ、ある本を古典として読むときには、「どのような社会において、どのような内容が書かれたか」という読み方もできますから、―正当化といわれればそれまでですが―この作品も、そのような文脈で読むことにしました。

まず、著者の社会的背景について触れておきましょう。著者は、名前からも分かるとおり、フランスの貴族階級の出身です。彼はフランス革命期に生きた人物です。そして、『ソドム百二十日』は革命の直前期に書かれたものでした。そのときの政治は絶対王政ですから、キリスト教の力が強大であったことは想像に難くないでしょう。それでも彼は本書を書いた。権威、体面そいうものに真っ向から反するものを書いたのです。そうした作品が書けるほどにキリスト教のモラルというのは崩れてきていたということでしょう。
結局、彼はフロイトにかなり先行して、変態性欲について書き記すことになりました。


さて、それでは本書の感想に移ります。本書には『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』、『悲惨物語』というサドの著作、そして、当時サドの著作とされた『ゾロエと二人の侍女』が収録されています。まず、世間的にあまり当たり障りのないさそうなものから順に書いていきたいと思います。


『ゾロエと二人の侍女』

本作は出版当時、サドが執政政府の批判をしたとされた作品です。この作品が原因となり、サドは以降の生涯すべてを精神病院で過ごすことになりました。しかし後年、この作品はサドの作品ではないことが分かっています。翻訳者である澁澤氏もそれを承知でただの資料として収録したようです。

内容は、執政政府の要人を批判したものらしいのですが、ナポレオン以外の執政を知らないので、よく分からない部分が多く、あまりしっかり読めたものではありませんでした。また、意味もなく卑猥なので、ゴシップ以上のものと成り得ていないような気がします。当時の社会的な状況についての背景情報、たとえばどの程度ゴシップが流布していたのかなど、が分かりませんから、この作品の位置付けも十分に了解できるものではありません。

ただ、この作品によって投獄されるほどには、規制は厳しかったのでしょうし、またこの作品をサドが書いたと誤解が生じるほどに、サドはこのような作品を書いていたということはつかめます。
こうした、それこそ当時の社会状況を知る資料としての価値ほどしかないのだろうと思えます。


『悲惨物語』

さて、ここからがサドの著作です。「世のひとを教化し悪風を正すこと、これこそ…唯一無二の主題」と冒頭に記しているとおりの作品だったと思えます。

いかなる道徳観念も持たない男である貴族、フランヴァルは、貴族としては力のない家の、美しい娘と結婚する。そして、フランヴァルは、子どもが生まれるまでは良い夫を装った。しかし、子供が生まれると彼は一変して自らの欲望を満たすことを考える…。

あくまで、主題は「世のひとを教化し悪風を正すこと」であることを忘れないようにお読みください。そうでなければ、他のサド作品同様ただの猥雑な作品としてしか受け止められないと思われます。

引用した冒頭の言葉にもあるように、サドはキリスト教の道徳によって人を教化しようという気持ちはないようでした。彼がおこなうのは、理詰めにしていくこと、理性に訴えることによる教化であったように思います。こんなこというとステレオタイプ的ではありますが、やはり革命期のフランス人らしいと感じました。時代が本来のキリスト教の実態を歪めてその権力のみを利用しようという時代になってしまったことで、信心よりも理性を重視するようになってきているんですよね、きっと。


『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』

さて、とうとう来ました。今回感想を書くにあたって一番の鬼門だったりします。一応注意しておきますと、文庫に収録されているのは序章だけとなっています。全編を読みたい場合には、別の書籍をお探しください。

話の筋としては、「上流階級に属するの4人が、人里離れた城館で120日に及ぶ大饗宴を催す。」という至極単純なものです。序章である本書収録部分では、城館における規則までが書かれ終わっています。

この作品は、あくまで古典として読まれるために収録されているのでありますから、猥雑な場面は大饗会とは言うものの、さほど多くありません。もちろん、話の中でその模様に言及されることはあります。しかし、収録部分はあくまで序章です。それでも十分に猥雑だといえば、猥雑なのですが、大饗会の準備段階の話ですので、作品を通してみればたいしたことはないのだろうと想像できます。

とにかく、変態性欲の百科事典というのが、この作品の存在意義です。それはそうなのですが、一般の人間がそれを必要とするかというと、しないわけです。当時の本が読めるような家の者ならば、それなりに教育する役割の者もいるでしょうし、仮にいなかったとしても、変態的な部分に触れず、もっと一般的な部分を書くだけでいい訳です。
さて、とすればサドが意図したのはなにか?この時代、こういう作品が書けるのは、ただの変態か、宗教などの色眼鏡を捨てることができた理性的な人間のどちらかであると思える。もちろん、サドは前者だと断ずることもできる。しかし、後者として捉えることも十分に可能です。特に、『悲惨物語』を見れば、サドが後者であることは明らかです。彼が変態性欲を持っていたのは作品として文字になっている以上、否定できませんが、それだけでなく、彼はもっと理性的な部分を持っていたのだと思えます。
彼がそうした部分を用いて描いた作品だとすれば、この作品の重要な部分は行為についての描写ではなく、その行為にいたるまでのメンタリティーであり、理論のはずです。渋澤さんも、そう思ったからこそ、序章のみを本書に収録したのではないでしょうか?


こうした見方をしていくと、近代合理主義が生まれた時代背景から、サドがこの作品を書かなくとも、いずれこのような作品が生まれてくるだろうと思えます。それは、誰が書くにしろ、権力による押し付けでなく、自分で納得する道徳への過渡期において、もっとも極端なものとして生まれたでしょう。実際、本書は書かれた当時こそ禁書になりましたが、後年シュール・リアリストによって文学的価値が認められました。理性の時代には必要な作品なのでしょう。

「こういうことがある。しかし、理性によればこれらは押さえられる。」
そうしたことが保証されて初めて理性が宗教を超えることができる。こうした意識の転換を瞬時に、かつ何の暴力もなく無血で実行しうるのが、文学でありましょう。ペンは剣より強し。戦争は、文学が実行しうることを決して達成することはできないと思えます。「今すぐ、全人類に知恵を与えて見せろ!」「それはエゴだよ!」そういわれれば、返す言葉はありませんが、今の世界を見ると世界を変えるという方法としてとられる戦争によってできないことはあまりにも多いと感じます。
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by nino84 | 2005-09-03 10:39 | 読書メモ