本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

<   2006年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

『きみにしか聞こえない CALLING YOU』(乙一、角川スニーカー文庫)を読みました。

今月は素敵にゲド戦記月間だったのですが、シリーズを読み終えたので、少し軽い本を読もうかなと思い、乙一です。集英社文庫でなく、角川スニーカー文庫の乙一ですので、感動系の短編集です。収録作品は「CALLING YOU」、「傷 ―KIZ/KIDS―」、「華歌」(収録順)の3作となっています。

「CALLING YOU」
リョウは携帯電話をもっていない。だって友達がいないのだ。友達がいないのに、携帯電話を持つ意味があるだろうか。それでも彼女は自分の携帯電話を想像する。白くて、なめらかなのだ。そんな想像をして過ごすようになると、まるでその携帯電話を本当に持っているように思えてくる。
そんなことを思っていたある日、頭の中の携帯電話から着信音が響いた…。

世の中に同じように苦しんでいる人はいる。そんな人同士がつながることができたら、どんなにか良いだろう。ヒトは人間にならないと生きていけない、とは誰の言葉だったろうか。社会の中では人と繋がりがなければ生きられない。人の間にいる自分を見つけられないのは苦しい。人との繋がりがなければ、インプットができてもアウトプットができない、それは苦しい。入れた分だけ出さないと、いつかパンクしてしまう。
人の間にいられないの。言葉が真実を語っていない、それは仕方のないことだ。苦しいけれど、人の間というのはそういうものなのだと思う。だれだって利己的。それを汚いと言うだろうか?結局僕らは人間であり、ヒトである。ヒトであることをやめることができれば、競争することもなくなって、人間として良い生活ができるのだろうか?

はなしが逸れてきましたね。共感と孤独の間をさまようのは良い。それが人間を理解することになる。孤独を強く感じて、孤立してるのは、他人のせいかもしれないけれど、それでも僕たちは働きかけていこう。そうすれば、きっと繋がりは見えてくる。

「傷 ―KIZ/KIDS―」
オレの親父は母さんとオレに暴力をふるっていた。そんな親父が入院して家にいなくなって、幸せになれるかと思ったら、母さんはどっかにってしまった。伯父夫婦に引き取られたけど、オレは荒れた。それで結局暴力が原因で特殊学級に入れられてしまった。特殊学級では、それなりに過ごせた。みんな敵意をもっていない。
学年が変わって四月。ひとりの男の子が特殊学級にやってきた。アサトというらしい。その男の子はある秘密の能力を持っていた。

「オレ」は世の中の不幸をすべて背負っていると思っていた。だから、アサトの能力を知ったとき、それをつかって幸せになろうとした。そうなる権利があると思ったからだという。でも全てが不幸だったのだろうか。もちろん家庭が崩壊してしまったのは不幸だし、信頼していたお姉さんに裏切られたのも不幸だったろう。でも、それでも家庭が上手く回っていた時期はあったはずだし、お姉さんは親切にしてくれていた。
幸せっていうのは、いつか不幸にとってかわられると、そっちばかりが目について、ついすべてを悪く考えてしまう。でも、自分が悪くないから、自分が不幸だったからといって、他人を不幸にする権利があるのだろうか?そういう連鎖は悲しい。

…今日は思考がいろいろなところに跳んでいってしまいますね。
ところで、ふと思うのですが、暴力が原因で特殊学級に入れられるようなことってあるのでしょうか。きいたことがないのですが。

「華歌」
私は事故に遭い、恋人を失った。今は病院に入院中。怪我は治っていたから、裏庭の森を歩いていると、ふと歌が聞こえた。どうやらそれは見たこともない花から聞こえてくるらしい。

母の愛というのは素晴らしいね。という作品のように思う。…のですが、すいません。正直、よく分からなかった。叙述トリックは別にいい。ただ絵は反則だろう、と思った。
[PR]
by nino84 | 2006-06-22 20:26 | 読書メモ
『アースシーの風 ゲド戦記5』(ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店)を読みました。

アーキペラゴに王が立ち15年。王は上手く国を治めていたが、依然として西には竜が、東にはカルガドが存在し、不安は絶えない。西の竜はアーキペラゴへと度々進入し始め、村々を襲い始めた。西のカルガドはアーキペラゴとの和睦のために王女をおくり、腕環をもとめた。
こうした状況のなか、一人のまじない師がゴンドを訪れる。彼はかつての大賢人であり、いまはその力を失ってしまったゲドに会いにきたのだという。


ゲド戦記の現在のところの最終巻です。現実世界も前作の出版からすでに10年ほど経過しており、世界の情勢も随分変わりました。前作でも時代に即したテーマで作品が描かれていましたが、今作もそのように見ることができると思います。
今まであまり描かれてこなかった(『こわれた腕環』では舞台になりましたが、)カルガドの人たち。彼らは僕らの世界での異教徒のように描かれます。言葉が通じず、生死観もことなる。たがいにたがいを恐れ、近づくことをしてこなかった。これは竜も同じである。アーキペラゴの人々は竜を恐れる。けだものだと断じる。ではなぜ竜は言葉を、しかも天地創造の言葉をしゃべれるのか?人はそれに注意をむけたことはなかった。
たがいにたがいを理解してこなかったものたちは、しかし、たがいを理解する必要が生じた。
世界のバランスが崩れかけている。そのような危機にあり、ようやく彼らは向かい合った。たがいの存在を認め、自分たちが絶対的な存在でないことを知る。おたがいに異なるのは当たり前である。言葉が違い、見た目も異なる。考え方だって異なる。しかし、そうした違いのなかから、気づくことができるものだってある。
[PR]
by nino84 | 2006-06-17 12:35 | 読書メモ

『ゲド戦記外伝』

『ゲド戦記外伝』(ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店)を読みました。

ゲド戦記シリーズの舞台となっているアースシーを舞台にした短編が5作。そしてアースシー解説と称した作者による用語解説が収録されています。全体として本編では詳しく語られなかったことを描いた作品集です。
収録されている短編は「カワウソ」、「ダークローズとダイヤモンド」、「地の骨」、「湿原で」、「トンボ」(収録順)となっています。

「カワウソ」
かつてアーキペラゴには王がいた。しかし、王が死に、その後継が途絶えた。すると次第に国は荒廃していった。一部の魔法使いは互いに権力者のもとにつき、対立を繰り返していた。またそうした魔法使いを除けば魔法使いは敬遠されていたから、身分を隠し水面下でコミュニティーをつくり世間に出るのを避けて暮らしていた。そんな時代のお話。
この作品では、このような時代に、ロークの魔法学院がどのようにして生まれたかが描かれています。

この時代にはまだ女性の魔法使いもいた。むしろ男性の魔法使いがその力に溺れ、権力欲を高め、そのために魔法使いのコミュニティーがうまく回らなかったという。生み出すのは女で、支配するのが男…悲しい話ではある。


「ダークローズとダイヤモンド」
魔法使いは貞節であれ。まじない女は邪悪な存在である。そのようなルールができあがってからのお話。魔法使いは権威があるから、たとえ地元の有力者の子であってもその仕事でなく、才能があれば魔法使いになることが良しとされる時代。
ダイヤモンドは才能があった。だからダークローズとわかれ、町の魔法使いの弟子になった。しばらくの後、ダイヤモンドはロークの学院へ行ったらどうかといわれる。しかし、ロークは遠く、言ってしまえばダークローズとは決して逢えない…ダイヤモンドはダークローズを愛していた…。

魔法使いになるか、愛をとるか。なぜそれが一緒に存在できないのか。本編中では一応の理由がつけられているものの、根拠はない。ただ禁止されているだけである。そこに疑問は感じよう。しかし、権威的にそれを押しつけられて、それを乗り越ることができようか。


「地の骨」
ゲドの師であったオジオンがその師に師事していた時期のお話。ゴントが大地震に襲われると感じたオジオンの師がオジオンと協力し、それを止めようと試みる…

正伝中でもオジオンが地震を防いだ英雄として書かれることは何度かあったが、実際には彼一人の力ではなかった。なにか大きなことをなした人の下には、その人を支える多くの人がいる。


「湿原で」
ゲドが大賢人であった時代。ある島で疫病が流行りだしていた。一人のまじない師がその治療をしに、その島の村を訪れる。しかし、そこには以前からまじない師がいた。彼らは反発しあい、協力しようとはしない。
そんな時、もうひとり男がこの村をおとずれる…

人は悪いことをしようが、なにかのきっかけがあれば更正しうる。そんなお話。


「トンボ」
ある島で、力をもつ女性が見いだされた。しかし、女性であるから、魔法使いにはなれない。ほんとうに?なぜなれない?疑問に思った彼女は、ロークからきたというまじない師の力を借り、姿かえの術をもちいて、ロークの学院に入ろうと決意する。女性はそのまま学院の中に招き入れられたが、だれも彼女の力を正確に捉えることができない…

ゲド戦記の正伝の『帰還』と『アースシーの風』をつなぐお話です。『アースシーの風』において、突然でてくるお話の詳細が描かれます。
長年女性を拒んできた学院が、彼女を招き入れた。世界は絶えず変化している。拒まれ続けた女性の中には、大きな力が眠っている場合だってあるのに、地位を、権力を守ることだけに終始してきた大勢が、それを見過ごしてきた。世界の変化の中で、それがやっと見直されつつあるのかも知れない。女性の社会進出がすすむ僕らの社会だって同じことだ。
正伝の空白を描く物語でありながら、描かれているのは『帰還』でも同じように描かれてきたフェミニズムの問題とも見える。
[PR]
by nino84 | 2006-06-16 19:05 | 読書メモ
『帰還 ゲド戦記最後の書』(ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店)を読みました。

ゲドが大賢人として、アレンとともに西方へ向かっていたころ、テナーはゲドの生まれ故郷であるゴントにいた。彼女は結婚し、子をもうけ、普通の女としての生活を送っていた。また、彼女は虐待され、顔にやけどをおった小さな子どもを引き取り、テルーと呼んでともに生活していた。
そんななか、ゲドが遠く西の果てより生まれ故郷ゴントへと帰ってきた。しかし彼の力はすでに失われていた…。


ゲド戦記の4巻です。最後の書となっていますが、後に続編が出ていますので、実際には最後の書ではありません。本書は2巻でゲドに出会ったテナーとその養子であるテルーを中心にすえた物語が展開されます。
本文中で言及されて始めて気づいたのですが、アースシーでは魔法使いは男性であり、女性の魔法使いは存在しません。男性の力と女性の力は質が違うというのがその理由だというのです。ただ、まじない師の多くは女性なのだから、魔法使いになれないわけではないと思える。実際、テナーにはその可能性があったのだとゲドはいうし、その師であるオジオンも同様に考えていたようだ。しかし、テナー自身は魔法使いとしての生活を拒んだ。普通の女として、百姓の妻としてその一生を終えようと決心していた。

ここに見えるのは、フェミニズムだか、男性性と女性性とでもいえる問題であろう。男性からすれば力を持つのは男性のみでなくてはならない。だから女性の魔法使いを否定する。一方で、魔法使いとなれる素質を持つ女性自身もあえて難しい道を選択せず、女性として求められた生活をしようとする。
テナーはゴントで一時オジオンのもとで学んでいたが、それをやめ、妻となることを選んだ。ゲドと再開した後、彼女はその選択が正しかったのかと、悩む。彼女は自分でそう選んだのか、社会によってそう選ばされたのか、そこに自信がない。社会の枠の中から外れることは難しいことなのだろう。

一方でテナーはテルーを懸命に育てる。
テルーは本当の親に虐待されていた。テルーは親にも恐れられるような力を秘めているのだという。自分の子が自分の理解を超えている。自分の手には負えない。となればその子どもは悪いものであってこの世に存在してはならないものである。だから、虐待する。
テルーを引きとったテナーは母としての役割に逃げるようにテルーを育てる。それが自分の選んだ道だと自分に言い聞かせるように。といっても、そこにはやはり愛が見られるように思う。かつて自分も恐れられてきた。あれはつらいことだ。だからせめてテルーは普通に育ってほしい。そんな願いだったのかもしれない。
[PR]
by nino84 | 2006-06-15 10:39 | 読書メモ
『さいはての島へ ゲド戦記3』(ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店)を読みました。

こわれた腕環はひとつされ、アースシーに失われた文字がとりもどされた。そして二十数年の時が流れる…。ゲドはロークの魔法学院で大賢人となった。
ある日彼はエンラッドよりの使者であり王子であるアレンという少年から、世界の異常の一端を知らされる。世界から魔法が失われつつあるというのである。そこでゲドとアレンはともにその原因を探る旅に出る…。


ゲド戦記の3作目です。ゲドも随分年をとりました。今回もゲドと行動を共にするのは子どもで、ただし今回はアレンという少年です。ゲドは彼に大きな可能性を感じ、魔法使いの素質がみられないにもかかわらず、旅のともとして彼を選ぶ。少年の可能性は無限である。彼はアースシーの魔法使いの頂点である大賢人をしてできないことをやることになる。
とはいえ、アレン一人でそれができるわけではない。今作でもゲドの役割は少年を援助することである。ゲドはアレンに対して「おぬしに私がついてきたのだ」という。アレンはその言葉に混乱するが、実際アレンこそがこの旅の主人なのである。


思えば、ゲド戦記の主人公はつねに少年、少女である。1作目はゲド。2作目がテナー。そして3作目がアレン。彼らはつねに迷っている。ゲドは友人に、テナーとアレンは大人に、それぞれ助けられ、その目的を達する。それは現実世界に生きる少年、少女が発達課題をクリアしていくのに似ている。少年、少女には力がある。自分たちで困難を克服する選択をすることができる。しかし彼らはその力に気づかない。だからこそ、友人や大人が彼らを助ける。彼らに彼らの可能性を時に暗に、時にはっきりと、示す。
この一連の作品を通して描かれるのは、少年、少女がその内に大きな力を秘めているということ。彼らにとって友人は大きな財産であること。そして、大人はその力を引き出すように少年、少女を導く必要があることといえるであろう。
このように考えれば、ゲド戦記が少年、少女のためのファンタジーという範疇に収まらない、大人たちにも教唆を与える作品であるといえよう。
[PR]
by nino84 | 2006-06-14 17:26 | 読書メモ
『こわれた腕環 ゲド戦記2』(ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店)を読んだ。

影の真の名を知り、影との戦いを終えたゲド。彼は影との戦いで各地を転々とするなかで腕環の破片をある人から託されていた。
影との戦いを終え、その後も各地を転々としていたゲドは、ある場所でその腕環のなんたるかを知る。その腕環にはある力があるとされ、長年破片が探されながら、決して完全になることの無かったものであり、その片割れはアチュアンという島の地下迷宮にあるという。
かくしてゲドはその場所へを赴き、その場所である女の子と出会う。彼女は喰らわれし者として名なき者に巫女として仕え、本来の自分の名を失っていた…。


ゲド戦記の2巻です。ゲドは成長し、世間では竜王(竜と話せる者)として認識されるまでになっています。1巻ではゲドの成長が描かれましたが、2巻ではゲドが一人の女の子の成長を助けるという物語が描かれます。

ゲドは彼女の本来の名前で呼びかけ、巫女としての名を捨てることをすすめます。女の子は幼い頃から巫女としての教育しか受けてこず、そのために外の世界へでることに強い抵抗を感じます。こうした自分壊し、自己形成というプロセスを描く辺り、やはりテーマはティーン・エイジ向けなのだと感じます。ただ前回も書きましたがセリフが禅問答気味なので、こうしたことがあった、と思い返すように大人が読み返すことが多くなるように思います。今そういした事態に直面している子どもがこの作品を読んで納得できるかといえば、おそらくそうした作品ではないように感じるのです。
[PR]
by nino84 | 2006-06-13 01:09 | 読書メモ
『影との戦い ゲド戦記1』(ル・グウィン、清水真砂子訳、岩波書店)を読んだ。

無数の島からなり、竜が飛び、魔法が存在する世界、アースシー。物語はそんな世界の小さな島から始まる。羊飼いの息子として生まれたゲドは幼い頃からその魔法の才能を買われ、魔法使いのための学校のある島、ロークへと旅立つ。
ゲドの才能はロークにおいても認められ、彼は次第に自分の力に慢心し始める。そしてある夜、彼は唱えてはならない呪文、死者を呼び出す呪文をとなえ、伝承の中でのみ生きる女性エルファーランを呼び出そうとする。おぼろにその姿が見えたかというとき、黒い影があらわれた…


ル・グウィンによるゲド戦記の第一作目で、後の大賢人ゲドの少年から青年時代にかけてを描いた作品です。タイトル通り、禁忌の呪文によって呼び出してしまった影とゲドとの戦いを描いています。

小学校高学年から中学生向けとのことでしたが、魔法使いは常に禅問答のような受け答えしかしませんので、多少難解ではないかという印象を受けます。見せかけだけの禅問答ならそれもいいのでしょうが、そうしたセリフの中に伏線を織り交ぜてきているので、頑張って表面的にでも理解しましょう、ということになってしまっています。
ただ、テーマは砕いていえば、本当の自分と向き合うこと、ということになるのでしょうから、中学生くらいにはしっくりくる作品なのかもしれません。


ところで、作者であるル・グウィンですが、以前『闇の左手』という本を読んだことがあったので、SF書きなのかと思っていたら、そうでもないんですね。そういえば、『闇の左手』でも霊魂みたいなものが登場していたような気もします…読んだのが随分前なので、うろ覚えですが。
[PR]
by nino84 | 2006-06-12 19:46 | 読書メモ

『長靴をはいた猫』

『長靴をはいた猫』(シャルル・ペロー、澁澤龍彦訳、河出文庫)を読みました。

ペローといえば童話。例に漏れずこの作品も童話を集めた短編集です。収録作品は、「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」、「赤頭巾ちゃん」、「仙女たち」、「サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴」、「巻き毛のリケ」、「眠れる森の美女」、「青髯」、「親指太郎」、「驢馬の皮」(収録順)の全8作です。
童話のあとに、教訓として作品を通して得られる教訓を文章に起こしてあるのが特徴といえるでしょう。また、結構ひどい表現がでてくることがあります。子供に向けて書かれたものなのか疑いたくなります。ちょうど子どもへのまなざしが形成されてきた頃の作品だと記憶しているのですが、まだ現代の子ども観とは違う子ども観が形成されているのでしょうね。

「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」
一般によく知られているお話です。猫がかなり毒舌。むしろ鬼畜。

「赤頭巾ちゃん」
おばあさんになりすました狼に一緒に寝ようといわれて、なぜか着衣を脱ぐ赤頭巾ちゃん。…おい。狼とはすなわち送り狼らしいです。
また、描写からすれば、赤頭巾ちゃんは子どもというよりも、女です。

「仙女たち」
広くは知られていない作品。いじわるな人はそれ相応の罰をうけるという話。したきり雀のようなおななしだと思って頂ければ。

「サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴」
サンドリヨン(灰かぶり)というわけで、いわゆるシンデレラです。

「巻き毛のリケ」
恋は盲目、を肯定的に描いたらこんな作品になるはず。

「眠れる森の美女」
ディズニーでも映画化されたあれ。なんとなくドラクエ8を思い出しました。
ところで、この作品に性的な意味を見いだす精神分析家…。そんなことやってるから、妙な偏見が生まれるんじゃないですか?

「青髯」
(挿絵が)スプラッタ。この作品に限りませんが、挿絵が描写を誇張しすぎる傾向があるようです。個人的には雰囲気はでていて、良いと思いますが。

「親指太郎」
ヘンゼルとグレーテルの亜種?家が貧しいので子どもを捨てるんだけど、なんとか帰ってくる。というお話。お菓子の家は出てきません。おなじ機能をもつキャラクタがいますが。

「驢馬の皮」
暴走した人が元に戻る希有なパターンのお話。かといって、その人が主役というわけではありません。
[PR]
by nino84 | 2006-06-11 00:26 | 読書メモ