本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「知られざる傑作」

「知られざる傑作」(バルザック、水野亮訳、『知られざる傑作 他五篇』岩波文庫収録)を読みました。

駆け出しの画家、ニコラ・プーサンは絵の大家であるフレンホーフェルと出会う。
聞くところによると、フレンホーフェルには数年来書き続け、それでもいまだ完成をみない『美しき諍い女』という作品があるらしいのだが、それを決して人には見せようとしないらしい。ニコラ・プーサンはなんとかその作品を見たいと願うのだが…



芸術の役割は、あるものをあるもの以上にそこにあるものとしてとらえることである。そのまま写し取るだけならば、写真でいいのだ。もちろん、写真がない時代にあっては写実主義が隆盛を極め、それでもって芸術としていてもよかった。しかし、写真の登場以後は、芸術は写真以上に写実的になることはできず、したがって、写真との差別化を図るために、芸術がものの存在の中に一歩踏み込まなくてはならなくなる。
たとえば、「近代絵画の父」といえば、セザンヌだが、彼がセント・ビクトワール山を何度も描き、ある時など、異なった角度から見た風景を一つの絵に落とし込んだことはまさに山そのものの存在を描こうとしていたと思える。
これ以降でいえば、ピカソに代表されるキュビズムはセザンヌのそうした方法に似通ったものがあり、絵が現実以上に現実を表すことを目的としていると思える。

さて、本作は―文末の表記に従えば―1833年に書かれたものであり、セザンヌ誕生以前にかかれたものである。さらにいえば、これは印象派が誕生(19世紀後半)する前の作品であって、芸術論としてかなり前衛的なことを訴えていると思える。
加えて、本作は小説として成り立っているのだから、芸術論だけでなく、それに加えて作品としての起承転結、つまりしっかりオチまでなくてはならないのだが、それもなかなか示唆に富む。芸術家がものの存在に近づこうとすれば、そこには際限がないから、作品は永遠に完成しない。そしてそれでも筆を加え続ければどうなるか。
おそらく、描いている本人は、それで存在そのものに近づいている気にもなるだろう。しかし、それは決して見るものに伝わることはない。芸術は独りよがりではいけないと思う。写実から離れたところで、人が見て、存在そのものをどこまで判断できるか、それを意識してなくてはいけない。
それを見失うと、ふと気づいたときに何が起こるか。そこまでをしっかりと描いているように思う。
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by nino84 | 2006-12-28 13:41 | 読書メモ

「蟹工船」

「蟹工船」(小林多喜二、『蟹工船 一九二八・三・一五』岩波文庫収録)を読みました。

函館を出港した蟹工船は3,400人の作業員を乗せてオホーツク海を目指す。
そこで作業員は人あらざる扱いをうけ、酷使されつづける。そんな船上生活が続く中、作業中に行方不明になっていた一人の作業員が露西亜から「赤化」のパンフレットをもって戻ってくる。作業員たちは面白がってそれを聞いていた。



社会の教科書に出てくるプロレタリア文学の古典です。断っておくと、僕自身は主義者でもないし、そんなたいそうなものを知ろうと思ってこの作品を読んだわけではありません。単純に、教科書に載るような作品は安定して一定上の評価をされた作品であると踏んだからです。最近の作品では、あたりはずれが激しいので、社会的な保障にすがってみようかな、という気になっただけのことです。

さて、本作はプロレタリア文学ということで、当然だが、彼らを中心とした作品になっている。そして、―プロレタリアの力というのが、どういうものかというのを示すためらしいのですが―彼らの個人名はほとんど出てこない。作業員の中で名前が出てくるのはわずかに二人(?)、死んだ者、作業員を統べた作業員。いずれも作業員のなかで特別な存在となった者である。作業員はひとつの集団であってこそその力を持ちうる、逆に言えば、作業員は資本主義の中では個々人を省みられないほどに個々人の存在は希薄である、ということを描き出している。
現代ならば、基本的人権の尊重として(表向きは)すべての国民が平等に扱われているが、それは資本主義が成熟し、労働者であっても重要な存在であるという考えが広く知れ渡っているからであろう。帝国主義を掲げていた当時の日本に、あえて広げれば世界全体に、そんなことを考えるようなことはできなかった。それは仕方のないことだ。
封建的な身分社会が崩れるのにどれほどの年月が必要だったろうか。それを乗り越えたことで、生じた社会がまたあらたな身分社会を生み出すのはある意味で仕方のないことだ。まとめるものがいなければ、人はただの群衆であって、特になにを生み出すでもなくなる。まとめるものがいて、初めて目的をもった行動ができる。
また、人が個人で生きられるとするならば、そもそも原始、邑や国を作ることはなかった。それができないから人が群れるのであって、そのなかで身分の上下ができるのも仕方のないことだ。

もちろん、これがあきらめの境地であることはわかる。
こうした身分社会に耐え切れなくなったプロレタリアートたちのなかに社会に反発するものがいて当然でもある。そこで資本家が力をもっており、労働者には力がないから、そこではまとまるしかないし、強行するしかない。それで、権利を勝ち取って現在がある。こう思えば、あの時代の混乱というのはそれこそ必然であったと思える。
しかし、結局ひとは群れるときに指導者が必要となるのであって、団結した労働者にもまた身分の上下が生まれる。それもまた今なら分かることだ。

僕はマルクスの『資本論』を読んだことがない。だから、彼が著書の細部でなにを主張し、どこまで予測を立てたのか知らない。だから、彼自身を批判することはできないし、今のところ彼の主張はごくまっとうだと思えるから、しようとも思わない。ただ、まだ人の社会はそこまで成熟してはいないということだと思える。


話がとんでもなく大きくなってしまいました。なんにしろ、資本家と労働者という対立はいまだ残っている問題だろう。とくに、大きな視点に立てば、発展途上国というのは、往々にしてこういう状態があると予測できる。だから、(長々とえらく大きなことを書いてきた僕がいうのはお門違いかもしれないが、)「この作品には偏った思想が詰まっている」と大上段に構えたりせずに、読んでみたらいいのではないだろうか。当時には当時の、現代には現代の作品の読み方があっていいと思う。
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by nino84 | 2006-12-26 14:15 | 読書メモ
『マルドゥック・ヴェロシティ』(冲方丁、ハヤカワ文庫)を読みました。

戦時に友軍への誤爆という罪を犯したボイルドは軍の研究所で肉体改造をされた。その施設で出会った万能ネズミ、ウフコックが、傷ついた彼の過去を癒す。
しかし、戦争が終結し、彼らの価値が失われた。彼らに選択の時が迫っていた…



数年前に出版された『マルドゥック・スクランブル』以前を描いた作品です。ちなみに、『…・スクランブル』はまるで戦闘をしているかのようなカジノの描写でSF大賞を獲得した作品です。グロイ描写が比較的少ないので、『…・スクランブル』はお勧めします。

というわけで、『…・ヴェロシティ』です。こちらは、カジノがメインの作品というわけではなく、かなり激しい戦闘が繰り返し行われる作品です。一方で、重厚なミステリのような雰囲気をもかもし出すので、かなり濃い作品であるように思います。
また、文章も独特のものであって―前作でもそうでしたが、それ以上に―個性が出た物になっています。スピード感を感じる一方で、癖が強すぎ、多少の読みにくさを感じました。全3巻ですので、さすがに途中で慣れてはきますが…。

さて、先ほどもすこし触れましたが、この作品はミステリでもあります。しかも登場人物の多さ、さらにはその活動範囲もかなり広いために、答えはかなり深い闇の中にあります。
しかし、SFであり、かなりスピードを重視した文体であるために、ミステリをミステリのように読ませないような雰囲気をかもし出します。すなわち、なにがどうなったのか分からないのだけれど、このスピードで読み続けたいと思ってしまうわけです。結局、僕は後の展開を考えもせずに、全3巻を走り抜けました。

ボイルドの思考を追うという意味であるならば、走り抜けてよかったと思います。これをまともにミステリとして読みたければ、おそらく文体に逆らいところどころで立ち止まることが必要でしょう。また、一度読むとそれで犯人が誰かということがわかってしまうため、まずゆっくり読むのもよいでしょう。

以上は文体と展開についてです。SF+ミステリですので、かなり男性向けに書かれているとは思います。
また、拷問などの残酷描写も多いので、やはり男性向けなのかなと思います。それこそ、ボイルドの思考・感情のみを追っていくのであれば、女性にも読めるのかもしれませんが…


結末は『…・スクランブル』に繋がるということが決まっているために、当初それなりに落ち着くところに落ち着くだろうと思っていたのですが、結局最後まで緊張を保って読めました。
終盤でもう一つギアが上がるのもポイントなのでしょう。
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by nino84 | 2006-12-09 22:28 | 読書メモ

「PAY BACK」

「PAY BACK」(安井健太郎、『ラグナロクEX. MISFORTUNE』角川スニーカー文庫収録)を読みました。

盗賊のアジトに潜入し、その盗賊団の首領を無力化したリロイは、助け出した女性から、ひとつの依頼をうける。なんでも、このアジトに潜入したはずの賞金稼ぎを探してほしいという。


作品としては、2つの意味でのPAY BACK。

当然ですが、ひとつは盗賊団たちに対して。こちらはしっぺ返しもしくは、報復くらいの意味か。ただ単に盗賊から女性を救出したのでは芸がないので、それに加えて、もう少しちがった終わり方を考えてみようという感じだろうか。それでも少しオリジナリティーに乏しいかな、とも思える。盗賊たちはリロイに痛めつけられた段階で、十分に痛めつけられているわけで、それに加えて、しっぺ返し、といわれても少しインパクトが薄いかな。

もうひとつは、意図してのことがどうか知りませんが、助け出した女性が自分の身よりも賞金稼ぎの身を優先したことによるPAY BACK。そもそもPAY BACKといえるのかどうか分かりませんが、ただ自分の安全と引き換えにリロイが相応の働きをするという感じになっていたので、いいのかな。すべての行動には相応のリスクがともなう、といったこところか。
実際には、リスクはほぼなかったわけだが、安全を本気で投げ出す覚悟があったのかを確かめられはしたわけで、十分にPAYしたのかなと。

しかし、後者は少し無理解釈だろうと自分でも思います。「自分のことは自分で決める。その責任も自分で持つ。」というのは『ラグナロク』シリーズを通してよく言われていることですしね。
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by nino84 | 2006-12-01 22:07 | 読書メモ