本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『ミシン2/カサコ』

『ミシン2/カサコ』(嶽本野ばら、小学館)を読みました。

ミシン、あなたが望むように、私は貴方を抹殺しました。いえ、抹殺しようとしました。でも、それはできませんでした。私がとても鈍臭いから。
ミシン、それでも貴方は私をバンドにギタリストとして残ることを許してくれて、今、私は貴方と全国ツアーをしています。ミシン、そのうえ、貴方は私に新しい名前もくれました。コウモリ・カサコ。貴方と私の偶然の出逢いをよろこんだ名前を。



あらすじが上手くまとまりませんでした。が、とにかく本作も『ミシン』に収録されていた表題作『ミシン』の続編にあたります。作品冒頭が前作のネタバレ、というかオチバレ(?)、なのですが、そこがないとあらすじも書けませんのであしからず。

さて、前作は「私」がミシンに近づいていくお話でしたが、今作は近づいた後のお話です。近くにいなくては、近づいてみなくては分からないことはいくらでもありましょう。それが本作ではミシンのこころだったりするわけです。
前作の最後で「私」はミシンのために彼女を抹殺しようと試みます。それは彼女がそれを望んだからでした。それは「私」なりの彼女の愛し方だったのです。しかし、「私」はミシンにさらに近づきます。それによってミシンと「私」との関係はミシン>>「私」という状態から、ミシン>「私」というように徐々に近づいていきます。二人の立場に差がなくなっていけば、「私」はミシンを愛する方法を自分で選択することができるようになるのです。
あこがれと愛とを一緒にみたとき、あこがれが強すぎた「私」ではミシンの言うことは絶対なのです。しかし、ミシンに近づくことで「私」は等身大のミシンをも知ります。もちろん、あこがれが消えるわけではありません。それでも、ミシンの弱い部分を知ることになれば、それでまた愛し方も変わるのでしょう。「私」はミシンに共感できるようになるのですから。
そうなれば、「私」がミシンにできることは殴り倒すことだけではないのです。かつて「私」はミシンを抹殺することだけが、ミシンへの愛を示す方法でした。しかし、彼女を知れば知るほど、そうではない方法で、彼女に愛を示すことができる。「私」が苦しまない方法で、愛を示すことができるようになる。


全体を通してみると、同性愛(愛という言葉でいいのか分かりません、まとめて「絆」なのかもれません)を扱った作品ではあるのですが、特に構えて読まなくても大丈夫な気がしました。もちろん、前作ありきの作品なので、本作を単独で読むのはつらいと思いますが、そういう愛の形を極度に嫌っているのでなければ、特に問題なく読めると思います。
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by nino84 | 2007-10-29 14:09 | 読書メモ
『ツインズ 続・世界の終わりという名の雑貨店』(嶽本野ばら、小学館)を読みました。

君がこの世界から肉体を消滅させてから、ずいぶん経ちました。それでも僕は、君のことを過去として整理できずにいます。
君に向けて書いた文章は、編集者の目にとまり、『世界の終わりという名の雑貨店』という題名で、出版されることになりました。僕は、出版を期に、京都から東京に居を移しました。そして、ある日、教会で彼女に出会ってしまったのです。



嶽本野ばらさん、再び。

本作は『ミシン』に収録されていた『世界の終わりという名の雑貨店』の続編にあたります。魂の双子としていた女性を失い、かなしみに暮れてる「僕」のその後を描いています。前作同様、淡々とした文章ではありますが、どこか罪悪感とでもいえるものが全編に流れているように思います。もっとも、前作を読んでいるために、冒頭の文章に引きずられた僕の感情が、全編に投影されてしまい、そのように読めたのかもしれません。
とはいえ、序盤を読んでいる段階で、全編がかつて失った女性に対する語り口調で進んでいくのかと思いましたが、そうでもありませんでした。かつて失った女性の死を受け入れ、未来に進んでいく、そのように読めば意外と健全な作品なのかもしれません。

かつて失った女性が魂の双子なら、本作で出会った女性は「僕」の存在の双子なのだと訴えます。それは同じように何かを失い、そのために感じた感情を互いに感じあい、分かり合えるからなのだとも。
彼女は「僕」を求めていました。「僕」も何者かを求めてはいたのでしょう。しかし、「僕」は彼女をどこまで受け入れるべきかを迷います。「僕」はかつて失った彼女を忘れられない。それに加えて、彼女を求めたところで、同じ結果になることが怖かった、ということもあるのでしょう。しかし、彼女の状態が悪化し、本当に「僕」なくして生きていけないような状態になってしまったとき、「僕」以外に彼女を救えない状況になってしまったとき、「僕」は決断をします。
「僕」の生き方としてはそれでいいのでしょう。彼は後悔しないことを選んびました。かつての彼は行動せずに後悔しました。だから、行動することは、彼なりの成長でありましょう。

過去があることと過去に縛られることは違います。彼が体験したことは、過去は過去である、という単純な割り切りかたができるような出来事であったとは思いません。だからこそ、この物語があり、彼女との出会いがあり、それをきっかけに彼はかつての喪失体験を乗り越えた。表面で起こっていることがあまりに極端な事象であるために、なんとなく最後の結論がしっくりこなかったりしますが、過去に縛られていた人間が未来を向くことができるようになるお話、であるならば、本作はハッピーエンドであるといえましょう。
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by nino84 | 2007-10-26 20:24 | 読書メモ

『蓼喰う虫』

『蓼喰う虫』(谷崎潤一郎、岩波文庫)を読みました。

要は美佐子に愛人がいることを許容している。それは夫婦らしい交流もない二人の関係をきれいに解消し、その後の妻のあてまでも保障してやりたかったからだ。それほどに気遣いながらも、しかし、互いの性格もあってなかなか最後の踏ん切りがつかないでいた。

2冊続けて谷崎さんです。先の『卍』と同年に発表された作品で、どちらも舞台は関西ですが、こちらの作品は三人称で書かれています。読みやすさでいえば本作のほうが読みやすかったように思います。とはいえ、もう一方が特殊なので、単純にどっちがいいということはいえないとは思いますが。

さて、本作は離婚をしたいのだけれど、ふんぎりがなかなかつかない状態にある夫婦、とくに夫側の葛藤を描いています。夫である要、妻である美佐子の性格や子どもの存在、妻の両親の存在、さらに社会的な立場の問題、こうした要因によって夫婦は離婚をためらうのである。
現代になって離婚が頻繁になり、かつてよりもしやすい状況とはいえ、その葛藤については変わらないように思います。この作品の場合、夫婦の性格という要因がかなり大きく影響していますが、思えば、そういった性格でなければ周辺状況を把握することをせずに離婚に踏み切ることもあるのでしょう。そうやって登場人物が一人歩きしていくことを思えば、あのような性格もなんとなくうなずける。作品として離婚への妨害要因を書き、それらによる心の動きを書こうと思えば、登場人物が間違いなく離婚を決断できる状況に落とし込むのは避けたいでしょうから。
ちなみに、割り切れる人も作中にはでてきていて、要の従弟がそれにあたります。要とは対照的なこの人物は、離婚に際して性格が影響するんだということを描いているのかな、と思ったりしました。

あと、この作品では子どもの強さというか、能力というかを大変強調して描いているのが印象的でした。子どもは親の様子を敏感に感じ取っているとか、子どもは親に気を遣っているとか、そういった子どもの強さに対する視線というのは興味深い。もちろん、これについては僕の趣味でない部分での興味の中心がそのあたりにあったりするから、という部分もあるとは思います。
しかし、子ども目線でなく、あくまで大人からみた子どもという描き方をされているにもかかわらず、こうした子どもの強さを描いている部分は特徴的かなと思います。子どもの強さを描こうとするとき、どうしても子ども目線で親の離婚をみるという状況で描かれる―多くは子どもの一人称によって内面を描くことによる―ことが多いように感じています。それはそれでいいのですが、やはり子どもは子ども、という感覚が強く残りましょう。本作のようにあくまで大人を主役にし、大人の間での問題としての離婚があるなかで子どもの強さを描くというのは読者である大人が理解しやすい書き方なのではないかな、と思いました。
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by nino84 | 2007-10-18 09:35 | 読書メモ

『卍』

『卍』(谷崎潤一郎、岩波文庫)を読みました。

柿本園子は技芸学校で徳光光子とのあらぬ噂を立てられ、そのことを通じて知り合った。それから二人は次第に深い関係になっていった。この時、園子にはすでに夫がおり、一方の光子もまた家のしがらみに縛られていた。それでも二人は園子が光子を自宅に招待した時に、とうとう…。


結果的に同性愛が中心になっている作品を2作つづけて読むことになりました。しかも「ミシン」(嶽本野ばら)同様、女性の告白体による作品です。特に意識して選んだわけではないのですが…なんなんでしょうね。

さて、本作ですが、先に述べたとおり、女性(柿本園子)の告白体で書かれた作品です。舞台が大阪なので当然しゃべりことばである上方方言をもちいて書かれています。関西圏に住んでいないので、読み始めはすこし読みにくいという気もしました。ただ、意味がわからないというレベルの方言ではないですし、最近ではテレビでいやというほど関西の芸人さんが関西弁で話しているので、読みなれてしまえばこれはこれとして読めると思います。
発音を忠実に文字に起こそうとするので、音の伸ばし方、つなぎ方が最後まで分からないものもあるにはあったのですが…。

内容についてですが、同性愛を中心に据えてはいるものの、結局描いているものは、人と人の関係の中で猜疑心や信頼感やが生まれては消えていく、そういった不安定な関係なのでしょう。園子と光子の関係を中心に据えて物語が進展するために同性愛が関係の代表という形になってはいますが、園子は結婚し夫婦関係をもっていますし、光子は男性との結婚の話をもちかけられています。こうしたすべての関係が実に不安定であって、一つの出来事でガラリとその形が変わってしまう。関係が変わることで、人そのものも次第に変わっていってしまう。
こうしたことが描かれていくので、先の「ミシン」のように愛のかたちそのものを書こうとしているわけではないと思います。恋愛という枠ではなく、もっと大きな枠、人間関係のかたちを囲うとしていたのかな、と思ったりしました。それが実に不安定なんだということなのでしょう。
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by nino84 | 2007-10-12 19:01 | 読書メモ

「ミシン」

「ミシン」(嶽本野ばら、『ミシン』(小学館)収録)を読みました。

私は乙女として生きています。それはマイノリティ、異端の存在と美意識であって、それを人に分かってほしいと私は思いません。私はエスという関係を持ちたかったのです。しかし、私の姿見や性格がこれまでそれを許してはくれませんでした。
そうでありながら、私はなんとしてもあなたに近づきたいと思ってしまったのです。テレビであなたの姿を見たときから。



前日の「世界の終わりという名の雑貨店」に引き続き、嶽本野ばらさんの作品です。『ミシン』には2作収録されていましたので、これでひとまず終了です。

今作も文体は"私"の一人称の語り口調となっており、やはり淡々と物語を進めていきます。前作も含めて、主人公の思考は、作中で言っていますが、マイノリティであり、異端なので、それを受け入れられないと最初はつらいかもしれません。読んでいけば表面的に異端な感情の表出をしながら、それなりに普遍的な感情であると―これは僕の主観で作品に取り込まれているだけかもしれませんが―なんとなく感じられるようになるとは思います。
性的な愛ではない。尊敬できる対象への愛、あるいは思慕、これはどう表現されるべきなのか。実際には、種類によらず、愛の表現の仕方の幅などそれほど多くないでしょう。どの類の愛を感じているかに関わらず、表現される愛は同じものでしかなくなります。特にそれまで様々な表現を試したことがなければ。

"私"はそんな娘です。昔の本を読んでエスに憧れる。エスとはどういうものかを文章で知り、そのように行動します。彼女がエスの関係になりたいと願った女性も、実のところ愛の形を分かっていませんでした。"私"は彼女に近づきたいと思っており、彼女は共にいたいと思っていた別の人との死別を体験していました。
そのような状態で"私"の彼女への思いの表現は彼女の望みをかなえることでした。それは愛のひとつの表現の方法なのでしょう。たとえ傍からみて残酷であっても、関係の中ではそれが自然なことだったのでしょう。そもそも多くの愛は二者の関係性のなかのものだから、それに基づいてそこでなにが行われたとしても、二者の閉じられた関係の中での表現は、それはそれとするしかないのです。


…ここまで書いてきたら、なんとなく規範意識の強い人にはお勧めできないかな、という気がしてきました。読んでも反発が強そうです。まぁ、本を読むときに理解しないようにと思って読む人はいないでしょうから、よほどのことがないかぎり大丈夫でしょうが。
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by nino84 | 2007-10-11 11:21 | 読書メモ
「世界の終わりという名の雑貨店」(嶽本野ばら、『ミシン』小学館収録)を読みました。

ライター業が嫌になり、廃業した僕は借りていた事務所のオーナーの提案で「世界の終わり」という名の雑貨店をはじめる。営業を始めてしばらくすると全身をVivienne Westwoodで固めた女の子が毎日のように訪れるようになる。
しかし、事情によって雑貨店を畳まなければならなくなり…。



という訳で、嶽本野ばらさんに初挑戦です。

本作は”僕”の一人称で語られる作品であり、自分の身に起こったことでありながら静かにそして淡々と語っていく、そんな文体が印象的な作品です。
どこか浮世離れしている”僕”はライター業を廃業するときも、雑貨屋をはじめるときも、そしてそれを畳むときもただ淡々とそれを受け入れていきます。現実社会とは一線を引いて生活を送っていたのです。ただ毎日お店を訪れてくれる女の子については少し違う反応をします。彼は店を畳むに際し、彼女と会えなくなることから、彼女と逃避行しようと思い立つのです。
しかし、それでもやはり文体は淡々とした印象をうけます。語り口調ですから、”僕”の興奮はそのまま地の文に表れてきます。確かにそれ以前とは違うのですが、それでもどこか冷めているのです。ただ淡々と語るのです。
過去の事実を淡々と語ることで、現在の”僕”のVivienne Westwoodを着た女の子への想いを作品全体を通して表しているように思えます。淡々と語ることでむしろ”僕”のかなしみが伝わってくるように感じました。


彼のほかの作品をまだ読んでいないので、著作全体としてどうなのか分かりませんが、イメージしていたよりも読みやすいという印象です。作家のイメージが先行してしまうとなんとなくとっつきにくくなりますよね…。
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by nino84 | 2007-10-10 01:44 | 読書メモ

『絵のない絵本』

『絵のない絵本』(アンデルセン、大畑末吉訳、岩波文庫)を読みました。

ある晩、まずしい絵かきの若者のもとに月がやってきました。月は毎晩すこしの間しか絵かきのもとにはいられませんでしたが、その間にこれまで自分の見てきたものを語ってやりました。


本書は月が語った32の物語を絵かきが語る、という形をとっています。月は少しの間しかひとところにいられないため、その物語は非常に短いものですが、それでも一篇一篇が人のある一面をしっかりと描写しています。
ヨーロッパ、アジア、アフリカの片隅で、生きる人々。こうした世界中の人々の生活の一瞬を切り取り、時に人の人生のやさしさ、楽しさ、そして時にその無残さをも描いていきます。一つ一つの物語は非常に短く、そのため人のある一面しか描くことはできないのですが、それが32つながることによって、全体として人を多面的に描きだしています。

また、文章は絵かきによる語りという体裁をとっていますから、非常に読みやすいものになっていると思います。
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by nino84 | 2007-10-06 08:48 | 読書メモ