本の感想などをつらつらと。


by nino84
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<   2008年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

「世界の中心で愛を叫んだけもの」(ハーラン・エリスン、朝倉久志訳、『世界の中心で愛をさけんだけもの』ハヤカワ文庫SF収録)を読みました。

ボルティモアに住むウィリアム・スタログは二百人を毒殺し、ジェット旅客機を爆破し80人を死に至らしめ、さらにアメフトの観客席でマシンガン掃射し44人を殺した。
彫刻室座の一惑星に降り立った探検隊はそこで特異な表情をした巨大な彫像を発見した。それはウィリアム・スタログの死の宣告直前の姿であった。
―交叉時点(クロスホエン)。時間と空間の果て、観念を超越したもの、究極の中心。そこでの出来事がすべての時間と空間にむけてある力場を放出した。



久しぶりの本格SFです。久しぶり、というよりも『闇の左手』(ル・グウィン)、『銀河帝国の弘法も筆のあやまり』(田中啓文)、『マルドゥック』シリーズ(冲方丁)くらいしか読んでいないジャンルなので、ほぼ初心者です。
また、本書は数年前に流行した片山恭一さんの作品や『新世紀エヴァンゲリオン』最終話のタイトルの本ネタとなっている作品です。前者の作品は、どうも内容的なオーバーラップはなさそうなので、語呂であわせにいったんでしょう。後者は観ていないので内容的な関わりは知りません。シンジくんが椅子に座って悩んでる描写があったような記憶があるのですが。


さて、本作は交叉時点と呼ばれる場所のなかで最も凶悪な存在―7つの首をもつドラゴン―から、「悪」の部分のみを「排出」しようという試みることによる、(交叉時点からみれば)一連の事件を描いたものである。
考えよう。そもそも交叉時点では、本来なにが「排出」されるべきなのだ?絶対的な「悪」でないことは確かだが、「排出」が、すべての時間と空間、観念といったものたちに向けての「排出」であるならば、なにを「排出」しているのだ?交叉時点では、―交叉世界のものらが無感情でなかったことから、観念すべてが否定されているのではないが―狂気は否とされるようである。ならば平穏は「排出」されるものではない。「悪」が排出されるべきものであるとすれば、全時間、空間、観念それらは「悪」一色に染まる…?それは世界の成り立ちとしておかしい…。

そもそも「排出」は例外なのかもしれない。交叉時点における新しい技術なのかもしれない。それまではそうした狂気は厳重に捕えるだけだったのかもしれない。このほうが自然か。
しかし、ライナが新たな方法を思いついた?それが「排出」?とすれば、自らを賭した大実験だったわけだ。

交叉時点からの力場は他のものに対し常に存在したようだが、交叉時点のどの時点においてその力場が放出され始めたかは分からない。したがって、「排出」がどのような扱いの技術なのか確定できないように思う。


もし「排出」が交叉時点で常時行われてきているものならば、「排出」されているものが、純粋な「悪」でないかぎり、全時間、空間、観念といったものたちも完全な「悪」にはなりえない。だから、「排出」は交叉時点を「平穏」にするために有効な手段だとできうる。
このような状況であるなら、交叉時点それ自体の平穏を守るために、多少の狂気―「悪」だけでなく、「愛」などもない混ぜになったもの―は「排出」していくべき、となる。それは「悪」を中心としながらも、希望を全時間、空間、観念に届ける。
交叉時点が唯一無二の平穏、その他の全時間、空間、観念といったものたちにはどうあがいても「悪」が含まれている。これが世界の本来の姿だろう。

しかし、ドラゴンの持つ狂気はあまりに強すぎるものだったのだろう。描写されるそれは純粋な「悪」だ。だからこそ、ドラゴンは厳重に捕えられていた。それを「排出」すれば、すべて―文字どおりすべて―が「悪」に染まるから。
それにもかかわらず、ライナと呼ばれるものは、それを「排出」した。交叉時点におけるその瞬間―連なるものの全ての瞬間―「悪」が全てを支配したはずだ。しかし、現実にはウィリアム・スタログは結審の最後に叫ぶ。「おれは世界中のみんなを愛している」、と。
その「愛」はどこからきたのか。それはライナが自らを「排出」することで運ばれたものだといえる。非人間的な仕事に携わっているからこそ、ライナは自らの「愛」を確かめたかったのだろうか?
自分の「愛」が「悪」をさえぎることができるか?さえぎることができれば、ライナの「愛」は本物であったといえることになるだろう。

交叉時点における時間軸は、連なるものにとっては無関係であろう。とすれば、「悪」と「愛」は同時にすべての時間、空間、観念といったものなどに行き届いたことになる。
交叉時点においてはある瞬間から認識された事態ではあるが、それに連なるものにとっては昔から存在していてこれからも存在するものとして「悪」と「愛」が捉えられる。パンドラの箱のような話みたいですね、結局。

そういえば、タイトルの愛を叫んでいたのはライナということになるのか、これだと。
ライナがけものというのは、しかし、どうなのでしょうか。交叉時点においてさえ衝動に流されたという事実がけものということなのでしょうかね。

ちなみに、「排出」が試行段階にある技術であるとしても、最後の段階でのライナの動機は変わらないだろう。結局、「排出」の技術がどのようであるかというのは問題ではないのだ、とここまで書いてきて思う。



ながながと書いてしまった…。もう少し頭の中で整理してから書くべきでしたね。書きながら、考えながらしていた結果が上記の文章です。自分のなかではずいぶんまとまったし、考えた順序も表れているのですが、結局、他人に読ませる文章の体をなさなくなってしまったようです。
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by nino84 | 2008-01-31 23:59 | 読書メモ

「渡りの一日」

「渡りの一日」(梨木香歩、『西の魔女が死んだ』新潮文庫収録)を読みました。

休みの日の朝。まいはショウコの家を訪れた。山へサシバの渡りを見に行こうと約束していたのだ。しかし、まいがショウコの家を訪れたとき、ショウコは寝起きで、せっかく立てた計画も変更せざるをえなかった。


どうも雰囲気が出ない導入紹介になってしまいました。梨木さんの文章は私にはなかなか近づけない類のものみたいです。女の子目線の三人称だからでしょうか。

閑話休題。この作品は表題作「西の魔女が死んだ」の後日談という体裁をとっています。すなわち、登場人物であるまいは、「西の魔女…」でおばあちゃんと魔女修行をしていた女の子です。本作では、引越しをしてきた新しい中学校での友達とのやりとりが描かれています。
「西の魔女…」よりも対象年齢が低めであるように感じましたし、何気ない友人関係の形を描いているように思います。そのため、小学校の教科書に載っていそうな作品だな、という印象を受けました。適当に下線を引いて「まいが思ったことを文章中から…文字以内で抜き出して書きなさい(ただし、句読点も一字として数える)。」というのがやりやすそうな文章でした。
こういう感じの文章は久しく読んでいなかったように思うので、新鮮でした。

内容については、先ほども少し言いましたが、まいとショウコの何気ない友人関係の形を描いたものになっていると思います。
そういえば、ショウコの母が後妻のような描写があったりするのですが、特になにも絡んでこなかったのは、ショウコの性格形成の根拠をそのあたりに託したからでしょうか。
いずれにしろ、まいとショウコという性格の違う二人は、その性格の違いゆえに微妙なすれ違いをしています。相手の行動原理を自分の行動原理に置き換えるために根底を読み違える。言葉で説明しなけりゃ分かんないよ、っていう場面、日常ではよくあることではあるように思います。中学生の友達同士の勘違いですから、それほど泥沼にはなりませんけれど。
でも、子どもにはこのくらいが分かりやすいんじゃないだろうか、オチも含めて全編そんな感じでした。子どもを侮っているようでしたら、すいません、ですが。
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by nino84 | 2008-01-28 15:06 | 読書メモ

「西の魔女が死んだ」

「西の魔女が死んだ」(梨木香歩、『西の魔女が死んだ』新潮文庫収録)を読みました。

中学に入学してまもなく、まいは学校に行けなくなってしまった。そんなまいにママはしばらくおばあちゃんの家で生活し、リフレッシュしてはどうかと提案する。
西の魔女、おばあちゃんとまいのゆったりとした生活が始まった。



暗い本を読んだあとは女性作家の少し温かいお話でもと思い、今作を手に取りました。『土の中の子供』(中村文則)は思考のひとつとしては面白いのだけれど、いかんせん救いがない。すべて受け入れてくれるような作品も読みたいな、と。

さて、本作は不登校になってしまった少女、まいとそのおばあちゃんのお話です。不登校になったから、どうこうというよりも、おばあちゃんのまいへのメッセージのほうが前面に押し出されている(もちろん、不登校になったからまいへのメッセージが生きてくるのですが)作品です。起こっている事態に悲壮感はないので、今の社会で年老いてこそできるスローライフのなかで紡ぎだされるメッセージにただ耳を傾けるだけでいいかな、という感じでした。
不登校の対応がどうこう、とかいう話をするととっ散らかってくるうえ、おそらくそこがこの話のメインではないので、話を進めるためのカンフル剤みたいなものくらいの認識でいました。

おばあちゃんとの生活はまいにとって新しいことの連続です。それは異文化交流といっていいくらい。それでも、まいはおばあちゃんと生活していくうちにそうした新しい考えを自分で消化していきます。それは分かる、というよりも体に染み付くたぐいのものだったようですが。
なんにしろ、人は変わります。それには多少なりとも意志が必要で、それでも人間にとって必要なものほどよく足りなくなるものです。疲れちゃうしね。
だからこそ、からだが資本。そこにこそ健全な魂が宿る。

少し噛み砕きすぎたかもしれません。
しかし、こういうことに納得できるようになったら、人生休むときは休もうと思うようになるでしょうね。とはいえ、それが許されない社会ではなくなってきている面があるので、結局、無理をしてしまうのでしょう。もうすこし人間にやさしい社会になればいいのにね、と学生の身分でいってみても、あまり説得力ないですけど、でも言いたい。言いたくなった。そんな作品。
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by nino84 | 2008-01-27 16:13 | 読書メモ

「蜘蛛の声」

「蜘蛛の声」(中村文則、『土の中の子供』新潮文庫収録)を読みました。

私はいま橋の下の、それを支えるコンクリートの窪みに潜んでいる。ここを見るためにはわざわざ汚い川の川岸まで降りてこなければならず、よほど人にみつかる心配はない。私は世間から離れたかった。


前回に引き続き中村文則さんの作品です。この作品も男性の一人称でかかれた作品になっています。今回は短編です。

さて、主人公は大学を卒業し、会社で営業として働き始めたばかりの男性です。「私」はある日、仕事から逃れるように家に引きこもり、さらに人と接触すること事態が億劫になり、橋の袂の暗がりへとたどり着きます。彼はなにかに曝されることを恐れ、人に見つからない、暗がりに潜みました。彼はそこで安堵を感じるというのです。
また、同時に「私」は「隠れている」ということに他者に対する優位性を感じます。たとえば、橋の上で行われる会話、それは本来なら二者だけのもののはずなのだが、それを傍観する「私」はその二者の空間を壊すものとして働きうる、という優位性。

「私」は一方的に人を支配したいのでしょうか?人と接触し、人に支配されることを恐れる一方で、自分は人と接触し、それを支配したいと思う。
世間で生きていれば、人はどうしたって関係性の中でしか生きられず、自分⇒他人という力だけでなく、他人⇒自分という力も必ず働く。前者の力は振るっていて悪い気はしない。しかし、後者の力は億劫なこともあろう。いわゆる「つきあい」というものが。

「私」は入社してすぐに会社で偶然にも成果をあげます。それは確かに彼に高揚を与えましたが、同時にさらに成果をあげなくてはならないという重圧、他人⇒自分という力に常に曝されることなります。おそらく「私」は失敗することを恐れた。だからその力の及ばないところに逃げたかった。
当初、「私」は家に引きこもってさえいれば、他人⇒自分という力が働かない環境に生きられると思っていたようです。しかし、そこに会社の同僚があらわれ、彼に声をかけます。それは明らかに「私」を世間に引き戻す、他人⇒自分という力でした。だから彼は本当の暗がりへと逃げました。そこは一方的に自分⇒他人という力だけを働かせることができる場所です。

しかし、「私」もその環境の異常さには気づいているのでしょう。蜘蛛の話に反発したことは、それを示しているように思います。それは人のあり方としては不自然なのです。しかし、彼は怖い。だから、それ以上の力で、他者がせまってくる以上の力で、迫ってくるすべてを拒否しようとしているのでしょう。
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by nino84 | 2008-01-25 09:26 | 読書メモ

「土の中の子供」

「土の中の子供」(中村文則、『土の中の子供』新潮文庫収録)を読みました。

親に捨てられ、引き取られた先では虐待にあった。結局、施設に引き取られた。今はタクシードライバーをしているが、この世界に生きる自分に違和感を感じずにはいられない。
みずからを生命の危機にさらすことで私はなにかを感じられる。私はそれに到達したかった。だが、それがなにか私にははっきりわからない。



覚えている方もいるかもしれませんが、少し前の芥川賞受賞作です。作品はあらすじが書きずらくてかないません。あっているんだろうか、と思いながら書いてました。
個人的に芥川賞にノミネートされるような作品、純文学を読むのは久しぶりです。一人称のこういった作品は感情が直に表されており、距離をおいて読もうと思ってもどうしても「私」と同化していってしまうために距離感がつかめるようになるまで読むのがとても疲れます。それは面白い、面白くない、というのとは別なのですが、本を読んで疲れるというは僕が求めている読書とどこか違う気がしているので、普段はあまり手を出しません。
ただ、今作を取る気になったのは久しぶりに読んでみたらこういった作品でも距離感をつかめるようになっているんじゃないかと思ったからです。嶽本野ばらさんや舞城王太郎さんの作品くらい主人公の我が強いと距離感がつかみやすいのですが、プレーンな感じの「私」だとなかなかどうして私には難しいですね。
教科書を読むときに言われた、主人公に共感してそれになりきって読むいわゆる共感読みも読み方としてありなのでしょうが、それは個人的に考えることの放棄になるような気がしてしまってできうる限り避けたいと思っています。同化していくと疲れるのです。まるまる追体験みたいになってしまって。


さて、内容になかなかはいれませんでしたが、ここから。本作の主人公はかつて虐待にあっており、そのことで「力」にさらされているとき、それを行使しているときにこそ、なにか他の違和感のある日常と異なる世界を感じられるようです。
「力」にさらされ、どうしよもなくそれを受けるしかなかった幼少時代。それは「私」に「力」に対する特別な条件付けを形成しました。しかし、それによって感じられるものを彼は同定できないでいます。自分が「力」を身に付け「力」を行使したいのか、「力」にさらされることで「力」を屈服させたいのか、それとももっと別の感情・目的が働くのか。

普通の生活の中で体験する機会の少ない感情はどうしても同定しにくいものです。彼は「力」に対して恐怖とはまた違う感情を体験しているようですが、それを言語化することができないのです。それは他に類似した体験がなく、それを指す言葉が見つからないからでしょう。言葉で意味づけることが感情を体験するためには重要なのだと思います。
私たちの認識は、釣橋を渡る恐怖と異性への好意とを同様の反応だとみなします。私たちがそれを区別するためには、体験している感情そのものだけでなく、おかれている環境が必要であり、なによりそれらを総合した感情の意味づけを必要とします。

この世界に生きる自分に違和感を感じる「私」は、『城』を読む時、落ち着くと述べます。それはそこで展開される物語が自分の心地よいと感じる瞬間の感情と近いものだからなではないでしょうか。結局、それを読んでも言語化できるものではなかったようですが、こういう状況でこういう感情にであったという感覚は大切だと思えます。そういうサンプルを増やすことでしか感情の同定はできないでしょう。
ところで、『城』はフランツ・カフカの作品のことでしょうが、私は読んだことがありません。そのうち読んでみることにします。そうすることで、もう少しこの作品についての理解も進むだろうと思うので。
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by nino84 | 2008-01-24 14:32 | 読書メモ
『機動戦士ガンダムUC 3赤い彗星』(福井晴敏、角川書店)を読みました。

スペースコロニー<インダストリアル7>を襲ったテロ事件から逃れたネェル・アーガマは、バナージたちを乗せたまま暗礁地帯へと逃げ込んでいた。そこへ赤い彗星シャアの再来と呼ばれる男フル・フロンタルが迫る。


本作は『機動戦士ガンダムUC』シリーズの3作目にあたります。引き続き「ラプラスの箱」を巡る攻防が繰り広げられていきます。

本書についていた帯によれば、本作は「大人のためのガンダム」だそうです。「赤い彗星」という単語が出てきたり、「二度も殴った!」とか言うセリフだしてみたりすれば、回顧的という意味でまさに「大人のためのガンダム」と言えるのでしょう。今の子どもには下に敷いているものがなんだかよく分からないでしょうしね、たぶん。そういう意味ではオードリー・バーンという偽名もそのあたりの世代にあわせたものだと考えられますね。ちなみに、今作で彼女の出自が明らかになっています。

また、こうして表面的に「大人のためのガンダム」しているのに加えて実は内容も大人のためを思ってかかれているように思えました。
ガンダム作品では、主人公の青年が大人の社会のいざこざに巻き込まれていく、というのがたいていの流れになります。(『逆襲のシャア』までのU.C.作品においてはアムロとシャアの2者関係を一貫して描いてきたという部分もあるのですが、主役というわけではないと思えます。)そこでは常に大人の理屈と青年の感情とのぶつかり合いが描かれてきました。特にZに如実に表れていると思えます。すなわち、主人公カミーユ・ビタンは大人の理屈の理不尽さに抵抗し続け、TV版では力尽きます。キレる青年といえばそれまでですし、大人はもっと感情の処理をうまくやるんだと言われればそれまでですが、感情の吐露さえ許さないような状況がありうるというのは、哀しいことでしょう。
戦争という非常時に大きな組織のなかでは感情は無視されがちです。今作でもそれは代わりません。地球連邦政府、ネオ・ジオン、ビスト財団、アナハイム社…多くの組織がそれぞれの組織のために人を動かします。組織の中での役職は人の感情を殺していきます。それは組織を運営していく中で仕方のないことである一方で、人としてはなにかが欠落していきましょう。
そのなかで、バナージただ一人が感情で動ける。彼は未だ感情の収め方を知らない、分からない。女の瞳とその手のぬくもりだけを頼りにして行動を起こせる。
それは大人の世界では有る意味で逸脱した行為でありながら、だれもが夢見る行為であろう。それができたらどんなに楽か。なにも考えず、感情にしたがって動く。本作が大人にそれを薦めるとは言わない。ただ、大人にそれを思い出してほしいというメッセージはあるように思う。それで、「大人の(読むべき)ためのガンダム」。

とはいえ、福井晴敏さんの作品というのは、いつもこんな感じの作品である。『川の深さは』からの3連作では青年と中年の男を中心に据え、青年の感情に感化される中年男が描かれている。彼自身がガンダム好きというのが、そこに表れているかどうかは知らない。しかし、彼の作品には、富野由悠季さんの描く作品とどこか似ていると思うのである。世界をきちんと描き、そこで群像ではなく一人の人の感情を描ける。


以下余談。
先日の記事でファンタジーが好きだと書きました。本書のようなSF作品も広義のファンタジーといえるでしょう。現実ではない世界のお話。
ところで、SFとファンタジーを同じくくりで捉える人はいくらかいると思います。最近、自分が古典さえもファンタジーと同じような分類で捉えているのではないかという感覚に陥ります。すなわち、古典の世界がすでに社会制度が違い、文化が違う世界の話になるからです。『ゴリオ爺さん』を読んでいて思ったのですが、やはりどこか現実感はないのです。それでもそれが現代まで読みつがれているのは、現代の文化や感覚と同じ部分をもっており、それを普段見えないような角度から描いているから、すなわち一般化して考えることができるからでしょう。
『夢の守り人』の解説で養老孟司さんがファンタジーは「文学の典型的な形式」でありながら、「エンターテイメント性が強」く、そう思われないことが多いと述べた。まさにそうなのだろう。どうしても剣と魔法の国は子どもの想像の世界とされてしまう。
もちろん、私のファンタジーの定義がとても広いのは分かる。私の定義ではすべての作品が時代をまたぐとファンタジーになってしまう。書店にならべるならそういう分類は無意味だろう。それでもやはり私は、「(すでに)現実でない世界をもちいた話」を好む。一歩引いて読める作品だから。
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by nino84 | 2008-01-15 11:18 | 読書メモ

『夢の守り人』

『夢の守り人』(上橋菜穂子、新潮文庫)を読みました。

カンバルから再び新ヨゴ国へと戻ったバルサは、奴隷商人に追われる男にであう。その男は自らがリー・トゥ・ルエン<木霊の想い人>であり、流しの歌い手をしているという。バルサは彼を護衛がてら知り合いの呪術師タンダにあわせてやろうと思い立つ。
一方、新ヨゴ国内では意識を失ったまま起きないという症状をもつ人々が次々と現れていた。



読み終わってから時間がたつとまとめが難しくなってしまいますね。このところ毎日更新しているのですが、なかなかスタックが解消されません。一応、明日で解消される予定です。


さて、本作は『守り人』シリーズの3作目にあたります。現在(2008年1月現在)のところ新潮文庫から刊行されているものでは最新作ということになります。やはり、女用心棒バルサを主人公とした異世界ファンタジーとなっています。
今回の中心は呪術師など異世界との交流をするものたちということになるのでしょうか、タンダとその師であるトロガイ、またリー・トゥ・ルエン<木霊の想い人>であるユグノ、そして星読博士たち、こうした面々がみる異世界と現世との関わり方を軸に据えて物語が進行していきます。

異世界は目に見えないからこそ、見た人がそれを言葉で表現しなくてはならない。しかし、目に見えない同じものを見ても、信じているものが違う人がそれを共有することは難しい。これまでの『守り人』シリーズでも異世界について、それを見えない人々がその存在の本質を理解できず、困惑する場面が多く書かれてきました。シリーズのこれまでの作品が異世界は設定として利用するものでしたが、今作ではそれを中心に据え、それが見えるとはどういうことか、それがそもそもどういうものなのか、ということを描いているように思います。

異世界は見えない人には恐ろしいものです。それを理解できないから、あるいは異世界を体験できなからです。また、たとえそれが見える人であってもそれを理解できるとは限りません。彼らにとっても異世界は現世とは違うものであって、現世とは違うというルールを理解することができなければ、結局恐ろしいものとなりましょう。それでも異世界を見られる人は、少なくとも異世界が現世とつながっていることを体験で知っています。また、見たままを表現すれば、そこが美しくも厳しい場所であることをも知っています。
では、異世界を見られる人はそれをどう表現するのか?見えない人にその重要性をどう伝えて、理解させるのか。
見えないものを信じることは難しいことだと思います。想像は人だけができることですが、想像できるからこそ言葉に嘘があると疑うこともできます。証拠がなければそれを信じることは難しいと思えます。
しかし、その一方で人は想像できるからこそ、言葉だけでもものの存在を信じることができましょう。『守り人』の世界は異世界と現世とが緊密に関わっており、それが現世の生活に関わってくるからこそ、その関係を伝える必要があったのですが、それがなかなか難しいというお話。


返って、私たちの社会も同じことのように思います。表現者はいつでも苦悩するもの。それは言葉だけでのつながりが難しいのだが、選択肢があまりないということによる。
感動を伝えたかったとしてもその感覚を正確に言葉にできなければダメなのだ。思ったこともイメージではなく言葉で伝えなくてはならない。それが難しいと感じるから人はイメージを絵にし、音にしてまでなにかを伝えようとしてきた。
実際に表現者がどんな感動を得たのか、完全な追体験はできない。しかし、私たちはそれを表現者の言葉、絵、音から想像することができる。あるいは、類似の感動を得たときに、表現者の意図を漠然と想像することもできるだろう。
人はそうして発達してきたと思えるのだが、今の社会は一部で言葉がどんどんと表現力を失っているように見えてしまう。追体験という所詮無理のある部分に重きを置きすぎているように思ってしまう。想像できることはもっとあるはずなのだろうに。


余談ですが、本書の解説をかいておられる養老孟司さんが私の思っていることを端的に言ってくれているように思えて、うれしかったです。すっきりと文章が書ける人というのは尊敬します。
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by nino84 | 2008-01-14 18:28 | 読書メモ
『ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記』を観ました。

かつてリンカーンを暗殺した男の日記から暗殺の首謀者として先祖の名が発見された。そのことを知ったトレジャーハンター、ベン・ゲイツは自らの先祖の汚名を晴らすため、日記に記されていた暗号の解読を試みる。


個人的にアドベンチャー(でいいのか?)というジャンルの映画はあまり観ないので、それだけで新鮮だったのですが、こういうのこそ映画らしくていいですね。映像ありきの作品とでも言うのでしょうか、動きの中での切迫感は文章よりも映像のほうが伝わってくるように思うので。
特に本作は暗号を順に解いていくという形をとり、暗号解読⇒目的地へ潜入⇒暗号入手・解読⇒目的地へ…ということを繰り返し、山場を切らさない、スピード感が感じられました。スピード感は文章ではなかなか出せませんから、こういうスピード感を感じられるというのも映画のいいところでしょうし、本作はそれが十分に備わっていたと思います。もちろん、文章でも『マルドゥック・ヴェロシティ』(冲方丁)みたいな作品もありますが、結局読み方は読者まかせになりますから、製作者の意図したように読ませるのは難しいでしょうし。
また、登場人物間のやり取りがエンターテイメント然として、ところどころでクスリと笑えるものになっています。それもまた作品のリズムを生み出していたと思います。動きがなく単調になりがちな暗号解読、潜入の計画のパートは出来る限りユーモアを用いてリズムをとっていたように感じました。
さらに長距離移動の多い本作にあって、そうした移動の部分は完全にカットされています。その結果、まさにつぎつぎと謎、という作品になっています。『ダヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン)もそうでしたが、つぎつぎと小さな山場を作っていき最後のクライマックスまで持っていく作品というのは、エンターテイメントとしてはテンションが落ちずに面白いものになりやすいかな、という印象を受けました。もちろん、変につくるとただ観るのに疲れる映画、ということになりますが…。


さて、これまでは全体的な雰囲気の話をしてきましたが、ここからは内容についていくらか。
本作の目的は言ってしまえば過去の遺産捜しなので、最終的に遺跡に潜入ということになります。そうなると当然ですが、トラップなどでアクション要素が生まれてくるわけです。主人公もいいかげん中年のおっさん(ニコラス・ケイジ)なので、正直がんばるね、という感じでした。いや、良い意味で。
ですが、それ以上におじいさんとおばあさんがアクションという、なんかあまり他の映画で見ない場面が観られたりします。まぁ、すこしではありますが。その辺もお楽しみということで。


あとはツッコミどころはいろいろありますが、本質ではない(という風な見方を私がした)と思うので、あまり問題ないでしょう。エンターテイメントとして十分に楽しめる映画でした。


といいながら、とりあえずいくつかあげてみる。以下たぶんネタバレ。
まず、敵が基本的に良い人なんだね、という。いや、ディズニーだからなのかなんなのか。「私の家系の名を、歴史に残したかった」というのが、ホントに犯行動機だったのね、っていう。そこでも愛国心というか、そういうものがでてくるんだ…。骨董の闇取引うんぬんっていうあきらかに財宝そのものが狙いです、ってほのめかしていたのに、それなんだ、と。いや、人の考えなんてそれぞれだから、「これについてはそう思った」ってのはありかもしれないけど、作り物なので文脈は大切にしてほしいなぁ、と。
あ、もしかして、冒頭の「私の曽曽祖父がうそをついているとでも!?」が複線ですか?挑発にしか見えなかったけれど…。

で、あとは例の本の47ページね。これはツッコミどころ、というか、まぁ、演出なのでいいのですが、気になるよね、っていう。
可能性としては、「製作者のおれも内容は考えてないけど、なんか謎が残ってたほうが作品として余韻がのこるんじゃね?」という実も蓋もないものとか、「衝撃的だろ?ではいってらっしゃい(次回作の複線)」とか、「実はリンカーン暗殺の真犯人なんて物的証拠も含めてわかってたんだぜ」というもの、あとはバリエーションで「お前の曽曽祖父の話、実は知ってるよ。真犯人は分かってるって」とか、考えてみました。
該当ページが活字だったので、そんなに古い時代のものではないと考えると、後半2つは説得力に欠けるように思います。主人公たちは遺跡をみつけるために泳がされていました、ということになって、大統領すごいね、ということになるのかもしれませんが…。
結局2つ目が一番無難な線かと思います。次回作もう決まってるのでしょうか?
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by nino84 | 2008-01-13 23:59 | 視聴メモ

『闇の守り人』

『闇の守り人』(上橋菜穂子、新潮文庫)を読みました。

バルサは故郷に戻ってきた。幼い頃にともに自分を連れ出したジグロはすでに亡いが、彼女は彼の汚名を晴らしに戻るのである。
バルサはかつてジグロに連れられ逃げるように通った洞窟を再びたどり、故郷カンバルへと戻る。その途中、彼女はヒョウル<闇の守り人>と遭遇した。



先日読んだ『精霊の守り人』に続く、「守り人」シリーズの第二作目です。基本的にファンタジーは好きなので、このシリーズも刊行ごとに買うことになりそうです。文庫版で買い始めたので、どれくらいのペースで刊行されるのかが問題ではあります。


さて、本作は『精霊…』の続編ということで、前作のエピローグでバルサが故郷に戻ることを決心していましたが、その部分のお話になっています。前作の時点ですでにこの世にいなかったバルサの養父ジグロの存在が、物語のキーとなっています。一言でいうなら、バルサが過去と向き合う物語、でしょうか。
『精霊…』でチャグムを護衛し、共に生活するなかで、バルサはジグロとの生活を思い出し、それと向き合うことを決めました。バルサはチャグムを護衛することでジグロの立場にたち、物事を考える機会を得た。それが彼女を故郷カンバルへと向かわせたのでしょうが、彼女が抱えていたのはジグロへの感謝と負い目、そして…。

自らを縛る過去と向かい会うには労力がいる。そうした過去は時と共に美化、あるいは忌化され、だんだんと固着していってしまうから。時間があればあるほど、思考は固定化されていき、その事象に対する思考・感情の自由度を失わせていく。一人でそれを解きほぐすのは容易ではないでしょう。
バルサも一人ではそれと向かい合う気にもならなかった、チャグムと出会い、思考の自由度を得ることで、向かい合う気になれた。それは第一段階だ。その次の段階では、向い会うだけでなく、それを新たな方法で解釈しなくてはならない。それは過去の今まで見ようとしなかった部分、美しいものの醜い部分、醜いものの美しい部分を見ることだ。あるいはそれが自分の立ち位置を大きく変えてしまうかもしれない。だからこそ苦しいものになる。それでも、それを乗り越えたとき、今まで見えなかったものが見えてくるのでしょう。

見たくもない過去なんて誰でも持ってるものでしょうから、そういう強さはほしいような気がしました。


ところで、これまで2作読んできましたが、だんだん『ゲド戦記』みたいなノリになってきているように感じています。どこか説教臭いのだが、それが悪い意味ではない。良い意味で説教臭い。
個人的にファンタジーは一歩引いて読める。現実の世界ではないから。そこに住む人はある意味で別の生物であって、私たちとは違う。それでも、舞台がそれを描くことを容易にするように設定されるからこそ、そこで繰り広げられるものは、現実の世界で起こっていることを、現実以上に描き出す。
現実の世界を書く、ノンフィクションというジャンルは刺激が強すぎる。それは隠すことなく世界を書こうとするから、考える余地を与えないほどの力で迫ってくる。過去と同様に、現実も向き合うには力がいる。それに向き合うだけの強さが、自分には欠けているのだろう。
勇気がないなりに、想像力だけはある僕には、ファンタジーくらいで丁度良い。それは主題を暗に提示するだけで押し付けはしてこないから。
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by nino84 | 2008-01-12 14:25 | 読書メモ

『ゴリオ爺さん』

『ゴリオ爺さん』(バルザック、高山鉄男訳、岩波文庫)を読みました。

田舎からパリに出てきたラスティニャックは、ヴォケェ館に下宿しながら、社交界に出入りし、立身出世をはかる。
彼はヴォケェ館での隣人であるゴリオの娘たちと社交界で出会い、ゴリオともその娘とも親交を深めるが、同時に華やかな社交界の暗部をみることになる…。



一冊みたいにして一行目を書いていますが、岩波文庫からは上下巻の二冊分冊で出版されています。バルザックの長編小説に初挑戦、ということになりました。
文章としては多分に比喩を使い、回りくどい言い回しが多いように感じましたが、比喩で用いる言葉が当時としてはなじみがあっても私になじみのないものであるために違和感を感じるのかもしれません。注釈を参照しないと比喩が分からないというのはつらいところです。こういうところで背景知識があるとより楽しめるのだろうな、という感じがします。注釈を参照していると、読書のリズムが乗りにくいので。


さて、本書の内容ですが、『ゴリオ爺さん』というタイトルがついている割に、主人公はラスティニャックであるように感じました。もちろん、ゴリオも物語の中心にいる人物なのですが、いかんせん年老い、動きの少ない人物であるので、彼が物語を動かしているという印象はあまり受けません。
とはいえ、話の中心はゴリオの父性であるのでしょう。しかし、それを書くためには状況を描く必要があって、それを描くにはゴリオだけでは不十分だった。彼は社交界には出入りできない、すでに隠居した人間であるから。パリの社会状況を描くためにはどうしても社交界を描く必要があるし、今作はその社交界に生きる人々の暗い部分を描く必要があった。その暗い部分は残酷に人を殺しており、人間本来の感情を歪めていく。そうした社会の中で、ゴリオの父性は、彼の思いの強さにも関わらず、どこか感情が抜け落ちたかたちで利用され、捨てられる。

社交界でいきるものは、おおよそ暗い部分があることをしりながら、それを隠し、表面上華やかに振舞う。新参者のラスティニャックは、古参のものたちからそのことを時に暗に、時には直接的に知らされ、自分の良心との葛藤を起こす。そして、彼はゴリオとその娘との関係に巻き込まれる形で、現実を体験する。
そうした社交界の華やかな部分ではないところを見、あるいは体験しながらも、ラスティニャックはそのなかで生きていくことを決心する。それはそこでなければ得られないものがあるからだ。ヴォケェ館にいては得られないものを社交界では手に入れることができるからだ。


人の集まりが社会であるなら、社会は優しい場であるべきだろう。相互扶助、それが本来の人の集まる意味だったはずだから。しかし、社会が発展することで余裕が生まれ、いつしか社会が人の集まり以上のものになって、人を縛るようになる。19世紀の初頭、パリの社交界はすでに人は社会に縛られていた。今の社会はどうだろうか?
今の社会は人の感情が届かないほどに肥大化しているようには感じられる。しかし、そこが社会である以上参加しないわけにはいかない。今更、リセットなどできはしないのだけれど、それは哀しいことではある。
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by nino84 | 2008-01-11 12:04 | 読書メモ