本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「『陰陽師』 桜の下に立つ女(ひと)」(夢枕獏、『DS文学全集』任天堂にてダウンロード配信)を読みました。

陰陽師、安倍晴明の屋敷。すのこの上に座して、庭の桜を愛でながら酒を飲む晴明と源博雅。
ふと博雅は自らの身に起こった不思議な出来事を話しはじめる。それは六条川原院の一本の桜の木にまつわる話であった。



今回もDSソフト限定作品のメモになります。夢枕獏さんの作品ですが、今回はなんとシリーズものの舞台を利用して書いています。
とはいえ、今まで通りモチーフにしている作品はあり、本作は『桜の森の満開の下』(坂口安吾)がモチーフにされているようです。『桜の森の…』は青空文庫でも読めますし、『DS文学全集』にも収録されています。それほど長くない作品ですので、さらっと読めると思います。

さて、本作は『陰陽師』シリーズの流れを汲み作品ですが、そもそもシリーズを読んだことがないので、私にはどのような雰囲気のシリーズが分かりません。そのため、この作品がシリーズのなかでどのような位置を占めるのか、私には判断がつきかねます。
単純な感想としては、訳が分からなくて怖いというよりも、不思議でどこか心温まるという作品になっています。

正直、これ以上、なにか書きようがない作品です。シリーズを知っていればそれとの関わりで楽しめる―朱雀門の鬼からもらった篠笛がでてきたり―のでしょうが、いかんせんそういう楽しみ方が出来ませんので、先ほど書いたような感想しか出てきませんでした。もちろん、読後感はいい作品ですので、そういう感動が欲しい人は読んで損はない作品だと思います。
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by nino84 | 2008-02-29 10:12 | 読書メモ

「あるソムリエの話」

「あるソムリエの話」(貫井徳郎、『DS文学全集』任天堂にてダウンロード配信)を読みました。

女房に逃げられ、家にひとりでいては気が滅入るからと外食がふえた。そのうちに顔なじみも増えてきた。
そんな顔なじみの男のひとりが、私にふと身の上話を始めた。なんでも男はかつてソムリエをしていたらしく、そのときの体験談らしい。



前回に引き続き、『DS文学全集』のダウンロード限定配信の短編です。今回は貫井徳郎さんだそうですが、やはりこの方の作品も僕は読んだことがありません。こういう新しい出会いが簡単なのが『DS文学全集』のいいところでしょうね。


さて、本作はある男の身の上話が話題の中心です。本作がモチーフにしたのは『セメント樽の中の手紙』(葉山嘉樹)です。

『セメント樽の…』はセメントの作製作業中に機会に巻き込まれその命を失った男の妻がその男の欠片の入ったセメント樽に手紙を入れており、それが木曽川の工事現場である男によって発見されるというお話です。とても短い作品ですし、青空文庫でも読めますので、読んだことがない方は呼んでみたらいいと思います。衝撃的な作品ではあります。

そんな作品をモチーフにしている今作では、顔なじみの男がレストラン地下のワイン倉で壁の中から男の声を聞いたという体験を語ります。
それは本当の体験なのか、それとも『セメント樽の…』をもとにした作り話なのか…。

短い作品ですので、筋としては本当にそれだけの作品です。結局、嘘か真かの結論は読者が判断するしかありません。

たとえば、嘘だったとすれば、男は主人公と同様にただ人と話して気を紛らわせたかっただけなのかもしれないなど、嘘をついた理由。本当であった場合に彼がもとネタがあると疑われたときの心情。こうしたことはいくらでも想像できます。
情報量が少ないので、読者みずからがいくらでも想像できると言う意味では面白い作品だと思います。
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by nino84 | 2008-02-28 16:16 | 読書メモ

「虎」

「虎」(田中ランディ、『DS文学全集』任天堂にてダウンロード配信)を読みました。

夏休みの課外授業が「バーチャル・ズー」への遠足だと発表された。なんでも本物のアムール虎がやってくるらしい。
核戦争後、地下に作られた新トーキョーシティ。猛獣になることが否定される世界。でも、僕たちは本物の虎にそうした感情を駆り立てたれる。



前回に引き続き、『DS文学全集』でダウンロード限定配信されている作品です。今作は、中島敦の『山月記』をモチーフに田中ランディさんが書き下ろした短編小説となっています。

さて、本作ですが、少し前にハーラン・エリスンさんの作品で似たような作品―人間が平和に暮らすために攻撃性を規制するのだけれど、結局それは抑えきれない―を読んだ気がするので、個人的に新鮮味に欠けてしまいました。
ただし、主人公が子どもということもあって、ハーラン・エリスンさんの作品よりも簡潔に、またかなり肯定的に描かれていたと思います。

子どもだから、地下で平和に暮らすということの意味は十分に理解できない。なぜ衝動にしたがってはいけないのか、理解できない。そんななかで本物の虎がどうしよもなく「僕」と友達のなかの野生を目ざめさせる。

こういったことは子どもだから、許される部分というのはあると思うのです。
言語化できないものがこみ上げてきて、それに抗うことができない。それは子どもだから清々しいものとして描くことができます。特に地下での生活が子どもらしさを奪うものであるからこそ、「僕」たちの行動はさらに清々しいものとみえてきます。


本作ではそれで終わっていいのでしょう。子どもらしさ。その復活。
しかし、それよりも以前にハーラン・エリスンさんの作品を読んでしまっている僕には、こうした描き方はすこし軽すぎるように感じてしまいました。
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by nino84 | 2008-02-24 10:07 | 読書メモ

「縁側」

「縁側」(北村薫、『DS文学全集』任天堂にてダウンロード配信)を読みました。

高校教師だった誠一郎は、今年、定年を迎えた。娘はすでに結婚して、由紀子と2人での第二の人生。
誠一郎は、職を退いた旨の挨拶状の返書への返事を書きながら、ふと「さくら」という漢字のつくりが分からなくなり、由紀子にたずねる。「さくらという漢字は、―上は、《ノ》を書いて《ツ》だっけ。それとも、《ノ》はいらないんだっけ」



今回は、またすこし趣向を変えまして、紙の本ではなく、ニンテンドーDS専用ソフト『DS文学全集』のなかの一作についてメモを書こうかと思います。
『DS文学全集』は任天堂から発売されているソフトで、CERO区分では教育・データベースとなっている商品です。明治から昭和にかけての文学作品を100冊収録しており、それらを自由に選択し読むことが出来ます。ソフト単体でも楽しめるのですが、それだけでなく、wifi通信を利用したダウンロード配信もコンテンツとして用意されています。
本作は、そんなダウンロード配信を利用して、ダウンロード配信限定で公開されている短編小説です。


さて、本作は定年後の老夫婦のやりとりで話が展開していきます。
手紙を書きながら、漢字のつくりがわからなくなった誠一郎。それを教える由紀子。そんなやりとりから、誠一郎は夏目漱石の小説『門』の冒頭部分を思い出します。
縁側でくつろぐ夫とそばで針仕事をする妻。夫は近来の近の字をどう書くかたずね、妻はそれに答える。…それがどうだということもなく、晴れ渡る空を眺める2人。

誠一郎は『門』に描かれる夫婦像がとても気に入っているようです。たしかに、なにも言わず、近くにいて落ち着いていられる状態、あえて会話がなくても成立する関係、といのはいいものだと思えます。
誠一郎が退職し、生活の形態が変わっていく。そんななかでふとしたことで思い出された『門』に描かれる夫婦像。それはこれからのあたらしい生活の理想として2人に共有されたことでしょう。

なに気ないやりとりが新しい生活への不安を打ち消し、楽しみへと変えてくれる。そんな夫婦生活の一場面をうまく描いているんじゃないかと思いました。


それにしても、こうやって作品の下に敷かれるほどの作品を読んだことがないのは、なんか寂しくなってきます。夏目漱石さんの作品は教科書で『こころ』のさわりを読んで以来読んでいないので、機会があれば読んでみようかと思います。
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by nino84 | 2008-02-23 12:28 | 読書メモ

『逆光のメディチ』

『逆光のメディチ』(藤本ひとみ、新潮文庫)を読みました。

ロワールの遅い夕暮れ。病床のレオナルドは、彼のヴェネチアでの16年の思い出を、彼でない人物にたくし、弟子フランチェスコ・メルツィに語る決心をした。
メディチ家の人々との出会い。彼らと少女アンジェラの関係。そして彼らの行く末。レオナルドの回顧録の空白の16年が、いま語られようとしていた。



本作は、ルネサンス期のイタリアを舞台にした小説になっています。
実に半月以上にわたってSF小説を読みつづけてきたので少し違うジャンルのものに手を出しました。といっても、人に借りたのですが。

さて、本作は、芸術家を志すアンジェラとメディチ家の人々、特にジュリアーノ・デ・メディチとの関係を描いた作品とも、メディチ家のロレンツォとその叔父レオーネとの対立を描いた作品とも読めると思います。
史実をベースに描いており、政局のクライマックスがラストにあわせてあるために、読み進めるうちに、後者の色合いが非常に強くなってきますが、一個人の回顧録ですから、やはり前者で読みたいところかな、と思いました。
そのため、読み方として、後半の政局の変動については大勢の把握だけにとどめ、細かい部分を追うのをやめてしまいました。また、細かい部分を考えると立地が分からなくて混乱しそうだったというのも理由です。
政局が変化するからこそ、その中にいるジュリアーノも刻々と変化し、それを描こうとするアンジェラも変化していく。回顧録としてなら、その関係の変化がもっとも重要な部分であるべきでしょうし、個人的にも楽しめる部分でありました。


ジュリアーノは兄ロレンツォと異なり、政治に必要とされる才をあまり持ちませんでした。しかし、彼はありあまる美貌と繊細な精神をもっており、そのために人々のあいだで花のジュリアーノと呼ばれるほどの人物です。
そして、本作の語り手の化身であるアンジェラ。彼女は美しい姿をしながら、人とあまり付き合わず、幼い頃から多くの時間を絵を書くことに費やしてきました。そんな彼女は偶然にもメディチ家の人々とであい、その才能をメディチ家の後ろ盾のもとで伸ばしていきます。

ジュリアーノに出会ったアンジェラは彼の姿に感動し、彼を描きたいと思います。彼女はこれまで風景しか描かずにいたにも関わらず、ジュリアーノの姿を描きたいと思ったのです。その姿から精神の健全さをも示すような彼に対する彼女のその衝動は、彼に対する愛でした。
しかし、ジュリアーノはメディチの男子。彼は次第に分が悪くなる政局の中でその精神を消耗していきます。そこにアンジェラが描きたい姿は見出せなくなっていきます。
アンジェラはなんとかして、ジュリアーノを描こうとするのですが、それができないのです。
そして懸命に絵だけを描こうとするアンジェラを見て、ジュリアーノは自分の想いとのすれ違いを感じていきます。そのことで、ジュリアーノはさらに孤独を感じてしまいます。

こうした2人の感情のすれ違いという部分だけ踏めば、普通の恋愛小説としてよめると思います。しかし、序章によって、すべてが脳内変換されてしまって、すこしの抵抗が生まれたりもしました。
もちろん、序章に意味がないわけではないのだろうと、読み終わってみると思えます。アンジェラはあの位置にいる人物でしか代わりの聞かない人間ですし、そもそも彼女の才能がなければこの話は成立しないのですから。それらに加え、女性として描かれることも含めて、すべては第三章のラストシーンのために必要なピースだと思えます。


ちなみに、本作は事実に基づく部分が大きいので、登場する人物はもちろん、描かれる絵画も、ものによっては現存する絵そのものを想像することができます。そんな楽しみ方もどうぞ。
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by nino84 | 2008-02-22 15:48 | 読書メモ

「少年と犬」

「少年と犬」(ハーラン・エリスン、伊藤典夫訳、『世界の中心で愛を叫んだけもの』ハヤカワ文庫収録)を読みました。

第三次世界大戦は地上を荒廃させた。秩序は乱れ、身を守るのもソロでなけりゃむずかしい。おれは犬のブラッドとソロを組んで、食いものとスケを探してる。
ある日、おれとブラッドは女を見つけ、彼女をものにしようと思ったんだ。しかし、彼女はこの地上で生活しているにしてはあまりに女だった。はたして彼女は戦火を逃れ、地下に住み着いたものの一人で…。それでもおれは彼女が忘れられず、彼女を追って地下へと…。



これでハーラン・エリスンさんの短編集『世界の中心で愛を叫んだけもの』も最後です。

さて、本作は第三次世界大戦後の荒廃した世界で生きる人々を描いた作品です。
人々は地上でなにはなくとも自由に生きるか、全てを与えられながら地下で徹底した管理のもと生きるか、そのどちらかの方法で生活している時代。そんな時代に、地上で生きる男と地下で生きる女が出会う。
男は女の洗練された女性らしさに惹かれる。そして、女性の「愛って何か知ってる?」という問いは彼を困惑させる。彼女は、「一度も人を愛したことがなければ」、愛は分からないという。男はまぜっかえすことしかできなかった。

男の住む世界はそんな余裕はないのだ。自分の命をまもり、犬の命をまもり、日々の食いものを探し、少ない娯楽を楽しみながら、生きる。それが地上の生活の全てだから。
しかし、女の住む世界では別の世界がある。女を追った男は、その世界を知る。女の住む世界には自由がないこと、太陽がないことを知る。それがどんなに自分にとって必要であるかを。そしてもう一つ、これまでともに生きてきたブラッドが、どんなに自分にとって必要であるかを知る。

こうして男は気づく。愛とはなにかに。
女は「一度も人を愛したことがなければ」、愛は分からないといった。しかし、彼は知っていたのだ、ただそれが、そうした感情だと気づかずにいただけ。

少年は犬を愛するものさ。


勢いでオチまで書いてしまいました。作品としては、彼が愛というものに気づく過程を描いたものだといえます。たとえオチがかいてあったとしても、その過程までをこのメモは書いていません。この作品はそこをこそ楽しむ作品だと思えます。
男が迷い、苦しむ姿。それは作品を読まなければ分からないものです。
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by nino84 | 2008-02-21 11:28 | 読書メモ
「ガラスの小鬼が砕けるように」(ハーラン・エリスン、伊藤典夫訳、『世界の中心で愛を叫んだけもの』ハヤカワ文庫収録)を読みました。

ルーディは8ヶ月の後にようやく彼女を見つけ出した。彼女がみんなといっしょにいた屋敷は、強いマリファナの臭いがする、不気味なところだった。
それでも彼は彼女らとの生活を始め、そして次第に蝕まれていき…。



さて、物語は共同生活するヒッピーのもとを訪れた主人公の視点で進められます。
ルーディの彼女は友人に連れられ、11人での共同生活を営んでいました。彼は彼女を追ってそこをたずね、その結果としてそこを出ることを嫌がる彼女を連れ戻すために共同生活に参加することになります。

ヒッピーについて十分な知識があるわけではないですが、個人的には既存の社会の閉塞感から逃れたかった人たち、ということだと認識しています。その閉塞感からの逃避、あるいは破壊の方法として薬を用いる場合もあったようです。
当初、共同生活でルーディは12人の中でただ一人、中毒者ではなかった。しかし、彼が愛した女性はすでに中毒者で、そこから逃れられそうにはない。また、のこりの共同生活者も薬の使用になんらためらいはない。そんな場にいて、日々マリファナの臭いのする場所にいて、彼が耐えられるだろうか。依存性があり、屋敷のなかの社会規範では使用が決して制限されないもの、それから逃れられるだろうか。

こうして薬が一人の人を壊していく。こうして現実か、幻覚かわからない世界に生きることになる。
待っていたのは価値観の崩壊。人格の崩壊。関係の崩壊。すべての崩壊。
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by nino84 | 2008-02-19 12:03 | 読書メモ
「殺戮すべき多くの世界」(ハーラン・エリスン、伊藤典夫訳、『世界の中心で愛を叫んだけもの』ハヤカワ文庫収録)を読みました。

ジャレッドの仕事は雇われの世界殺戮者。彼は宇宙の各地から送られてくる依頼をうけ、依頼人の指定した惑星を侵略していくのだ。彼は今日も自身の隠れ家で手製の人工知能との対話のもとである目的のもと依頼を取捨選択しつづける。
そんなある日、彼は人工知能から不可解な提案をうける。



ハーラン・エリスンさんの短編も残すところ本作を含めて3作となりました。半月以上掛かっていますが、今週中には終わりそうです。

さて、本作ですが、読んでいくうちになんとなく放送中のアニメ『機動戦士ガンダム00』を連想してしまいました。主人公の立場や規模は違うのですが、根底に流れる思考(アイデア?着想?)は似ているのだと思います。
本作では最終的な答えは出しませんでしたが、ガンダムどうするんでしょうね。

閑話休題、本作の話をしましょう。本作の主人公ジャレッドは自らの能力と人工知能、そして私設の軍隊を用いて世界の各地で侵略を繰り返していきます。その力は強大で、彼は惑星連合にさえ自由に手出しが出来ないほどの力を持っているのです。
そんな彼の本当の目的は、いまだかつて文明が到達したことのない境地に文明を導くことであり、それを達成するためにその力は必要なものでした。

力―権力であり軍事力であるような各種の―がなければ、世界になにも訴えることはできません。世界に物言うために、彼は力を身につけようとし、実際に力を伸ばしてきたのです。

彼はこうした計画を、これまで自身と自ら製作した人工知能のみによって推し進めてきました。彼は裏切られることを恐れたし、内部分裂という形で計画が終わるのを嫌ったからです。しかし、彼も生物です。生物的な限界はいつかやってくる。
そのための保険がどうしても必要となる、と人工知能は彼に提案しました。そしてその提案は受け入れられ、とりあえず保険をかけることに成功したのです。

ここまでが本編の展開です。彼、あるいは彼の意思を継ぐものが目的を達成できたかは分かりません。
しかし、彼自身も目的と手段の矛盾には気づいており、それによって悩んでいます。目的がなんであれ、手段が戦争行為であれば、結局のところ新なた戦争行為を生み出してきたのが文明です。しかし、力なきものの声が文明に反映されてこなかったのも事実ですから、力は持つしかない。したがって、一介の人間が目的を達成するための方法は力、それも軍事力をもつしかないのです。

また戦争が繰り返されるのか、それとも目的が達成されるのか。歴史は繰り返すのか、あらたな境地に達成するのか。それはやってみなければ分からないことなのですが…。
個人的には人間が人間であるうちは歴史は繰り返すんだろうな、と思います。機械によって管理され始めたらどうなるか分かりませんが…。

ところで、計画が終われば、それは「眠れ、安らかに」(ハーラン・エリスン)の世界と似た世界でしょう。著者本人も、反抗するものは必ず出てくると考えているようですよね。
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by nino84 | 2008-02-18 17:48 | 読書メモ

「満員御礼」

「満員御礼」(ハーラン・エリスン、浅倉久志訳、『世界の中心で愛を叫んだけもの』ハヤカワ文庫収録)を読みました。

ある夜、ブロードウェイの上空にそれは現れた。タイムズスクウェアの真上にそそりたつ、300mを越える円柱。そして定期的に現れる10mを越える不思議な生き物。
バート・チェスターはそれをショウとして利用し、一儲けしようと試みる。果たして試みは成功を収め、6年以上も彼に利益をもたらした。しかし、あるとき不思議な生き物たちが不可解な行動をはじめ…。



ひきつづきハーラン・エリスンさんの短編です。ここ何本かの作品は、最後に答えをいただけるので比較的わかりやすい作品群ではないかと思います。本作もそんな作品で、最後の一文でそういうことかと納得して読み終われる作品となっています。
ただし、納得できるとはいえここで何かを書くとなるとどうしてもオチに触れなくてはならなくなるのが最近の傾向なので、どうしたものかと毎回迷ってしまいます。そうして迷いながらも、ここ何作かはネタバレも気にせず、オチも含めて感想を書いています。どの作品もそうですが、結局オチまで書かないとテーマがはっきりしてこないので、感想どころではなくなってしまうんですよね。
というわけで、今回もオチに触れてしまうと思います。


さて、本作は異星の生き物と、それを勝手にショウに仕立て上げてしまった男のお話です。異星の生き物は誰にとっても珍しいわけで、それが危害を加えるそぶりを見せなければ、多くのひとは観てみたいと思うわけです。そこに目をつけたのがバート・チェスターという男でした。彼は円柱の周囲のビルの屋上を借り上げ、桟敷にし、特等席としてお金を取ることを考えたわけです。
そして幸運にも異星の生き物たちはなんら危害をくわえず、6年以上も定期的に円柱から出てきてはまた中に入っていくということを繰り返すだけでした。そして、人間はそれを観て、感動し、歓声をあげるのでした。

人を感動させること、というのは何にも代えがたい価値があるという考え方があります。たとえば、寝る間を惜しみ、生活費を削ってまで絵に打ち込むとか、役づくりのために体を絞り込んで演劇にのぞむとか。そうした行動ができるのは、人になにかを伝えたい、あるいは人になにかを感じて欲しいと望むからでしょう。
あるいは、そうした行動は、自分の表現したいものを表現するためということもできるかもしれません。それが自己実現欲求といえるのかもしれません。しかし、人に尊敬欲求というのがある以上、それだけではないはずでしょう。どちらも同時にあると考えてよいといえます。

さて、そこで今作の異星の生き物です。そもそも、この生き物たちの目的はなんだったのでしょうか。ただ地球人の前に現れて、帰っていく、ただそれだけのために地球にきたと考えるのは非常に不自然です。
地球の環境の調査、現地の生物の調査、あるいは侵略。いろいろな目的があるはずです。地球人が他の星を訪れれば、当然その星についての調査は行うでしょう。それを異星の生き物がしないというのはいささかおかしなことです。
異星の生き物にとって、特殊だったことは、ただ人間が自分たちをみて感動し、歓声を上げてくれることでした。ショウとして、芸術として異星の生き物の行動は完成されてしまったのです。そのために、それを壊すことはできなかった。彼らも人間と同じような感覚をもち、欲求を持っていたのでしょう。

結局、6年の後にショウは終わりをむかえるのですが、その理由は、異星の生き物が細部まで人と同じような感覚をもっていたということによるのでしょう。
当たり前のことではあるのです。尊敬欲求や、その上位の欲求である自己実現の欲求が満たされることの前提には、その下位の欲求が満たされていることがあるのです。その下位の欲求は上位の欲求の実現のために多少の犠牲が払われたとしても、やはり最低限、というのはあります。死んだらなにもできないのですから。
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by nino84 | 2008-02-16 13:18 | 読書メモ

「聞いていますか?」

「聞いていますか?」(ハーラン・エリスン、浅倉久志訳、『世界の中心で愛を叫んだけもの』ハヤカワ文庫収録)を読みました。

わたしの身に起きたことをどうやって話そうかと、長い間考えてきました。結局、その事件の始まりからいままでのことをありのままに話すしかなさそうです。
わたしはアルバート・ウインソーキといいます。名前以外なんら特徴のない男です。ある朝わたしが目ざめ、アルマのいる食堂に降りたのですが、彼女はわたしに気づかないのです。最初は無視しているのだと思いました。しかし実際に、彼女にはわたしが見えていないのでした。



本作はウインソーキという名前の男を主人公にしたお話です。一人称で語られているのでいままでの作品と多少違った文体で楽しめるかもしれません。

さて、ウインソーキという名前はある歌のなかにでてくるんだそうです。「ウインソーキがんばれよ。頑張りゃ勝てるぞウインソーキ……」それくらいの特徴しかない男が本作の主人公、ウインソーキです。
ある日から彼は誰にも認識されなくなってしまいます。それは彼が没個性化し、なんの特徴もなくなり、他者にとって彼を認識する意味がなくなったためなのです。

人はそれぞれに特徴をもっており、一人ひとりが違うからこそ、互いに認識し、その存在を認めます。予想外の行動は特異な反応ですから、どうしても注目せざるを得ないのです。しかし、すべての場面でまったく平凡な反応をする人は、その行動に予想外のことはおこらず、したがって認識する必要がなくなる。
ウインソーキの身にはそういうことが起きています。


また、本作はそうした警句だけでなく、実は文章自体に一つの仕掛けがしてあると読めます。
すなわち、本作はウインソーキの一人称でかかれています。人から認識されなくなった人が物語を語っているのです。そうでありながら、私たちはその話を認識する(聞く?読む?)ことができる。なぜ人の認識から外れてしまった男の話が聞こえるのか?

それはひとえに読者が没個性化し始めており、むしろウインソーキと同じような立場に近くなっているからだと考えられる。自分ももう少しで同じ立場になりうる、その恐怖。

なんにしろ、現代の社会はウインソーキのような男が生み出されやすい社会でしょう。情報が氾濫し、流行が起き、みなに同一の反応を求める。個性は殺され、同じ時間に同じように出社し、ルーチンワークをこなし、帰宅していく。社会の歯車となり、没個性化していく時代。
一人称による語りは、読者自身にこれは他人事ではないんだ、と思わせる手法なのでしょう。


気づくのか気づかないのか、そもそもそういう意図を持ってかかれているのか、かなり微妙な部分ではありますが、そうやって読んだ方が面白いかな、と思いました。読んでいて、楽しければいいんじゃないか、と。
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by nino84 | 2008-02-15 12:51 | 読書メモ