本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『ターンAガンダム II 月光蝶』を観ました。

キングスレーの谷で発掘された宇宙船ウィルゲムをつかい、月へと向かうロランたち。
しかし、ギム・ギンガナム率いるムーンレイスの軍隊が彼らの行く手を阻む。ギンガナム軍は月の女王たるディアナ・ソレルを差し置いて、月の主導権を握ろうとしていた。



前回観た作品の後編にあたります。前回同様、無理してまとめている感じは否めず、やはり説明不足だと感じます。テレビシリーズでも後半はかなりとっ散らかっている印象をうける作品でしたが、短い時間に詰め込むとそれ以上に分かりにくくなっています。

ともあれ、『ターンAガンダム』というテレビシリーズ自体のクオリティ―世界の作り方とか、キャラクターの描き方という点で―はとても高いと思います。テレビシリーズ前半は世界を作ることに重点が置かれており、そのどこかズレた世界が見所です。そして、後半はそれぞれのキャラクターがかなりかなり自由に動いて、次々と状況が変わっていくのが見所といえるでしょう。
今回は後半なのですが、なにぶん時間が限られ、人物描写に時間を裂けない状況にあるために、事を起こすことでそのキャラクターの性格がわかるという、本来なら順序が逆になるべき事態が起こっているように思います。
キエルが突然に告白してみたり、グエンが突如として裏切ってみたり。このあたりはテレビシリーズを見ると何かとしっくりくるのですが、やはり展開が早いことで違和感がありました。

やはりテレビシリーズを観るべきです。というか、『地球光』を観て、世界観が好きそうであれば、テレビシリーズに移りましょう。『地球光』からの流れで、本作を観ても了解できないことが多いと思います。
…長いのが難点ですけどね。
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by nino84 | 2008-03-15 13:18 | 視聴メモ
『ターンAガンダム I 地球光』を観ました。

人々が地球と月に別れて暮らしている時代。銀髪の少年ロラン・セアックは地球帰還作戦の先発隊として地球に降り立った。
そして2年。いよいよ本隊が降下してきたのだが、月のMSは産業革命さなかの地球人にとって脅威でしかなく、交戦状態となってしまう。そんな月と地球の戦争に、ロランは巻き込まれていくことになる…



またしても映像作品です。『ターンAガンダム』はガンダムの原作者である富野由悠季さんが監督したテレビアニメです。本来ならテレビシリーズもみたいところですが、さすがに4クールのアニメを短期間でというのは無理があるので、とりあえず総集編である映画を観ることにしました。本作はタイトルに"I"とついているとおり、2本の作品で完結となる作品です。本来なら2作観た段階で書くべきかもしれませんが、いろいろと思うところがあって、今回はバラバラで書くことにしました。

さて、本作は『ターンAガンダム』における前半部分をまとめた作品になっています。エピソードの順序の組替えや削除をし、2時間で2クール分の物語を進めることになんとか成功しています。
もともと富野さんはこういったみずから監督したテレビシリーズのまとめなおしという形での映画をいくつか製作しています。たとえば『機動戦士ガンダム』は3本立ての映画に、『伝説巨神イデオン』は2本立ての映画に、最近では『機動戦士Zガンダム』を3本立ての映画にまとめなおしています。
最新作である劇場版『Zガンダム』でこうした手法をかなり使いこなしているな、という印象をうけましたが、今作について言えばやはり総集編としての域を出ていないように思います。その原因は『ターンAガンダム』という作品が他のガンダム作品に比べてかなり異質な作品であることにあると思われます。すなわち、『ターンAガンダム』という作品は、いわゆる白トミノの作品―俗に、皆殺しの富野といわれテレビ版『Zガンダム』に代表されるように主要なキャラクターを躊躇なく殺していく作風で有名であった時期を黒トミノ、そうした路線が解消された『ブレンパワード』あたりからの時期を白トミノという―であり、作品全体としてやさしい雰囲気をかもし出しているのですが、エピソードを丸々削ることでその雰囲気の一端が崩れているのです。

テレビ版では、月に住む者ムーンレイスと地球の住民との間での小競り合いがとても丁寧に描かれていました。それは別に戦争を描くのではなく、一般市民同士の小競り合いを描いていたのです。たとえば、「ローラの牛」という話では環境の変化や配給不足で母乳が十分に出なくなったムーンレイスの母親のために、すでに家を立ち退いた地球人の農家から乳牛を調達するといったエピソードが描かれます。
こうしたエピソードの多くは、作品の世界観を広げる役割を果たしはするものの、なんら物語りの進行に影響を与えませんから、率先してカットされていく運命にあります。こうしたエピソードこそが『ターンAガンダム』の真骨頂だというのに。

一方で、多くのエピソードがカットされていく中、残っているエピソードというのは、それはやはりとても重要なエピソードであって、そうしたエピソードの積み重ねられている本作の情報量は当然かなりのものになります。
とりあえず、本作の見所は最終盤の核を巡るエピソードでしょう。核のおそろしさを知るムーンレイスとそれを知らない地球の人々。発掘したものはすべて価値あるものであると考える地球人は、ムーンレイスが発掘した核を力ずくで奪おうと試みます。本当に、怖い。富野さんは、いままでいろんな形で戦術核は触れてきているけれど、このエピソードが一番印象に残っています。


といいながら、雰囲気の一端を感じ、よさそうだな、と思ったらやはりテレビ版を観ることを全力でお勧めします。完全に説明不足なので。
テレビ版では、今作の範囲内なら8話と27話がお勧めです。
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by nino84 | 2008-03-13 08:41 | 視聴メモ

『Corpse Bride』

『Corpse Bride』を観ました。

魚屋が成功し、成金となったヴァン・ドート家は、貴族であるエバーグロット家と婚姻関係を結ぶことで家系に箔をつけようと計画する。政略結婚とはいえ、ヴァン・ドート家の跡取ビクターとエバーグロット家の娘ビクトリアは結婚式の前日初めて出会い、互いに惹かれあう。
しかし、ビクターは誓いの言葉を覚えることが出来ず、結婚式は延期。ビクターは失意の中、町外れで誓いの言葉を繰り返す。そして偶然、死者の女に誓いの言葉をのべることになり…



久しぶりに映像作品です。先週末にレンタル料が安かったのでなんとなく借りてきました。以前なら2クールのアニメ作品を平気で借りてきたのですが、最近はそんなに観たい作品があるわけでもなく、そんな元気がなく、そして時間もないということで、簡単に観られるものを探してしまいます。

さて、今作はストップモーション・アニメ―人形を少しずつ動かして写真をとっていき、連続して動かすことで動画にする手法―で作られた作品です。実は前回の視聴作品『スウィーニー・トッド』に引き続きティム・バートン、ジョニー・デップコンビの作品だったりします。ティム・バートンはともかく、声優陣は誰も知らなかったので、全くの偶然ですが。

作品としての世界観は非常によく練られています。生者の世界と死者の世界の対比は分かりやすかったと思います。
生者の世界は政略結婚に現れているように階層がはっきりとしており、なにはともあれ金が必要で…と縛られるものが多い。一方、死者の世界には縛られるものがない。生者が死者のように、死者のほうが生者のように描かれるのである。この世界が決まりごとだらけで生きにくいというのはなんとなく納得する部分かな、と思いながらも、そのあたりを見事に表現できています。
表現方法としてのアニメーションという方法が、死者を死者らしく見せないこと―もちろん、一見して死者だと分かるのですが―に大変大きな役割を負っていると思います。実写でやるとおどろおどろしくて観ていられないでしょうから。
こうした世界観の構築はとてもよかったと思います。

次は話の内容について。話としては分かるのです。肉体は滅びようがなんだろうが、精神は死なない。それはいいのです。そのために世界をつくり、必要な駒も十分にそろえられていたと思います。大きな筋としては、納得できる話になっています。
しかしながら、その駒の登場のさせ方が雑…というか、なんでしょうね。登場人物が揃った段階で、オチがほぼ正確にわかるというのは、個人的にいただけない部分でした。
もちろん、予定調和でそれはそれで良いという評価もできなくはないのです。ただ、この作品は予定調和が過ぎるのです。心情からなにから私の予想がほとんどそのまま展開していくのです。オチに到達するまでに「あぁ、このオチは確かに感動するな」と冷静になれる時間があってはいけないと思うのです。

大きな話の流れがハッピーエンド(?)なだけに、それまでにいくつか裏をかいた展開が欲しかったように思います。いっそ、主人公死ぬ、くらいの。
そう、主人公死ねばよかったんですよ。むしろ、みんな死ねばよかったんです。
あるいは、"あの男"が登場した瞬間に物語がすべて了解できてしまうことが問題なので、"あの男"をもうすこし慎重に導入するとかでもいいのか。


そんなわけで、個人的には世界観を楽しみましょう、という作品になってしまいました。そして、オチは感情の赴くままに観たいよね、ということを再認識しました。
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by nino84 | 2008-03-11 10:03 | 視聴メモ

「手袋の花」

「手袋の花」(宮部みゆき、『DS文学全集』任天堂にてダウンロード配信)を読みました。

葉子は亡くなった父方の祖父の古里である賀古村を訪れた。
山奥の古里はすでに無人になっていたが、葉子はそこで不思議な出会いをすることになる。



性懲りもなくまた『DS文学全集』のオリジナル作品です。『DS文学全集』では月イチでオリジナルの短編が追加されており、本作は3月分の新作になります。ちなみに、来月は吉田修一さんの短編が予定されています。
宮部みゆきさんの作品は何作か読んでいますが、最近はすこしはなれていましたので、久しぶりに作品に触れることになりました。

さて、本作も他のオリジナル作品と同様にモチーフにした作品があり、本作は『手袋を買いに』(新見南吉)をモチーフにしています。童話ですね。

亡くなった祖父を通して葉子と狐とが繋がる。モチーフが童話ということで、本作もどこか小さい頃に読んだ童話のように読んでほっこりした気持ちになる、そんな作品になっていると思います。
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by nino84 | 2008-03-09 23:59 | 読書メモ

「ピコーン!」

「ピコーン!」(舞城王太郎、『熊の場所』講談社文庫収録)を読みました。

チーム「婆逝句麺(バイクメン)」に入ってる恋人、哲也は喧嘩っ早いけど、アレはサイコーの男。とっても愛しい。
わたしはそんな哲也をささえるために学をつけたくて、大検をうけたいのだけれど、彼はそんなこと分かってくれないだろう。でも、哲也のためだから、どんなことをいわれても大検をうけるのだ。



前回に引き続き、舞城王太郎さんの『熊の場所』に収録されている短編になります。

さて、今回の主人公は他の2作とは異なり女性です。しかし、やはり青年期でそれなりに突っ走ってくれます。どんな状況にあってもエネルギーに溢れているというのは、それだけで美徳なのでしょう。

”わたし”のモチベーションを支えているのは哲也で、”わたし”は彼を生活の糧とし、彼のために生活を組み立てています。大検を受けようというのも、2人の生活を良くしようとしてのことだし、それによって哲也がなにかに気づいてチームから足を洗って、まっとうに生きようとしてくれれば、という願いもあってのことでした。
そのためなら大検を受けるための哲也の無茶な交換条件も飲めるし、実際にその条件を必死になって実行しもするのです。

愛。愛こそがエネルギー。愛があればなんだってできる。なんだって乗り越えられる。そんな感じの作品かな、と思います。もちろん、愛のかたちなんていろいろあるはずなので、これが全てだという気はないのでしょうが、ある種エネルギーの源なのだ、というのはすごく伝わってくる作品だったと思います。


そういえば、最近のケータイ小説ってこんな感じなのでしょうか。女の子を主人公にして、彼氏がいて、どちらかになにか不幸が起きて、それでもそれを乗り越えてなんとか生きていきます、みたいな。
メインの読者は女性でしょうから、本作のように女性が主体的にあられもない無茶をすることは少ないのでしょうが…うーん。ケータイ小説を読んだことがなく、どの程度心情などの描写があるのか分からないので、比較のために読んでみようかしらん。
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by nino84 | 2008-03-08 09:41 | 読書メモ

「バット男」

「バット男」(舞城王太郎、『熊の場所』講談社文庫収録)を読みました。

去年の秋口から調布に出没するようになったバットマンは、臭くて汚くて髪の毛ぼうぼうのうえに、少し気に入らないことがあるとバットを振り回す情緒不安定な男で、あのゴッサムシティのヒーローとは程遠かった。
バット男が人にはバットを振らないことを知っているから、彼は頻繁に殴られ、そして蹴られた。そのうちに、バット男が殺されたという話が聞こえてきた。しかし、彼の影は消えることなく、僕の周りには彼の存在の影響が依然残っていた。



前回書いていませんでしたが、今読んでいる舞城王太郎さんの作品は『熊の場所』という短編集です。前回の表題作「熊の場所」、今回の「バット男」、そして書き下ろしの短編の3作収録されています。

さて、今作はタイトルだけをみるとなにかコミカルな感じをあたえますが、そんなことはなく、意外としっかり青春している作品です。毎度おもうのですが、舞城さんは、成人を主人公で書くよりもこの思春期くらいの人物を主人公にした作品が良いと感じます。文体がかなり一貫しているので、成人を描くにはすこしエネルギー過多であり、鬱陶しく思えるのです。
ちなみに、今作の主人公は高校生の男の子ですから、あぁ、と思えます。

主人公”僕”はバット男の存在をこの社会のストレス解消システムの一部であり、仕方のないものと捉える一方で、それに違和感を持っていました。そして、バット男が死んだ後には、誰かがそのシステムのバット男の位置に納まるのだと、考えたのです。
バット男の位置に納まる者、それ自分でない保障はない。彼はそれに抗おうとしながらも、一方で社会の枠の外に出て行くことを恐れます。

社会の枠の中にはいたいけれど、そのポジションにはおさまりたくない。でも、自分でポジションなど選べるのだろうか?枠の中にいるためには社会に流されなければいけなくて、流されればいつの間にかあるポジションにおさまっているだろうに。
そうやって思い悩む”僕”の一方で、大賀という友達は、誰の子どもかわからない赤ちゃんを宿した愛する人を守るために、高校を中退しバイトをして生活をし始めます。
このご時世に高卒前に働き出す男。社会の枠から飛び出していった男がいる。”僕”はそんな彼のことを気にかけつづけます。それは心配というよりも、社会の枠を飛び出しながら社会で生活していけるのかという興味からでした。


僕は社会の枠からあまり飛び出そうとは思わないけれど、このままだと飛び出しかねない位置にいるので…なんか…意外と枠から飛び出るタイミングっていろいろなところに転がっているものだと思ってしまいます。
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by nino84 | 2008-03-07 13:46 | 読書メモ

「熊の場所」

「熊の場所」(舞城王太郎、『熊の場所』講談社文庫収録)を読みました。

僕はまー君の猫殺しを知った。その瞬間から、まー君は僕にとって脅威になって、でも目が離せなくなって、なんでそんなことをしているんだろうとか、僕も殺されるんじゃないかとか、そもそも本当にそんなことをしているのだろうかとか、いろいろな考えが頭の中でぐるぐる回った。
この大きな恐怖を、何とかしなくてはいけない。僕はまー君の自宅へと自転車を走らせた。



まだ『yom yom』の収録作品すべてのメモを書いたわけではありませんが、少しそちらはお休みしまして、別の本を読もうかと思います。久しぶりの舞城王太郎さんです。

前回まで『yom yom』の読者の年齢層がかなり高く想定されているようで、比較的ゆっくりしっかり心情を描く作品が多く、それはそれで自分の糧にはなるのですが、やはり直面するものが大きすぎて、それがかなりの衝撃になって疲れてしまいます。ショウペンハウエルの「読書について」ではないですが、やはり自分の思考は自分で整理していくのが最も良いはずです。しかし、いまだ整理しきれていない問題についての考え方のひとつを提示されると、どうしてもそれに共感し、流されてしまう部分があり、自分が揺らぎます。そうした自分と作品との思想のぶつかり合いが疲れるのです。
それを避けるためには、自分がすでに解決した(と思える)問題について読むか、設定が自分とは距離を置けるもの、すなわちファンタジー然とした作品を読むか、ということになるのです。今回の舞城さんの選択は前者ですかね。自分のエネルギーの回復。

また何かに直面するエネルギーができれば『yom yom』の感想も書いていこうと思います。

さて、本作は舞城王太郎さんの短編小説です。主人公は小学6年生の”僕”で、彼がまー君という同級生に持った恐怖をどのように自分の中で消化していくかが、作品の主軸になっています。まー君の猫殺しを知った”僕”は父の教えに従い、その恐怖に立ち向かい、乗り越えることを選択します。そのためにまー君に接触し、彼のことを知ることにするのです。

知らないことはそれ自体が恐怖です。たとえば、幽霊。幽霊の正体見たり枯れ尾花。正体が分かってしまえば、それは怖くありません。そのために、”僕”は彼のことを知ろうとするのです。本当はどんな子なのか。その結果、”僕”は猫殺しの現場を見ることは出来なかったものの、まー君がサッカーがとても上手だということをしります。小学生にとって、運動ができるということは、それだけでステータスであって、また力になります。
立ち向かえないほどの力もまた恐怖の対象になりえます。恐怖政治はまさにそういった類の恐怖を振りまいていたものでしょう。”僕”はまー君に屈しないように、必死に立ち向かうのです。それによって完全に恐怖を振り払おうとしたのです。こうして”僕”とまー君はサッカー対決し、まー君は”僕”のことを「気迫がある」といって認めるのです。それによって”僕”の恐怖の大部分は消えると同時に、一緒に遊んだという事実によって、僕とまー君は仲良くなっていくのです。

この作品に一貫してながれるのは、こうした恐怖です。”僕”はそれをなんとかおさめようとするのです。
とはいえ、本作はこうした恐怖を決しておどろおどろしく描きません。むしろその恐怖に立ち向かうための力強さとか、向こう見ずさとかそうした少年の健全なエネルギーによって、いっそ清々しく描きます。

『阿修羅ガール』もそうでしたが、この人の書く文章はエネルギーがあふれていると思います。こういう文章は、乱読気味で方向性の分からない僕の読書生活の中で、定期的に読みたくなります。エネルギー補給ですかね。
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by nino84 | 2008-03-06 13:54 | 読書メモ

「にんじん」

「にんじん」(重松清、『yom yom vol.6』新潮社収録)を読みました。

同窓会の案内状が届いたのは、去年の11月。<工藤先生もぜひお越しください>と手書きのメッセージが添えられていた。
今年で20年。幹事の名前をみても顔をすぐに思い出せなくなっていた。しかし、そこには出ていない一人の教え子の顔は、すぐに浮かんだ。にんじん――。



今回は重松清さんの短編。たぶん初めて読む。少なくとも僕の部屋の本棚には重松さんの本は並んでいない。題材が題材なら読みやすい文体なのだと思う。今作は題材が教師ということで、考えることもいろいろあって疲れました。


さて、今作は先にも触れたとおり、一人のベテラン教師が同窓会の案内状を読む場面から始まる。そして、それを契機に彼は自分の若かった頃に思いを馳る。

にんじん。かつての工藤は彼を嫌っていた。
あれから20年。工藤はベテラン教師になり、すでに2人の娘がいる。下の娘は中学3年生。こんな今なら自分の行ってきたことの理不尽さがわかる。だから、同窓会に行くのを躊躇しているのだ。


教師も人だから、好き嫌いはある。特に、このときの工藤は風間というベテラン教師が一年かけてまとめあげたクラスを6年生になって受け継いだのだ。工藤が対抗心を燃やし、自分の力の不足を誰かに転嫁することは、やってはいけないことながら、一面仕方のないことだとも思える。
しかし、転嫁されたほうはたまらない。若かった工藤は頭でそれを分かりながら、にんじんを嫌いつづけた。
ベテランになった工藤は、その当時を思い、その罪に苦しむ。自分にできることをすればよかっただけ、ベテランの教師のさじ加減など、わかるわけはないのだ。工藤は風間ではない。20年経ちベテランとなった工藤と、当時すでにベテランだった風間でも別の考え方を持っているだろう。


こういう教師視点の作品は、意外と少ないような気がしています。いつも子どもが主役になって、あの先生は嫌いだ、というような作品になっていく。教師の葛藤が描かれることはそんなにないのではないだろうか。
最近はモンスター・ペアレントなどの親の蛮行(?)が指摘され、教師の大変さがクローズアップされてきている。また、教師の淫行などの犯罪が報道されることも増え、それなりに教師も人だという認識がされてきているようだ。
もっとも、教師への期待値が高くなるのは、ある意味で当然だと思えるのだ。教師の犯罪はすべての教師がそのように悪いということを示してはいないから、どこかで「うちの担任の先生は、大丈夫」という感覚もあろう。その「大丈夫」には「役割を完璧にこなしてくれる」という期待が含まれていることが多い。そこで教師自体の大変さが優先されることは稀だろう。
仕事だからこなして当たり前。それはそうなのだが、教師は現場に出た瞬間からベテランと同じ完璧な仕事を求められてしまう。経験が圧倒的に違うのだから、それは多くの場合無理なのだが、それを考慮してくれるほど、世間は教師に優しくはない。


教師も間違えるし、成長もしている。そんなことをあらためて思い出させてくれる作品でした。
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by nino84 | 2008-03-03 11:17 | 読書メモ

「試着室」

「試着室」(金原ひとみ、『yom yom vol.6』新潮社収録)を読みました。

ショッピングはいい。ショッピングをしている間、私は色んな事を忘れられている。
初めて彼とショッピングに行った時、彼の無機質な、張り付いたような微笑みが印象的だった。この違和感は年齢差からくるものだろうか。たった六つの差。それだけの事のはずだ。



引き続き『yom yom』の収録作品からメモを書いていこうと思います。ただし、意外と厚い雑誌なので、とりあえずめぼしい作品を読んで、メモを書いていくつもりです。
今回は金原ひとみさんの短編作品です。金原さんの作品は芥川賞受賞作である『蛇にピアス』以来となります。『蛇にピアス』は多分、高校生時分に読んだのだと思うのですが、ピアッシングとか、スプリットタンとか、なにやら行為の衝撃だけが印象に残っていて、なにか肝心な部分がすっぽり頭から抜け落ちてしまっています。なにか不安定な作品だな、という漠然とした印象はかすかにあるのですが…。

さて、返って本作ですが、主人公が27歳の女性ということで、思春期的な不安定さは感じられません。しかし、本作の主人公は、それなりに歳を重ねたからこその、そして年下と交際しているからこそ感じる、自分の擦れてしまった感覚に違和感を感じています。

若い頃に自分が年上の彼に感じていたこと、それを私は年下の彼に感じさせているのではないか。彼は自分に温度差を感じている。彼女は歳を重ね、自らを客体化できるようになったからこそ、その現状に戸惑います。


金原さんは芥川賞を獲ったときの印象が強すぎて、彼女の年齢はあのころの若いままで止まっているのですが、あの頃二十歳くらいで話題になっていたと思うので、現在はそこそこの年齢なんですよね。なんにしても、こんな話を書くようになったのか、というのを感じました。
久しぶりに読んだら、僕のもっていた著者の印象と作品の印象がずいぶん違いました。自分が歳を重ねてしまったという認識をもちはじめた女性の機微をうまく描いているな、と。強い(強くみえる?)大人の女性を書くようになったんだ、と。そんなことを思いました。
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by nino84 | 2008-03-02 23:59 | 読書メモ

「丕緒の鳥 十二国記」

「丕緒の鳥 十二国記」(小野不由美、『yom yom vol.6』新潮社収録)を読みました。

慶国の羅氏である丕緒は、近々新王が登極するため、その際に披露する射儀の計画を命ぜられる。
しかし、ながらく王に恵まれず、疲弊し、そのため新王の登極を祝う気にはなれず、丕緒はなかなか計画が立てられずにいた。彼の思考は過去の女王たちの横暴とそれに翻弄された民に向けられ…。そして彼は決心する。



今回は雑誌に収録されている作品です。以前から読んでいる『十二国記』シリーズの数年ぶりの新作ということになります。短編集が出版されてから、ながらく音沙汰がなかったシリーズの最新作で、単行本への収録未定ということなので、思わず普段は買わない雑誌を買ってしまいました。

さて、今作の舞台は十二国の1つ、慶国です。この国は世界の東方に位置し、3代不安定な女王の治世つづき、荒廃している国です。その国にまた新たに女王が立つことになりました。このあたりの事情はシリーズ第一作『月の影 影の海』に詳しく描かれています。本作は、その女王登極の少し前から始まります。

この十二国の世界では、王の登極というのが、大変特殊なものであり、そのために王の存在とその役割が大変重いものとなっています。慶国の人々は新しい王が登極するたびに、復興を期待し、しかしそのたびににその期待は裏切られてきました。そして彼らは期待することをやめました。
下級の役人である丕緒もそんな慶国の状況にすでに期待することをやめ、自らの仕事に意味を見出せなくなっていました。彼の仕事は祝いの席で演じられる射儀の計画です。かつての彼は部下とともにその計画に工夫を凝らし、祝うことだけでなく、さらに民の心さえも見るものに伝わるような、そんな射儀を目指していました。
しかし、彼の目指したものは先代の王に否定され、そのために、彼は自分の仕事に飽いていたのです。

しかし、彼がすでに失われてしまったかつての部下蕭蘭の姿を思い出し、そして自分が現実を拒絶しているということに気づきます。それは背を向けるだけでなく、すべての情報を締め出してしまうこと。それをしているのが自分だと、そう気づいたのです。
そう気づいたとき、彼はかつての部下の強さを知ります。それは現実を悲嘆しながらも、決してそれを拒絶するのでなく、状況を知ること。彼女にはそれが出来ていたと言うことを。

現実を拒絶し、締め出してしまえば、現実にはなんの楽しみも見出せなくなります。夢見るか、それとも無為に過ごすか。しかし、現実を知っていれば、なにかしらの楽しみは見出せる。蕭蘭はそれを作業場の机の上だけに見出しました。彼女は現実に立ち向かうだけの強さはありませんでした。しかし、彼女は自分なりに現実の受け入れ方・生き方を知っていたのです。夢見てもいたのです。


現実はつらい。それはそうでしょう。しかし、現実はつらいことばかりではない。そのなかに楽しみを見出せるから生きていける。
つらく苦しくなればなるほど、楽しみを見出すのは難しくなる。つらさがすべてを覆い隠し、自らが楽しめていたことが楽しめなくなるのです。それが自動思考としてへばりついてしまえば、人は鬱々として暮らさなくてはならなくなります。
救いは、自分の手で。しかし、それは一人でという意味ではないのです。助けをかりて、自分でということ。なにが楽しみ・支えとなるかは人それぞれですから。人に決めてもらうことなどできません。しかし、参考にはなるのです。なにかに立ち向かうだけではなく、その場で探すことでも救われうるのです。
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by nino84 | 2008-03-01 14:41 | 読書メモ