本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『MACROSS ZERO』

『MACROSS ZERO』を観ました。

西暦2008年、統合戦争末期。鳥人伝説の残る南の孤島、マヤン。統合軍はその海底に異星人の異物と思われる物体を調査していた。統合軍主力のF-14での調査飛行中、彼らは反統合軍のMig-29との遭遇戦に突入し、次々と撃墜されていく。
そのMig-29に撃墜されたF-14のパイロットの一人であったシンは、目を覚ますと、マヤンの島にいた。



地元のビデオレンタル店が一本100円というので、思わず借りてきてしまいました。まとめて5巻。OVAなので、時間としては全体でおよそ2時間半と、本数の割にたいした事はないです。テレビシリーズを観ることを思えば…!!

さて、本作はタイトル通り、「マクロス」シリーズの作品です。
特に本作は「ZERO」ということで、シリーズ1作目『超時空要塞マクロス』よりも時間軸的に前のお話になっています。具体的には、1999年にマクロスが地球に落ちてきて、それを契機に統合戦争がはじまります。この戦争が2008年、すなわち本作の時点まで継続しているのです。
本作は、そんな、世界が長年戦争をしている時代のお話です。

大きな筋としては、「島に伝わる伝承が本当で、それは異星人の異物のことを指していて、それを目ざめさせると世界が滅ぶといわれているのに、それがオーバーテクノロジーであって、利用可能性が高いために、統合軍と反統合軍が島民を無視してそれを奪おうとするけれど、それは人の気持ちに敏感だから、争ってる人たちのものにはならないよ」というようなものです。「マクロス」シリーズなので、どこか「愛は地球を救う」のような雰囲気が漂っています。
とはいえ、話より何より、戦闘シーンのクオリティの高さに目がいく作品かな、という気がします。機体も、ミサイルも弾幕もとてもよく動きます。それにつられて画面もよく動くので、一歩間違えると酔うのではないかと心配になるほどです。個人的には、筋があまりぐっとこなかった―物質至上主義ではダメではないか?という最近ちょくちょく類似品を観るような筋であるように見えました―ので、とにかく、筋はともかく戦闘シーンを観ようというようにして、観ていました。同シリーズの『マクロス・プラス』が手書きアニメの戦闘シーンの極地のような言われ方をときどきしていますが、本作ではCGを上手く使って手書きとはまた違った戦闘シーンが展開されています。戦闘シーン、すなわちドッグファイトですが、もう、この作品はこれに尽きます。

「マクロス」シリーズということで、伝統の三角関係―主人公、シンとマヤンの巫女姉妹―も描かれますが、全5巻なので、あまり三角関係していません。シンの心があまり揺れないので、本作においてはそれほど見所とはなりえないかな、という印象です。
また、同シリーズでは、歌も伝統的に重要な要素となっています。今作のヒロインも歌っています。しかし、なんども歌っているわけではないので、他の作品よりもその印象も薄いように思います。
こうやってみると、本作は、変な言い方ですが、あまり「マクロス」してないかもしれないですね。


また、シリーズ他作品との関連として、シリーズ第一作の登場キャラクターである、ロイ・フォッカーも登場します。筋そっちのけで、こちらの人間関係を楽しんでいる人もいるのではないでしょうか。なんとなくそんな気がします。

とにかく、VF-0―シリーズ第一作の機体の先代機―とMiG-29の戦闘を楽しみましょう。それだけで十分に観応えがあると思います。
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by nino84 | 2008-08-31 21:34 | 視聴メモ
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(フィリップ・K・ディック、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫)を読みました。

最終世界大戦の結果、死の灰が降り注ぎぐアメリカ西海岸。そこで逃亡してきたアンドロイドを狩る仕事をしているリック・デッカードは、火星から逃亡してきた8人のアンドロイドの処理を目指す。


突然にSF。突然に長編小説です。ですが、映画『ブレードランナー』の原作ということで、有名な作品です。とはいっても、私自身は映画を観たことはなく、なぜかデザイナーのシド・ミード氏の名前を通して知っているだけです。SF映画ですから、結局マニアックな名作扱いになるのでしょう。

さて、本作の主人公リック・デッカードは、バウンディ・ハンターとして、逃亡し違法に地球に侵入してきたアンドロイドを狩っています。
最終世界大戦後、地球には放射能灰が降り注ぎ、人間、その他の動物を含めて多くの生物が死んでいきました。その結果、人類は火星などへの移住計画をすすめ、実際に移住を始めました。そして、現在、それを促進するために移民する者にアンドロイドを一体無料で提供するという政策をとっています。それでも、人間の中には地球にそのまま住んでいる者もいます。また、一方で、奴隷として人間に従うしかないアンドロイドの中には、逃亡を画策し、実際に地球に逃亡してくるものもあるのです。
アンドロイドは見た目では人間と区別できず、感情移入度検査など、特殊な検査をしなければ人間とアンドロイドを区別することはできません。そのために、地球には、多くのアンドロイドが人間にまぎれ、隠れ住んでいます。
そうした触法アンドロイドを処理するのが、バウンディ・ハンターとしてのリック・デッカードの役割です。

また、最終世界大戦後、多くの動物が絶滅し、極端に数を減らしたために、「本物の動物」を飼うことが人々のステータスとなっています。しかし、それらは、とても高価であり、手に入り難いため、多くの人は本物の動物と一見して区別のつかない電気動物を飼っています。リック・デッカードもその一人で、彼は電気羊を飼っているのです。

バウンディ・ハンターには、アンドロイドを1体処理するごとに高額の懸賞金が支払われます。8人のアンドロイドが逃亡してきたことを知ったリックは、その懸賞金で本物の動物を買うことをめざすのです。

最初、彼の目的は、本物の動物を買うことでした。そのため、アンドロイドを狩るのですが、この時点の彼にとって、アンドロイドはただの狩るべきものにすぎません。アンドロイドはものであって、いくら壊してもかまわないと考えているのです。
しかし、今回の逃亡アンドロイドはネクサス6型という最新型であり、それには今までの弁別テストの有効性が十分に証明されていません。したがって、人間かアンドロイドかを区別することが非常に困難であり、人間であるのに殺してしまう可能性が生まれてきます。
それでも、リックは、どこかで人間らしくない行動をしてしまう逃亡アンドロイドを次々に処理していきます。しかし、そうしてアンドロイドを処理していく中で、次第にリックのなかにアンドロイドへの同情という感情が生まれてきます。
アンドロイドはただ自由になりたかっただけであって、それをなぜ狩らなければならないのか。そうした疑問を感じたとき、リックはアンドロイドを狩ることに疑問を感じます。同時に、アンドロイドを狩っているバウンディ・ハンターの同僚に嫌悪感さえ感じ始めます。

本書において、人間とアンドロイドを区別する重要な要素は、感情移入すなわち同情の能力あるとされています。人間は同情することができるが、アンドロイドは同情することができない、それが区別の方法だったのです。しかし、アンドロイドもやさしさ、その他の感情を現すことができる―パートナーを殺されたときに悲痛な叫び声をあげる―のだし、人間も非常になる時だってある―マル特とよばれる放射能汚染者に対して、人間と思わなくなる―のです。
そうしたときに、人間とアンドロイドの区別はどこにあるのでしょう。見た目では区別できないそれらが、かつ感情でさえも時に区別できなくなれば、それらの区別に何の意味があるでしょうか。
人間もアンドロイド的になることがあるのだし、アンドロイドも人間的になることもあるのです。

もちろん人間がアンドロイドにさえ同情しうるということは、人間の特筆すべき能力でしょう。人間は人間だけでなくほかの生物やもの―アンドロイドに足を削がれていくクモ、アンドロイド、電気動物―にさえ同情しうるのです。それが人間を人間たらしめています。
しかし、アンドロイドもそれに近づいています。アンドロイドには、明らかに感情があります。それは動くということとは違うでしょう。あきらかに生きているように思えます。
人間として生きるとは、どういうことでしょうか。明確に結論は出せませんが、そんなことを考えさせる作品だったかな、と思います。
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by nino84 | 2008-08-29 12:49 | 読書メモ

「flowers」

「flowers」(吉田修一、『パーク・ライフ』文春文庫収録)を読みました。

僕は妻の鞠子の提案で、九州の田舎から東京にでてきた。
東京で見つけた仕事場で、僕は望月元旦と出会った。初めて会った時、僕は一目で彼に吸いよせられた。四つ年上の従兄、幸之介を思わせたのだ。
僕はそんな彼と一緒に、飲料水の配送をしている。毎日毎日同じルートで。



前回に引き続き、『パーク・ライフ』の収録作品です。こうして書き始めた段階でいまだに消化できてない部分がありますが、徒然に書いていくことにします。

さて、本作の主人公「僕」は、妻の鞠子が東京で喜劇役者になりたいということで、それに付き合って上京してきます。
それまで、「僕」は、九州の叔父の下で、幼い頃から一緒に育った従兄と共に、墓石専門の石材店を手伝っていました。その仕事は毎日、墓地に墓石を設置するというものです。それはルーティンのような仕事で、感情が入るような余地はあまりありません。墓石を設置し、手を合わせてそこを去るのです。東京での「僕」の仕事も同じようなものでした。毎日、飲料水を指定されたところへ配送する。同じルートを廻る仕事。共に仕事をしている元旦は、「同じルートを廻っていると、ふっと外へ飛ばされるような気」がするといっています。一方、「僕」は仕事に、「地球を回っている人工衛星が、ふっと力を抜き、「いち抜けたぁ」なんて言いながら、地球の引力から外れ宇宙の彼方へ飛んでいく」ようなイメージを持つことがあるようです。

「僕」が東京に出てきたのは、鞠子に推されたから、ということでした。それを承諾したのは、「どしゃぶりの墓地を歩き回りながら、無意識に花のない墓を捜し」、「ぬかるんだ足元で泥が跳ねた」その時でした。そのときまで、「僕」は地元を離れること、墓石の運搬から解放される自分がピンとこなかったようです。しかし、「僕」は、突然に東京にいってみようと思うのです。
「僕」の祖母は「この世にある花の数だけ、人には感情がある」といいます。「僕」が石材店の手伝いでいく墓地には、色とりどりの様々な花がいけてありました。そして、ふと気づくと、花のない墓石はありません。そこには亡くなった人に対するさまざまな感情があります。一方で、「僕」はそんな場所にいながら、日々をルーティンで過ごしています。東京に行くという選択は、そのルーティンから抜けでるための最も容易な方法でした。鞠子が言っているのですから、「僕」は今の生活に不満があると言わなくとも、鞠子に付き合う、というもっともらしい言い訳ができるのです。
それで、東京に来て、しかし、そこでもやはり「僕」はルーティンの仕事に陥ってしまいます。

「僕」は、「鞠子といると、ときどきふっと力が抜ける」といっていますが、それは鞠子が突然喜劇役者を目指すような突飛な行動をする女性で、ルーティンにはまらない生活をしているからでしょう。「僕」はそれに憧れているといってもいいかもしれません。しかし、それでも「僕」はそこまで自由になれない、という気持ちがどこかにあるのでしょう。家族のしがらみや、仕事場の人間関係、そんなことをずっと気にしていれば、つかれてしまいます。仕事をルーティンにしてしまった方が、考えることが少なく、普段は楽なことが多いのですから。
とはいえ、そうしたなかで、ふと感じる人工衛星がどこかへ飛んでいってしまうようなイメージは、ルーティンにしてしまうからこそ生まれてくるものでしょう。それを満たすために、「僕」は鞠子と一緒にいるように思います。

しかし、東京での鞠子との二人暮しが長くなると、鞠子の自由さがめにつくようになります。劇団の仲間と夜遅くまで飲み明かし、帰ってくる彼女。ゲリラ的に各地で演劇をしている彼女。また、鞠子は「僕」にも変化を求めるようになります。「重い荷物を置き、軽い跳躍で飛びまわれ」と。しかし、それは「僕」には自由すぎるのです。「僕」はそれを怖がります。

「僕」は自由になりたいという感情と、安定していたいという感情の間でゆれています。鞠子にあわせた生活はそれは自由すぎ、仕事だけでは重すぎるのです。

ところで、元旦は、仕事をしながらも自分で自由に生活している人です。毎日同じと頃を廻る仕事をしながら、家は大きな家に間借りしていて、同僚の奥さんと不倫状態にあるのです。そしてそれはやはり「僕」には自由すぎるのです。
鞠子は「僕」が語る元旦の姿を「二重人格」と評します。ここで「僕」は、「いい人といい人の二重人格ってあるのかな?」とふと疑問を呈します。「僕」にとって、元旦は、いい人と悪い人の二重人格として捉えられていると考えられます。元旦では自由すぎるけれども、しかし、「僕」としては、それに近い形で、もっとおさまりのいい形で、自由と安定を両立していきたいのでしょう。

この作品は、「僕」が上京してきて数年後、元旦が仕事をやめてから2年後の場面で終わります。
元旦は、会社の上司がシャワー室に怒鳴り込んできて、伝票の記入ミス同僚に向けて「土下座して謝れ」といってきた際に、「あなたが土下座しないと俺ら帰れないらしい」と軽く言います。早く土下座しろ、ともいって、自分がサッと土下座をします。同僚の感情をなんら考慮しないその振る舞いは、「僕」にとって許せないものでした。「僕」は衝動的に土下座している彼を蹴ります。それを契機に周りにいた同僚たちも、元旦を踏みつけました。結局、元旦は「やめてくれ」と懇願し、その場は落ち着きを取り戻します。
「僕」は、その場面に裂けた天上から次々に落ちてくる花びらを見ます。あふれ出てくる僕の感情、同僚たちのあふれ出てくる感情、そんなものを感じていたのでしょう。
そんなことがあって、しばらくして元旦は何も言わずに、仕事をやめました。
それから後、元旦からは年賀状が届きます。「僕」は、お互いにあまり干渉しなくなりながらも、あいかわらず鞠子と生活しています。結局、ルーティンのような生活をしているのですが、「僕」は、元旦の一件で、自分の中に強い感情が眠っているのを知りました。それは人を壊すほどのものかと思われましたが、元旦は年賀状が届くほどに元気にやっているようです。
「僕」はそれを知りながらルーティンに戻ります。自分に強い感情が眠っているのを知っているのと、知らないままでいるのでは、現在の生活のおとしどころが変わってきます。つまり、「僕」は、それまでどのようにルーティンを崩していくかばかりを考えていたのですが、感情を制限していく生き方もまた正しいということになります。そうでなければ、人を省みず、恐ろしい結果が待っているかもしれないのですから。


結局、オチを無難なところに落とし込んだ気がして仕方ないのですが、どうしたものでしょう。
仕事をしている多くの人はルーティンで動いていて、それに納得していない人が多い、というのが印象なのでしょうか。そうすれば、自由だといっても、それも危ないんだ、と言うことになるのかもしれませんが…。
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by nino84 | 2008-08-28 10:57 | 読書メモ

「パーク・ライフ」

「パーク・ライフ」(吉田修一、『パーク・ライフ』文春文庫収録)を読みました。

いつも仕事の合間に訪れる日比谷公園。ぼくはそこで、地下鉄で思わず話しかけてしまった女性をみかけた。
彼女のことは名前も、何をしているかも知らない。それでもぼくはそこで彼女と会うのをどこかで楽しみにしていた。



長編小説は自重できているのに、その分、短編や中編小説を読む量が増えている、今日この頃。合間に読めるから、と買っているのにも関わらず、本気で読んでいることがしばしばあります。「時間はつくるもの」と知人に言われましたが、その通りなのでしょう。
こんなにブログを頻繁に更新している場合ではない気もしますが、半年溜まっていた読書熱が抑えられなくなっているようです。最後につじつまが合えば良いだろうと、だんだんタスクのハードルを下げている感がでているのが、個人的にはなんとかしたいところです。昔からそうなのですが、特に最近その傾向が強いような気がしています。

そんな私事はともかく、作品の話をしましょう。
本作は127回芥川賞受賞の中篇小説です。サラリーマンの「ぼく」の日常をさらっと書いている。そんな印象の作品ですが、そのなかの空気感はなかなか独特のものがありました。

舞台が日比谷公園というのはともかく、その文章の中に、スターバックスコーヒー、GAP、ビン・ラディン、「ニュースステーション」と、現代の固有名詞がこれほどでてくるのは珍しいかな、という印象です。そして、それが現実感を出しているように思います。
その一方で、「ぼく」と女の距離感、「ぼく」と公園にいる他の人との距離感とか、そうした部分には違和感を覚えました。違和感とはいいますが、それは現代ではあると思える距離のとり方であって、それをあらためて書かれると典型的な人と人の距離のとり方としては違和感があるということです。それが現代ということなのかもしれません。

「ぼく」は地下鉄で話しかけ、日比谷公園であった女の名前も仕事も知りません。それでも彼女と日比谷公園で話をするようになります。声をかけるまで、「ぼく」は彼女が以前から日比谷公園で休みを取っていることを知りませんでした。
「ぼく」は公園にいて、休んでいる人が自分のほかにもいることを見てはいるのですが、それが誰かということまでは見ていません。「ぼく」が夜の日比谷公園を訪れる場面がありますが、そこで彼は昼の日比谷公園にいる人の姿を想像することができず、ただ声だけを思い出していました。見ることは「意識しなくてはできない」作業で、だから「ぼく」は人の姿を思い描くことができません。
「ぼく」は音なしのニュース映像を眺めながら、「人間とはからだのことなのだ」と認識します。「ビン・ラディンの痩せたからだが、なにか悪さをするとは思えなかったし、健康的なブッシュのからだが、逆に何かを解決できるとも思えなかった」のです。僕は「言葉が思想を生んで、、生まれた思想で何かが起こっている」ように思えたのですが、音を消したときにそれは見えません。ただ、からだのみが見えたのです。「ぼく」は日比谷公園にいる人々の姿ではなく、声だけを認識していました。「ぼく」は人間をみておらず、その思想だけをみていることになります。
人は言葉でやり取りすることに慣れすぎて、現実にあるものを置き去りにしているのではないでしょうか。「ぼく」は、休日にからだを休めるのではなく、ことばを休める、といいます。それほどに言葉でやり取りしつづけることは、現代の人間のあり方です。しかし、生物としての人間としては、それは異様なことです。
ぼくが女に声をかけたのは、地下鉄の駅で日本臓器移植ネットワークの広告にある『死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意志です』という文句を目にしたからでした。「ぼく」は、それを「ぞっとする」といいます。しかし、「ぼく」が生きているのは、まるで言葉や思想、意志だけが生きているような社会です。「ぼく」はすでに「ぞっとする」ような社会に生きているのです。

からだは、この作品の中で度々描かれます。
「ぼく」は雑貨屋でペアの人体模型を見つけます。その片方の体が閉じて陳列されているのを見て、中に何もないように感じます。公園の女とのやりとりのなかで、クライオライフという会社の話題が出ます。その会社は人の善意で提供された臓器を加工し、商品として売っていることが話されます。それを聞いた「ぼく」は自分のからだを、借り物みたいに感じます。ジムで体を鍛えながらも、それに目的があるわけではありません。
このように作中、様々にからだは描かれます。しかし、いずれにも「ぼく」は現実感を持てません。

現代は、「人間とはからだ」であるはずなのに、それを感じられない社会なのです。その代わりに、人間とはことばになっています。
「ぼく」と女の関係も言葉から始まりました。しかし、互いに名前も仕事も聞きません。ただ目の前にいる人と対等に対面するとき、肩書きは邪魔になります。そうしたことを聞かないのは、ことばでラベリングすることを避けているように見えます。
また、無駄な話もしません。「この辺で働いているんですか?」と女に聞けば、「ほんとに知りたい?」と言われてしまいます。人は、間を持たせるために、なにげなくことばを発します。それはことばの浪費です。女はそのように思っているでしょうし、「ぼく」も、休日には言葉を休めるのですから、同じように思っていたはずです。しかし、「ぼく」は女と出会っても、ことばの浪費をやめられません。それほどに、ことばを使って生活することが自然なことになっているのです。
ことばを多用しないことは、現代の人の関係の持ち方としては、特異なものです。それが微妙な距離感として見えるのかもしれません。

からだに対する無関心とことばの多用、それが現代社会の特徴だといえましょう。小難しいことばによって動いているのが、現代社会であり、そのなかにある人間関係です。

そうした微妙な距離感のままに、「ぼく」は女に誘われて写真展にいきます。その写真展は女の田舎を写したもので、「ぼく」はたまたま別の機会にその街のことを知っていました。そんな写真展を見た帰り、女が「よし。……私ね、決めた」とつぶやき、その内容を伝えぬまま、それぞれの仕事にもどるところで、物語はおわっています。
彼女は何を決めたのか。この際、その内容は考えません。しかし、「ぼく」はこのことばを彼女と別れてから、心の中で反芻し、「自分まで、今、何かを決めたような」気がしています。ことばを多用し、浪費している社会の中でも、ことばというのはやはり大切なものなのでしょう。「よし。……私ね、決めた」という短いことばで、「ぼく」は彼女と通じ合えたような感覚を持っています。それはことばの可能性であって、ことばのもつ力です。
「ぼく」が知る夫婦は、一緒にいたいから気を遣って、無言で部屋から部屋へ逃げるように移動します。そこにはことばはありません。以心伝心できれば、それでもいいのでしょうが、作中でその夫婦は別居状態にあります。やはり、ことばがなければ、分かり合えないのです。
ことばは多用され、浪費されてはいますが、やはり人間にとて必要なものなのです。人の姿がみえにくくなった現代の中で、ことばの力は救いになると思えます。
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by nino84 | 2008-08-26 23:40 | 読書メモ
『初心者のための「文学」』(大塚英志、角川文庫)を読みました。

小説をどのように読むかは当然ながら自由です。しかし、こと「文学」に限っては一定の読み方が必要だと考えます。それは「文学」が読者をしばしば誤った方向に導くからです。たとえば、「私」を誤った形で立ち上げることに加担したりするのです。
「文学」流されたり、それによって「私」や「世界」について間違えてはいけない。そのためには「文学」を疑いながら、「文学」を読むことが必要です。



ときどき小説ではなく、読書ガイドという類の本を読みたくなります。こういう本が読みたくなるのは、他の人がどうやって本を読んでいるかを知るためでもあるし、世間にどんな本があるのかを広く知るためであったりします。
以前読んだ『読書案内』(モーム)は、内容的に後者の比重が高い本でしたが、本書は前者の比重が高い本だろうと思います。ちなみにモームは『世界の十大小説』という本も著しています。読みたいと思ってはいるのですが、こちらはまだ読んだことがありません。小説を10冊なので、前者の比重が高いのかもしれませんね。

さて、本書は前述のとおり、「文学」の読み方を考える本です。前置きのとおり、読み方は自由なのですが、どうやって読んだらより楽しめるだろうか、と考えるガイドとして使えないだろうか、と思って読んでいました。
章ごとに「文学」作品を1冊あげて、その作品について著者なりの読み方を提案するという形式になっています。10章仕立てで、1章に一作品ずつ扱っています。各章では別々の著者の作品を扱っており、その著者の一作品をメインに扱ってはいるものの、その著者の経歴や思想の発展の仕方などを見ていく必要から、その著者の周辺の作品についての言及も所々にみられます。たとえば、第2章は太宰治の『女生徒』を扱っていますが、関連して『人間失格』などにも触れられているのです。本書は10章ありますから、全体として10人の作家を扱っていることになります。
そして、そうした10章が一冊の本になっています。根底では、一貫して時代背景を重視し、そのなかでの「文学」のありかたの変化や発展の仕方を追っているとみえました。特に、戦中/戦後という区切りを重視しその時代の中で「文学」のやってこれたこととその限界を考察しているようです。

本を書くということは、その一冊は一貫した思想でもって書くということでしょう。基本的に読み方は自由なのですから、それはそれです。しかし、そもそもそれを見落としてしまうと、結局、著者である大塚英志さんの読み方の枠組みがそのまま読者にコピーされるように思います。それは思考がロックされることであって、大塚さんがいっている「文学」の誤った読み方に陥るパターンでしょう。したがって、本書を読むにあたっても、著者の意図を意識しながら読むことが必要かな、と思ったりします。「文学」を読むための本を読むために気をつけなければいけないことがあるということになります。
とはいえ、この本には「基本的には読み方は自由」という前置きがある―多くの文学の場合にはそんな前置きはされていない―のですから、それだけ念頭にあればサッと読んでもよいのかもしれません。タイトルどおり初心者に向けて書かれたものですから、有名どころの作品がチョイスされていますので、少なくともモームの本を読むよりは、読みやすい本だと思います。
そもそも、モームの本はすでに書かれて時間が経っていますので、その時代背景を考えながら読む必要があります。その点、本書はここ数年で書かれたものですから、ガイド本の時代背景を考える手間がありません。このあたりは読みやすさの大きな要因だと思われます。

そして、時代背景を考えるという点は大塚さんもその重要性を指摘しています。それはつまり作品を書いた作家が生きた時代の情報です。作家はそれに影響されていない、といういうことはありえないと思えます。時代背景を考慮することは、すなわち、あるいは逆方向なのかもしれませんが、作家の経歴を考慮することにも通じます。
このあたりは個人的には当たり前だと思っている部分です。一時、海外古典ばかり読んでいた時期がありましたので、そのときからそうした意識は比較的高く持っているつもりです。(あくまで自己評価です。過去のブログ記事で評価していただくのが手っ取り早いかと思います。)
本書では、大塚さんは身近な転換点ということで、戦前/戦後という区切りをあげて、その重要性を扱っています。

また、そうした時代背景を重視することと共に、本書では、「文学」が描く「私」の変遷についても一貫してあつかっています。それは日本の「文学」が、それはどのようにしてあるものか、ということを重点的に扱ってきたから、ということも影響しているようです。
「文学」は芸術や学問と捉えることもできます。芸術や学問は積み重なってくるものです。すなわち、先達の成果を咀嚼し、発展させ少しずつ進んでいくものです。したがって、「私」というものがどのようにあるものか、ということについても漸進的に描き方が変化していっているはずです。作品ごとにどのようにそれに答えているか、ということが描かれている一方で、今後の課題と言うべきものも同時に表されているともいえます。著者はそれを作品ごとに指摘しています。
私はこれまで後者の点を意識することはあまりありませんでした。作品ごとに時代背景を気にすることはあっても、作品を意識的に時系列に並べていわゆる文壇の発展というかたちでなにかを読んだことはありません。前者はたとえば作品の後に作者の略歴などがついていることで比較的満たしやすいのですが、後者については作品を収録した本自体には、当たり前ですが、なんのガイドもない―「このころ○○と出会う」という形で作家同士が知り合いであるとか、同時代を生きたということは分かることがありますが―のですから、本当に自分の知識勝負になってしまう部分が大きいかと思います。この点は、体系的に本を読んでいく必要があるように思えます。乱読傾向のある私にはつらいことです。
とはいえ、ここでは、体系的にどうというよりも、「文学」には限界があるという点をこそ注目に値すると思いました。それは著作の批判ではありますが、批判がなければ問題が生まれず、意識の発展はあり得ません。ですから、この作品が何を描けていて、それを描けていながら、何を描けていないかを自分なりに判断することは必要でしょう。それは非常に難しいことではあるので、私はすべての作品でそれができるとは思いません。また、する必要もないでしょう。しかし、ある一定の視点がもてたとすれば、それを描けている程度は評価できるでしょう。こうしたことが、限界を評価する前提になります。それ自体が難しいことであったりするのかもしれません―実際、なにを意図したかといえない小説があるのも事実でしょうから―が、幸運にもそれができたならば、その次の段階も考えていきたいと思えました。
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by nino84 | 2008-08-24 23:48 | 読書メモ
「愛しいひとが、もうすぐここにやってくる」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

毎週月曜日の夕方に、私と男はホテルで逢引をする。月曜日以外の日、私と私の好きな男は、ごく普通の友人同士のように、一緒に食事をしたり映画を見たりする。それが私たちの習慣なのだ。
大切なのは快適に暮らすことと、習慣を守ることだ。



『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』もこれで最後の収録作品です。書いているうちに、だんだん長くなってきているように思います。もうすこしスッキリしたかたちで書きたいものですが、感情にながされることにどこか抵抗があるのでしょう。言葉を弄してそれをごまかそうとしているように思います。

閑話休題。本作の「私」はさまざまな習慣をもっています。月曜日の夕方に男とホテルで逢うこと、水曜日の午後に帽子製作を教えること、月に一度、すでにリタイアした帽子製作の先生の訪ねること。さらに、細かいことでいえば、男の自宅に電話しないこと、ホテルでは自分で服を脱ぐこと…。
「私」は「大切なのは快適にくらすことと、習慣を守ること」だといいます。快適に暮らすことと、習慣を守ることとが両立できる事は多いでしょう。たとえば、男の自宅に電話しないことは、男の生活―男には妻がいる―を保障し、揉め事が起きるのを防ぐことになります。また、週に一度必ず、男に会えるということが保障されるのも、習慣があるからです。それを守ることで、「私」は快適にくらしています。
しかし、快適に暮らすことと、習慣を守ることが両立できないこともあります。先生を訪ねることは習慣ですが、しかしそれは「私」に先生の老いた姿と直面させることしかしません。訪ねることただそれだけのことを考えたら悲しい気持ちしか残りません。
また、男が妻と別れないことも習慣といえるのかもしれません。彼は妻と別れないでいることを「まったくわからない」といいます。妻との生活は習慣であって、また男と「私」の生活も習慣です。

習慣というのは、良いにしろ悪いにしろ、その行動が安定しているということでしょう。生活が習慣だけでまわっている限り、その生活は安定しています。安定していることが、快適に暮らすことであるならば、習慣を守ることとそれは常に同意です。しかし、そんなことはありえません。私たちは感情を持って生きていて、習慣のなかにあっても、感情は常に動いています。
男が妻と別れないことは「奇妙」なのだし、「私」が先生を訪ねると「悲しい気持ち」しか残らないのです。習慣に疑問は感じながらも、その気持ちは処理できないものではないから、バランスとして安定を目指すために習慣を優先するのでしょう。
男が妻と別れることは「私」との恋愛が大きな理由と言うことになります。しかし、「私」は「恋愛がすべてではない」ことは分かっているし、男も「すべてでは、ないだろう」ことがわかているのです。生活においては恋愛だけがすべてではなく、仕事であったり、家事であったり、いろいろなことが影響してきます。
「私」と男との間の習慣は、恋愛のみを保障しているにすぎず、一方男と妻との生活はその他の様々なものを保障していると考えられます。習慣を守ることが、安定した生活を保証し、それでバランスが取れているなら、そのバランスは崩されるべきではないでしょう。

40女と50男。関係が始まって10年。私と男は、先が見えすぎるほどに見えるから、習慣を守ることを重視するのかもしれません。恋愛のみで生きることは非現実的であることを分かっているのでしょう。だから、「奇妙」と言う感情が起ころうが、それはそれとして処理するしかないのでしょう。一方で、それは感情だけで動くことができるエネルギーがなくなっているということでもあります。
「私」は習慣を守ることで、合理的に、恋愛の部分だけを愉しんでいるともいえるのでしょうか。全てを振り切るエネルギーは既になくても、それがないとやっていけないのでしょう。なんとなくそんな気がします。
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by nino84 | 2008-08-21 11:05 | 読書メモ

「十日間の死」

「十日間の死」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

半ば強制的に留学させられたボルドーで、あたしはマークに出会った。あたしたちはいろいろなことを愉しんだ。話すこと、笑うこと、下品なジョーク、ジャンクフード…。九ヶ月のあいだ、あたしたちはいつでも、たしかに二人組だった。
でも、マークがナディアの味方をして、それであたしは逃げた。
セント・ジェイムズ、というホテルに、いまあたしは泊まっている。



さて、本作は一言でいえば、「あたし」の初恋のお話です。
「あたし」は十四歳までフランスにいて、その後、日本の高校に入り、そこを退学し、ボルドーの高校に半ば強制的に留学させられます。「あたし」はそれまでの人生で「世界に参加」していなかったといいます。「自分の目でなにもかもみる」ということをしてこなかったというのです。
しかし、それがマークとの出会いで変わります。「あたし」の言葉を引用すれば、彼と出会ったことで、「あたし」は「人生が突然ひらけたみたいなめくるめく発見の日々」をすごすことになるのです。
マークとの日々のなかで、「あたし」は食事の、話すことの、笑うことの、さまざまなことの愉しさを知ったのです。

「あたし」は、「あたし」とマークが常に二人組であったように感じています。「あたし」はマークに自分と同じような境遇にいると感じたことも、二人組であるという感情を強くしています。
「あたし」は、高校に所属してはいますが、どこかに所属しているという感覚がありません。一方、マークは「あたし」に自分は「一族の余計者」だったと語ります。彼はボルドーでシャトーを経営している一族のナディアという女性と結婚し、アメリカから単身フランスに渡ってきたのですから、そういえなくもありません。実際、マークが「あたし」と出会ったとき、「あたし」はその直前にナディアと喧嘩別れしているのを見ているのですから、マークとナディアの関係は良くなかったのでしょう。そういう場面をみているからこそ、「あたし」はマークの言葉を信じ、連帯感を強めたのでしょう。
しかし、「あたし」といたときにも、マークはナディアの家のシャトーを誇らしげに語ることがあったのですから、長い目で見れば、彼はナディアを愛していたのでしょうし、所属がないということもないのです。マークはナディアと上手くいかなくなっていたときに偶然にも「あたし」―アメイジングガール―に出会ってしまったのです。ナディアと上手くいかなければ、たしかにマークは所属する場所がありません。それで、マークは「あたし」に逃げ込むようにして二人組を形成したのです。
しかし、マークは結婚しています。ナディアとの関係が元に戻れば、所属が回復します。それで、マークは「あたし」の元から離れていきます。

「あたし」はマークを通してしか、「世界に参加」できませんでした。「あたし」は一人では何も出来ないのです。しかし、マークは違います。彼は「世界に参加」していたのです。それはどのようにしてかは分かりません。あるいは、ナディアとの関係のなかでそうしてきたのかもしれません。いずれにせよ、マークは「あたし」に「世界に参加」することを教えられるくらいには「世界に参加」してきたのです。
そこに「あたし」とマークの決定的な違いがあります。「あたし」はマークを失うことはできませんが、マークは「あたし」を選択として捨てることができます。
しかし、「あたし」は、そのことを気にしません。体験する全てが新鮮で、すばらしく、瞬間瞬間に満足していたからです。たしかに、二人の状況は「息もつけないほど幸福などきどきだったけど、同時に不安のどきどきでもあった。…(中略)…あたしたちはもっと急いで、もっとたくさん、もっと息もつかずにくっついていたり笑ったりしなければならなかった」のですから、「あたし」はどこかで関係が失われることを恐れていました。それでも「あたし」の所属はマークとの二人組にしかないのですから、そこにいるしかありません。

結局、「あたし」の不安は現実のものとなって、マークはナディアの元に戻り、「あたし」はまた所属がなくなります。「あたし」はマークを失い、所属を失いました。マークを失うことは、「世界に参加」する入り口を失ったということでもあります。だから、「あたし」は世界から逃れるようにしてホテルですごしているのです。
しかし、「あたし」には、マークとの日々の記憶が残っています。ホテルでの日々で、「あたし」は、マークという「世界に参加」する入り口を失っても、「世界に参加」しています。「あたし」は食事の愉しみ方を覚えているのだし、町並みのすばらしさを語る言葉を知っています。

本作のタイトルである10日間というのは、「あたし」がホテルですごした日数です。9日の悲しみのあと、10日目の朝、「あたし」は街を出る決心をしました。彼女は「マークの幸運を祈った。それから二人組だったかつてのあたしと、かつてのマークを深く悼」み、「はじめての恋とはじめての人生と、失われた真実のために」泣きます。
10日間かけて、「あたし」はマークとの日々についての意味づけをし、「二人組だったかつてのあたし」を埋葬し、新しい「あたし」を作り出し、新しい人生へと出発しました。

失うことが負の感情を伴うのは当然でしょう。特に、「あたし」が失ったものは「人生」であって、かなり大きなものでした。失ったものが大きければ大きいほど、その負の感情も大きくなりましょう。その負の感情とは、悲しみであったり、空虚感であったり、怒りであったりするのでしょう。失う前の愉しかったときのことを思い出し、失った今と比較してしまえば、惨めになることもあるでしょう。失ったことと向き合うことは簡単にはできません。本作では、恋で得られるもの、その大きさを描き、それに加えて、それが失われたときの深刻さを描いているといえます。
そして、作品はその喪失の内容にも触れています。その喪失は実際の関係が失われたものであって、記憶には残るのです。「あたし」は、マークとの日々で得た「世界に参加」する方法を、ホテルでそうしたように、新しい人生でも使っていくでしょう。そのようにして、失うと同時に、積み重なっていくものも確かにあることを本作は描いています。
しかし、失ったこと自体について、本作は十分に描けていないように思います。確かに「あたし」は「二人組だったかつてのあたし」を悼みます。それは過去にふんぎりをつけたということにはなりますが、新しい「あたし」は十分に形成されるまでいたっていません。「かつてのあたし」を悼むことは、マークとの関係の中で、失ったものと得たものが整理できたということであって、新しい「あたし」が形成され始めたことを示してはいます。しかし、10日目に「あたし」が決めたことは「この街をでる」ということだけであって、具体的にどこでどうするということはありません。
そこには結局、所属のない「あたし」がいます。もちろん、「あたし」の成長は描かれていますから、「あたし」はどこかで所属を見つけるでしょう。しかし、それは予感でしかありません。その方法まで描くようなことはしないのです。

とはいえ、文章が最初から最後までひとつの答えを与えるということは、読者の考えがそれ一つに絞られてしまう可能性を秘めています。それは、文章のとても危険な一面です。特に恋愛については、個々にその体験は異なりますから、それで失うもの得るものがそもそも異なるはずで、したがって、結論も個々に異なるはずです。あるいは好意的すぎる見方かもしれませんが、恋愛は日常的なことでありすぎるために、それが過度に一般化されないように、結論を避けたと考えることもできるかもしれません。
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by nino84 | 2008-08-19 22:52 | 読書メモ

「犬小屋」

「犬小屋」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

奈津彦は郁子さんの家に出入りしているらしい。
私は奈津彦にいろいろなことを頼んだ。それを奈津彦は一つずつクリアした。それでも私の奈津彦に対する疑いは消えない。それに、最近、奈津彦は自分で作った犬小屋で寝るようになってしまった。
だから、私は郁子さんの家へいくことにした。



なぜだか、あらすじがまとまらなかったような気がします。犬小屋という単語を無理に入れたからでしょうか。本作が、短編でほとんど筋はなく舞台設定があるだけなので、それがわかれば問題ないかな、と思ったりしています。私が読んで話を思い出せる程度にはしておこうといつも思っているので、その程度にはなっていると思います。

さて、本作は一言でいってしまえば、嫉妬のお話ということになるのでしょうか。
「私」は奈津彦が好きで仕方ないのです。だから、郁子さん―「私」の兄の元妻―の家に出入りしていることを許せないのです。奈津彦と郁子さんの間になにかよからぬ関係があるのではないかと疑ってしまうのです。
それでも「私」は奈津彦が好きだから、奈津彦を郁子さんから離すためにいろいろなことを頼みます。どこか郊外のしずかな街に引っ越して、兄からも郁子さんからも遠い場所で二人っきりで暮らして、とか、朝ごはんと夜ごはんは必ず一緒に食べて、とか、歩くときは昔みたいに手をつないで、とか。
奈津彦はそれを一つずつクリアしていったといいます。そこになにか交渉のプロセスがあったかどうか、は描かれていません。一方的に「私」が条件を押し付けたのかもしれません。詳しくは分かりませんが、奈津彦は「私」のたのみを一つずつクリアしていったというのですし、作品を読む限り「私」のだす条件がほぼそのまま通っているのですから、その点を考えれば交渉は十分に行われてはいないでしょう。
それは奈津彦にとっては一方的に相手に合わせることであって、自分のやり方でやることができないのですから、疲れもするでしょう。それでも奈津彦が文句をいわずにたのみをクリアしていったのは、「私」のことを好きだからか、郁子さんとの関係の罪滅ぼしのつもりなのか…。
それは「私」の一人称でかかれている限り、読者には完全には分からない部分です。「私」に分からないことは読者には分かりません。どちらなのか分からないために、「私」は疑心暗鬼に陥っていくのです。それでまたたのみを増やすことになり、そして奈津彦は―どのような理由でそれをするのか分かりませんが―それをクリアするでしょう。そうして奈津彦の負担が増えていきます。
奈津彦が「私」のたのみを、どのような理由でクリアしているにせよ、彼の負担は一方的に増えるだけなのです。その負担感を言葉にしないのは、あるいは罪滅ぼしだからと言えなくはないでしょう。しかし、一面、好きだからこそすべて満たしてあげたいのだと考えることもできるのです。結局、答えはだせません。
いずれにしても負担は増していくのですから、奈津彦は何らかの形でそれを伝えなくてはならなくなったと考えられます。客観的にみれば、より早い段階で、自分の負担感を減らすために、何らかの交渉はするべきだったでしょう。しかし、それができなかった。その結果が、犬小屋でしょう。

「私」からすれば、それは突然の変化ですから、戸惑うのは当然だといえます。しかも「私」は奈津彦と郁子さんの関係を疑っているのですから、それとの関連付けをしてしまえば、「私」を好きでなくなったのではないか、という結論に達しえます。
しかし、その行為は、奈津彦のささかな抵抗とみることもできます。
いずれにしてもこの夫婦は、どちらも以心伝心を求めているようにみえます。「私」は奈津彦に郁子さんと離れて欲しいのでしょうし、奈津彦は自分の負担感を「私」にわかって欲しいのでしょう。確かに、言葉にすることは、嫉妬していることあるいは疑っていることを認めることですし、負担に感じていることを認めることですから、難しいのかもしれません。
しかし、それをしないということは、結局、互いの考えがよく分からないままに空回りする可能性があるということです。実際、すでに空回りは始まっているようにみえます。それは夫婦間にズレを生み出していますし、不協和を生み出しています。どちらが原因だと言うわけではないのですが、二者の関係は少しずついびつになってきているようです。

郁子さんはそれを客観的に見ているのですから、落ち着いたもので、「私」にあまり頑張るな、という旨のことをいっています。ただ、郁子さんも「私」にとっては当事者ですから、「私」はその言葉を素直に受け容れることはできません。それでも「私」は事態が徐々によく分からなくなってきてはいるようでした。

これから先、「私」をとりまく人たちの関係がどうなるのかは分かりませんが、いずれにしろ、言葉で伝えないと人なんて結局分けわかんないぞ、と思ったりしました。以心伝心は理想ではあるのでしょうが、それだけで関係がまわることなんてないでしょう。言葉による軌道修正は一だって必要になるはずです。
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by nino84 | 2008-08-18 11:50 | 読書メモ

「動物園」

「動物園」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

樹がしまうまを見たいと言うので、小雨の降る寒い日だったが、動物園に行くことにした。
上野の動物園を2人でみて回っていると、聖から電話が掛かってきて、私たちは白熊の前で待ち合わせることにした。



この短編集も7作目になりました。サクサク行きましょう。

さて、本作の「私」たちは、「私」の母に言わせれば「どうかしてる」生活を送っています。それは、樹という子どもがいながら、夫婦が一緒に暮らしておらず、それでもその父親である聖と頻繁に交流がある、そういった生活のことを指しています。
その原因は、聖が樹を「どうしたらいいかわからない」からでした。聖は樹を嫌っているわけではありません。それでも「どうしたらいいかわからない」のです。聖は樹になじめず、そのために母からいわせれば「どうかしてる」生活を送っているのです。
「私」はそれをもって、聖を「不幸だった」としていますが、そうなのでしょう。
親と子の関係は―子どもが生まれたばかりの時には特に―親が子どもを一方的に保護する関係になります。そうした関係性はその他の場面ではほとんど体験することはありません。したがって、親と子どもの関係はその親が子どもの頃に体験した関係を、―無意識のレベルでも―そのモデルとすることが多いと考えられます。こうしたことは、時に虐待の世代間伝達を引き起こす原因の一つにもなりえます。
聖という人は、自分の感情を理解し、それを言語化できる人でしたから、それはそれとして評価できる人なのだと思います。つまり、聖は子どもをみてなにかしらの感情を触発されているのですが、それを言語化することでその感情を消化できていると考えられるのです。
一方で、そうして何かしら感情が触発されてしまったときに、そのイライラを抵抗のできない子どもにぶつけることがありえます。子どもを無視するであったり、子どもに手をあげるといったことで、その感情を解消しようとする人がいるわけです。そのイライラの原因は実は子どもの方にはなく、親側のにあったりするのですが、言語化できない感情はそれを考えることも難しいですから、子どもにそのしわ寄せがいったりするのです。こうした点から考えれば、聖は自分の感情を言語化し、彼あるいは彼らが考え得る解決策として「どうかしてる」生活を選択したことになったと考えられます。

もちろん、聖の過去については作中ではなにも触れられていません。しかし、そうした点を考慮しなくても、夫婦や家族が選択した生活の形を「どうかしてる」と決め付けることはできないでしょう。
夫婦の形態と言うのは基本的には一対一の個人的な契約によるものだと思います。例えば、誰がご飯をつくるのか、誰が働くのか、誰がゴミをだすのか、そんなことに社会的な規制はありません。主夫は存在します。もちろん、社会的に契約しなければ、すなわち社会に認められる形で手続きをしなければ、夫婦としての社会的な利益を得ることはできません。しかし、それに先立って、個人的な契約があるはずです
そして、その個人的な契約は個人的であるがゆえに、夫婦それぞれでその契約の形がことなるのは当然でしょう。。「私」が樹と二頭の白熊を見ていたとき、樹は「夫婦なの?」と尋ねました。「私」はさあ、と答えるだけでした。白熊のつがいには社会的に契約して仲間内で夫婦として認めさせるというプロセスはおそらくないでしょうから、夫婦というのがただ個人的な契約でしょう。そのように個人的な契約だけで成り立つ夫婦は、周りからみて夫婦かそうでないかを判断することはできないでしょう。契約の形が他からはみえないからです。私たちは社会的な契約をすることで周りから夫婦としてみられるようにしているのでしょう。
ところで、私は先の例で、ゴミ出しと働き手は誰かということを同じレベルで扱いましたが、おそらく社会的には同じレベルで扱わせてくれることはあまりないように思います。残念ながら、社会的には男は働いているべきという考えが根強いからです。いかに個人的な契約であっても社会の中にいる以上、個人の契約の形の中に社会の影響が入ってくるのは仕方のないことです。そのような部分で「私」たちのような同居していない夫婦というのは、社会的にはあまり認められていません。「私」の母が「どうかしてる」というのはそういう点からでしょう。簡単に言ってしまえば世間体が気になるということです。
もちろん、「私」の母のそうした台詞には、樹という子どもへの影響も考えているのかもしれません。しかし、それは前述のとおり、おそらく同居していた方が危ないのです。したがって、それを考慮していたにしても、「私」の母は娘の家族の形を上手く捉えられていないといえます。「どうかしてる」生活は個人レベルで同意されたものであるし、そこでは子どもへの影響についても考慮されているからです。

こうしてみると、「私」と聖と樹の関係は十分にまわっているように思えますが、実はそうでもない部分があることも描かれます。
「私」たちの関係では、「私」は樹といつも関わっているのですから、母としての役割を徐々に取得していき、考え方もそのように変わっていきます。しかし、聖は違います。もちろん、樹の父ではあるのですが、彼は樹と一緒にいるわけではありません。そのために、彼は樹を育てる上での大変さを十分に理解しえませんし、まだ夫であるという意識を強くもちます。そうした意識は、「私」を妻としてみせることになります。
妻とは、夫というつがいが強く意識された役割ですから、その関係の中に性的なものが強くあらわれてくることもあります。しかし、「私」が役割として演じているのは母です。母は妻でもありますが、それ以上に保護する人ということが前面に現れた役割です。こうした両者の役割の取得度合いの違いによって関係性に齟齬が生まれてきます。結果として、関係のなかで板ばさみになるのは、「私」です。「私」は、聖に誘惑される一方で、樹を世話しなければいけないと思うのです。
聖が「ホテルにいこう」と言ったとき、私は「うちでしたいわ」というのです。それは樹を放ってはおけないということです。それが「私」が思った以上に攻撃的な口調になったのは、樹のことを軽視していると思ったからでしょう。そして、そのような口調になったことを後悔したのは「私」がまだ女でいたいからです。性的に誘惑されていたいからです。

こうした問題をはらみながらも、「私」たちはなんとかやっていくために、自分たちのやりかたを模索したのだし、今もそれぞれ模索しているのでしょう。
社会的な契約というのは、書類などの形式が重視され、感情は無視されていますから、自分たちのやり方を考えなければならない、という課題は普遍的なもののはずです。しかし、社会的な契約が一つの区切りだと認識されており、その契約ですべて済んだと捉えられているように思います。それは私たちが社会で生きているために、社会的な契約が大きな意味を持つからです。しかし、実は社会的な契約は夫婦の形の典型を、姓が同じになること以外には、もっていないことは意識されて然るべきです。形の典型をもっているのは、社会それ自体で、契約には何ら含まれていません。形を決めるのは個人的な契約にまかされているはずで、そのため、個人的な契約は社会的な契約よりも大切なはずなのです。したがって、そこに関わる人の人権が守られている以上、「どうかしてる」生活というのはないはずです。社会的に認められているから、正しいという考え方だと、むしろ関係が崩壊するように思います。その点で、その時々でもっともよい契約を模索しつづけている「私」たちはよい夫婦といえるように思います。
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by nino84 | 2008-08-17 23:30 | 読書メモ

「ジェーン」

「ジェーン」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

ジェーンとは、大学で出会い、夏のあいだだけ一緒に暮らした。
私は当時付き合っていた年上の男の転勤にくっついてニューヨークまで来て、そこでパートタイムの学生をしていた。ジェーンにも私にもそれぞれ恋人がいた。でも、その関係は次第に崩れていった。



『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』も6作目まできました。全10作収録なので、半分をこえたことになります。なんか、お酒が入っており、どこまでまともなことがかけるのか分かったものではありませんが、それはそれで面白いのではないかと思ったりしています。
毎回そうですが、こうして書きながら内容を考えています。思ったことを徒然に書いておりますので、記事は長くなりますし、半端に深めて終わっているんだろうな、とたまに読み返して思います。

さて、そんなことを書いているとまた長くなってしまうので、内容にうつります。
本作の「私」は過去を思い返す形でこの話を語っています。終始、過去の話をするという、今までにない形式になります。話の中心は「私」とジェーン、「私」の恋人である向坂さん、そしてジェーンの恋人であるチャップの4人の2組のカップルであり、恋愛という感情が揺さぶられやすい話題に終始しています。
過去を語るということは、今の「私」の主観で過去の出来事をとらえるということで、それは過去の事実そのままを描くということにはなりえません。しかし、感情に流されやすく意味づけをしにくい話題にもかかわらず、「私」の語り口は落ち着き、時として冷めています。そうしたことを整理して語ることができるほどに、「私」はそのことの意味づけをし、客観視できるようになった時点で話をしているのです。若気の至り、という感じでしょうか。そのような感じの語り口です。
現在の「私」は向坂さんとも別れ、ジェーンとも会っていません。彼らはすべて過去の人であって、彼らが今の生活に物理的に影響してくることはありません。だからこそ落ち着いて話せるということでもあるのでしょう。

当時の「私」は自分が勤めていた会社をやめて妻帯者である向坂さんの転勤についていくほどに情熱的でした。自分の感情に「あるがまま」に行動していたのでしょう。そしてジェーンも、「チャップは、あるがままの私を受け容れるべきなのよ」というほどに、自分に正直に生きたい人でした。
しかし、そうしてあるがままに生きようとするジェーンを「私」は上手く受け容れられません。また、自分があるがままに行動することには、向坂さんとの関係が行き詰まってきたことで、疑問を感じ始めていました。向坂さんとは一緒に住むことも、結婚することも出来ない状況になっていき、また彼との行為に憐憫しか感じなくなっていきます。そして、「私」は向坂さんと別れます。
そうした状況の中で、チャップが4人の関係を壊す最後の一押しをし、それによって「私」はジェーンからはなれます。

「私」は、あるがままに自分に正直に生きようと思っても、それが状況によってできなくなっていきます。また、あるがままの生き方というのは―ジェーンにしてもチャップにしても―自分勝手というのと紙一重だと気づきます。ジェーンは私に部屋のルール、ピンクのドレス、そうしたいろいろなことを押し付けてきたし、チャップは恋人がいながら、「私」を襲ったのです。
当時の「私」は、チャップの事件によってただそこから出て行くことしかできず、港のそばのアパートで半年ほど暮らします。そのあとどうしたかについては、本作では述べられません。それでも、向坂さんについてただやってきたニューヨークに、「私」は残ります。自分が今後どうするといったことはこの時点ではとっさに考えられなかったのでしょう。
このときの「私」はおそらく生き方の基準が変わってきているときで、しかし、それが現実的にどうしたいのかというところまで行かず、とりあえず大きく動くよりも近場で定住してみるという選択肢を選んだと思われます。

そこから生活に新たな意味づけをする作業が始まったのでしょう。そして今、「私」はその転換点となったと思われる出来事について、落ち着いてはなすことができるほどに成長しました。そうやって人は過去を乗り越えて成長していくということでしょうか。そんな話だったように思います。
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by nino84 | 2008-08-16 02:20 | 読書メモ