本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

<   2008年 09月 ( 6 )   > この月の画像一覧

「お伽草紙」(舌切雀)

「舌切雀」

「お伽草紙」(太宰治)も最後の収録作品となりました。最後は「舌切雀」です。

太宰は、雀を大事にする爺さんを大金持ちの三男坊で、虚弱な、いつも何のためにか勉強している男としました。そして、その妻はもともとこの爺さんの身の回りの世話をしていた召使としています。爺さんはなにもしないのだから、小言を言われて当然。一方の婆さんはむしろ同情すべき点も多い人物となりましょう。

とはいえ、爺さんの視点から見れば、婆さんは意地悪に変わりはないわけで、そのため、物語の展開は広く知られた昔話同様に展開します。
日々何もすることもない爺さんの部屋から、若い女の声―雀の声ですが―がする。しかも、自分と話すときとは爺さんの声のトーンがまるで違う。婆さんも女ですから、それを気にすることはありましょう。しかも、遊んで暮らしているくせに、という苛立ちもあるのです。爺さんは婆さんはもともと召使であるのだし、一緒にいてくれるものだと思っているから、婆さんを女として見る意識は低い。その結果、雀がもとで夫婦喧嘩をするわけです。

雀のお宿を探して竹やぶを歩き回る爺さんは、女に会いたいのであって、つづらに入ったお土産などどうだっていいのです。しかし、それでは婆さんは、爺さんは女に会いに行っただけ、という事実を突きつけられるに過ぎません。それで婆さんはやけになって、そして大きなつづらをもってきて亡くなります。
その婆さんが残してくれたつづらには、金貨が一杯つまっており、爺さんはその「金貨のおかげかどうか」、のち間もなく仕官して宰相にまでなったというのです。そして、爺さんがその地位まで登ったことについてというところで物語が終わります。

実際、爺さんは何もしておらず、ただ日々を勉学にくらし、雀がきたらその雀を恋しく思いと、なにをするでもないのです。彼に生活能力はありません。婆さんがその部分を全て支えていたのに、それを当然と思って暮らしているわけです。
夫婦喧嘩をし、最終的に婆さんが死んだ際、彼がなにを思ったかは著されていません。しかし、身の回りの世話をする人がいないのですから、彼は困ったはずです。働いていないのですから、本来お金だってなかったのです。しかし、それは婆さんがその命と引き換えに老いていってくれました。そのお金で、召使をまた雇うことはできるでしょう。婆さんは、死んでも爺さんの身の回りの世話をしていると考えることはできるわけです。
爺さんは独りになったら婆さんがやっていたことも自分でやるしかなくなって、婆さんの苦労も知ることになったでしょう。そこで宰相という地位が、ひいては生活が、「女房のおかげです」という言葉が出てきこそすれ、雀のおかげなどとはいえないでしょう。

そばにいることが当然で、やってくれるのが当然。そんな状況に慣れてしまうと、感謝の念は薄れてきて、どれだけ支えられているかを気づかなくなってしまいます。別れて分かる、大切さ。そんな夫婦関係のお話でしょうか。


さて、ここまで4回にわたって、「お伽草紙」の感想を書いてきました。ここであらためてまとめをしておこうと思います。
太宰は「瘤取り」、「浦島さん」、「カチカチ山」、「舌切雀」この4作を一つの作品としました。もちろん、形式的な話で、昔話を改変した話だから、まとめてあるということはできます。ただ、本作には、前書きとして、防空壕内で、小さな娘に向かって父が昔話を話し始めるという場面が描かれています。形式でまとめるだけならば、防空壕内で、という設定はいらないように思われます。戦時中に、このような話をしているということに意味があるのでしょうか。

戦争中は、すべての人が生きることに必死になって、それゆえ芸術というものは衰えていく時代でしょう。芸術は余裕のある時代に広く敷衍するものであって、戦時中という極限状態で、それを受け容れる余裕のある人は多くないでしょう。そういう時代にあって、太宰は昔話を題材にした作品を、しかも子どもに聞かせるという形で表します。
大衆に読みやすい作品として、この作品はかかれたように思われます。深く内省を強いるような作品は、読むだけでエネルギーを使います。しかし、戦時中は、そこにエネルギーを使える時代ではないのです。したがって、少しでも導入はやさしく、それでいて太宰自身は芸術家ですから、自分の描きたいものを描ける。そんな題材として昔話が選ばれ、さらに子どもに読み聞かせられるくらいのものなのだと、前置きすることで、またハードルを下げているといえます。ただし、実際の話の内容はおそらく、子どもには意味がわからないでしょう。やはり作品としては大人向けなのです。

「瘤取り」は、世間の不満をうけとめる作品といえます。誰も悪くないのに、だれかが不幸になってだれかが幸福をつかむ。世間とはそういうものだ、という達観した視点を与えてくれます。戦争という状況に対する、気休めにはなるのではないでしょうか。
「浦島さん」では、時間が人間の救いであるといいます。戦争の傷もいつか時がそれを癒してくれる、といっているともとれます。
「カチカチ山」や「舌切雀」は、そもそも恋愛関係の話ですから、かなりエンターテイメントに振れている作品でもあるように思います。それにしても、戦争中のこうした男女の人間関係は、どうなっていたのでしょうね。そのあたりの想像が全くつかない部分で、本当にエンターテイメントとして描いているのかもしれないと思ったりしました。どの作品も普遍性があるので、遡って、戦時中にかかれているということ自体に意味を見出すのは困難なのですが、このようなところでしょうか。

そもそも、太宰の作品で、戦争について言及される作品にであったことがなかったので、わざわざ書いてあるところで、少し違和感を覚えました。そこからの連想ですから、実際のところは、どのように受け取られたかわかりませんが、なんとなく気にはなるところです。
[PR]
by nino84 | 2008-09-16 09:26 | 読書メモ
「カチカチ山」

今回で3回目になります。今回も「お伽草紙」(太宰治)です。今回は「カチカチ山」となっています。
この部分を読み始める前に、「カチカチ山」の筋を思い出そうとしたのですが、結局、狸が兎に懲らしめられるということしか思い出せませんでした。そもそも、なぜ狸が兎に懲らしめられなければならないのか、という理由の部分がすっぽり抜けていたのです。それほど繰り返し聞いたお話ではないということなのでしょう。
そこで、本来の形を思い出すために、あらためてgoogleで検索してみましたが、導入部分に関しては様々なバージョンがあるようです。ただ、序盤の大筋としては、「たぬきは爺さん婆さんの畑仕事の邪魔をして、それがもとで捕えられ、しかし、そこで婆さんをだまして逃げ出して、それを聞いた兎があだ討ちをする」ということになるようです。バージョン違いというのは、主に「婆さんをだまして逃げ」の部分で、婆さんを婆汁にしたり、ただ傷つけるだけであったり、という違いがあるようでした。
基本的には、「目には目を、歯には歯を」というのを地でいく作品のようです。つまり、兎は罰を執行する人ということになるように思います。爺さんは自分の力では狸を裁くことはできないので、それを執行する人に狸の罪を告発し、裁いてもらうことにするのです。自分の力がなくても、執行者がいて、その人に頼めば、罰が執行されるという社会的なルールを描いているといえるかもしれません。
昔は仇を取るという行為は様々行われていたような印象があるので、自分の力があれば、自分でやることを選択するでしょう。爺さんには、その力がなかったので、兎に依頼したわけです。この話から言えることは、自分の力がないからといって、泣き寝入りする必要はない、ということでしょう。

さて、そんな「カチカチ山」を、太宰は私のようには読みませんでした。「兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男」であるとみたのです。兎は狸が生理的に受け付けられず、煩わしくてたまらず、酷い仕打ちをします。しかし、狸はそんな兎に気に入られたいために、何度も近づいていくのです。曰く、「惚れたが悪いか」。
生理的に受け容れられないということは、どうしよもなく、あるように思います。それを本人にあらわさないのが美徳なら、またそれを察して引く―関係を切ることをいうのではなくて、距離感を適切なものにする―のも美徳でしょう。それでも、男女の関係で、そのような押し引きができるとは思えません。今作の狸も悪いことをしている自覚がないのです。したがって、「惚れたが悪いか」という結論に至るのでしょう。
太宰の被害的な部分がでているように読めなくはありませんが、残念ながら、惚れたらそれだけで悪いのです。ふーん。


なんにせよ、ここまで突き抜けて改変されるといっそ清々しさを覚えます。登場人物がほぼ先ほどの設定のような兎と狸だけですから、会話や心情の動きなどがそれぞれ面白く、スラスラと読むことができました。やっていることは残酷ですから、そこまでしなくても、という気もしますが、なかなかどうしてリズムに飲まれて意外といろいろな残酷描写も流れいくように思いました。
[PR]
by nino84 | 2008-09-15 23:57 | 読書メモ
「浦島さん」

前回に引き続き、「お伽草紙」(太宰治、『お伽草紙』新潮文庫収録)の感想です。今回は「浦島さん」ということで、かの有名な昔話、「浦島太郎」を題材としています。

本作も「瘤取り」と同様に、「浦島太郎」という本来子ども向けの作品を大人も読めるようにアレンジされています。それは竜宮城の描き方など様々なところでうかがうことができます。
子どもにとって分かりやすい理想郷というのは、遊園地のように、賑やかであり、煌びやかであり、豪華な世界でしょう。したがって、本来の竜宮城はそのように描写されます。すなわち、鯛や平目が舞い踊り、豪華な食事が振舞われ、乙姫は愛想よく客人を出迎えるのです。
しかし、そんな世俗的な振る舞いを、仙人たる乙姫たちはするのだろうか。昔話の豪奢な振る舞いは、仙人譚で描かれるような仙人の暮らしとは全く異なるように思います。仙人は、心の平安をこそを求めて暮らしていることが自然なことのように思われます。

本作の浦島は、冒険を嫌い、その品位をひとに認められたら満足、という人です。そして、本作の竜宮はまさしく、仙人の郷であって、なにか豪奢なものがあるわけではありません。深海にあり、なにから目を隠す必要もないために、壁さえもないのです。さすがに浦島もこれには驚き、抵抗を覚えます。
また、「なにをしてもよい」といわれるのですが、そこにはなにもないのですから、なにかしようにも、なにもしようがないのです。乙姫もなにをするでもなく、ただ琴を奏でます。「聖諦」というその曲は、しかし、浦島に自分の思う風流の底の浅さを気づかせたようでした。
自由に食べられ、寝られる。それでなにが困ることがあるのでしょうか。そのうえ、どこに行こうにも自由なのです。しかし、それ以上のものを求めるから、人の心は波立つのだし、いろいろな悩み事が生じるのでしょう。そうしたものを諦める。しかも、それを無念に思わない。未練を残さない。「可憐で、たよりない、けれども…(中略)…気高い凄しさがその底にながれている」そうした「聖諦」の心こそが、真の心の平安に繋がるのでしょう。

しかし、やはり人は飽きるもの。浦島はやはり、あのお土産をもらって、地上に帰るのです。浦島はやはり人で、仙人ではないのです。達観はできなかったのです。そして、地上で散々迷った挙句に、お土産をあけ、年をとるのです。
太宰はこの最後の部分に疑問をもちます。なぜ乙姫はこのようなものをあたえたのか、と。たしかに本来の昔話でさえ、この部分の展開は不可解です。助けた亀の恩がえしにと竜宮に招待されて、明けるないうお土産を渡され、帰ってみれば家はなし。なぜ、乙姫はあのようなお土産を渡したのでしょうか。太宰の考えは作品を読んでいただければ分かりますので、詳しくは書きません。太宰はここに慈悲の心をみます。「年月は、人間の救いである。忘却は、人間の救いである。」ということのようです。

たしかに、竜宮での生活に飽きてしまった、すなわち最後まで仙人とはなれなかった、浦島にとっては、人間としてまっとうに生きられることは幸福でしょう。仙人たれなかった、落ちこぼれでなく、人間として年老うことができたというのですから。こう読めば、この部分は昔話の慈悲でありましょう。
ところでこの作品、昔話に定番のなにかしらの教訓というと、難しいように思います。「約束を守れ」というのは、無茶な話です。状況を考えたら、そんなことをいっている場合ではない。浦島にすがるものは、お土産しかないのですから。
そんな状況で、お土産に解決策を見出さないものは、もはや人として正常な感覚を持っていないとも思える。それを諦めることができれば、浦島は仙人たりえたと思えます。しかし、彼は竜宮の生活に飽き、地上に帰ってきています。したがって、やはり人間なのです。人間には所在が必要です。浦島が、その所在を見つけられる可能性があるものは、つい先ごろまで所属していた竜宮という世界のお土産しかないのです。
村から一度抜けたら、もはやとりかえしはつかない。そんな教訓しか思いつきません。

ちなみに、「浦島太郎」には、浦島が年老いてから続きがあります。本作では採用されていませんが、浦島は最終的に鶴になり、そしてどこかへ飛び去るのです。この終わり方では、慈悲はないでしょう。浦島は仙人でも人間でもない半端者で、竜宮へいったことによって、決して人間に戻ることはできなくなっているのです。やはり浦島に所属はありません。
先ほど考えた教訓もそうですが、こう見ると、昔話は、はみ出し者には厳しいように思います。たしかに、それを救済しているとみえなくはないですが、そこまでの展開は果てしなく厳しいものです。ここまでくると、慈悲、というよりもなさけ位に言いたくなります。


次回は、「カチカチ山」です。
[PR]
by nino84 | 2008-09-14 12:50 | 読書メモ

「お伽草紙」(瘤取り)

「お伽草紙」(太宰治、『お伽草紙』新潮文庫収録)を読みました。

防空壕の中で子どもをなだめる唯一の手段は絵本だ。カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子どもに読んで聞かせる。
この父は、しかし、絵本を読んでやりながらも、その胸中には別個の物語が醸製されているのであった。



昨日に引き続き、『お伽草紙』に収録されている短編です。今回は表題作の「お伽草紙」となります。

さて、この作品は、順に瘤取り、浦島さん、カチカチ山、舌切雀の4つの昔話を太宰なりに咀嚼し、新しい物語として著していきます。
こうした4つの作品を1つの作品にまとめるために、形式としては、父が子どもに昔話を語って聞かせるという形をとっています。そのため、「お伽草紙」とは一つの作品でありながら、その実、4つの短編から成っているのです。
私が今まで読んだ作品では、「地獄少女」(夢野久作)が同様の形式をとっていました。「地獄少女」もそうですが、こうして短編集として別の作品と一緒にして出版されると、二重に入れ子式になってしまい、読みにくくなってしまう印象があります。特に、こうして感想を短編ごとに書いていると、どこで切り取って良いのか判断に困ってしまいます。
短編集を編集しているのは、編集者ですから、短編集の成立には編集者の意図が含まれます。『お伽草紙』では、太宰治の作品のうち、戦争期に著された古典や昔話を題材にした作品ということになるでしょうか。そこには作家の作品を系統立て読ませたいという編集者の意図があるでしょう。
一方、「お伽草紙」を編集したのは太宰治自身です。したがって、本作は4つのまとまった作品でひとつのものとして何かを表していると考えられます。つまり、4つの別々の作品とするよりも、ひとつにまとめてしまった方が作品としてよりよいという判断が、太宰の中であったということです。
その意図がなんなのかは、すべての感想を書いてから考えることにします。いずれにせよ、4つの短編から成っていると考えることもできる作品ですから、一つひとつ作品を追っていくことにしようと思います。


「瘤取り」
昔話の「こぶとりじいさん」を題材に書かれた作品です。「こぶとりじいさん」といえば、頬に瘤のある爺さんが山の中で酒盛り中の鬼の前で踊り、瘤がなくなる。それをみた同様に瘤のあるお爺さんも同じように鬼の前で踊るが、今度は逆に瘤をつけられてしまい、瘤が二つになってしまう、という流れの昔話です。

一般に昔話では、キャラクターの造詣が非常に分かりやすくなっています。口伝などで伝えられる作品ですから、細部まで人物描写をすることはできません。あるいは、広く受け容れられてきた作品ですから、万人に分かりやすい形に変形しているということもできます。なんにしろ、ごく単純化された文章のみが提示されるにすぎません。昔話はそうして単純な形で日常の倫理を伝えているのです。
したがって、行間は非常に広いのです。そこでは、登場人物の挙動や、心理を考える余地がありすぎるほどにあるということです。太宰はその行間を埋め、話の展開は前述した昔話と同じでありながら、新しい物語として再構築したのです。

太宰は最初の爺さんを古典同様、欲のない人を基本に描きますが、家族―聖人君子のような息子と、奥ゆかしい妻―の中で、酒が好きな自分に孤独を感じており、いつしかいつも自分と一緒にある瘤を愛しく思っていきます。そんな爺さんがあまりに上手く舞ったために、鬼たちは次もみたい、と思い、なにかを身代にとおもいたちます。そして、爺さんは、大事なもの、すなわち瘤を取られます。それは、嬉しいことである反面、一抹の寂しさも感じましょう。
また、二人目の爺さん。太宰は彼を先生として描き、瘤がある以外は別段申し分のない人、として描きます。彼は最初の爺さんの話を聞いて、瘤をとってもらおうと思い、鬼の前で踊ります。彼には気負いがありました。そのために、いつものように上手く舞えず、なんとも奇妙なおどりになったのです。それは鬼たちを恐れさせるほどの舞であって、鬼は最初の爺さんの宝物である瘤を差し出し、二人目の爺さんに献上するのです。
こうして昔話と筋は同じながら、どこか違う作品が完成しています。完成したのは、「欲のない人が得をし、欲張りが損をする」という単純な話ではありません。本来、人はそんな一面的にとらえられるものではありませんから、人の多面性という厚みがくわえられたということでしょう。
太宰はこの話をもって「性格の悲喜劇」としています。だれも「不正」をしていないのにもかかわらず、不幸なものと幸福なものがでてくるという、社会の現実。それを描いているのです。

結果として、子どものしつけのためには向かない作品に仕上がっていますが、大人向けには題材にしている作品とのギャップも相まって面白く読める作品になっているのではないでしょうか。こうしたことは残りの3作にもいえると思います。ギャップで楽しめる、というのはオリジナルの作品にはない、題材を持つ作品特有の面白さといえるでしょう。




さて、長くなったので、やはり4つに分けます。次回は「浦島さん」です。
[PR]
by nino84 | 2008-09-13 22:52 | 読書メモ

「清貧譚」

「清貧譚」(太宰治,『お伽草紙』新潮文庫収録)を読みました。

私は,かの聊斎志異の中の一篇にまつわる私の様々の空想を,そのままかいてみたい。
むかし江戸,向島あたりに馬山才之助という男が住んでいた。ひどく貧乏である。菊の花がすきであった。佳い菊の花は,どのような無理算段をしても,必ず之を買い求めた。
沼津からの帰り道,才之助は美しい少年と出会った。



久しぶり…でもないかもしれないですね。また,短編に戻ってきました。忙しくなると,まとまった時間がとれないために,長編を読む気がなくなります。

さて,本作はあの太宰治の作品です。『お伽草紙』は,戦争期に書かれた作品で構成されており,いずれも日本や中国の古典にその原典をもっています。そのような系譜の太宰作品は,『走れメロス』や『右大臣実朝』などを以前読んだことがあるように思います。
また,『初心者のための「文学」入門』(大塚英志)で,太宰治は終戦後の作家ではなく,むしろ戦争期の作家なのだと指摘していたように思います。したがって,本作は,そんなもっとも安定していた時期の作品といえるのでしょう。そんな先入観―戦争という特殊な状況でのみ,自己をいきいきと語ることができた―があったために,どうしても戦争と作品とを結び付けたくなってしまいました。本作のテーマも,清貧であることの美徳と読めるものであり,戦争期と結び付けやすいものであったということももちろんあったと思います。しかし,こうしたテーマの作品を戦争期に書いているということが,意識的にしろ無意識的にしろ,なんらかの意味があると考えることができましょう。

一方で,自分が愛でている菊を売ることを良しとしない才之助は,芸術家のありようとして読むこともできます。しかし,こう読んでしまうと,本作はなんの答えも呈示してはくれない様に思われます。才之助は,結局,自分で菊を売るということは拒みながらも,苦しい生活に耐え切れず,菊を売って生計を立てている少年の援助を受け入れるのです。
彼の正体を知れば,鶴の恩返しのように読めなくはないでしょう。ただし,鶴の恩返しのおじいさんは決して芸術家ではありません。懸命に今日を生きる人でした。才之助は違います。彼は菊に生活を捧げる人であって,自分の意思でそうした生活をしている人です。そのような人が菊を売って稼いだ人からの援助を受け入れるということは,結局のところ,芸術家がその魂を売ってしまうということです。
このようなテーマを書くということは,芸術家はその魂を売るべきでない,という意識が,多かれ少なかれ,太宰には,あったと考えられます。それを考えた上で,この作品の結論は,しかし,生きるためには仕方ないではないか,と訴えているに過ぎないように思えます。これでは,芸術はもはや成立しないということを述べているのです。

そんなことをわざわざ描くでしょうか。自らがもはや敗北した,ということを描くでしょうか。もちろん,「太宰だから,書く」といえなくはないのかもしれません。しかし,本作を読む限り,その敗北からくるような悲壮感は伝わってきません。

したがって,やはり,清貧であること自体に意義を見出すべきだと考えます。清貧たれば,いつか報われる時がくるのだ,ということを描いていると考えた方が,個人的には腑に落ちます。ここに芸術家ということを加えてしまうと,結論がどこか腑に落ちません。しかし,ただ高潔な魂をもつ人が,最後に報われるということであれば,それはそれとして読めます。
戦時中の統制は,自分たちが進んで我慢して受け入れている貧困です。それは国の意思でもありながら,自分の意思でもある貧困です。もちろん,統制を始めることは,国の意思でしょう。しかし,愛国心が自分の意思を国の意思と同じである,としていくことはありえると思います。国が勝つためには自分の意思で我慢するのです。そのような高揚した心がなければ,戦争になど勝てません。戦っているのは,国同士というよりも,人と人なのですから,その人一人ひとりの心性は重要です。
本作に戦いは出てきませんが,才之助の状況は,戦時中の人々の状況です。欲しがりません,勝つまでは。もちろん,才之助がなにかに勝つわけではありません。しかし,あらゆる誘惑に負けずに才之助は清貧たろうとします。そうすること自体に,才之助は意味を見出しているのです。こうした才之助の姿に,戦時中の人々が自分たちの姿を重ねるのは容易であるように思われます。このプライド,この気高さこそが美徳なのだと訴えているように思います。


さて,ではこれを日本が戦争をしていない時代に生きている私はどのように受け取るべきでしょうか。私は,ただ,戦時下では人はこのような心性にまで持っていかれてしまうということを感じるだけです。本作は美しい作品であるからこそ,こうした心性が美徳化していたことを強く感じさせます。一種のトランスともいえるそれは,非常に恐ろしい。
本作は,国という大きなものの意思が描かれず,ただ個人の意思のレベルでのみ描かれているともいえます。したがって,現実と比べたとき,意識できていない部分が本来はあるはずなのに,それがなく,個人の意思であるかのように見えてしまいます。それが非常に恐ろしいのです。
[PR]
by nino84 | 2008-09-12 15:59 | 読書メモ
『好き好き大好き超愛してる』(舞城王太郎、講談社文庫)を読みました。

愛は祈りだ。僕は祈る。祈りは言葉でできている。言葉というものは全てをつくる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。人は時に小説という形で祈る。この祈りこそが過去についての希望を煌かせる。


舞城王太郎さんの作品はなにか定期的に読みたくなります。
文体にエネルギーが溢れている感じがあり、読んでいて圧倒されながらも、その奔流に飲まれていく感じが心地よくもあるのです。文章を綺麗に整えるのでなく、普段、頭の中で考えていることがそのまま一字一句言葉になっているようなイメージでしょうか。そのため、荒削りではありますが、かえって自然に心に入ってきやすい文章になっていると思います。本作でもそうしたエネルギーは損なわれていません。
ややもすると、なんかもやもやしたものが確かに残るのだけれど、それがなにかはっきりしない。そんな状況に陥りやすい文章なんだと思います。

さて、そんな小説ですが、内容の話をしましょう。
本書は、小説家である「僕」が、彼女ですでに癌で亡くなった柿緒への想いを描くものです。「僕は祈る」のですから、「僕」は柿緒への想いを語りながら、その間に小説を著しており、それらは作中作という形で登場します。物語が祈りなのですから、そうした作中作は「僕」の願望であって、かなえられなかった願いです。もちろんモチーフとして部分的に使用されているにすぎませんが、たしかにそれは祈りだったのだと思えます。
また、終盤には、そうした「僕」の著した小説について柿緒の兄弟から「姉をモデルにした」という指摘を受け、そのエピソードを通して、「僕」の小説が著しているものについて書いています。この場面では、すなわち、小説を書く意味をも描いているのです。

「人の人生の中に《死》はある。《恋人の死》だって起こりうる。誰にでもだ。でも…中略…それがいかに悲しく悔しいかなんてことは僕には興味がなくて、僕が言いたいのは、その悲しみと悔しさの向こうになにがあるのか、その悲しみと悔しさと同時にどんなものが並んでいるのか、ということなのだ。」
本書は、2004年が初出ですが、『世界の中心で、愛を叫ぶ』(片山恭一)などの作品がはやっていたのがこの頃だと思います。上の台詞はそうした流行への皮肉とも取れるように思えます。
[PR]
by nino84 | 2008-09-04 02:41 | 読書メモ