本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「しあわせな光」

「しあわせな光」(三崎亜記、『バスジャック』集英社文庫収録)を読みました。

僕は、街を見下ろす丘の上に立ち、双眼鏡でいつものように一つの光を捜し求めた。自分の部屋の窓。その窓からは、まだ両親が生きていた頃の僕たち家族の生活する姿が映し出されていたのである。

昨日に引き続き、三崎さんの短編集からです。とはいえ、本作は3ページほどの掌編です。

丘の上から自分の部屋の窓を見ると、昔の風景が見える。「僕」は、両親を事故で無くしており、ずっと独りで生活してきたので、それを懐かしさをもって、見つづけます。しあわせだった頃の記憶。自分が今、得られないもの。それを丘の上から見える自分の部屋の窓にみて、「僕」は何を感じるのか。
「僕」はどんな光景が見られるのだろうか、といって丘の上にやってきます。そこからは、今の生活の不条理さを感じているのか、またかつての生活をただ懐かしんでいるだけなのか、判断はつきません。しかし、なにはともあれ、彼は繰り返しそこに来て、かつての幸せだった頃の思い出に浸ります。それは現実逃避ともとれるのです。
最終的に、部屋の窓は、全く知らない女性と僕に似た男、そして幼い女の子をうつしだし、それ以降なにもうつしださなくなります。そして彼は後日、その知らない女性と出会いました。

全体的な感想としては、あともう少し、という感じでした。窓から見える光景が彼の現実逃避なら、それはそれでよくて、そこで昔を思い出して、現在の時点からそれを意味付けていくといったことをするなら、そういう話でよかったのかな、と思います。また、オチについても、いっそ後日その女性と出会うのではなく、その前に出会っていて、「僕」がなにかを感じつつあった女性の姿を見出して、それ以降なにもうつしださなくなる、といったことでもよかったのかな、とも思います。
「僕」の思いが窓から見える光景を見せているのだとしたら、「僕」がそれを見なくても生きていけると思ったときに、それが見えなくなるはずで、とすれば見える光景は彼の理想である必要がある。本作の終わりの形だと、見える光景が彼の理想だということはいえるのだけれど、彼の心情の変化―過去に生きているところから現在をいきるようになった変化―は伝わってはこない。また、そもそも理想を見て、そのあとで女性を見つけたとすれば、容姿からその女性をある種の運命の相手と見ているわけで、なにか「僕」の幼さを感じてしまいます。
個人的には、窓にうつる光景に動かされるのではなくて、動きたくて動けない部分で、それを窓が保障してくれる、というほうがしっくりきます。もちろん、主人公が精神的に高みにいなければいけないということもないし、成長しなければいけないというルールがあるわけではありません。作品は作品として受け止めればいいのですが、やはり書くからにはアイデア一発勝負よりは個人的には、読んでなにか残った方がいいな、と思いますので、すこし物足りませんでした。

掌編なので、すべてを詰め込むことはできないのでしょうが、少し要素が削られすぎているように感じました。
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by nino84 | 2008-11-28 21:57 | 読書メモ
「二階扉をつけてください」(三崎亜記,『バスジャック』集英社文庫収録)を読みました.

妻が留守の折,近所のおばさんから「二階扉」をつけるようにとのお達しをうけた.回覧板では通知があったそうだが,そう言われても,なにやら分からない.とはいえ,近所を見渡してみれば確かに二階に扉がついている.あまりに自然すぎて,ずっと前からそこにあったみたいだ.
私はとりあえず,近所の工務店に電話を掛けてみることにした.


ドストエフスキーからの流れに一貫性がありませんが,読書をしたいということだけは確からしい.そんなわけで,『となり町戦争』の三崎さんの短編です.ちなみに,本作が収録されている『バスジャック』は,全7編を収録している短編集となっています.

さて,本作ですが,文体としては『となり町戦争』同様,非常に軽いです.そもそもタイトルからして良くわからない本作ですが,コメディー的なノリの軽さで話が展開していくため,文体もあいまって,非常に読みやすい作品になっています.
主人公の「私」はある日,突然,二階扉なるものの存在を知らされ,設置するように言われます.回覧板で設置が推し進められるくらいですから,周りはもちろん設置が進んでいます.郷に入らば郷に従え.長いものには巻かれろ.近所付き合いを円滑に進めるためには,なにはともあれ二階扉をつけなければなりません.「私」は何も分からないままに設置の準備を進めていきます.
意味も分からず,動いている「私」と同様にやはり読者も二階扉の意味は分からず,「私」と一緒にそれを知ることになります.そもそも回覧板をみていればすべて解決できたのですが,会社員の私にそんな余裕はありません.そのために,作品全体を通して,「私」と読者とが一体となりやすく,ネタとしては面白い作品かと思います.

ただ,そうした面白さだけで,作品が成立しているのではないため―主にオチについてですが―,しっくり落ち着けられませんでした.『となり町戦争』が-後日談もふくめて―よかっただけに,期待していた部分が大きかったのかもしれません.『となり町戦争』は全体としてはシリアスな長編ですから,やはり本作のような短編で,コメディ色の強いものとは違うのでしょう.
短編集の一作目ですから,これ以降の作品への態度もこれで決めてしまいました.大方あっていたと思います.さらっと暇つぶしに読むような作品群だったかな,と思いました.
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by nino84 | 2008-11-27 01:00 | 読書メモ
『機動戦士ガンダムUC 6 重力の井戸の底で』(福井晴敏、角川書店)を読みました。

軌道上での戦いの果て、地球へと落下していった《ユニコーン》とバナージは、ネオ・ジオンの戦艦に救助され、サハラ砂漠でその行動をともにしていた。
一方、父からラプラスの箱の真実を知らされたリディは、自分のなすべきことに迷いながらも、ラプラスの箱の確保を命じられたブライト揮下の《ラー・カイラム》に組み込まれることになる。
《ユニコーン》が示す座標へ、彼らは引き寄せられていく…。


いつの間にか発売されていたんですね、最新刊。発売から3週ほど経過していたようです。マンガと同じスペースに置いてあることが多いので、書店へいってもなかなか気づかないことがあるのがいけません。文庫で出版していただけると、こちらとしてもふと書店に行ったときにみつけやすいのに、と思わなくもありません。
で、そろそろ物語も佳境だそうです。個人的には読んでいても全くそんな感じがしないのですが、帯でそういっているのだから、そうなのでしょう。最初からこれまで、局地戦から戦闘規模が膨らんでいかないことで、そう思うのかもしれません。そういえば、『閃光のハサウェイ』(富野由悠季)のような展開でしょうか。あれは最後あっけないですが、はてさて本作は、最後どうなるのでしょうか。

さて、本作では、バナージはネオ・ジオン軍と行動をともにすることになります。直前まで、戦っていた相手ですが、そこはラプラスの箱の鍵ということで、そこそこの扱いをされます。しかし、バナージ自身は、知った人を自らの手で殺したということに罪悪感をもっています。罪深いことをやっているという認識がバナージ自身を押しつぶしていきます。
自分の自由になるただひとつの部品であるこころを失わないように生きる。それは戦争という個を越えたところで起こっている事態にあっては難しいことでしょう。しかし、大人たちはバナージに言葉で、態度で、その大切さを伝えます。インダストリアル7から軌道上での戦いに至るまで、バナージはそうした大人たちに支えられ、それに応えるようにして成長をしてきました。しかし、やはり自らを通せば、どこかで誰かがなにかを失うのです。自分の命を守り、仲間の命を守れば、相手が命を落とし、その仲間たちはひとりの人を失うのです。戦争という状況の中で起こる、ひとつひとつの戦いはそうしたエゴのぶつかり合いです。
バナージは感受性が豊かなだけに、相手が何かを失うということに耐えられません。そのため、自暴自棄になりもするのです。しかし、砂漠という環境は生きることを放棄した人間には苦しいもので、バナージはそこでなにもなさずに死にきることはできず、生きることを目指します。そんな折に、ネオ・ジオンによるダカール侵攻作戦が始まります。
その侵攻作戦の要、ネオ・ジオンのMA《シャンブロ》は、しかし、当初のラプラス・プログラムの発動という目的を忘れ、連邦に対する私怨だけで市民の虐殺を始めます。バナージは同行するネオ・ジオンの艦の艦長、ジンネマンに《シャンブロ》の暴走を止めに行くことを進言します。しかし、ジンネマンは作戦だから、と動こうとはしません。そこでバナージが彼を説得するのです。
『「哀しいから……哀しくなくするために、人間は生きているんだって……。本気でそう言える人にだったら、人を殴る資格はあるよ。」「いまのあんたに、そんな資格はないんだ。」「自分で自分を騙して、わかったようなこと言って…自分が地獄を見たからって、他人にそれを押しつけていいてことはないんだ!」「わかりませんよ…」「奥さんや、子供を殺された人の痛み……。なにが正しくて、なにが間違ってるのかなんて……」「でもわからないからって……哀しいことが多すぎるからって……感じる心を、止めてしまってはだめなんだ」「おれは、人の哀しさを、哀しいと感じる心があるんだってことを、忘れたくない。それを受け止められる人間になりたいんです。」』
大人たちからいろいろなことを吸収したバナージは、彼なりの生き方を模索し、それを実現しようともがき始めたのです。上記のバナージの独白場面は個人的にはとても好きです。バナージの成長がもっとも分かりやすく描かれた場面ではないでしょうか。

事態の中で懸命に生きようと事態に抵抗しようとしてるバナ―ジがいる一方で、事態に飲み込まれそうになっているのが、リディという青年です。政治という状況、戦争という事態に飲み込まれていく彼は、それに対抗しようとしながらも、その強い流れによって流されていきます。
しかし、連邦の兵士として、《シャンブロ》の侵攻を目撃した彼は、バナージと同様に、自分のこころのままにその侵攻をとめようと試みます。リディの場合は、バナージとはことなり、侵攻をとめることは作戦の一部ですから、矛盾するところは少ないのですが、やはり作戦の一部に組み込まれてしまうことに違いはありません。そのなかで自分ができることを模索し、可変機《デルタ・プラス》での先行を提案するのです。それは事態に飲み込まれまいとする、彼なりの抵抗でしょう。

こうして、バナージとリディ、いつの間にか立場が大きく違ってしまった二人が、同じ意志をもって、《シャンブロ》を相手に共闘を始めるのです。このMA戦が本巻の最大の山場となります。その描写はスピード感があって、かなり格好よく書きあがっています。


バナージは《ユニコーン》を媒介にして、連邦ともジオンとも行動をともにし、さまざまな立場の人たちの姿を取り込みます。それがこれ以降の事態を超える力ともなるのでしょう。
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by nino84 | 2008-11-24 10:35 | 読書メモ

『地下室の手記』

『地下室の手記』(ドストエフスキー、新潮文庫)を読みました。

ぼくは病んだ人間だ…。こうしてぺテルブルグの端の地下室に閉じこもって、生活している。ぼくは虫けらにもなれなかった人間だ。《すべての美にして崇高なるもの》を意識すればするだけ、ぼくは見苦しい行為をすることになって、いまではその行為をさえ居直ることができる。


読んでしばらく放置していると、内容がどんどん抜けていきます。読み終わった瞬間にもあまり理解できなかったものを、こうして時間をおいて咀嚼しようとするのは、やはり難しいように感じます。とはいえ、なにはともあれ、『読んだ』という記録のためにも感想を書いておくことにします。

さて、本作は久しぶりのロシア文学。ドストエフスキーです。
主人公は地下室に引きこもっている40歳の男です。元役人で、親戚の遺産が手に入ったことでそれを元手に引きこもりをしています。仕事も勉強もしていないし、働く意志もない、現代でいうところのニートですね。
感想を書くためにさらさらと読み返していたら、序盤と最終盤は、理性的すぎる、合理主義的な生き方を否定して、もっと感情に焦点を当てた生き方をしようといっているようです。しかし、中盤はどうしても、いまの引きこもりの心性―ステレオタイプで言い過ぎなのかもしませんが―にしか読めずにいました。一読すると、中盤が一番ながいですから、その部分の印象が強く残り、結果としていわゆるひきこもりの私小説という印象を強く感じました。
まとめに掛かった段階で、なんとか作品の方向付けをした、というように感じました。「手記」なので、つらつらと書いてあり、当初書こうとしたことが「ぼく」のなかで膨らんでいき、脱線していき…という形になっているのでしょうか。読ませる作品ではなく、「手記」としてあくまで自分の考えていることを順に文字にしているという様子はよくでている、といえるのかもしれません。もちろん、単純に僕の理解が追いついていないという可能性もあるのですが、それは実も蓋もない言い訳なので、以上のことは僕のレベルで読めたこと、ということになります。もっと実は突き詰めて考えているのかもしれません。
「ぼく」は自分で考えを深めていくことができる人のようですから、それがいいように出ればかなりまとまった思想になるのでしょう。ただ、このように「手記」という形では脱線し、逆説に逆説をかさねて、というような展開になり、僕としては、特に第一部は、読みにくくて仕方ありませんでした。

「もし人間を啓蒙して正しい真の利益に目を開いてやれば、汚らわしい行為など即座に止めて、善良で高潔な存在になるにちがいない。なぜなら、啓蒙されて自分の真の利益を自覚したものは、かならずや善のなかに自分の利益を見出すだろうし、また人間だれしも、みすみす自分の利益に反する行為をするはずもないから、当然の帰結として、いわば必然的に善を行うようになる、だと?ああ、子供だましはよしてくれ!…人間はしばしば、自分の真の利益をよくよく承知しながら、それを二の次にして、一か八かの危険をともなう別の道へ突き進んだものだ、…彼らにはこの強情とわがままこそが、どんな利益にもまして、ほんとうの意味で快適だったのではないだろうか…だいたい利益とは何だ?いったい人間の利益とやらは、完全に正確に計量されているのだろうか?」(p32-)
「強情とわがまま」で行動することがあるのが、人間であって、その行動は合理主義では計算できないんだ、ということ。結局のところ、こうしたことが訴えたかった、ように思います。ただ、本文を読んでみるとより分かると思うのですが、だらだらと文章が続くので、言いたいことの焦点がだんだんぼやけていくように感じられました。
前半は引用部のような抽象的な独白形式の文章ですが、第二部はある出来事について具体的に描かれています。後半は具体性が増すため、とても読みやすくなっています。ただ、具体的になると、読者側にいろいろなことを考える余地があるために、引きこもりの心性が目立って読めてしまいました。最終盤にまとめがなければ、僕の中でテーマが扱われず、流れてしまっていたと思います。

ところで、テーマはテーマとしてあるのは、いいのですが、やはり読めてしまったので、印象としての「引きこもりの小説」について書いておこうと思います。
「ぼくは病んだ人間だ…」と始まるように、「ぼく」は終始、自分に自信がもてません。それは自分が、一般的に人間が善とか利益とか思う行為ではないところで、利益を感じていたりするからであって、また、なにごとについても深く考えすぎてしまうからです。「ぼく」は、他者からの目が気になり、そのために、自分が世間とずれていることを表現することもできず、ただ自分のなかで鬱々としてい過ごしていくしかないのです。
社会で生きていくためには、社会の流れに沿った行動、すなわち理性的で合理的な行動、をとる必要がおおきくなります。しかし、実際には、すべてをそのようにする必要はない。人はその上バランスをとって生きています。しかし、理性的で合理的な行動をしなければならない、というように考えてしまうと、とたんに社会で行動することが苦しくなります。自分の感情に嘘をついて行動しつづけることは、やはり苦しいことで、それがずっとできるわけがないでしょう。しかし、「ぼく」はそうしようと努力してきたのです。
街ですれ違う将校を避けずに肩をぶつけてみる、教科書的なことをいって説得した娼婦に自分の本音をぶつけてみる。第二部のエピソードは「ぼく」が頑張って、理性的で合理的な行動を外れようとするものです。
「ぼく」はしがない役人ですから、将校とすれ違うときには、「避けなければならない」のです。しかし、それをしない。また、娼婦は自分の体を、愛を売るということで、それは人として「やめなければいけない」し、「娘のために説得しなければならない」のです。しかし、それをしたのは「自分の自尊心を高めるために説得した」のだと正直にうちあけたりするのです。
社会の中で上手く自分を出して生活しようと模索してみたものの、結局、それらが苦しいことだったので、また「ぼく」は社会から離れ、引きこもります。僕が「ひきこもりの小説」と読めたのは、結局、「ぼく」がいろいろ考えた挙句に、社会に出る方法を模索することを止めて、社会との交渉を絶つという選択をした彼の一連の思考の仕方が―ステレオタイプすぎるのは分かっていますが―、あまりにも引きこもりっぽかったからです。
個人的には、人はそんなに他人のこと気にしないと思います。「ぼく」は、よくいえば敏感、悪くいえば自意識が過剰なのでしょう。読んでいてそんな気がしました。
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by nino84 | 2008-11-23 02:47 | 読書メモ

『悲しみよこんにちは』

『悲しみよこんにちは』(フランソワ―ズ・サガン、新潮文庫)を読みました。

私が17歳の夏。私と父、そして父の愛人エルザは夏休みを別荘で過ごしていた。
父はそこに今は亡き妻の友人であるアンヌも呼んでおり、父と彼女は次第に親密になっていく。そして、とうとう彼らは結婚を考え出す。しかし、「私」はそれを祝う気にはなれず、エルザと別荘地でであったシリルという男とともに二人を別れさせるための計画を実行にうつす。



久しぶりの更新となりました。

本作はサガンの処女作で、18歳の時の作品だそうです。女性らしく、また若々しい作品かなと思いました。「私」の不安定さとか、残酷さとかは幼さ、あるいは若さからくるものだろうというのが、とても感じられる作品でした。作品全体としてみれば、つまり内容としてはとても面白かったのですが、どうも言葉遣いが私にはしっくりこない部分があり―それがサガンの書き方からくるのか、翻訳からくるのかは分からないものの―しっくりこない部分がありました。

さて、内容にうつります。本作の「私」は、母と死に別れ父と親ひとり子ひとりで暮らしてきています。父は次々と愛人をつくっては別れるような人で、瞬間、瞬間を生きているような人です。その姿をみてきた「私」も父の生き方に共感しており、同様の感覚を持っています。実際、「私」は別荘地でシリルという男とそのような関係を形成します。
そのような生き方をしている父子のところに、別の文化が入ってきます。アンヌは、母のかつての友人であったということですが、彼女はいわゆるできる女で、非合理的なものを好まないような面をもっています。とはいえ、彼女も女で「私」の父には惹かれていきます。そして、父はその気持ちを受け止め、彼女の説得に応じて自分の生き方さえも変えて、彼女と結婚しようとするのです。
「私」は最初、父は父のやり方でアンヌと付き合い、やがて別れるだろうと思っていたのです。しかし、父は結婚を決意してしまいます。また、アンヌも「私」の母になることを意識し、「私」の行き方に干渉してくるようになりました。「私」にとってアンヌは大人で、すばらしい部分をたくさん持っている人でした。しかし、それは互いに干渉しなかったからです。アンヌは今や「私」、父、あるいはその二人の世界を変えてしまう、邪魔な存在となりつつありました。「私」は「私」の世界を守るために、計画的にアンヌを追い出そうとするのです。

干渉されたくない、父を独占したい、そうした気持ちが「私」を動かします。他の誰を傷つけても―「私」は、エルザやシリルでさえも利用しようとします―「私」は自分の世界を守るために、徹底的にアンヌを排除しようとするのです。それを一身に追い求める姿こそは若さでありましょう。
そして、計画が実行され、達成されました。「私」は父の新しい生活を、アンヌの幸せを台無しにしました。父もアンヌもこれまでの生活だけでなく、これから先の生活があったのです。アンヌはこれから十年、二十年と父と幸せな生活を送れたかもしれなかったのです。「私」はそれを壊しました。また、父に対しては、「私」の独占欲によって、結局、自由を奪うことになっていました。父にはアンヌを喪失したということだけが残りました。さらに、「私」にとってアンヌがいなくなることは、女として尊敬していた人をうしなうことでした。

―悲しみよこんにちは。
アンヌを失ったことの意味を「私」が振り返ったとき、「私」は悲しみを知りました。後悔などさまざまな感情の複合体としての悲しみ。全編を通して、悲しみという感情の重みを伝えるそんな作品になっているかな、と思います。


ところで、全く別の話ですが、この作品をとおして、所謂「空気を読む」というか、あえてなにかを言わないことが重んじられている印象を受けました。ノンバーバルな、しかも雰囲気によるコミュニケーション。表現方法として、小説、文章という言葉を選びながら、そうした沈黙を大事にしている部分があって漠然といいな、と思えました。
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by nino84 | 2008-11-10 02:43 | 読書メモ