本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

<   2008年 12月 ( 7 )   > この月の画像一覧

『飛ぶ教室』

『飛ぶ教室』(エーリッヒ・ケストナー、山口四郎訳、講談社文庫)を読みました。

わたしが語るのは、キルヒベルクの高等中学校のクリスマスのお話です。子どものなみだはおとなのなみだより小さいということはありません。学生たちは寮生活のなかで先輩や先生、近くの大人や、他の学校の生徒たちとの関わりを通して、成長していきます。

どうも乱読スイッチが入っているようで、なんの脈絡もない本を選択して読んでしまいます。本書については、そもそも『AMEBIC』よりも早い段階で読もうと思っていたのですが、たまたま購入時期が前後してしまい、この順番になりました。
そもそも、大江健三郎さんの短編集は先月末に読み終わっているのに、その感想を書くのが後手後手にまわっているために、大江さんの作品の感想を書きながら、べつの作品の感想を書くという状況になっています。年末に帳尻合わせようとは思っているのですが、やはり別の本も読みたくなっているので、難しいのかもしれません。でも大江さんの作品、よかったんでもう一回読んででも感想を書きたいとは思っています。

さて、本書はドイツの作家ケストナーの作品です。本作では、「わたし」が、2つのまえがきとあとがきを加えて、その作中作という形で高等中学校の様子を描いています。
その作中作では、高等中学校で寮生活を送るジョーニーをはじめとした5人の少年が主人公となっています。ジョーニーはアメリカでドイツ行きの船にひとりで乗せられ、そのまま捨てられたという過去をもっています。マルチンは、貧しい家庭に生まれながらクラスのトップで、絵も上手い少年です。マチアスは、勉強は苦手ながら、腕っぷしは強い少年。逆に、臆病なウリー。そして難解な本ばかり好き好んで読んでいるゼバスチアン。彼らはともに寮生活を送り、先輩とのやりとりや、他校の生徒との抗争、そして先生からの温かいまなざしのもとで成長していきます。

それぞれの少年はそれぞれに過去を背負っており、それぞれに悩みを抱えています。ケストナーは、「人形がこわれたといって泣くか、あるいはもっと大きくなってから、友だちをなくしたといって泣くか、それはどっちでもいいのです。(中略)なにを悲しむかということは、すこしも問題ではなく、どれほどふかく悲しむか、ということだけが問題なのです。」と述べます。子どもの世界は大人の世界よりも物理的に狭いのですが、だからこそ大人にとってはとるにたらないことでも、子どもにとってはとても大きな悲しみにつながることが多くあります。
極端な例ですが、お気に入りの人形がこわれ、なくなることは、その子にとっての世界の崩壊かもしれません。子どもはものの納得のさせ方が、大人ほどには上手くありませんから、あるいは大人よりも大きな悲しみに直面しているかもしれません。かけがえのないものがなくなるという体験は、誰にとっても悲しいものだと思えます。しかし、その人にとってのかけがえのなさをはかり間違えると、人の抱えている悲しさを理解することはできないでしょう。
ただし、ケストナーは本作を通じて、子どもの悲しさだけを伝えたいわけではないでしょう。伝えたいことは、子どもには、子どもの世界がある、ということを再認識して欲しいということだと思えます。その世界の中で、ギャングエイジの子どもたち―年齢は16歳前後だと思われますが、女性が出てこないために、作品の主なテーマは同胞になっています―は、さまざまな経験をして日々を暮らしています。読者の誰もがかつてはそうだったことを、ケストナーはあらためて描いてみせてくれています。
寮の監督の先生との関係は理想化されすぎているようにも思えますが、それはフィクションとして、そういう大人がいたらすばらしい、といった具合で読んでいました。ある意味では、子どもの世界を忘れない大人という、ケストナーなりの理想像なのかもしれません。

ちなみに、作品の時期は、クリスマス前後になっています。特に意識せずに購入しましたが、図らずも季節モノということになりました。そんなこともあり、いつぞやのこの時期にはディケンズの『クリスマス・キャロル』を読んでいたことをふと思い出したりしました。あれは狙って読んでいたのですが、やはりヨーロッパでのクリスマスの扱いは、日本のそれよりもはるかに重いんだということを感じずにはいられません。
[PR]
by nino84 | 2008-12-26 19:44 | 読書メモ

『本を読む本』

『本を読む本』(M.J.アドラー・C.V.ドーレン、外山滋比古・槙未知子訳、講談社学術文庫)を読みました。

読書のレベルは4段階ある。初級読書、点検読書、分析読書、シントピカル読書だ。初級読書は「その文がなにを述べているか(文法的、語彙的に)分かる」こと。点検読書は「系統立てて拾い読みをする」こと。分析読書は「理解を深めるための読書」である。そして、シントピカル読書は、一つの主題について何冊かの本を相互に関連づけて読むことである。

どんどん大江健三郎さんから脱線していますが、そのうち感想は書きます。まだ、書く気でいます。

さて、本書は、『本を読む本』ということで、本を読むためのHow to本です。著者はアドラーですが、劣等感のアドラーではありません。本書の著者は、哲学をしている方らしいです。

簡単に、上段にまとめてしまいましたが、本書は読書のレベルを4段階に分けて、その方法を解説したものです。最終的なシントピカル読書に至るまでのその読書の方法について、くわしく解説してくれています。初級読書はともかく、点検読書以上の段階については、学ぶところが多いかな、と思います。

「本は読むものなので、十分に利用しよう」ということなのですが、利用できるまでには大変な努力が必要になります。読者は、その本の著者の言いたいこと、すなわち主題を汲み、また書いてある事実を汲まなくてはいけない。その上でこそ、その本について賛成するか、反対するか、分からないとするかを判断することができます。
しかし、主題を汲むのは読者の能力―あるいは本の構成の悪さなどから、能力があっても分からないことがありますが―ですから、その主題を汲む方法について知る必要があります。そのための、点検読書であり分析読書です。具体的には、点検読書では、目次を読むとか、前書きや結論を読むなどして、その本に書いてあることを把握し、しっかり読むに値するかを判断します。その上で、読むに値すると考えられた本について分析読書をおこなうということになります。
また、シントピカル読書は、その上の段階であり、他の段階とはまた異なった意義をもちます。jこの読書法は、文献研究のための読書方法です。つまり、自分が主題を深めるための読書法なのだそうです。

以上のように、方法が書かれているもの、こうしたことを実際にやろうと思うと、大変だなぁ、と思ってしまいます。他人事のように表現しているものの、現実には、理想をいえば最終段階の読書法をしなければならない状況に置かれているのですが、これがなかなか…。せめて点検読書だけでもするように心がけます。しばらくはその段階の読書を高めようかと思います。

ちなみに、この本のメインターゲットとする本は「教養書」ですが、小説、戯曲、詩の読み方についてもおまけ程度に書いてあります。
[PR]
by nino84 | 2008-12-25 17:21 | 読書メモ

『AMEBIC』

『AMEBIC』(金原ひとみ、集英社文庫)を読みました。

ある日、錯乱していた私は「アミービック」というタイトルの錯文を書き、それを編集者である彼に送ってしまった。彼はそれをみても特になにも言わなかった。彼の彼女は私に「彼を共有しよう」と訴える。私は、次第に分裂していく自分を感じながら、なにが分裂し失われたのか分からない。


大江健三郎さんを一旦お休みし、長編の感想を書こうかと思います。『蛇にピアス』で芥川賞を受賞した、金原ひとみさんの作品です。

さて、本作の主人公は、摂食障害気味の女性作家です。彼女は時に錯乱し、パソコンに錯文を書きのこします。「私」はその錯文を私の一部だと考え、誰にも見せないようにしますが、ある時、編集者である彼に錯文を送ってしまいます。
「私」が書き残す錯文は、彼女になにかを伝えているようでした。しかし、すでに分裂し、分離してしまった「私」の部分であるであろうそれは、「私」には理解できません。そんな「私」の一部を人に見られるということは、非常に抵抗のあることでした。しかし、彼はそれほど動かされたという様子を見せませんでした。そのために彼女は一旦、安心するのですが、それでも錯文は日々かかれていきます。そして、次に彼に会い、自宅に帰ったとき、自分というもの―からだの各部分や、感覚―が、バラバラになってしまうのでした。

一昔前の作品は、神経症的な作品ばかりで、主人公は自我を保ち、その現実検討識がある自我でもって、自らの課題を扱っていくというものが多いように思います。しかも、その課題は、どうやって現実―それが恋愛であれ、学校や職場や友人といった社会的な場面であれ―と折り合いをつけて自分を表現するか、向かい合っていくかといった、現実的な課題が多い印象を受けます。
本作は、そうした作品とは別の水準にあるように思えます。「私」は摂食障害ということで、人格の水準はよくありません。作中、「私」は自我を保てず、現実検討識を失っていきます。本作で起きているのは、自我の崩壊です。ひとりの人間が分裂し、解体していく姿を描いています。もちろん、解体していってしまう人たちが、実際に「私」のような世界を生きているかは、当たり前ですが、分かりません。ただし、描こうとしているのは、そうした解体してく人たちの思考過程なのでしょう。

良い悪いではなく、こんな時代になってしまったのだな、としみじみ思います。神経症の時代は終わってしまったのだな、と。神経症は、ある意味では解決できることが明らかになりすぎました。そのために、その水準のことを描いても、すでに解決できること―その方法は様々あるとは思いますが―は目に見えているのです。しかし、本作の問題はいまだ自分でどう対処できるかわからないところにある問題です。そして、その人たちがなにを考えているのかも、いまだ分からない問題です。
金原さんがそういう水準の人だという話は聞きませんから、「私」が感じていることは、なんらかの取材はしているにしても、想像でしょう。だから、一連の描写が正しいかどうかは分かりません。しかし、こうした作品をたたき台にすることはできると思えます。

心理学的な興味が前面に出て読み勧めてしまいました。
[PR]
by nino84 | 2008-12-23 00:33 | 読書メモ

「飼育」

「飼育」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

狭い谷間にある小さな集落。その谷に、敵の飛行機がおちた。大人たちは山狩りをし、生き残った黒人を集落へと連れてきた。僕は、その捕虜となり拘束された黒人の世話役となり、食事をあたえていた。僕や村人と黒人とは次第に心を通わせていくが、麓の町からは、黒人を引き渡せとの連絡が届く。黒人はそれに反発し、僕を人質に抵抗をするが、結局その場で処刑が行われた。

先日から続けて大江健三郎さんの短編、3作目です。「死者の奢り」同様、本作も表題作となっており、大江さんはこの作品で芥川賞を受賞しています。

さて、本作の主人公は小さな集落に父と弟と住む男の子です。「僕」は、捕虜となった黒人の世話役となり、黒人と交流を深めていきます。
本作では、その交流の過程が描かれるわけです。はじめ、「僕」ら村人は黒人を「獣のように飼う」と表現します。黒人は家畜と似たものであって、一方的に世話をするものです。ただし、あくまで獣であって、一襲い掛かってくるか分からない、そんな恐ろしさも秘めている存在でした。しかし、黒人が害のないものであることが分かってくると、村人たちは次第に黒人に慣れ、当初抱いていた恐ろしさを忘れていきます。
ただし、言葉は通じない上に、身辺の世話はしているために、その黒人の立場は、改善されても、ペットでしかありません。いつしか、「僕」らなりの黒人に対する思い入れから、黒人の処遇が麓の町から届くことを恐れるようになりました。
しかし、処遇は届きます。そして、それは黒人の命が失われることを意味することでした。黒人は自分の命を守るために、村人が忘れていた獣性をあらわします。結局、黒人は抵抗空しく殺されてしまうのでした。

黒人は、言葉が通じず、しかも立場が捕虜という村人たちよりも低い存在です。したがって、それは家畜やペットを飼っているのと同じ関係が成立しえます。そして、そのような関係の中では、飼い主とペットとの絆が深まるように、絆が深まっていくことがありえます。ただし、この作品は、深まって終わりではなく、その上で関係が深まったことで村人が忘れてしまっていた獣性を描きます。
この作品には、関係の成立からその終わりまで、戦争の影響があらわれています。それでも、関係が壊れたのは戦争の「せい」というような、反戦を中心に置いた作品のようには思われませんでした。むしろ、より一般化したかった作品なのではないかという印象を受けています。こうした低い立場のものを生み出しやすいために、戦争という舞台設定なのであって、こうした絆をも壊してしまう戦争というものを描いたのではないと、いう印象です。すなわち、立場の低い存在との関係はペットのようになりやすいということでしょうか。

たとえ飼い犬に手をかまれてもその飼い犬を突然嫌いにはならないように、それなりの絆は保たれるのです。実際、「僕」は、黒人の処遇を伝えた書記の事故死よりも、処遇に抵抗し処刑された黒人の死に対して一種の抑うつ感を感じるのです。また、実際に対等に関わっていたかのような部分が見受けられた川遊びなども、結局のところ「僕」らは黒人を上から目線で見ていました。自分たちよりも弱い(と認識された)存在との関係は、―飼い犬と友人と自分とのそれぞれの関係の違いを考えてみれば想像に難くないと思うのですが―友人とはなりえず、あくまでペットとなってしまうのでしょう。
そうであるならば、戦争というそれを生み出しうる条件が悪いのではなくて、条件に関係なく、そのような関係性そのものに問題があると思えます。逆にいえば、なぜか人間対人間の関係でも人間対ペットという関係に落ち込むことがあるわけで、どこかで人間を人間としてではなく、ペットとしてみてしまう状況があるのです。人間は社会で生きていますから、対人関係という状況のなかである人がペットと認識されれば、その人は人間ではなくなってしまいます。
人間が人間でいられるための条件は、一体なんなのでしょうね。やはり、結論を出せずに逃げますが、それだけ難しい問題なのだ、ということで許していただきましょう。
[PR]
by nino84 | 2008-12-21 23:34 | 読書メモ

「他人の足」

「他人の足」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

脊椎カリエス療養所の未成年者病棟。僕らは壁の中で、充実して、陽気に、快楽的に生きていた。ある日、そこに文学部にいたという学生が入院してきた。彼は病棟内の様子を見、尊厳をとりもどすために、といって患者を集めて啓発活動を始める。しかし、彼自身は、足は直らないとの宣告を受け、その活動の意義を見失っていく。

さて、昨日に引き続き、大江健三郎さんの作品です。
今回の主人公は、脊椎カリエスを患い、療養所で暮らす青年です。彼は自分の足が治らないことを自覚し、外部の人間と同じように生活することを目指さず、壁の中で同じ病を患う仲間と、看護婦との生活をしていました。自分で用を足すこともできず、自分の欲望の処理もできません。自分で動くことのできない生活をしています。
そんな生活をしていた者たちのもとに、一人の男がやってきます。その男は入院当初、まだその足が治る可能性があり、したがって「僕」らとは決定的に異なる存在です。彼は「文学部にいた」と自己紹介し、外部に所属していたことを示します。彼は閉じられた世界に外部から入ってきた異分子なのです。
とはいえ、これまでの例からいえば、その外部性は次第に失われ、そのうちに完全に「僕ら」の仲間入りをするはずでした。しかし、彼はあくまで外部とのつながりを保とうとします。「尊厳をたもつ」ため、外部に対して意見をいうことを主張し、「僕」の仲間たちに啓発活動を始めます。そしてそれは確かに「僕」の仲間たちの尊厳を取り戻すことに成功したのです。
しかし、それでも学生と同室である「僕」はその活動には参加しません。あくまでその活動を冷ややかに眺めているのでした。そんな「僕」に学生は、「僕の両脚はやはりもういけないらしい」と弱音を吐きます。学生はその瞬間、外部とのつながりの意味を見失います。そんな中、学生らの活動は、実際に新聞に彼らの意見を掲載させることまでの成功をするのです。それで、学生は「僕」の仲間たちにその成果を共有することで、尊厳を持ち直し、最終的に、彼は立ち上がることに成功します。
学生は自分の脚で立ち上がった結果、「僕」らとは違う人間であることが明らかになってしまいます。「僕」の仲間たちは自分たちの誇るべき仲間として学生を認識する一方、学生は「僕」の仲間たちをもはや仲間、同類とは見なしません。彼らはここにきて決定的に違うものになってしままいます。そして、学生が退院したのち、「僕」らはまた外部と閉ざされた生活を取り戻していくのでした。

結局、全部説明してしまいました。読んでからずいぶん時間がたってしまったため、斜め読みしながら、記憶を呼び起こしていました。
さて、本題はここからです。では、本作のテーマはなんでしょうか。キーワードは外部、仲間といったことがあるのだと思えます。個人的には、やはり本作も人間の存在について描いているように思えます。
学生が「僕」らと仲間であるためには脚が不自由である必要がありました。また、学生は大学という別の所属があることで、外部ともつながっています。そのために、彼は「僕」の仲間たちを外部へと連れ出すことができました。しかし、脚が治らないという外部とのつながりを断ち切る事件があれば、彼は内部にだけいることを容認しようとします。ただし、実際にはこのタイミングで新聞に記事が載るという外部とのつながりが生まれたために、学生は尊厳を失わずにすみました。そして、物語の終わり、学生は脚が治ったことで、内部とのつながりがなくなります。結局、彼はそこで完全に外部の人間になってしまうのでした。そのとき、学生の名前が作中で初めてよばれ、かれは完全に「僕」らとは別の者になります。(ちなみに、「僕」らは作中、固有名詞では描かれず、性別や行動による特徴といったことで区別されています。)
人間はなにかしらのもので、人と人のつながりを成立させられます。人間は社会的な存在ではありますが、社会的な所属のみでつながっているのではなく、個の特性そのものによってつながってもいられます。むしろ、「僕」らのつながりの強さや、最後の学生の態度から言えば、個の特徴のほうが強いといっているように思えます。
そうでありながら、人間は何かしら、つながっていないと生きていけません。「僕」は学生が仲間を外の世界とつなげてしまうことで、自分が孤立していくのをとても恐れます。こうした面からも、逆説的に、人間は人と人のつながりの間で生きていることを再認識させられます。


人間はなんらかの形で、つながっていないと生きていけないのはそうでしょう。そして身体的特徴によっても心理的につながるのもそうだと思えます。
とはいえ、『蟹工船』でもそうでしたが、集団は固有名詞で呼ばれることはありません。そうした集団は次第に集団としてもの扱いされていくように思います。それを個まで、一人の人にまで引き上げるのは、結局、なんだろうか?身体的特徴によるラベリングは差別の温床でもあるのだろうし…。だんだんまとまらなくなってきました。人のつながり方というのは、難しいですね。

すいません。ごまかしです。論が拡散してしまったのは初めてかもしれないですね。嗚呼。
[PR]
by nino84 | 2008-12-20 22:49 | 読書メモ

「死者の奢り」

「死者の奢り」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫)を読みました。

医学部の死体処理室。僕は女子大生と管理人に説明を受け、死体処理の作業を始めた。アルコール水槽に浮かぶ死者たちは、完全な《物》の緊密さ、独立した感じを持っていた。その作業中、女子大生が突如として腹痛を訴える。彼女は妊娠しているらしい。彼女を休ませ、管理人と二人で作業をしていたが、作業が無駄だと指摘される。バイト代はでないかもしれない。


三崎亜記さんの『バスジャック』は一段落ということで、別の積ん読状態だった本を片づけようと思います。これも半月前に読み終わった本なので、すでに忘れかけている部分がありますが、なんとか思い出してみます。

さて、本作はノーベル文学賞受賞者、大江健三郎さんの作品です。文学部の学生である「僕」を主人公として、人間の《物》としての一面を描こうとしているのだと思えます。
人間はもちろん骨があり、肉がある物です。しかし、意識があり、動いていることで壁や窓とは違うのです。しかし、「僕」が見ている死者は、意識がありません。ただそこにある、しかもアルコール溶液につかり決して腐らない、死者。それは完全に物として存在します。
死者は竹竿で引き寄せられ、台車に乗せられ運ばれ、別の水槽に移されます。一方的に移動させられ、その作業が間違いだとされれば、すぐに別のところへ移動させられます。管理人の関心は死者の体ではなく、その作業の間違いの責任を逃れることです。また、「僕」にしても最終的にバイト代がでるか否かが最大の関心事となります。死者は決して人としては扱われません。作業している間は、死者は確実に物として扱われています。
また、「僕」らが作業の手を止め、管理人がある死者の思い出話を始めると、その死者はその瞬間からものを言いはじめます。「僕」はその死者の銃創に彼の歴史を感じ、個性を感じ、彼の生きている瞬間を想像するのです。その瞬間は、死者は物ではなく、人だったのでしょうか?
畢竟、それは永遠に存在する物であるといえるように思います。大江さんが人の意識をどう考えたのか、それを考えればいいのでしょうか。意識が変化することこそが生きているということであれば、ものを言いはじめた死者はやはり物です。結局、同じことを訴え続ける、機械のような物なのでしょう。
「死は《物》」です。しかし、それは進行していくものです。「僕」が死んだばかりの女の死者にセクスを感じたように、死んだばかりの弾力のある肌は、まだ完全には物としての性質だけを持つには至っていません。そして、火葬は死が《物》になる前に、それを処理する行為です。物として存在してしまえば、死者の生前の思い出に関わらず、それは尊厳をなくしていくでしょう。そこらに転がっていれば、それは生前の思い出を訴え続けるのに、次第に邪魔な物と扱われていくでしょう。火葬はそれを防ぐ行為なのです。あの人はよかったと言えるための行為なのです。ただし、その行為にしたって、すぐにしてしまわなければ意味がないのです。一旦、物として成立してしまった死者は、物語の終わりに、ただ処理するために火葬されるのです。思い出を人の意識のみに残すためではなく、ただ可燃ゴミと同様に処理されるのです。

人というのは、意識があってこそ、人なんだ、と改めて感じさせてくれる作品でした。グロいのかと思いきや、以外とさらっと読めたような気がしています。それは大量に出てくる死者がただの物だからですね、たぶん。
[PR]
by nino84 | 2008-12-19 23:00 | 読書メモ

「バスジャック」

「バスジャック」(三崎亜記、『バスジャック』集英社文庫収録)を読みました。

今、「バスジャック」がブームである。能楽に例えて形式美化されたそれには、それぞれ役割が振られ、国民の興味の的となっている。
かくいう私が乗るバスでも、今まさにバスジャックの最中である。10:30に四人の乗客が一斉に立ち上がり、「シテ」役の男が口上を唱えだしたのである。


久しぶりの更新になりました。更新する時間をつくらず、うだうだと来てしまい、内容を忘れつつあったので、このあたりで表題作だけでもまとめておこうと思う次第です。

さて、本作はタイトルどおり、『バスジャック』の表題作です。バスジャックを様式美として捉えるというちょっと変わった世界のお話です。バスジャックの役割を完全に分業化し、それぞれがやるべきことをきちんとこなし、なおかつ全体としてバスジャック本来の異空間性を保つ。一定のルールがあり、そのなかでやるからこその美しさが生まれる…はず、なのだろう。
しかし、実際には形式化されることで、その本来バスジャックがもつ性質は徐々に失われていく。そこに生命の危機感はなくなるし、枠からはみ出すことができずに、堅苦しいものとなる。やる方も、巻き込まれる側も、慣れすぎてしまっており、すでに形式だけの劇であって、そこに美を見出すことが難しくなっていく。そこで登場するのが、原点に帰ろう、という安直な輩である。

そもそもバスジャックの様式美ってなんだ、という話になるのですが、それは作中を参照してください。ただ、なにが書きたかったのか、イマイチはっきりしないな、という気がしてしまう作品でした。発想一発勝負で、「面白かったでしょ」、でいいならそれでいいのです。ただ個人的にはなんか、しっくりこない作品でした。
しっくりこないのはなぜかを考えたのですが、バスジャックを様式美にはめるという意外性で勝負しながらも、結局オチが、原点に帰ろうであった部分に違和感を感じたのでしょう。それは、ルールに縛られないものをルールで縛ったら面白くない、という当然の結果だと思えてしまうのです。
様式美を持ち出したら、むしろそれを成立させて欲しかった気がします。ルールを守らないのは、モダンアートのある意味では定番の手法であって、個人的には様式美こそないがしろにされている気がするので、様式美の美しさを訴える作品であって欲しかったように思えました。
[PR]
by nino84 | 2008-12-17 00:05 | 読書メモ