本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「勤労感謝の日」

「勤労感謝の日」(絲山秋子、『沖で待つ』文春文庫収録)を読みました。

勤労感謝の日など、無職者にとっては単なる名無しの一日だ。そんな日に、近所のおばさんが、私に見合いをセッティングした。彼曰く、「僕って会社大好き人間」だそうだ。私はその場を抜け出し、かつての同僚に愚痴をこぼす。

現実世界の締め切りなんのその。短編だからとの中途半端な合理化によって、してます、読書。今回は絲山秋子さんの短編集です。ちなみに表題作「沖で待つ」は芥川賞の受賞作だそうです。

さて、本作の主人公、「私」はかつては某社で女性総合職として働いていた女性です。会社の上司に無礼をし、仕事を辞めてしまい、今は無職となっています。すでに三十路をとうにこえ、無職。本人としてもかつての総合職という立場からすれば、かなり焦る状況にあります。
そんな中で、セッティングされたお見合いは、勤労感謝の日。しかも「会社大好き人間」がやってきて、今の自分の立場の惨めさを改めて認識させるものでした。どこか馬鹿にされているような雰囲気に耐えられず、かつての同僚に愚痴をこぼしていきます。同僚と一通り話した後、近所の飲み屋に。そこでもそこの店主に愚痴をこぼします。
それで「私」はふと、その店主が勤労者であったことを思い出します。「私」は店の経営が厳しいのを見聞きし、それでも店主が自分の夢だからとがんばっていることを聞かされます。
見合い相手は自らを「仕事大好き人間」といい、それで私は引いてしまうのですが、むしろその言葉に引っかかっているのではなく、彼の人間性が気に入らなかったのでしょう。初対面でスリーサイズを聞いてくる、無職であることに言及する。そんな男を気に入るわけはないのです。一方、居酒屋の店主も、いってしまえば「仕事大好き人間」ですが、見合い相手とは違います。彼は、仕事大好きですが、それだけでないものも持っています。それだけでないものは、端的にいえば人間性でしょうが、ここではあまり具体的な形にはなりません。いろいろな人がいるんだということでしょう。少なくとも、女性総合職として懸命にがんばってきて、仕事だけという世界にいた「私」は、厳しい世界の中で、「仕事大好き人間」といえば、見合い相手のような人しか知らなかったのでしょう。「私」は、それとはちがう仕事のあり方を感じさせてくれた店主に感謝します。

結局、「私」には、元女性総合職としてのプライドというのがよくも悪くもあって、「私」はどこかで居酒屋の店主を見下していたところはありましょう。しかし、かつての自分と同じような地位である見合い相手は、尊敬できる部分などなにもない人でした。それは自分がそのまま仕事を続けていれば、そうなったかもしれない姿です。一方で、居酒屋の店主は、総合職という「私」の価値観からすれば、劣った人間です。それでも「私」は彼の仕事観を聞き、心動かされるのです。仕事に対する姿勢を考える作品なのでしょう。


仕事している方には自分を振り返られる作品でしょうか。そんなに激しく働いていないので、いまいち分かりませんが、いかがなものかしらん。正直、ピンときませんでした。話の筋としては分かりますが、ぼんやりしたものがぼんやりしたままで終わってしまいました。もちろん、自分で考え、深める時間が少ないというのもあってのことなのでしょうが。
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by nino84 | 2009-02-24 22:18 | 読書メモ

「戦いの今日」

「戦いの今日」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

かれと弟は、かれの友人から受け取った反戦のパンフレットを米兵に配ってまわっていた。そんな折、かれらはひとりの娼婦と接触し、ある米兵が脱走するのを手助けして欲しいと頼まれる。かれらは迷いながらもそれを実行し、米兵を自宅へとかくまう。


『死者の奢り・飼育』もやっとこ最後の収録作品となりました。ですが、やはり随分前に呼んだ作品であることもあり、プロットを思い出せても、そこに付随する細かな感情などを十分に思い出せない自分がいます。「戦いの今日」が収録作品のなかではそこそこ長い作品であることで、丁寧に読み返す気も起きないというのもあって、斜め読みして思い出した筋をたよりに以下かいていこうと思います。

さて、本作の主人公「かれ」は、弟とともに生活する青年です。彼は政治的な主義・主張は何も持ち合わせていませんが、友人から渡されたパンフレットを配り、さらに米兵の脱走を手伝うに至ります。こうした行為は、それ自体が反戦の行為であって、朝鮮戦争当時の情勢から言えば、逮捕されて然るべきものです。
したがって、彼は米兵の脱走を持ちかけられたとき、その対応に苦慮します。それでも乗りかかった船からは、そう簡単に逃れられません。パンフレットの背後にいる集団が、かくまうことはできないといえば、そのパンフレットからでる行為の責任の一旦は「かれ」らにもあるのだから、結局、それを引き受けてしまうのです。貧乏な「かれ」らに米兵をかくまえる場所などそれほどあるはずもありません。結局、彼らは自宅に日本人の娼婦と連れの米兵とをかくまうことになってしまうのです。

脱走当初は連れ戻されることに怯えていた米兵アシュレイですが、時がたつに連れて、その恐怖を忘れていきます。緊張感を長く保つことは、エネルギーを使うことであって、それは難しいものです。そうした結果として、アシュレイを家から出られないことに対する倦怠が襲います。加えて、駐屯地からアシュレイの所属していた隊がいなくなった―朝鮮へいったのか、本国へ戻ったのかは分からない―ことも手伝い、アシュレイは兄弟と外出します。
兄弟はアシュレイの行動が無鉄砲だとは思いながらもそれを容認します。そしてともに映画をみ、ともに酒を飲みます。

アシュレイの行動は「賭け」でした。アメリカの田舎から出てきて、軍隊に志願したことが賭けなら、その軍隊が戦争に行くのかどうかわからないままで、脱走したことも賭けです。彼はその賭けに、感覚として、ことごとく負けたといえます。アメリカの田舎からでてきて、軍隊に入ったら戦争に駆り出され、日本に派遣される。そこで戦争はいやだと脱走してみたら、隊はどこかへいってしまう。軍隊に入らなかったら、脱走しなければ―。少なくとも今、拘束されることに怯えながらどこに行くこともできずに日々を暮らすようなことはなく、ジャップにかくまってもらうという屈辱を味わうことなく、映画も胸をはって見に行くことができたはず。そんな気持ちが彼の中で湧き起こります。
負けつづけた賭け。それでも、彼は賭けに勝とうと、酒場で弟を相手に賭けをします。そして彼は、その賭けに勝った瞬間に、それまでの負けの鬱憤を晴らすのです。その一度の勝ちが、彼にまた賭けつづける勇気を与えます。ただしその勇気には冷静な思考は働いておらず、大部分が誇大感であって、無茶と隣り合わせのものです。世話になっている兄弟を見下す、連れの娼婦を見下す。それは、世間から隠れながら、自分のアメリカ人としてのプライドを保持できるか、という賭けです。結局、やってみればその賭けは負けに終わり、彼は兄弟の家に居場所を失い、出て行くしかなくなります。

一方、「かれ」としては、アシュレイを隠しとおしたいという思いと、この重責から逃れたいという思いの二つが絶えず続いていきます。しかし、「かれ」は賭けません。決して重責から逃れられる「かもしれない」からと、リスクを犯すことはしません。アシュレイを自宅に招くのだし、酒場で馬鹿にされても彼をかくまいつづけるのです。「かれ」の行動には常に責任がつきまとっており、彼はそれを放棄することをしません。パンフレットを配ったという考えなしの行動が招いた責任、その全てを彼は抱えていこうとするのです。だから、彼の中には二つの相反する思いが渦巻いています。

アシュレイには、自分の招いた責任を全うしようという考えはありません。その場その場で賭けるのです。その結果、その行動には一貫性がなくなり、最後に一旦自首をしようとしながら、逃げるという行為に及びます。自首をするなら、きっぱりしなければならなかった。逃げつづけるなら逃げつづけなければいけなかったのです。それぞれのリスクを考える時間はあったはずなのに、彼は自分でその時間のタイムリミットを作ってしまった。その結果が、中途半端な行動に現れてきます。


ここまで書きながら、読みながら書いてきましたが、自分の中で作品のキーワードが見つかって、それなりの形になってよかったです。「賭け」というのがキーワードになっているのかな、と思って書きました。斜め読みでそこが目に付いたのでとりあえず飛びついてみましたが、「かれ」とアシュレイとがうまく対比されているように考えられているのかな、と思いました。
ただ「かれ」の行動も、アシュレイの行動もいずれも人間らしいものなのでしょう。もともと人間はアシュレイのように脆弱な存在であるともいえるし、その脆弱さのなかでしかし「かれ」のようにその弱さをなんとか抱えていくこともできえると思います。「かれ」自身もそれほど自分の行動を割り切れているわけではないのであって、悩む姿が多く描かれ、弱さが描かれており、その強さが強調されているわけではないのが、面白いですね。
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by nino84 | 2009-02-22 12:04 | 読書メモ

「不意の唖」

「不意の唖」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

米兵と通訳を乗せたジープが谷間の村にやってきた。彼らはその村でしばしの休息をとり、夕方には村から出発するつもりでいた。しかし、昼間の川遊びの際に、通訳の靴がなくなってしまう。通訳は、それを見つけようと躍起になるが、村の人々はその靴の行方を知らないという。


昨日に引き続き、大江健三郎さんの作品です。今回も米兵がらみのお話です。ただ、話の中心は通訳であり、米兵の威を借りる通訳が、なにかと村人にくってかかるというのが大筋になっています。

戦後の日本の人々にとって、進駐軍が喜んで受けれられたわけがないことは容易に想像がつきます。彼らは征服者なのですから、彼らに対する感情は恐れであったり、反感であったりするはずです。もちろん、力負けすることは目に見えているわけで、したがって反感を表にあらわすわけにはいかないのですから、彼らへの対応は素っ気ないものになりえましょう。
米兵に対してはそのように服従することは、敗戦国の国民として仕方のない対応でありましょう。しかし、日本人である通訳についてはどうでしょうか。彼は、見た目においてから、米兵たちとは違います。米兵たちが力強い姿である一方で、通訳の体型は貧相であるのです。それでもって彼は米兵と同じ権利を主張します。訪れた村で、通訳は米兵と同じ立場で村人たちと接するのです。
はたしてそれは村人たちの感情として受けられるでしょうか?通訳は、村人と同じ立場でいることもかのうであったはずですが、そうはしませんでした。彼は、米兵といっしょにいる私という存在を、少なくとも村人よりは上であるとその態度で表します。それはしかし、村人にとって、感覚的に受けいれられるものではないでしょう。すなわち、村人は米兵の姿そのものから、自分たち以上の力を感じます。それが彼らの反発を抑えている要因のひとつでしょう。しかし、村人は通訳の姿からその米兵から感じたような力を感じられません。むしろ、手に職をつけ、日々肉体労働を続ける自分たちの方が、通訳よりよほど力があると思ったかもしれません。通訳は、その姿においても、立場においても、村人の負の感情を抑えつけるほどの力を持ち得ません。

そんな状況のなかで通訳の靴がなくなるという事件が起きます。米兵以下、村人より上の立場であると自負している通訳としては、当然、村人たちに文句をもらします。そして、失った靴を探すようにと命令します。しかし、村人は彼一人の命令では動きません。結局、彼は米兵の力を借りて村人を動かすのです。
それは村人からすれば、許せない事態です。ただでさえ、通訳は、村人たちよりも上の立場であるように振る舞っています。そのうえ、振る舞っているだけにとどまらず、とうとう彼は他人の物理的な力を借りて、村人を屈服させてしまいました。振る舞っているだけであれば、それは観念的なものであって、あからさまにならない部分であり、したがってうやむやになってしまうことでしょう。しかし、彼は実際に動いてしまうのです。その行動は、彼が米兵という他人の力を借りなければ村人の優位に立てないことを証明することです。

端的に言えば、虎の威を借る狐、その末路、といえましょう。見た目があらわすものというのは、やはり感覚的に従わせるような力があるのだろうと思えます。「もっとも優れた武士は刀を抜かない」、これも、実際的な力を示さなくとも、感覚的に制圧できうるということをしめしていましょう。本作は、人間には形式的なものだけでは納得し得ないものがある、ということを描いており、納得できる話かな、と思いました。
その感覚的なところを描く描き方が絵として印象的に描かれており―主に川遊びの場面による―、書き表すことに説得力があるのが、この作品のすばらしさといえるのかな、と思えます。
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by nino84 | 2009-02-21 22:02 | 読書メモ

「人間の羊」

「人間の羊」(大江健三郎,『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

バスに乗ると,米兵の女が,僕の方に寄ってき,連れの米兵を挑発する。米兵は僕を座席から立たせ,下穿きを剥ぎ取る。他の乗客も数人そのようにされ,羊撃ち,羊撃ち,とはやしたてられながら,僕らはひたすらそれに耐えた。
米兵らが去ると,傍観してた乗客が僕に声をかける。曰く,彼らを告発するべきだ。



『死者の奢り・飼育』にかえってきました。手元に本が戻ってきたので,さっと書いておこうかと思います。随分前に読んだ作品ですが,短編なのでそれほど時間がかからず読み直せるのが救いです。これを書くにあたって,さらっと読み直しました。

さて,本作はバスの中で起こった事件の扱いをめぐるお話です。犯罪被害者の心中という感じでしょうか。
主人公「僕」は,米兵によって辱められた被害者です。しかし,そのバスのなかには,巻き込まれなかった人もいます。彼らはもちろん被害者ではありません。ただの傍観者です。
彼らは米兵が「僕」らを虐めている間,決して関わろうとしませんでした。米兵はそのバスのなかではもっとも力をもつものであり,したがって,それに抵抗することは被害者の仲間入りをすることだという計算が働いたものと考えられます。しかし,米兵がその場から消えると,一転彼らは動き出し,社会的な正義を標榜しながら,被害者たちに告発を勧めます。
告発するということは,起こったことを公にするということです。それは「僕」らにとって屈辱でしかありません。しかし,傍観者たちは,それを考慮しません。誰か一人が犠牲にならなければいけないのだとさえいいます。傍観者にしてみれば,被害者の屈辱という感情よりも,米兵に対する鬱憤を晴らしたいというあくまで自らの感情が優先されるのです。そして,米兵に対するその感情は,被害者にも当然あるだろう,というように接してくるのです。彼らはその感情に優るものがあるという可能性を考慮しません。誰か一人が犠牲にならなければ,というのは,被害者の屈辱はある程度認めながら,しかし,それ以上の感情が「僕」の中にあるはずだということでしょう。
同じ立場の被害者がそうしたことをいう,あるいは彼らが傍観者でなく米兵に対し行動し,関係者になったならともかく,ただの傍観者であった彼らにそれをいう資格はないように思えます。

傍観者の被害者への働きかけは,彼らに事件のことを思い出させるという体験を繰り返させるだけであり,被害者を2次的に傷つけるものでありましょう。


短編でコンパクトにまとまっていることに加え,印象的な場面がありますから,―これをこうしろと訴えているのではありませんが,こういうことがありうるだろうという―主張の強い作品に仕上がっていると思います。
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by nino84 | 2009-02-20 11:41 | 読書メモ

『Op. ローズダスト』

『Op. ローズダスト 上・中・下』(福井晴敏、文春文庫)を読みました。

赤坂フォルクスビルの地下駐車場の爆破事件。その被害者はインターネット財閥とよばれるアクト・グループのグループ会社の管理職であった。公安4課に所属する並河は、現場に出向き、市ヶ谷に所属する青年と出会う。彼らは爆破事件の犯人を追う。


『神曲』を一旦読み終わり、次はこれ。というわけで、福井晴敏さんの長編小説です。文庫化されたので、上・中・下の三分冊になりました。『亡国のイージス』あたりからでしょうか、相変わらず長いです。長いのですが、展開が早く、山場も多く用意されているため、どんどん読み進めてしまいます。

さて、今作は日本の首都東京を戦場に、テロリストと警察、自衛隊の面々が戦いを繰り広げるという作品です。作品としては『川の深さは』から続く、日本を舞台に警察、自衛隊が奮闘するという同じ形の作品ということになるでしょうか。世界観は、『亡国のイージス』までの一連の作品とつながっているような、いないような、という様子です。ダイスとよばれる防衛庁(作品発表当時は未だ防衛庁だったため)の非公開組織が登場したり、その連隊名に729という如月行(『亡国のイージス』の主人公)のIDが使われていたり、Tプラス(『亡国のイージス』におけるキーアイテム)の名前が登場したりするくらいでしょうか。登場人物は、覚えている限りにおいてはかぶっていないように思います。いずれも『亡国のイージス』までの一連の作品ほどには物語の核心に関連はありません。『亡国のイージス』における辺野古ディストラクション(『Twelve Y.O.』で描かれた事件)ほど深く関連してはいないため、全く気にせずよむことができるでしょう。福井さんの他の作品を知っていれば、ニヤリとできるかとは思います。
今作の舞台はいよいよ、町中、東京の臨海副都心ですし、相手はテロリストということで、時勢柄もあり、いままでの作品以上に、日本で戦争だ!という雰囲気が伝わってきます。フジテレビがどう、とか青海埠頭がどうといわれると、想像しやすいというのが大きいのだとも思います。あと、個人的には、「After」でのフジテレビのアナウンサーとコメンテーターのやりとり(?)が非常に好きです。


ところで、福井さんの作品の魅力は、なんといってもある状況のなかにおける個人を描けるところだと思います。『亡国のイージス』しかり、『終戦のローレライ』しかり。体制を変革しかねない事件や戦争という奔流のなかでもがき苦しむ人、そのなかで変化していく心を描いてくれます。また、主人公は、青年と中年のオヤジ。これもまた福井さんの作品のお約束となりつつあります。オヤジが捻くれた少年の導き手となる、という構図です。本作では、オヤジ=並河、青年=丹原という形になっています。ある意味でお約束だらけで、おもしろいのか、といわれるのかもしれませんが、その形でハマッてしまっていると違和感はありません。
ひな形が同じ作品を描いていくというのでは、ダン・ブラウンさんの作品と近いところがあるのかもしれません。ただ、背景がかなり違います。ダン・ブラウンさんの作品は、『天使と悪魔』においてイルミナティという結社が出てきますが、それは集団という色が強く、その中の個人にはあまり焦点が向いていないように思えました。一方の福井さんの作品は、ダイスという組織、警察という組織を描くにあたっても、そのなかにある個人の感情の動き、葛藤が描かれることが多いと思えます。ダン・ブラウンさんの描く秘密結社は、完璧な意志によって動く組織です。しかし、福井さんの描く組織は決して一枚岩ではない。上意下達の組織でありながら、そのなかで葛藤する個がいる。そうした群像としての組織が描かれます。
その組織の描き方は、ガンダム的な手法でもあります。『機動戦士ガンダム』(富野由悠季)では、すなわち、ジオン・ダイクンの思想をもとに組み立てられた国、ジオン軍と地球を(無理矢理)まとめた組織である地球連邦軍との戦いを背景としながら、そこに巻き込まれる青年たちを描いていきます。ジオン軍も連邦軍も一枚岩ではなく、そのなかでの葛藤が描かれます。それはその続編の『機動戦士Zガンダム』などでも変わりません。福井さんの作品も、そうしたところがあります。
もともと福井さんんがガンダムという作品のファンであるということもあり、親和性はいいのでしょう。彼は『月に繭、地には果実(ターンエーガンダム改題)』や『ガンダムUC』といったガンダム作品を描いています。特に前者は原作者、富野由悠季さんが直々にノベライズを頼んだという逸話もあります。富野さん自身も自分が描きたいものを描いてくれる人という認識をもっていることをうかがわせる話です。
ちなみに、福井さんの作品は、総じて富野さんの作品よりも格段に読みやすい―富野さんの作品が読みにくいという話はままあります―ので、そこはやはり小説家とアニメーターとの違いでしょう。富野さんの小説作品は、人の葛藤は描くものの、そこに足される背景としての組織の成り立ちなどの設定をながながと説明するように描いてしまうようなところがあります。『機動戦士ガンダムF91』の上巻はそういう点において壮絶です。そのあたりの総体として、いわゆる「トミノ節」という独特な言葉遣いによる文章が生まれてきます。福井作品にも組織の詳細を描く部分はありますが、山場のつくりかたによってそれを巧みに読ませるところがあります。そこには強いクセ(アク?)はありません。そんなわけで、福井さんの作品というのは、私にとってはとても読みやすい作品なのです。

作品自体の話とはだいぶ離れてしまったようにも思いますが、私が福井さんの作品全般を好きな理由でした。結局、集団の中で生きている人、というのが私のなかでフィットするところがあるようです。主人公がヒーローである必要は個人的には必ずしもないのですが、最近は本の雰囲気が現実生活に影響を与えるようになってきている部分があるようなので、主人公はどのような形であれエネルギーがある方が私の健康のためには良さそうです。
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by nino84 | 2009-02-18 22:44 | 読書メモ

『神曲 煉獄篇』

『神曲 煉獄篇』(ダンテ、平川祐弘訳、河出文庫)を読みました。

地獄の第1圏谷を抜け、地球の裏側へ出たダンテとヴェルギリウス。そこは7つの環道からなる煉獄山がそびえ立つ煉獄であった。天国行きを保証された亡者はそこで現世の罪を償うのである。
ダンテはヴェルギリウスと共に、煉獄山を登り始めた。


先回に引き続き、『神曲』の2冊目です。今回は、煉獄篇です。煉獄とは、地獄と同様、「獄」という漢字が用いられているものの、地獄のように暗黒の世界ではありません。確かに、亡者たちが各層ごとに、なんらかの方法で苦しめられてはいます。しかし、煉獄は、地獄のように罪を罰するための世界ではなく、罪を償うための世界です。そんな世界をダンテとヴェルギリウスがめぐることになるのが、この第2巻です。
なにかとダンテの時代のイタリアの話がでてくるために、註がなければ―あっても、他の部分との関連も多く、もはや分からない部分もありますが―さっぱり分からない話が増えてきてしまっているように思います。次々と固有名詞がでてきますが、半分以上は分かりません。

そんな『神曲 煉獄篇』は、『神曲 地獄篇』に比べると、インパクトには欠けるように思います。ただ、『地獄篇』では、ミノスに始まり、ミノタウロスやケンタウロスなどギリシャ・ローマ神話で有名な異形の怪物たちが数多くでてきましたから、それにくらべればやはり印象の薄さは否めません。鬼の代わりに天使が多くでてはきますが、ミノスらのインパクトには勝てません。
ただ、読んでいての苦しさは『地獄篇』よりもあったように思えます。『煉獄篇』が『地獄篇』の続編ですから、それだけの積み重ねのために、苦しくなってくるのは当然といえるのかもしれません。その要因はありながら、しかし先のインパクトという観点からみると、『地獄篇』が怪物らによる非現実世界の印象が強い一方で、『煉獄篇』は―方法はもちろん非現実的なものですが―前者に比べれば非現実という印象は薄く、我が身に迫ってくる感じがあったのかもしれません。
現実の生活に余裕がなくなってきたために、読書からの影響が出やすかったという面もあるのかもしれません。

「困っている人が助けを乞うまで手を拱いている人は/実はもともと助ける気がない意地悪な人たちだ。」(煉17歌59、60行)

この部分を思わずチェックをしました。このあたりに付箋をはってしまうあたり、やはり現実世界での余裕のなさを感じなくはありません。


ところで、山登りの途中で、スタティウスという詩人がダンテの一行に加わります。ダンテとヴェルギリウスの二人旅という印象が強かったのですが、百聞は一見に如かず、ということでしょうか、基本的なところで知らないことが多いものです。

さて、最後は『天国篇』です。いつ出版になるのでしょうかね。
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by nino84 | 2009-02-15 20:11 | 読書メモ

『神曲 地獄篇』

『神曲 地獄篇』(ダンテ、平川裕弘訳、河出文庫)を読みました。

1300年春、ダンテは詩人ウェルギリウスに導かれ、地獄を旅する。地獄の門をくぐり、9つの圏谷(たに)をめぐる。その中で、彼は現世で罪を犯した亡者たちをながめ、鬼たちをみる。


誰もが知ってる長編詩、『神曲』を読み始めました。河出文庫から、地獄篇、煉獄篇、天国篇の3分冊で順次刊行されるようで、現在2巻の煉獄篇まで店頭に並んでいます。読みたい作品ではあったものの、なかなか敷居が高くて取り組めなかったのですが、この新刊行の機会にと思い、読み始めました。
実は、カバー絵に引かれて買った部分もあります。表紙のルカ・シニョレルリの絵が綺麗です。

さて、そんな『神曲』ですが、まずは1冊、地獄篇を読み終わりました。一度にまとめて書いてもいいのですが、いかんせん作品が長いのです。そのため読む時間が掛かりそうでしたので、忘れる部分が大きいかな、という恐れから、1巻ずつまとめておこうと思います。

地獄篇では、ダンテがウェルギリウスと出会い、彼とともに9つある地獄の圏谷を巡り、地獄を抜けるところまでが描かれます。ちなみに、『神曲』は、あくまで詩であって、地獄篇は34歌からなります。詩であることから、言葉や表現にキレがあり、次々に場面が展開していくと同時に、それぞれの場面が印象深く描かれています。
詩の訳出モノということですが、原作の読めない私は、日本語版がどれほど原作の雰囲気を伝えているのか分かりません。ただ、非常に平易な言葉でかかれており、しかも〔〕書きで、語句が補われており、非常に読みやすくなっています。個人的には、意味がわかることと、とっつきやすさが重要であると思いますから、読みやすさを意図されたこうした訳出は、非常にうれしいものです。

閑話休題―。本作は、ルネサンス期に描かれた作品ということで、当時のイタリアの有力者が登場するのと同時に、古代ギリシャ・ローマ時代の著名人が次々とあらわれてきます。ダンテは、案内役のウェルギリウスをはじめ、地獄の第1層、辺獄(リンボ)では、ホメロスやプラトン、アリストテレスらに出会います。そして、そうした出会いを繰り返し、地獄をくだっていき第9層では、ブルトゥスなどの姿を見ることになります。
それにしても、まずは地獄の説明をすることにしましょう。地獄では、人が生前に犯した罪によってそれぞれの居場所が決まり、より重い罪を犯した魂がより下の層に送られます。辺獄には、善良だがキリスト教の洗礼を受けなかったものたちが送られます。それより下層では、ミノスの判決により、第2層には肉欲の罪を犯したものが、第3層には大食のものが、第4層には吝嗇家と浪費家が、といったようにそれぞれ送られているのです。そして、それぞれの層では生前の罪に応じて―目には目を歯には歯をの精神に則って―亡者が永遠の呵責をうけているのです。

地獄の第1層の罪を見ると分かるかと思いますが、この作品はキリスト教の世界観が色濃く反映されています。キリスト教の洗礼を受けなければ、それだけで罪であるのです。すると当然、キリスト以前の者たちは地獄に送られることになります。また、第5層には街が登場しますが、その街のシンボルはイスラム教の寺院であるモスクの形をしています。徹底して、キリスト教中心の世界を描いているのです。
その一方で、ダンテは案内人にウェルギリウスを用いるなど、古代のギリシャ・ローマの人々への尊敬の念ももっているようです。それはまさしくルネサンスの精神といえるものでしょう。
古代ギリシャ・ローマ文化の取り込みは、そうした人々の思想だけでなく、その神話さえも取り込んでいます。例えば、先のミノスは、古代ギリシャの神話に登場する牛頭人身のもののけですし、第3層に登場するケルベロスもやはり古代の神話に登場する怪物です。ダンテは、そうしたものを取り入れながら、最下層に座するベルゼブルはじめ、聖書に登場するものたちも描いてます。キリスト教文化と古代ギリシャ・ローマ文化を統合して地獄というひとつの世界を描き出すことができているのではないでしょうか。

これほどに構成的な地獄を思い描き、それに加えてそれぞれの層で印象深いエピソードを残していくということで、一読しただけで多くの要素を感じられる作品になっています。そして、そうした多くの要素が感じられながらも、先述のとおり文章は―訳出の影響がありますが―スラスラと読める平易さをもっています。全編を通してだけでなく、ピンポイントで部分的に読み返したくなる作品になっています。
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by nino84 | 2009-02-09 00:27 | 読書メモ
『ゴシック&ロリータ幻想劇場』(大槻ケンヂ、角川文庫)を読みました。

エリザベス・カラーを首に巻いた少女たちがこの世界に解き放たれた―。
彼女らは、しかし、ペテルブルグの歴史改竄主義者たちによって射殺されていった。彼女らの屍と血の海と、そして色とりどりのエリザベス・カラー。それらは1万年の時を超えても、美しさを保っていた…。
(「巻頭歌―エリザベス・カラーの散文詩」より)


久しぶりの更新のような、そうでもないような。前回がピエール・クロソウスキーの難解なものであっただけに、スッキリサッパリ読めるものをと思い、少し違った方向の作品を手にとって見ました。

さて、本作の著者は、大槻ケンヂさん。筋肉少女帯などで音楽活動をしている方です。同時に著作活動もしており、個人的には『グミ・チョコレート・パイン』などが有名かなと思っています。しかし、私はいずれの作品も読んだことはなく、彼の作品を読むのは今回が初めてになります。
本作を読んだ印象は、一言でいえば、乙女的な雰囲気だな、というものです。本作が「ゴシック&ロリータバイブル」という少女ファッション誌に掲載されていたということもあってのことかとは思いますが、乙女の儚さというか、そういうものが感じられます。ただ、それと同時に、やはり男性だからか、切れ味の鋭さももっているかな、という印象です。どこか嶽本のばらさんに似た部分もありながら、彼よりも割り切る感じがあり、物理的な意味で攻撃的な感じがしました。

さて、本作は短編集ではあるのですが、それぞれが非常に短く、それが20作も収録されています。単純に今までの方法でこれを取り上げていくと、20日かかります。なかなか時間がとれないということもあるので、今回はまとめて書こうと思います。

雑誌に掲載されていたから、ということもあるのでしょうが、本作の主人公はそのほとんどがフリフリの格好をした少女たちになっています。その少女たちは、彼女らなりの悩みを抱えています。それは、子どもとは違ってきたけれど、大人にまでは至らない、そんな微妙な乙女のものです。端的に言ってしまえば、多くは恋であったり、夢であったりするのです。
その悩みを一見して見えないようにするために、描かれる彼女たちはその姿をもって武装します。世間とはすこしズレた格好をすることで、現実と相対しないようにしているのでしょう。それでも、彼女らは現実に生きていて、悩みを抱えています。ただ、彼女らは、それを現実とすりあわせることをどこか拒んでいて、そのためにむしろ純であったりします。
そして、それが非現実的な出来事のなかであらわになるのです。「妖精対弓道部」、「戦国バレンタインデー」、「爆殺少女人形舞壱号」、「ギター泥棒」、「ユーシューカンの桜子さん」、「ゴスロリ専門風俗店の七曲町子」、「おっかけ屋さん」、「ぼくらのロマン飛行」がそのような作品。そして、そうした悩みをかつてやり過ごしてきた、大人たちを描いているのが、「メリークリスマス薔薇香」、「夢だけが人生のすべて」、「新宿御苑」といった作品と括ることができるかと思います。

自分の弱さを受け止められる人は、すばらしい人です。しかし、それは自分が弱いことを認めることですから、難しいと言わざるを得ません。しかし、それをしなければならない時もあります。直截的にこう書いてしまうと、身も蓋もないのですが、そうしたことにつまずく、その多くは、やはり本作の主人公のような年齢の人たちでありましょう。それこそ恋などの人間関係の悩みがでてくる年頃ですし、それらに対する解決策は、常に正しいものなどなく、思い通りにならないこともでてくるのですから。
それを正面から描くとなれば、それを乗り越えるというプロセスは直面化して乗り越えるというものになりがちです。しかし、それは多くの人にとって、現実味がない場合があります。すべてのひとが直面化できるわけではないからです。あえて現実的でない場面で、それをあらわすと、それはすこし違ったかたちであらわれることになります。その問題自体が現実的なものであっても、現実味は薄れるように思えます。本作は、現実からかけ離れた場面設定が多くでてきますが、そのなかで扱われるテーマはあり得そうなものです。変化球が好きなら、こんな感じもありでしょう。

ちなみに、個人的には、「ギター泥棒」、「ボクがもらわれた日」がヒットでした。前者は、オチが一種ベタではあるけど、キレイにおちています。また、後者は、主人公=イヌなのが卑怯です。想像するとかわいい。ちなみに、オチは、なんとなく大槻さんらしいな、と思ったりしました。
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by nino84 | 2009-02-06 18:53 | 読書メモ