本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「生きてるだけで、愛」

「生きてるだけで、愛」(本谷有希子、『生きてるだけで、愛』新潮文庫収録)を読みました。

あたしは最近、鬱はいってて、眠くて仕方がない。ネットで検索したら、過眠症というらしい。そんなでも、あたしは津奈木と同棲している。でも、津奈木はいっつもあたしを放っておくし、そりゃ、あたしは寝たいし、そんなときに声かけられてもウザいけどさ。津奈木があたしをないがしろにして、楽してるのは耐えらんない。いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなぁ。

1週間は早いですね。この間、「キッチン」の感想を書いたと思ったら、もうその週の週末です。

閑話休題。さて、今作、なんでも芥川賞候補になった作品だそうです。特別に、賞の名前で本を読むわけではありませんが、芥川賞は短編、中編がそのメインの候補作となるので、良作の一つの目安として、活用させてもらっています。新しい著者の作品というのは、人から勧められない限り、手にとるのは難しいですからね。

そんな本作ですが、内容は、どこか金原ひとみさんの作品を彷彿とさせます。俗に言う「メンヘル」(メンタルヘルスを害している人たち…という表現が正しいのか、どうなのか。おおよそこうした意味でネット上では使われているよう)を主役にした作品です。金原作品ではそれが直接表現されることはないですが、本作では「メンヘル」という言葉も登場し、直截的に描かれます。
以前に金原さんの作品のいずれかを読んだ際にも感想に書きましたが、現代は、こういう作品が描かれ、そして大衆に読まれる時代なんですよね。私見ですが、結局、神経症レベルの症状(所謂アパシー的なもの)は、(そこそこ相談すれば)解消する(この表現が妥当だとは思わないが、)という認識が社会に生まれつつあるように思います。そういう社会レベルの認識の変化は、もちろん個々人の認識のレベルが全体的に深化していることをさしているでしょう。そうした意識の深まりはすなわち、自分の(あくまで神経症レベルの)問題に意識を向けることを促進します。自分の姿を客観的に眺めることができれば、それだけ解決作も自ら立てやすいと考えられ、そのレベルの病理は勝手に解消されていく可能性が高くなっていきます。
客観視の例として、最近では、中学2年生くらいの心性を「中二病」と称していることが挙げられます。これは専門家がどうこういうのではなくて、社会が中学2年生くらいはこういうものだという認識が生まれていることに他なりません。そのため、中学2年生が自己の心性を知るということは、発達の最近接領域ですから、ふとしたことで、自分の状況を認識しやすくはなっているはずです。その結果、妙に聞き分けのいいどこかスレた中学生や、逆によりその心性を高めるように深みにはまっていく中学生がうまれたりするのでは、と考えたりします。
話を戻せば、結局、神経症レベルの問題は、社会に認識されていくことで、独力で解消する、あるいは逆に深みにはまっていくというどちらの可能性をも増加させたといえるのではないでしょうか。もちろん、誤解のないようにいっておけば、私は誰も彼もがそのように移行するのだ、とは思っていません。それは個別性が高いことだと思えます。

私見はこれくらいにしておきます。とにかく、神経症レベルの人たちの悩みはこれまでの時代の文学で描かれつづけてきたといっていいわけです。合理的に考えて、悩んでいることが読者に納得され、客観的に矛盾のない考えで行動し、その結果として問題を解消したり、問題に飲み込まれたりする主人公を文学は書きつづけてきたのです。
しかし、最近はそうでもない印象をうけます。すなわち、了解不能な考えで行動する主人公が多いように思います。本作もそんな作品で、主人公はただの鬱ではなさそうな感じがします。もちろん、主人公は著者の創造ですから、このように振舞う人間がいるとは断言できません。ただ、作品の中でキャラクタ―として存在できている以上、おそらく現実にも存在し得るでしょう。

…大変です。まとまらなくなってきました。今更ながら、書きなぐれる話ではなかったな、と思います。以下、本作の内容に触れて、無理やりまとめとします。

「いいなあ津奈木。あたしと別れられて、いいなぁ。」
結局、この作品はこれに尽きると思います。自分は自分をやめられない。自分がどれだけ理不尽か、わかっちゃいるけど、やめられない。その悲しさ。でも、それを受け止めてくれる人がいたら、それはとてもうれしいことではないでしょうか。とはいえ、自分でもわからない状態をなんで他人が分かるのか、分かるわけがないと思っている人ですから、体験として、人から分かってもらえた瞬間はすごく貴重な一瞬だろうと、想像します。なんとなく。
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by nino84 | 2009-04-26 00:57 | 読書メモ

「キッチン」

「キッチン」(吉本ばなな、『キッチン』新潮文庫収録)を読みました。

私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。世話をしてくれていた祖母が死んで、私は誘われるまま大学の同級生であり、祖母の知り合いであった田辺雄一の家に招かれた。彼の家の台所はとてもいい台所だった。彼の父であり母と、雄一と私。奇妙な3人の暮らしが始まった。

久しぶりの更新になりました。一度書かなくなると、ダメですね。復帰に時間が掛かります。2、3週間、放っておいてしまって、なんだか、記憶が消えつつありますが、とりあえず、書いてみます。本書はベスト・セラーになったので、説明もあまりいらないでしょう。まだ読んでいなかったので、いまさらですが、とりあえず読んでみようと、ふと思い立ちました。

さて、本作の主人公、「私」は祖母をなくし、身寄りをなくしてしまいます。そんななかで、田辺雄一に誘われて、彼の自宅で母と3人の共同生活に入ります。彼の母は、母とといっても、戸籍上は父親で、妻に先立たれて、他の人を愛することはないからと、女性になった人です。
彼らはとてもやさしく、穏やかで、「私」の元彼、宗太郎のもつやさしさとは別種の安らぎを「私」に与えてくています。「私」が欲しているのは、安らかな時間であって、社会の中で上手く生きていくということではないのでしょう。宗太郎ならば、新しいアパートを探して、大学に通わせて、ということをするだろうと、「私」は思います。でも、雄一たちはそのようなことはしません。ただ、家にいさせてくれる。「私」が身寄りを失い、喪に服する時間を、彼らは保障してくれるのです。その安らぎのなかで、「私」は少しずつ立ち直ってきます。

「人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの」、雄一の母、えり子はいいます。「私」はそれが「わかる気がする」といい、祖母をなつかしむのでした。

喪の作業というのは、必要なんですよね、きっと。でも、それを社会は許してくれない。もちろん、忌引きという形で、通夜と葬式くらいはさせてくれるけれど、それはそれだけのことです。それは通過儀礼であって、それでもって、すべての幕が引けるというわけではない。人を失うという喪失感をやりくりできるようになるまで、本来なら時間をかけるべきなのでしょう。日々に追われ、喪に服することを忘れてしまった現代の悲しさを感じずにはいられません。本作にただようやわらかさは、それをつかの間でも与えてくれるものであったと思えます。
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by nino84 | 2009-04-19 22:50 | 読書メモ