本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『サマーウォーズ』

『サマーウォーズ』を観ました。

数学オリンピック日本代表にあと一歩だった高校生、健二は、物理部の先輩、夏希からバイトをお願いされる。東京駅に呼び出され、たどり着いた先は、夏希の実家。曰く、「大おばあちゃんの誕生日で、一族が集まるの」。曰く、「私の彼氏の振りをしてくれない?」。
ごまかしながらも、なんとか彼氏の振りを続けた一日を終え、眠ろうとする健二に一通のメールが届く。そこには2000文字を超える数字の羅列。暗号。健二はそれを一心不乱に解き、回答を返信し、眠りについた。
――翌朝、世界最大の登録人数を誇るネットサービスOZが変調をきたす。そしてその犯人としてテレビで報道されていたのは、健二その人だった。



本作は『時をかける少女』以来の細田守さんの監督作品です。ただ、ネットが舞台になってたりと、どちらかというと、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』に近いかな、という感じもありました。細田さんのネットの描写はポップな感じがするビジュアル的にも、別に良いとか悪いとか評価を伴わない感じも好きです。

さて、本作は、陣内家の人々を中心に話が進みます。陣内家は代々続く旧家で、大ばあちゃんを筆頭に、孫、ひ孫の代まで20名程の大家族です。本作では、大ばあちゃんの90歳の誕生日にあわせて、一家が集まってくる、ということで、その20名程が上田にある大ばあちゃんの家に一同に会します。そのなかに夏希もおり、そして、夏希は最近体調が優れないという大ばあちゃんを元気づけるために彼氏を連れていきたいと、バイト=健二を雇って、上田を訪れるのです。
20数名を超える神内家。上映時間中にすべての人の名前を覚えることはできませんでしたが、それでも、職業などで、意外とキャラがそれぞれきっちり立っているので、意外と違和感なく、楽しむことができました。
そして、そんな大家族のなかに突然放り込まれた健二。彼は数学オリンピック日本代表にあと一歩とどかなかった経歴の持ち主で、夏希に憧れる高校生です。所謂、文化系の冴えない男子高校生ですね。
そういえば、『時をかける少女』も高校生でしたが、なんとなくそちらの方が、もう少し大人びてたかな、という印象があります。前回は恋愛でしたが、今回は陣内家を中心に話が展開していくので、家族愛みたいなものがメインですし、そういうテーマの面での関連もあるのかもしれません。『Time waits for no one.』と、全作はかなり青春まっただなか!という感じがありましたしね。

そんな人たちが展開する『サマーウォーズ』。結論から言えば、かなり面白かった。アニメだから、というか、作品の性質上、現実は現実としてしっかり締める一方で、ネットの世界は自由に描けるので、そうした表現の幅によって、いろいろなものがストレートに表現されていて、わかりやすいのが大きい。
特に、現実世界では大ばあちゃんの存在が大きかった。大じいちゃん亡き後、陣内家を支えてきた彼女は、90歳になる今でも凛としていて、格好いい。彼女は陣内家の大黒柱として神内家を支えている。彼女を中心に陣内家は繋がっている。
そこに健二という他人が、表向きは夏希のフィアンセとして、入り込んでくるのである。他人である健二も、大ばあちゃんに認められることで、陣内家に自然にとけ込んでいくことができたのである。

ネット上でOZがトラブルを起こすと、ネット上で管理されたすべてのシステムが変調をきたす。都市機能はマヒし、飛行機は飛ばない。交通も完全にストップしてしまう。
こうした、ネットの危険性を表現した作品は多い。実際、細田さんにしても、『デジモン・アドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』でネットでのトラブルが現実世界に問題を引き起こす様を描いていた。細田さんは『デジモン』では家族というのは、重視せず、しかし、「ネット上でつながる人」というのを重視した―主人公が小学生ということもあり、友達通しのつながりというのが強調された。そうしてネットの可能性を示した。それはネットの善悪という話ではなく、ネットはあくまで道具だということである。電話回線―『デジモン』制作当時は電話回線でのネットが一般的であった―の向こう側にいる人と通じ合える、そういう可能性である。
そして、今作である。今作もネットを介しての現実世界のトラブル、というのを描きながらも、しかし、より現実世界のつながりを重視している。すなわち、一つ屋根の下にいる家族というつながりである。それに加えて、大ばあちゃんの生の声で日本中に繋がる関係である。OZのトラブルが生じた際、彼女は、自分の知人に片端から連絡し、ただ励ます。それがどのように影響したのかは分からないが、現実世界では死者はでず、問題は一応の落ち着きを取り戻す。実際、国レベルで考えたとき、彼女の電話の影響力は微々たるものだろう。
しかし、そうして電話をしつづける姿を実際に見た健二に与える影響は大きかった。だから、彼は翌日、できることはやるべき、と陣内家のなかで発言する。その発言は女たちに退けられるのだが、しかし、陣内家の一部の男たちを動かす。
大ばあちゃんがおこした波が、健二をうごかし、陣内家の男たちを動かし、そして陣内家全体を一つへとまとめていく。そして、OZである。そこはいまだ混乱の続く世界である。しかし、そこは世界と繋がっている。10億人と繋がれる場所である。陣内家から発した波がOZを通じて世界をつなげる。

こうしてみて、面白いのは、この時点で健二が人を繋ぐ以外の役割を果たしていないことである。OZをハッキングしたプログラムに対抗するためのスーパーコンピュータは、陣内家の男たちが用意するし、作戦の実行メインではアバター「キングカズマ」の所有者である陣内家の男の子が担当する。その後の「延長戦」でもメインは夏希である。
適材適所で、それぞれがそれぞれの役割をきちんと果たすことで、物語が展開していく。健二がその能力を生かして活躍するのは、物語の最後、世界が一応の平穏を取り戻した後である。それは世界を救うためというより、陣内家を救うためである。作品の中盤から最後まで、健二は大おばあちゃんのポジションにいた。彼は、ただひとりのよそ者でありながら、陣内家をつなぎ、陣内家を守るのである。
個人的には、健二が陣内家が家を捨てていこうとする中で、「まだ終わってない」とひとり家に残って危機に立ち向かおうとしていた場面が一番好きだ。2分でOZの暗号を3回解き、しかも最後は暗算(笑)。そんな自分の適材でもって、陣内家を救い、そして――すいません。ここまできたら結末までいきます。
詳細はともかく、結局、彼は陣内家に認められて、一員になるわけである。ここまで陣内家を繋いでおいて終わった瞬間に赤の他人では、テーマ―家族愛とか、人の繋がりの大切さとか、と少なくとも僕は観ていた―としてもねじれが生じるので、自然な帰結でしょう。その方法はともかくね。
そうやってみると、面白いのは、健二の立ち位置である。彼は最初、肩書きだけ陣内家の一員であった。つまり「夏希のフィアンセ」。しかし、その肩書きがなくなり、一度は陣内家を追い出される。その後、幸運にも戻ってこられた陣内家で、一緒に行動していく中で、彼は肩書きはないのに、陣内家の一員として自然に認められるのである。
本来、人間関係というのは、肩書きとかレッテルでやるわけではないはずである。しかし、そういうものがあった方が立場がはっきりしている分それをはかる必要はなく、その距離感が実際的に正しいかどうかはともかくとして、無駄なエネルギーは使わなくてすむ。そういう省エネな関係が横行しているなかでこういうエネルギー過多な関係づくりをストレートにみせられると、ハッとさせられる。
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by nino84 | 2009-08-13 00:31 | 視聴メモ

『1984年 [新訳版]』

『1984年 [新訳版]』(ジョージ・オーウェル、高橋和久訳、ハヤカワepi文庫)を読みました。

<ビッグ・ブラザー>率いる党が支配するオセアニア、ロンドン。1984年。ニューズピークという言葉により、異端を考えること自体が犯罪である世界。
ウィンストン・スミスは、真理省で過去の歴史を修正する仕事をしている。<ビッグ・ブラザー>は間違わない。彼の仕事は、起こってしまった事実につじつまを合わせ、過去の資料―新聞から雑誌まで―を修正することである。そうして、党は現在を支配し、過去を支配している。ウィンストンはそんな社会に不満をもち、ゴールドスタイン率いる反政府組織に惹かれていく。


村上春樹さんの『1Q84』が出版されてしばらくたちますが、そちらではなくジョージ・オーウェルを読みたくなるのが、ひねくれた私。実際には、村上さんの影響だけでなく、同時にある映像作家が次回作の着想に全体主義を描きたいという話の中で、ジョージ・オーウェルの作品を読んでいるという話をしていたのも影響しています。後者の影響がより大きいと思っています。

閑話休題。本作は、<ビッグ・ブラザー>を頭とする党に支配される世界を描いています。

その支配の一つの方法として、党はニューズピークという言葉を意図的に作り出し、言葉の数を減らし、意味を規制し、簡略化していきます。そうすることで人が党の考え<イングソック>以外の考えを上手くできないようにと画策しています。
そこでは<イングソック>以外の考え方はすべて「異端」であって、それ以上深まることはありません。それを考えることに意味がないからです。一方で、<イングソック>の教えに関しては端的にあらわせるように言葉を定義し、簡潔に話せるようにしていきます。同時に、日常語も「良い-悪い」ではなく、「良い-良いない」などとして、対義語、類義語などを廃し、語数を減らしていきます。
言葉は道具です。それは私たちの感覚や考えを明確にしてくれるものです。しかし、その感覚を表す言葉がなければ、その感覚や考えが一瞬のもので、それを後に保持しておくことはできません。今、ここで感じている感覚、という感覚は、後に感じた感覚と同じか否かを比較することはラベリングしておくことで容易にできますが、感覚の上だけではあまりに漠然としたものであるために、比較はできません。
少なくとも私の中では「悪い」=「良くない」ではありません。ここは私の感覚的な違いを説明する場ではないと思うので、しませんし、上手くできるものではないと思うのですが、とにかく違うのです。こうした微妙なニュアンスは失われていきます。
恐らく、今、私たちは1つのスペクトラム上に、多くの言葉があるために、人それぞれ同じ感覚に対し、微妙に異なった使い方をしています。しかし、「良い」、「良くない」の二つしかスペクトラム上に言葉がなければ、人それぞれのの微妙な感覚は無視され、同じことを感じていると見なされるし、実際そうなっていくでしょう。言葉は感覚から出てくるものですが、一旦ラベリングしてしまえば、人の効率的な記憶能力のため、他の同じラベリングをなされたものと同じものとして簡潔に管理されるのです。結局、人は同じものの見方しかできなくなっていきます。
それは論理的思考にしてもそうで、ある意味を表す言葉がなければ、思考はできません。木の箱をつくるためには、そのためにピッタリの大きさの木が必要なのです。

そうして言葉で思考の制限を勧める一方で、過去の記録を書き換え、党の力を誇示しつづけていきます。過去は、現在を考える上で非常に必要なものです。過去、<ビッグ・ブラザー>が間違ったことがなければ、これからも間違えることはないだろうと思えます。しかし、過去は結局、どこにあるわけでもありません。過去は体験できません。したがって、人の記憶のなかにあるか、あとは新聞、雑誌などに記録されるかでしか保存はできません。
現在の新聞、雑誌には嘘は書かれないという不文律があります。現在を伝えるのがそれらのものの役目なのだから、当然です。だからこそ、それは現実の羅列のはずで、未来には過去の記録として利用できるもののはずなのです。人は忘却します。それに、いつまでも生きることはできません。したがって、過去の新聞、雑誌などが現在から過去を知る数少ない方法になります。それを完全に管理してしまえば、党は過去を支配することができます。
この作業をウィンストンは担っています。送られてくる仕様書通りに文書を書き換え、本の文書を償却処分する。それを永遠と繰り返すのです。

そんな社会で、しかし、本当に人が管理され得るのか?ひとつの思想<イングソック>の元に人々がただ頭をたれて生活していけるのか、その実験をしたのがこの作品でしょう。
人は成長します。言葉は、特にサブカルチャーなどから自然に増殖を続けるはずのものです。しかし、党は、それを意図的に減らしていきます。一方で意味を増やすことは重罪であると幼い頃から教育していく、そうしたことで何十年もかけて、支配を十全なものにしていこうとするのです。
実際に、この世界の子どもは親であっても、異端の考えをもつこと―思考犯。つまり、結果として、言葉を増やして、人の可能性を広げることになる―を許しません。自我を持たない子どもは単純です。アフリカの少年が少年兵となる一番の理由は、格好いいからです。ファッションとして少年兵となり、戦争に参加し、人を殺すのです。この作品の世界では、党、<ビッグ・ブラザー>は万能で、格好いいのです。それがいうことを絶対だと信じることがあっても、不自然ではありません。こうして、党の支配は完全なものになっていくのです。
しかし、問題は党が支配する以前を知っている人たちです。実際、ウィンストンもその一人です。彼らはニューズピークを話すように推奨されていますが、オールドスピーク(私たちが使っているような言葉、原作は英語なので、ここでは英語です。)を知っていますし、話せます。それを忘れるように強要されていくものの、都合よく忘れられるものではありません。それに、党の支配以前の記憶も―資料はないので漠然としていますが―あります。したがって、そうした人たちは常に思考犯の可能性が高くなります。それをどのように管理できるか…?

「鍛錬された精神の持主だけが現実を認識できるのだよ、ウィンストン。君は現実は客体として外部にある何か、自律的に存在するものだと信じている。さらにまた、現実の本質は誰の目にも明らかだと信じている。…(中略)…いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかだけに存在していて、それ以外の場所にはないのだよ。だたし、個人の精神の中にではない。個人の精神は間違いを犯すことがありうるし、時間が経てば結局は消えてしまうものだ。現実は党の精神のなかにのみ存在する。何しろ党の精神は国民全体の総意であり、不滅なのだからな。党の目を通じてみることによって、はじめて現実を見ることができる。…(中略)…それには自己破壊の行為、意志の努力が必要となる。正気になろうとすれば、まず謙虚にならねばならない。」
党の理論です。自然に見えているものが現実ではない、というのですから、かなりの努力が必要なのです。そして、努力の結果身につけた現実認知の方法は<二重思考>と呼ばれます。物事を党の思考で二重に考えるということです。しかもそれは認識されず、自然に行われるので、<二重思考>だと意識されることはありません。ウィンストンは生きるために、無理にこの能力を身に付けなければなりませんでした。

しかし、私たちの世界ではおそらく、<二重思考>は陥るものです。私たちは普段自分の言葉で考えているようで、他の人の言葉、理論で考えていることはあると思えます。しかし、それは他の理論が入り込まない、閉鎖された場所では決して気づきません。
例えば、マスコミが連日、「麻生政権は政権維持に失敗した」といいつづけます。その理由も挙げてくれます。では、「実際に」、麻生政権はなにをしたのでしょう?報道されている以上に、いろいろなことをやっているわけです(【参考】衆議院―議案:http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_gian.htm)。
マスコミは彼らの理論にしたがって、伝えるべき事実を選択しているわけで、起こっていることすべてを伝えているわけではありません。しかし、今、伝わってくるものだけが実際に起こっていることだと考えていませんか?そんなことない、というかもしれません。指摘されれば分かるでしょう。しかし、<二重思考>とはそういうことではないのです。いつも自然にやっていることなのです。自分の理論ではなく、マスコミの理論で、マスコミの言いたいことを証明するための現実を見せられ、ものを考えている(可能性がある)のです。
別にマスコミ批判がしたいわけではありませんし、政権養護がしたいわけではありません。ただ、<二重思考>というのは、意外と起こりうることなのだとふと思いついただけなのです。マスコミにとって、日本は閉鎖された空間です。しかも日本人の多くは日本語しか話しませんから、他の国から他の理論が入ってくることはなかなかありません。考えてみると、意外と閉鎖されているんですよね、日本という国は。とはいえ、そうやって考えていくと、実は閉鎖されていない国なんてないのですが…。
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by nino84 | 2009-08-09 15:04 | 読書メモ