本の感想などをつらつらと。


by nino84
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

『ウォーリー』

『ウォーリー』を観ました.

ゴミが溢れかえり,緑のなくなった地球.そこには人の姿はすでになく,あるのは自立稼動で働き続ける掃除ロボットと,生命力旺盛なゴキブリだけ.掃除ロボット,ウォーリーは,指令のままにいつ終わるともしれない指令―地球の掃除だ―をし続けている.
そんなある日,彼の掃除をする地区付近に一機のロケットが舞い降りる.その中からは白いロボットが現われ,なにやら付近を探索し始める.ウォーリーは彼女について回り,とうとう彼女の名前を知る.イヴ.それが彼女のなまえ.そして彼女の任務が完了すると,宇宙船に再び回収されて行ってしまう.その瞬間に気づいたウォーリーは,その宇宙船に飛びつき,宇宙へと....


さて,また映画です.といってもDVDですが.本作は,ディズニー映画,というかまだピクサー映画ですかね.最近の『ボルト』あたりからピクサーではなくなってしまいましたけど,当時はまだピクサーが制作ということになっていましたね.
前述のあらすじのとおり,ロボットを主人公にした映画です.さて,そんな本作,一言であらわすと,主人公に癒され続けた映画でした.ロボットが主人公で,しかもCGで描かれているんだけれど,きちんと表情があるというのに驚きます.ウォーリーの場合,ティアードロップ型のゴーグルを中心を軸にして稼動させることで,様々な表情をつくりだしています.イヴはLEDみたいなので目を直接描写するので表情があっても,それほど驚かないんですけど.

そんなわけで,ウォーリーの挙動がいちいちかわいかったわけです.もう,それだけでこの映画は成立しています...それはいいすぎかもしれませんが,それでも少なくともこの映画の魅力の半分はそこです.もう,彼が主人公であるだけで,彼が動くだけで,もう笑ってしまいます.
で,1/4が他のロボットキャラクター(イヴやモーといった名の色々な形状のロボットが出てきます)で,もうあと1/4がストーリーでしょうか.というか,ストーリーなんてただのおまけです.偉い人には以下略.

ただウォーリーは,動いてナンボのキャラクターなので,ぬいぐるみとかそういった形でのキャラクター商品化は無理だろうなと思ってみたり....いや,そこを心配しなくてもいいんですが.

一応,映画なので,ストーリーについても触れておきますと,あらすじでも書いたとおり,荒れてしまった地球を人間は捨てて宇宙へ旅立ったわけですよ.そして,地球が緑を取り戻すのを待っていた.イヴがそれを持ち帰ってきたので,さぁ,帰ろうとなるわけですが,そこでちょっとした問題が起こります.あまりにも時間がかかりすぎたために,人間は地球と言うものを忘れ,また,機械に頼りきった生活のために,歩くことさえ忘れてしまっていたのです.それでもウォーリーとイヴの活躍により,人間は「生き残る」のでなく「生きる」ことを思い出し,再び地球を目指すのです.
メッセージ性は密かに強いストーリーな訳ですが,キャラがかわいいので,伝わってこないこと(笑)
そんなわけで,やっぱりウォーリーを愛でる映画になったわけです.

あと,EDの趣向は面白かった.ラスコーだかアルタミラだかの壁画調の絵から始まって,次第に絵が現代に近づいてくるわけです.ルネサンスから印象派からゴッホになって,ドット絵ですか.人類の歴史というのをそれであらわしていたんでしょうね.人間が地球で1からやり直すというストーリー的な終わりを踏まえて,最初は壁画からスタート,と.
[PR]
# by nino84 | 2009-11-05 21:39 | 視聴メモ
『ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ』を観ました。

作家の大谷は、毎日のように飲み歩き、家に落ち着いてはおらず、お金もろくに家にいれない。その妻であるところの佐知は小さな子どもとともに、夫の帰りを待ち。出版社の担当が大谷に隠れてもってくる彼の原稿料で細々と暮らしていた。
大谷の借金を知った佐知は、その貸主である小料理屋で働き始める。



久しぶりにブログを書きます。現実逃避です。
さて、本作は太宰治の小説『ヴィヨンの妻』を原作として製作された作品です。ただ、実際には多少の筋や設定の変更があります。

まず観て思ったのは、情報が多いなということ。太宰の原作小説は短編小説のため、情報はそぎ落とされ、淡々とした形で掛かれています。終わりに向けて一直線に進む感じです。一方で、本作は115分という上映時間がありますから、その分、情報を入れ込むことが出来ます。もちろん、小説と映画では情報の与え方に違いがあるわけですが、本作に限って言えば、映画の大谷は訴える人を代えながら何度も同じ事を訴えています。小説ではもちろん、それを述べてはいるのですが、それほど繰り返されることはありません。そのため、映画の方がより心情を読みやすくなっているかな、という気がしました。

本作のなかで、大谷は「生きるのも怖い、死ぬのも怖い」と繰り返し訴えています。非常に正直だな、と思います。これは原作の『ヴィヨンの妻』でも同じ事ですが、自分の未来が描けないわけです。生きる目的が見出せないわけです。ただ、その瞬間に生きるしかないわけで、畢竟、生きるのは怖い。しかし、大谷には死ぬ勇気もありません。どこかで自分が生きるということに執着しています。死ぬということは今をも失うことだからです。大谷は、お酒を飲むとか、人と寝るとか、そういったいわばその一瞬の快楽で瞬間瞬間を生きています。目的を持てないために、今が快であることが目的となっているのです。
舞台は昭和21年、昭和20年に戦争が終わって、すぐという時代です。それまで、「欲しがりません、勝つまでは」と国民は何を考えずとも、その日を暮らすこと、あるいは戦争に勝つことを目的として生きていけばよかったのです。しかし、戦争が終わると、そうした目標はなくなってしまいます。しかも、日本は敗戦でそれを終わっており、目標は達成されることなく、終わってしまったのです。作中では描かれませんが、そうした喪失感が国民全体にある時代だと考えることは出来ます。
もちろん、生きることに精一杯なのは相変わらずの社会ですから、小料理屋の夫婦や、米兵相手に体を売るような女性もいます。しかし、大谷はそのようなただ生きることを目的にはできないのです。彼は生き残るだけでは満足しないたぐいの人間なのです。しかし、それを見つけられない。だから、それをごまかすために、酒に溺れ、一瞬の快に生きていくのです。

一方で、大谷の妻、佐知。彼女の言動は、大谷の言動に比べると非常に分かり難い印象です。大谷がいろいろと考えてうだうだやっている一方で、彼女がただその日を生きているからでしょう。それは大谷にとっては望まない生活なのですが、一方で、そうしているはずの佐知を大谷は支えにしています。
大谷と佐知が出会ったエピソードは象徴的です。佐知は盗みを働きますが、そのことで自分の人生や人格すべてが否定されるのは許せないと憤ります。それを聞いた大谷が、彼女を引き取ることで二人が出会います。
佐知はその一瞬にいきているのではなく、それまでの生活を背負ってそこに存在しているのです。それを大谷が憧れるのはなにか分かる気がします。畢竟、佐知はただ純粋なのです。その日を暮らすために、米兵に体を売るような女性ではないし、どこかに物乞いにいくわけでもない。出来る生活をしているにすぎません。ただ、その存在が清廉であり、美しいのです。

大谷はしかし、その純粋な妻という事実をどこか信じきれません。大谷が永続性を信じられないために、佐知の純粋ということが信じられないのです。それで、妻を試すようなことをします。それが、佐知に惚れる工員を家に招き、観察するという行動につながります。佐知の心は変わりませんでしたが、しかし、大谷は工員が動き、それに動かされる佐知を目撃しました。大谷は自分で永続性を証明しようとし、しかし、失敗する(実際には完全な失敗はしなかったのだが、見た事実から失敗したと考えた)のです。それで彼は絶望し、死のうとするのです。
しかし、死ねませんでした。この後、大谷が「生きられるような気がする」のは正直よく分かりません。可能性としては、死ねないという事実から、逆説的に生きることを見出したということでしょうか。

一方で、佐知は夫の自殺未遂を機会に、かつて好きだった男のもとへ向かいます。そこで男から彼女が好きだということを、その理由とともに知らされ、彼女は自分の存在を自覚します。すなわち、生にしがみつくことなく生きていくということができることが美徳であると。自嘲しながら子どものために貰った桜桃を食べる大谷(やはり彼はその場の欲望、食欲に負けており、子どもにそれをとっておくことはしません)に、彼女は「ただ生きていればいいのよ」といいますが、その一言に、彼女の生き方が現れているといえます。

映画の感想なのか、小説の感想なのか、わからなくなってきてしまいましたが、映像的にも、内容的にも、とにかく佐知が美しい、ただそのことにつきる作品だといえます。彼女の美しさの要因が映画そのもののテーマであるといえるのだし、この映画の映像的なよさになっているのだと思います。
[PR]
# by nino84 | 2009-11-04 21:24 | 視聴メモ

『サマーウォーズ』

『サマーウォーズ』を観ました。

数学オリンピック日本代表にあと一歩だった高校生、健二は、物理部の先輩、夏希からバイトをお願いされる。東京駅に呼び出され、たどり着いた先は、夏希の実家。曰く、「大おばあちゃんの誕生日で、一族が集まるの」。曰く、「私の彼氏の振りをしてくれない?」。
ごまかしながらも、なんとか彼氏の振りを続けた一日を終え、眠ろうとする健二に一通のメールが届く。そこには2000文字を超える数字の羅列。暗号。健二はそれを一心不乱に解き、回答を返信し、眠りについた。
――翌朝、世界最大の登録人数を誇るネットサービスOZが変調をきたす。そしてその犯人としてテレビで報道されていたのは、健二その人だった。



本作は『時をかける少女』以来の細田守さんの監督作品です。ただ、ネットが舞台になってたりと、どちらかというと、『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』に近いかな、という感じもありました。細田さんのネットの描写はポップな感じがするビジュアル的にも、別に良いとか悪いとか評価を伴わない感じも好きです。

さて、本作は、陣内家の人々を中心に話が進みます。陣内家は代々続く旧家で、大ばあちゃんを筆頭に、孫、ひ孫の代まで20名程の大家族です。本作では、大ばあちゃんの90歳の誕生日にあわせて、一家が集まってくる、ということで、その20名程が上田にある大ばあちゃんの家に一同に会します。そのなかに夏希もおり、そして、夏希は最近体調が優れないという大ばあちゃんを元気づけるために彼氏を連れていきたいと、バイト=健二を雇って、上田を訪れるのです。
20数名を超える神内家。上映時間中にすべての人の名前を覚えることはできませんでしたが、それでも、職業などで、意外とキャラがそれぞれきっちり立っているので、意外と違和感なく、楽しむことができました。
そして、そんな大家族のなかに突然放り込まれた健二。彼は数学オリンピック日本代表にあと一歩とどかなかった経歴の持ち主で、夏希に憧れる高校生です。所謂、文化系の冴えない男子高校生ですね。
そういえば、『時をかける少女』も高校生でしたが、なんとなくそちらの方が、もう少し大人びてたかな、という印象があります。前回は恋愛でしたが、今回は陣内家を中心に話が展開していくので、家族愛みたいなものがメインですし、そういうテーマの面での関連もあるのかもしれません。『Time waits for no one.』と、全作はかなり青春まっただなか!という感じがありましたしね。

そんな人たちが展開する『サマーウォーズ』。結論から言えば、かなり面白かった。アニメだから、というか、作品の性質上、現実は現実としてしっかり締める一方で、ネットの世界は自由に描けるので、そうした表現の幅によって、いろいろなものがストレートに表現されていて、わかりやすいのが大きい。
特に、現実世界では大ばあちゃんの存在が大きかった。大じいちゃん亡き後、陣内家を支えてきた彼女は、90歳になる今でも凛としていて、格好いい。彼女は陣内家の大黒柱として神内家を支えている。彼女を中心に陣内家は繋がっている。
そこに健二という他人が、表向きは夏希のフィアンセとして、入り込んでくるのである。他人である健二も、大ばあちゃんに認められることで、陣内家に自然にとけ込んでいくことができたのである。

ネット上でOZがトラブルを起こすと、ネット上で管理されたすべてのシステムが変調をきたす。都市機能はマヒし、飛行機は飛ばない。交通も完全にストップしてしまう。
こうした、ネットの危険性を表現した作品は多い。実際、細田さんにしても、『デジモン・アドベンチャー ぼくらのウォーゲーム』でネットでのトラブルが現実世界に問題を引き起こす様を描いていた。細田さんは『デジモン』では家族というのは、重視せず、しかし、「ネット上でつながる人」というのを重視した―主人公が小学生ということもあり、友達通しのつながりというのが強調された。そうしてネットの可能性を示した。それはネットの善悪という話ではなく、ネットはあくまで道具だということである。電話回線―『デジモン』制作当時は電話回線でのネットが一般的であった―の向こう側にいる人と通じ合える、そういう可能性である。
そして、今作である。今作もネットを介しての現実世界のトラブル、というのを描きながらも、しかし、より現実世界のつながりを重視している。すなわち、一つ屋根の下にいる家族というつながりである。それに加えて、大ばあちゃんの生の声で日本中に繋がる関係である。OZのトラブルが生じた際、彼女は、自分の知人に片端から連絡し、ただ励ます。それがどのように影響したのかは分からないが、現実世界では死者はでず、問題は一応の落ち着きを取り戻す。実際、国レベルで考えたとき、彼女の電話の影響力は微々たるものだろう。
しかし、そうして電話をしつづける姿を実際に見た健二に与える影響は大きかった。だから、彼は翌日、できることはやるべき、と陣内家のなかで発言する。その発言は女たちに退けられるのだが、しかし、陣内家の一部の男たちを動かす。
大ばあちゃんがおこした波が、健二をうごかし、陣内家の男たちを動かし、そして陣内家全体を一つへとまとめていく。そして、OZである。そこはいまだ混乱の続く世界である。しかし、そこは世界と繋がっている。10億人と繋がれる場所である。陣内家から発した波がOZを通じて世界をつなげる。

こうしてみて、面白いのは、この時点で健二が人を繋ぐ以外の役割を果たしていないことである。OZをハッキングしたプログラムに対抗するためのスーパーコンピュータは、陣内家の男たちが用意するし、作戦の実行メインではアバター「キングカズマ」の所有者である陣内家の男の子が担当する。その後の「延長戦」でもメインは夏希である。
適材適所で、それぞれがそれぞれの役割をきちんと果たすことで、物語が展開していく。健二がその能力を生かして活躍するのは、物語の最後、世界が一応の平穏を取り戻した後である。それは世界を救うためというより、陣内家を救うためである。作品の中盤から最後まで、健二は大おばあちゃんのポジションにいた。彼は、ただひとりのよそ者でありながら、陣内家をつなぎ、陣内家を守るのである。
個人的には、健二が陣内家が家を捨てていこうとする中で、「まだ終わってない」とひとり家に残って危機に立ち向かおうとしていた場面が一番好きだ。2分でOZの暗号を3回解き、しかも最後は暗算(笑)。そんな自分の適材でもって、陣内家を救い、そして――すいません。ここまできたら結末までいきます。
詳細はともかく、結局、彼は陣内家に認められて、一員になるわけである。ここまで陣内家を繋いでおいて終わった瞬間に赤の他人では、テーマ―家族愛とか、人の繋がりの大切さとか、と少なくとも僕は観ていた―としてもねじれが生じるので、自然な帰結でしょう。その方法はともかくね。
そうやってみると、面白いのは、健二の立ち位置である。彼は最初、肩書きだけ陣内家の一員であった。つまり「夏希のフィアンセ」。しかし、その肩書きがなくなり、一度は陣内家を追い出される。その後、幸運にも戻ってこられた陣内家で、一緒に行動していく中で、彼は肩書きはないのに、陣内家の一員として自然に認められるのである。
本来、人間関係というのは、肩書きとかレッテルでやるわけではないはずである。しかし、そういうものがあった方が立場がはっきりしている分それをはかる必要はなく、その距離感が実際的に正しいかどうかはともかくとして、無駄なエネルギーは使わなくてすむ。そういう省エネな関係が横行しているなかでこういうエネルギー過多な関係づくりをストレートにみせられると、ハッとさせられる。
[PR]
# by nino84 | 2009-08-13 00:31 | 視聴メモ