本の感想などをつらつらと。


by nino84
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『1984年 [新訳版]』

『1984年 [新訳版]』(ジョージ・オーウェル、高橋和久訳、ハヤカワepi文庫)を読みました。

<ビッグ・ブラザー>率いる党が支配するオセアニア、ロンドン。1984年。ニューズピークという言葉により、異端を考えること自体が犯罪である世界。
ウィンストン・スミスは、真理省で過去の歴史を修正する仕事をしている。<ビッグ・ブラザー>は間違わない。彼の仕事は、起こってしまった事実につじつまを合わせ、過去の資料―新聞から雑誌まで―を修正することである。そうして、党は現在を支配し、過去を支配している。ウィンストンはそんな社会に不満をもち、ゴールドスタイン率いる反政府組織に惹かれていく。


村上春樹さんの『1Q84』が出版されてしばらくたちますが、そちらではなくジョージ・オーウェルを読みたくなるのが、ひねくれた私。実際には、村上さんの影響だけでなく、同時にある映像作家が次回作の着想に全体主義を描きたいという話の中で、ジョージ・オーウェルの作品を読んでいるという話をしていたのも影響しています。後者の影響がより大きいと思っています。

閑話休題。本作は、<ビッグ・ブラザー>を頭とする党に支配される世界を描いています。

その支配の一つの方法として、党はニューズピークという言葉を意図的に作り出し、言葉の数を減らし、意味を規制し、簡略化していきます。そうすることで人が党の考え<イングソック>以外の考えを上手くできないようにと画策しています。
そこでは<イングソック>以外の考え方はすべて「異端」であって、それ以上深まることはありません。それを考えることに意味がないからです。一方で、<イングソック>の教えに関しては端的にあらわせるように言葉を定義し、簡潔に話せるようにしていきます。同時に、日常語も「良い-悪い」ではなく、「良い-良いない」などとして、対義語、類義語などを廃し、語数を減らしていきます。
言葉は道具です。それは私たちの感覚や考えを明確にしてくれるものです。しかし、その感覚を表す言葉がなければ、その感覚や考えが一瞬のもので、それを後に保持しておくことはできません。今、ここで感じている感覚、という感覚は、後に感じた感覚と同じか否かを比較することはラベリングしておくことで容易にできますが、感覚の上だけではあまりに漠然としたものであるために、比較はできません。
少なくとも私の中では「悪い」=「良くない」ではありません。ここは私の感覚的な違いを説明する場ではないと思うので、しませんし、上手くできるものではないと思うのですが、とにかく違うのです。こうした微妙なニュアンスは失われていきます。
恐らく、今、私たちは1つのスペクトラム上に、多くの言葉があるために、人それぞれ同じ感覚に対し、微妙に異なった使い方をしています。しかし、「良い」、「良くない」の二つしかスペクトラム上に言葉がなければ、人それぞれのの微妙な感覚は無視され、同じことを感じていると見なされるし、実際そうなっていくでしょう。言葉は感覚から出てくるものですが、一旦ラベリングしてしまえば、人の効率的な記憶能力のため、他の同じラベリングをなされたものと同じものとして簡潔に管理されるのです。結局、人は同じものの見方しかできなくなっていきます。
それは論理的思考にしてもそうで、ある意味を表す言葉がなければ、思考はできません。木の箱をつくるためには、そのためにピッタリの大きさの木が必要なのです。

そうして言葉で思考の制限を勧める一方で、過去の記録を書き換え、党の力を誇示しつづけていきます。過去は、現在を考える上で非常に必要なものです。過去、<ビッグ・ブラザー>が間違ったことがなければ、これからも間違えることはないだろうと思えます。しかし、過去は結局、どこにあるわけでもありません。過去は体験できません。したがって、人の記憶のなかにあるか、あとは新聞、雑誌などに記録されるかでしか保存はできません。
現在の新聞、雑誌には嘘は書かれないという不文律があります。現在を伝えるのがそれらのものの役目なのだから、当然です。だからこそ、それは現実の羅列のはずで、未来には過去の記録として利用できるもののはずなのです。人は忘却します。それに、いつまでも生きることはできません。したがって、過去の新聞、雑誌などが現在から過去を知る数少ない方法になります。それを完全に管理してしまえば、党は過去を支配することができます。
この作業をウィンストンは担っています。送られてくる仕様書通りに文書を書き換え、本の文書を償却処分する。それを永遠と繰り返すのです。

そんな社会で、しかし、本当に人が管理され得るのか?ひとつの思想<イングソック>の元に人々がただ頭をたれて生活していけるのか、その実験をしたのがこの作品でしょう。
人は成長します。言葉は、特にサブカルチャーなどから自然に増殖を続けるはずのものです。しかし、党は、それを意図的に減らしていきます。一方で意味を増やすことは重罪であると幼い頃から教育していく、そうしたことで何十年もかけて、支配を十全なものにしていこうとするのです。
実際に、この世界の子どもは親であっても、異端の考えをもつこと―思考犯。つまり、結果として、言葉を増やして、人の可能性を広げることになる―を許しません。自我を持たない子どもは単純です。アフリカの少年が少年兵となる一番の理由は、格好いいからです。ファッションとして少年兵となり、戦争に参加し、人を殺すのです。この作品の世界では、党、<ビッグ・ブラザー>は万能で、格好いいのです。それがいうことを絶対だと信じることがあっても、不自然ではありません。こうして、党の支配は完全なものになっていくのです。
しかし、問題は党が支配する以前を知っている人たちです。実際、ウィンストンもその一人です。彼らはニューズピークを話すように推奨されていますが、オールドスピーク(私たちが使っているような言葉、原作は英語なので、ここでは英語です。)を知っていますし、話せます。それを忘れるように強要されていくものの、都合よく忘れられるものではありません。それに、党の支配以前の記憶も―資料はないので漠然としていますが―あります。したがって、そうした人たちは常に思考犯の可能性が高くなります。それをどのように管理できるか…?

「鍛錬された精神の持主だけが現実を認識できるのだよ、ウィンストン。君は現実は客体として外部にある何か、自律的に存在するものだと信じている。さらにまた、現実の本質は誰の目にも明らかだと信じている。…(中略)…いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかだけに存在していて、それ以外の場所にはないのだよ。だたし、個人の精神の中にではない。個人の精神は間違いを犯すことがありうるし、時間が経てば結局は消えてしまうものだ。現実は党の精神のなかにのみ存在する。何しろ党の精神は国民全体の総意であり、不滅なのだからな。党の目を通じてみることによって、はじめて現実を見ることができる。…(中略)…それには自己破壊の行為、意志の努力が必要となる。正気になろうとすれば、まず謙虚にならねばならない。」
党の理論です。自然に見えているものが現実ではない、というのですから、かなりの努力が必要なのです。そして、努力の結果身につけた現実認知の方法は<二重思考>と呼ばれます。物事を党の思考で二重に考えるということです。しかもそれは認識されず、自然に行われるので、<二重思考>だと意識されることはありません。ウィンストンは生きるために、無理にこの能力を身に付けなければなりませんでした。

しかし、私たちの世界ではおそらく、<二重思考>は陥るものです。私たちは普段自分の言葉で考えているようで、他の人の言葉、理論で考えていることはあると思えます。しかし、それは他の理論が入り込まない、閉鎖された場所では決して気づきません。
例えば、マスコミが連日、「麻生政権は政権維持に失敗した」といいつづけます。その理由も挙げてくれます。では、「実際に」、麻生政権はなにをしたのでしょう?報道されている以上に、いろいろなことをやっているわけです(【参考】衆議院―議案:http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_gian.htm)。
マスコミは彼らの理論にしたがって、伝えるべき事実を選択しているわけで、起こっていることすべてを伝えているわけではありません。しかし、今、伝わってくるものだけが実際に起こっていることだと考えていませんか?そんなことない、というかもしれません。指摘されれば分かるでしょう。しかし、<二重思考>とはそういうことではないのです。いつも自然にやっていることなのです。自分の理論ではなく、マスコミの理論で、マスコミの言いたいことを証明するための現実を見せられ、ものを考えている(可能性がある)のです。
別にマスコミ批判がしたいわけではありませんし、政権養護がしたいわけではありません。ただ、<二重思考>というのは、意外と起こりうることなのだとふと思いついただけなのです。マスコミにとって、日本は閉鎖された空間です。しかも日本人の多くは日本語しか話しませんから、他の国から他の理論が入ってくることはなかなかありません。考えてみると、意外と閉鎖されているんですよね、日本という国は。とはいえ、そうやって考えていくと、実は閉鎖されていない国なんてないのですが…。
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# by nino84 | 2009-08-09 15:04 | 読書メモ

『幽霊たち』

『幽霊たち』(ポール・オースター、柴田元幸訳、新潮文庫)を読みました。

ブルーはホワイトから依頼を受け、目的も終わりも告げられないまま、ブラックの見張りをはじめる。ブラックは一向になにも起こさない。ブルーはホワイトのこと、ブラックのことを考えながら、仕事を続けていく…。

久しぶりの更新です。ここで文章書くくらいなら、別の文章書けって話ですが、現実逃避くらいさせてください。そんなわけで、ポール・オースターの『幽霊たち』です。

本作、登場人物の名前からして、その人物を大衆の中に埋没させてしまうような印象の作品です。話としてもなにが起こるわけでもありません。ただ、淡々と日々がすぎていくだけです。ホワイトから依頼を受けたブルーがブラックを見張るという、ただそれだけの話です。
ブラックはほとんど誰とも接触せず、ただ窓辺で本を読み、ものを書き、時々買い物や散歩のために外出します。そのあまりに平坦な日常を見張ることを依頼された私立探偵のブルーは、最初それが自らを欺くための行為だと思い、ブラックの一挙手一投足を逃すまいとします。しかし、日々を重ねる中で、ブルーはブラックが何ら事件性のない人間であるのではないかと疑い始めます。ブルーの観察眼を越えたものなのか、それともただの一市民なのか。依頼主ホワイトは何も答えをくれません。ただ、ブルーが一人で想像を膨らませるだけです。想像を膨らませるだけですから、現実には何も起きません。現実はただ平坦にすぎていき、ただブルーの心中だけが嵐のように波打ち、彼の精神はやつれていきます。
今も、先も見えない曖昧な状況は人の神経をすり減らしていきます。実際には、この曖昧な状況を解決するための手段はあります。ブルーが観察をやめればいいのです。しかし、それはブルー自らの職業的アイデンティティーを崩すもので、それは拠って立ってきたものを失わせる行動です。彼はその選択肢を思い浮かべながらも、やはり想像、可能性の世界で苦しみつづけるのです。

考えるということは可能性を広げることだけれども、結局、広げるだけで、動くには考えるのとは別の力が必要になるみたいです。可能性の中からひとつを選び取るには意志がいるのです。実際には、常に意志は働いていて、現状にとどまるという選択も意志ですから、ブルーにそれがないというのではありません。可能性のなかでもそれを実際に選び取る際のリスクは異なり、可能性を選び取るということには、リスクに見合っただけの誘因が必要になります。
考えるだけでは、実際になにもおきないのです。しかし、人間は何も起きなくても苦しむのです。可能性の世界に迷い込み、リスクを天秤にかけ、身動きがとれなくなり、追い詰められていくのです。本能で動くのでなく、考えることができ、様々な可能性を選び取ってきたものがいたからこそ、人類は発展しています。その一方で、考えるという作業そのものは、周りになんら作用せず、その人自身にとってのみ影響します。だから、人は、実際にはかなり小数でしょうが、客観的に観察できる状態では突然変わったということも起こり得ると思えます。

ただブルーが考えつづける作品ですから、そんな風に考えるということ自体について、その意味について考えてしまいます。アメリカの作家は、質実剛健で、男前な印象を受ける人が多いかな、と勝手に思っていますが、そういう作品群とは少し毛色の違う作品のようです。フランス人作家といわれても、納得はしそうな気がします。
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# by nino84 | 2009-07-04 00:18 | 読書メモ

『ダークナイト』

『ダークナイト』を観ました。

市警はバットマンとデント検事の協力のもと、マフィアの資金源を断つことに成功した。時を同じくして、ゴッサムシティ―にジョーカーと名乗るフリークが現れる。彼はマフィアのもとを訪れ、彼らの資金の半分を条件に、バットマンの殺害を約束する。

先回のアカデミー賞で、助演男優賞(ヒース・レジャー)と音響編集賞を受賞した作品です。ヒース・レジャーが死後にノミネート、受賞し、話題になりました。そんな彼の演技ですが、とても迫力がありました。あれはヤバイ。極度の愉快犯として描かれているため、かなりイカレた感じのキャラになっており、その演技は怖い。

作品全体としてとても暗い作品となっており、見事なまでにバッドエンドでした。2時間半ほどにもなる大長編映画ですが、バットマンとジョーカーは互いに殺しあわない(バットマンは法を守るため、ジョーカーは退屈しない遊び相手をなくさないため)ということで、途中どうやって話をたたむのかと思ってしまいました。とりあえず、というところで一段落しましたが…。あの終わり方であれば、ヒースレジャーが亡くならなければ、続編での登場も可能性としてはあったであろうに、と思ってしまいます。

法を守りながら、警察権を違法に執行するバットマン。彼は犯罪者を警察に引き渡しながら、その実、自らも犯罪者であるという自己矛盾を抱えている。それでも、それがゴッサムシティーに必要であると考えるから、全てが終われば、裁かれることを承知で、それを執行します。一方で、ジョーカー。彼にはルールはありません。彼はただ混沌と恐怖をもとめます。
決して交わることのない二人。ジョーカーは自らの目的を達成するためなら何でもします。市民を無差別に殺し、友人とガールフレンドの命を天秤にかけ、病院ごと爆破だってするのです。それは、常にルールが通じない戦いであって、バットマンは常に後手後手にまわってしまいます。結局、バットマンは町じゅうの電波を盗聴するというルール違反の末に彼を捕縛することに成功します。
ただ、そうしたジョーカー捕縛の過程で、彼は彼以外にも混沌の現況を創り出すことに成功します。それがデント検事。マフィアの資金源抹消に尽力した正義の人でした。しかし、ジョーカーに自らのガールフレンドを殺されるにいたり、自らの正義が通じない悪の存在に絶望し、復讐鬼となり、恐怖を振りまくことになります。それは、正義の象徴であったはずの人物でも復讐鬼となるという現実を、バットマンに知らしめるのです。
映画では希望も描かれますが、ジョーカーの存在感がありすぎて、そんなことはとても薄っぺらく感じてしまいます。

とにもかくも、ジョーカーの存在感のために、彼とバットマンとのやりとりは常にクライマックスの様相を呈して、先の展開が全く読めない映画でした。
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# by nino84 | 2009-05-08 02:35 | 視聴メモ