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本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「不意の唖」

「不意の唖」(大江健三郎、『死者の奢り・飼育』新潮文庫収録)を読みました。

米兵と通訳を乗せたジープが谷間の村にやってきた。彼らはその村でしばしの休息をとり、夕方には村から出発するつもりでいた。しかし、昼間の川遊びの際に、通訳の靴がなくなってしまう。通訳は、それを見つけようと躍起になるが、村の人々はその靴の行方を知らないという。


昨日に引き続き、大江健三郎さんの作品です。今回も米兵がらみのお話です。ただ、話の中心は通訳であり、米兵の威を借りる通訳が、なにかと村人にくってかかるというのが大筋になっています。

戦後の日本の人々にとって、進駐軍が喜んで受けれられたわけがないことは容易に想像がつきます。彼らは征服者なのですから、彼らに対する感情は恐れであったり、反感であったりするはずです。もちろん、力負けすることは目に見えているわけで、したがって反感を表にあらわすわけにはいかないのですから、彼らへの対応は素っ気ないものになりえましょう。
米兵に対してはそのように服従することは、敗戦国の国民として仕方のない対応でありましょう。しかし、日本人である通訳についてはどうでしょうか。彼は、見た目においてから、米兵たちとは違います。米兵たちが力強い姿である一方で、通訳の体型は貧相であるのです。それでもって彼は米兵と同じ権利を主張します。訪れた村で、通訳は米兵と同じ立場で村人たちと接するのです。
はたしてそれは村人たちの感情として受けられるでしょうか?通訳は、村人と同じ立場でいることもかのうであったはずですが、そうはしませんでした。彼は、米兵といっしょにいる私という存在を、少なくとも村人よりは上であるとその態度で表します。それはしかし、村人にとって、感覚的に受けいれられるものではないでしょう。すなわち、村人は米兵の姿そのものから、自分たち以上の力を感じます。それが彼らの反発を抑えている要因のひとつでしょう。しかし、村人は通訳の姿からその米兵から感じたような力を感じられません。むしろ、手に職をつけ、日々肉体労働を続ける自分たちの方が、通訳よりよほど力があると思ったかもしれません。通訳は、その姿においても、立場においても、村人の負の感情を抑えつけるほどの力を持ち得ません。

そんな状況のなかで通訳の靴がなくなるという事件が起きます。米兵以下、村人より上の立場であると自負している通訳としては、当然、村人たちに文句をもらします。そして、失った靴を探すようにと命令します。しかし、村人は彼一人の命令では動きません。結局、彼は米兵の力を借りて村人を動かすのです。
それは村人からすれば、許せない事態です。ただでさえ、通訳は、村人たちよりも上の立場であるように振る舞っています。そのうえ、振る舞っているだけにとどまらず、とうとう彼は他人の物理的な力を借りて、村人を屈服させてしまいました。振る舞っているだけであれば、それは観念的なものであって、あからさまにならない部分であり、したがってうやむやになってしまうことでしょう。しかし、彼は実際に動いてしまうのです。その行動は、彼が米兵という他人の力を借りなければ村人の優位に立てないことを証明することです。

端的に言えば、虎の威を借る狐、その末路、といえましょう。見た目があらわすものというのは、やはり感覚的に従わせるような力があるのだろうと思えます。「もっとも優れた武士は刀を抜かない」、これも、実際的な力を示さなくとも、感覚的に制圧できうるということをしめしていましょう。本作は、人間には形式的なものだけでは納得し得ないものがある、ということを描いており、納得できる話かな、と思いました。
その感覚的なところを描く描き方が絵として印象的に描かれており―主に川遊びの場面による―、書き表すことに説得力があるのが、この作品のすばらしさといえるのかな、と思えます。
by nino84 | 2009-02-21 22:02 | 読書メモ