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本の感想などをつらつらと。


by nino84
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「りんご追分」

「りんご追分」(江國香織、『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』集英社文庫収録)を読みました。

あたしはカウンターの内側で、氷を割ったりライムを切ったり、お酒をつくったり…。『ねじ』で働き始めて1年、あたし自身の人生は妙なことになっているけれど、このお店はいつも同じだ。
それでも時にはちょっと気になるお客さんもいる。今夜はそんなお客さんが来店した。



どんどん書いていきます。4作目です。
短編集は読み始めると、こうやって1作ずつ感想を書いていくことにしているので、なにか読むのに時間が掛かっているように見えるかもしれませんが、すでに一冊読みきっており、それを思い返しながら書いています。だんだん記憶が薄れているので、短編を読むときは後半の収録作品はもう一度読み返す、という作業が必要になったりします。今回はどこまで自分の中で抱え込めるかな、と。


さて、本作。主人公、「あたし」は『ねじ』というお店ではたらく女性です。
その店は彼女の職場として安定した場所と時間を提供します。そうした安定した場所が彼女に必要なのは、彼女自身の人生が「妙なこと」になっているからです。すなわち、智也という男との同棲生活のことでしょう。あるいは、それに付随して、自分がそういう選択をしてきてしまったこと事態も含まれるのかもしれません。
しかし、その夜の『ねじ』はいつもと少し違う印象を「あたし」に与えます。それは、はじめてみる「痩せていて顔色の悪い、青年なんだか中年なんだかわからない感じの男」のお客さんが来店したからです。そのお客さんは女性に携帯電話で呼び出され、道に迷いながら来店しました。しかし、呼び出した女性は男性の来店が遅いので、先に帰ってしまいます。それで男は仕方なく、1杯飲んで帰るのです。
呼び出した女性の華やかさと、男性のしなびた印象のギャップに「あたし」は戸惑い、しかし、そのために「あたし」はその男性を意識します。その男性を意識することで、「あたし」は智也のことも忘れられ、あまつさえその男性に抱かれることさえ想像するのです。
智也という男性に翻弄されている自分をその男性に重ね合わせることができたからかもしれません。あるいはその男に惹かれたのかもしれません。しかし、その男性もやはり店の客であって、時間がくれば帰るのです。それは「あたし」の空想の終わりでもあります。

そして「あたし」は智也の待つ自分の現実へと帰っていくのです。普段なら、それでいつものルーティーンなのです。しかし、その日「あたし」は、特別な男性と出会っており、ままならない現実に思いの中で打ちのめされ、それがゆえに彼女は特別に「からっぽ」であった。
そこへ来て、力強い音である。「おそろしくゆっくりの、暴力的なまでに巧みな、「りんご追分」」。彼女を思いの中で打ちのめした現実が、その音に乗せて急に迫ってきたのです。それは「からっぽ」の彼女に突然入っていき、そのために彼女が抑えていたものはすべてその瞬間に溢れ出してしまい、彼女の心臓は「架空のもののたちと、現実の智也と、現実のあたしのために」泣くのです。
架空のものとは今の生活とは違う生き方―たとえばその日であった客の男性との生活―でしょう。また、思い出の中の智也―小柄でやさしい、おしゃれな男の子―と現実の智也とのギャップに悲しみを覚えるのでしょう。そして、「現実のあたし」は架空のものは手に入らないものとして、現実は逃げられないものとして、受け入れるしかないのです。
彼女は今までそれを分かりながらも認めるわけには行かず、ただただ智也と生活を共にしてきたのです。しかし、その日、架空のものが手に入らないことをあらためて感じ、現実から逃げられないことをもあらためて感じてしまった彼女は、それでもそれを考えまいとどこかにしまいこんだのですが、「りんご追分」の強烈な音によって彼女の心のヴェールがはがされ、現実と直面せざるをえなくなってしまうのです。それで彼女に悲しみが押し寄せてきて、もうどうしようもないのでした。

自分が生きてきた道を自分で否定することは難しいことです。別の意味づけができればいいのですが、その方法は、結局、自分が間違ったと思うこととの直面化を避けることはできません。直面化を避けるためには、生きた道を肯定しつづけることしかないのです。しかし、それはやはり無理な合理化であって、どこかで破綻してしまう可能性があるものです。「あたし」は合理化をしつづけ、強い女でありつづけようとしたのです。
昔の悪友はすでに子どもがいて、「保健のおばちゃん」になっている。彼女から見れば、「あたし」は、ろくでもない男との同棲生活を飽きもせずに続けている女、まだ丸くなりきらない女なのです。「あたし」はそのイメージを崩したくはないと考えられます。それは人生の大半を否定することになるのですから。しかし、強い女でありつづけることはやはり難しく、ふとしたきっかけでその防衛が崩れてしまうのでした。

ここでの大きな問題の軸は恋愛ということになるのですが、もうすこし一般化することも可能でしょう。自分というものは恋愛関係だけで出来ているのではないのですから。
by nino84 | 2008-08-13 10:20 | 読書メモ